2020-04-26 最も小さい者の役割

2020年 4月 26日 礼拝 聖書:マタイ25:31-46

 今日はみことばを味わう前に、動画をひとつ見ていただきましょう。先日、中部病院の緩和ケア病棟で、入院中の****さんの病床洗礼が行われましたが、その時の様子を録画していますので、導入として、見ていただきます。

残された時間がほんとうに少なくなってしまった中で、このような時が与えられたことをただただ感謝します。ただ奥様と再会したいという願いだけでなく、今はなき奥様の信仰の姿が、その胸の内にしっかりと刻まれていたこと、奥様から聖書のお話を聞いていたことが、死の間際であってもイエス・キリストへの信仰の告白に至ったことは、私たちにとっても励ましです。

私たちが生かされている間に何を語り、何をするのか、それがどんな実を結びうるのか、考えさせられる経験でした。

今日の箇所は世の終わりについてのイエス様の教えの最後の部分です。世の終わりの、本当の終わりのとき、「最後の審判」と言われる時についてイエス様が教えてくださったことから、最後の裁きはどのようなものか、そして終わりの時代を生きる私たちにはどんな役割があるのかご一緒に学んで行きましょう。

1.栄光の王座の前で

第一に、イエス様がお帰りになるとき、私たちは栄光の王座の前に立つことになります。

いわゆる「再臨」の時は、主イエス様が王として栄光の座に着かれ、世界中のすべての人々をさばく時です。それは、羊飼いが羊と山羊を左右に分けるように、一切の曖昧さのない、はっきりしたものとなります。ある人たちは備えられていた御国を受け継ぎ、他の人たちは悪魔のために用意されていた永遠の滅びに入れられます。羊っぽい山羊などはいないのです。

先週ご一緒にお読みしたタラントの譬えでも、そのような再臨とさばく方としてのイエス様の面をちらっと見ることができました。タラントの譬えの中でも、良い忠実なしもべに対する称賛と喜びに対し、不忠実な悪いしもべに対する厳しさと追放という、非常にはっきりした、一切曖昧さのない明確さが現れていました。

イエス様が最初に地上においでになられたとき、小さな赤ん坊としてマリヤとヨセフのもとにお生まれになりました。羊や馬に囲まれて、全くの無力な存在として地上に来られました。

イエス様はやさしく、すべての人を分け隔て無く受け入れ、そのお人柄の特徴は、恵みと憐れみに満ちた方です。傷ついた羊や迷子の羊を憐れみ、一人一人名前を呼び、連れ戻し手当をなさる、良い羊飼いのようです。王としてエルサレムに入場される時も、力や権威を誇示するのではなく、平和の王として、子どものロバの背に乗って来られる、柔和なお方でした。

私たちをありのまま受け入れてくださる、その寛容さゆえに、誰でもイエス様のもとに助けを求めることができます。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11:28のイエス様のお言葉にどれほどの人が慰められ、希望を持ったことでしょうか。

しかし、イエス様が誰でも受け入れる寛容な方であるということは、善悪や信仰のあるなしについて「どっちでもいいよ」「何でもいいよ」という意味ではありません。その寛容さは、すべての人を救いに招き、悔い改めるのを待っておられるからであって、私たちの自分勝手さや、悪い習慣、心の中にある悪い思いといったものは、常にイエス様の心を痛め続けているのです。

イエス様が再びおいでになるときは、救いのためにご自分のいのちを十字架の上で差し出す、しもべとしてではなく、全世界を統べ治める栄光の王として来られます。その栄光は、神の御子としての本来の栄光のお姿に加えて、罪を背負って死なれよみがえられた愛と犠牲のしるしが刻まれたお姿です。

イエス様が人々の罪の赦しと救いのために人としての歩みの中ですべての悩みと悲しみを味わい、罪に対する報いを十字架の上で受け止め、死なれたという事実に立って、イエス様はこの世界を、すべての人々をさばく方として王座に着かれます。

私たちは、世の終わりにイエス様が帰って来られた時、このイエス様の前に集められます。その時、私たちは、神がこの世界に無関心なくせにふらっと帰って来て裁くのではないことを知ります。この世界を造り、愛し、罪ある私たちをも愛し、そのために十字架の死と呪いを一身に引き受けてくださったお方の前に立たされていることを、全ての人が疑いようもなく、はっきりと理解するのです。

2.小さい者たちへの態度

第二に、イエス様によるさばきの基準は、最も小さい者たちへの態度によるということです。重要なは「最も小さい者たち」とは誰のことで、実際に何が問題にされるか、ということです。

この箇所の理解について『靴屋のマルチン』というお話が、ちょっとした誤解を与えてきました。ロシアの文豪に文句をいう積もりはありませんし、とても素敵なお話です。助けの必要な人に親切にしてあげることの素晴らしさに気付かせてくれるお話です。しかし、靴屋のマルチンの話しのようにイエス様の教えを解釈すると大きな間違いを犯してしまいます。そのような読み方をすれば、天国に入る鍵、イエス様のさばきの基準は、この世界のもっとも弱い立場の人たちに愛を実行したかどうか、という、結局のところ、道徳的に立派だったかどうかになってしまうからです。

イエス様は、40節で「これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たち」と呼んでいます。普通、イエス様が兄弟と呼ぶのはイエス様の弟子たち、イエス様を信じて神様の子供とされた、私たちクリスチャンということです。クリスチャンの中でも最も小さい者たち、この世的には最も価値が低く、影響力もないと見られるような人に対して、どういう態度を取ったかによって裁かれるということです。いったいこれはどういうことでしょうか。

この箇所を正しく理解するには10章の弟子たちに対する教えに戻って理解する必要があります。イエス様は弟子たちをイエス様を証しするために遣わしました。文字通り、余分な食べ物やお金を持たせず旅に出させます。旅の中で空腹な時に受け入れてもてなしてくれる家もあれば拒否する家もある。ある人達は迫害し、殺そうとするかもしれない。それでも、40~42節でこう言われています。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。…まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」

この最も小さい者たちは、単に貧しい人や困った人ではなく、イエス様を伝え、表すために遣わされた弟子たち、クリスチャンたちです。イエス様が最後の審判の時に、全世界の人々が問われるのは、クリスチャンのもっとも小さな者のうちにさえ表されたキリストを認め、受け入れたかどうかなのです。

この世界にイエス様をお伝えし、その愛を具体的に表すことができるのはクリスチャンです。神様は、この世では取るに足りないと思われるような人々をご自分の子として選び、神の恵みの器としてお用いになります。多くの人達が、立派な学者や修行を積んだ宗教的な偉人ではなく、普通の人を通してキリストを知ります。初代教会の時代、アンテオケではじめてユダヤ人以外の人達に福音を伝えたのは、十二使徒や有名な弟子ではなく、迫害を逃れて町を出た普通の人達でした。外川さんも病弱な奥様からイエス様について知らされていました。自分の妻や夫、子供、親、近所の人や自分より学歴や収入の少ない人たち、宗教にいかれているとバカにしていた人達が、その心の内に宿すキリストを言葉や行いで表すとき、ばかにするのを止めて、最も小さいクリスチャンに真剣に耳を傾け、信頼し、受け入れたかどうかが問われるのです。

3.主イエスの代理として

第三に、私たちは自分が小さなものに過ぎないと感じていても、主イエス様の代理として遣わされ、いまいる場所に置かれていることを自覚しなければなりません。

イエス様の終わりの日についての教えは、弟子たちの質問からはじまりました。エルサレムの神殿を見上げたときに、イエス様がやがて滅びると言われたことはどのようにして起こるのか、そして世界の終わりの時が近づけばどんな前兆があるのか。

そんな疑問に答えた、イエス様の終わりの日についての教えは、終わりの時代に生きる全てのクリスチャンに備えさせるものです。

ですから、最後の審判の基準が、弟子たちやその後のクリスチャンを通して証しされるキリストを受け入れるかどうかなのだ、ということは、まだイエス様を信じていない人へのメッセージであり、警告ではあるのですが、私たちクリスチャンがこの世にあって、特に終わりの時代を生きる私たちはどう生きるべきかを教えるものであるはずなのです。

マタイの福音書が書かれた紀元1世紀頃の教会の状況を想像してみましょう。これは単なる想像ではなく、残されている文献や資料から推測される初期のキリスト教の姿です。

彼らはローマ社会の中で圧倒的な少数派でした。教会の中には、社会的に地位の高い人達もいましたが、大部分を占めていたのは普通の労働者や奴隷であったり、女性や子供、また未亡人などでした。教養のある人達はキリスト教の教えには矛盾があり、こんなものを信じるのは愚か者だと切り捨てました。初代教会のクリスチャンたちが自分達を小さい者と感じていたとしても不思議ではありません。それは今でも同じかも知れません。

その上、私たちが今では当たり前のように持っている、黙っていても「ああクリスチャンなんだな」と何となく分かるような、キリスト教的な文化、たとえば十字架が掲げられた教会堂もなかったし、個人で所有できる聖書もありませんでした。十字架自体、まだ死刑の道具として生々し過ぎて、クリスチャンのシンボルとしては使われていませんでした。

クリスマスやイースターのようなキリスト教的なお祭りもありません。もちろん、他の宗教のように、イエス様の像や絵を神として崇めるようなこともしません。つまり、黙っていてもキリスト教なんだなと外面的に分かる様なものは何一つなかったと言って良いのです。

そのような、社会のなかで無力で、取るに足りない、ごく普通の、ありきたりな人々がどうやってキリストとその愛を、福音を表す事が出来たかと言えば、彼らの生活の仕方、生き方、そして交わりの仕方、他人との関わり方でした。キリスト教が他の宗教と何が違うかは、彼らの生活や言葉、態度に現れていました。

使徒パウロが聖書の中で私たちのうちにキリストが形造られるとか、新しい衣を着るとか、キリストの香りを放つというような言い方で教えていますが、どれも言っていることの中心は一つです。人々が私たちの中にキリスト見るのだということです。たとえこの社会の中で、家族の中で無力さを感じ、自分がほんとうに小さい者に過ぎないと思えるとしても、私たちはその人達に対して遣わされたイエス様の代理だということを自覚しましょう。

適用 残された時の中で

何度もくり返していますが、新型コロナで世界が終わるわけではありません。しかし、このような世界的な混乱は、この世が最後の審判の時に向かっている終わりの時代にあることを確かに物語っています。

そういう中に生きる私たちは、この世にあって、最も小さな者かもしれませんが、そのような私たちは、キリストを映し出す鏡のように、キリストの香りを放つ者のように、この世にあってイエス様の愛と恵みを表す者としておかれています。私たちの周りの人達は、私たちを通してイエス様を知るのです。

初代教会の多くのクリスチャンがそうであったように、私たちも教養や能力、雄弁さでイエス様を証しするのではありません。そういう賜物を与えられた人達には、その人たちの役割があります。

そうでない普通の私たちには、私たちの言葉と振る舞い、心のあり方、人との関わり方の中で、イエス様のご性質を表すのです。イエス様を信じた人々は、こんなふうに生きることができると示すのです。

イエス様のうちにある愛と恵みは、どんなに貧しい者でも、力の無い者でも、能力のない者でも、地位や経済力のない者でも、優しさや寛容さ、親切、善意、自制といったかたちで表すことができます。いやむしろ、この世では大したものとはみなされないような人々の中にある、そうした愛の姿こそが、人々をはっとさせ、そこに何があるかと考えさせるのです。

この時代に生かされている私たちは、この時代の人々に、イエス様の代理として遣わされているという自覚をもう一度持ちましょう。最後の審判のとき、滅びに向かうよう宣告される人達が、俺たちの周りにいるクリスチャンたちは、キリストのことなんか何も表してはいなかったと言い訳させてはいけません。私たちが非難されないためではなく、人々が、イエス様に出会い、イエス様を信じるきっかけをつくることができるのは、私たちだからです。

祈り

「天の父なる神様。

私たちは、クリスチャンとしても足りないところばかりで、この世にあっても、目を見張るような何かを持っているわけではなく、小さな者たちです。

それでも、私たちのうちには主イエス様がおられ、そのみこころが私たちの心となり、神様への恐れと尊敬、周りの人達への尊敬と愛が私たちの、新しい衣、香りとなることを感謝し、また信じます。

終わりの時代に生きる人々が、神様のご愛やキリストのお姿を知るのは私たちを通してであるということを、もう一度強く自覚させてください。

今週の歩みの中で出会う人達に対して、キリストの代理として愛とまごころをもって接することができるように助けてください。

説明を求める人がいたときに、イエス様について語るべきことばをお与えください。私たちは力のないものですが、聖霊様が教えてくだささると、あなたが約束されましたから、そのようになさってください。

どうぞ、私たちを通してキリストご自身を表し、一人でも多くの方がイエス様に心を向け、開くことができますように。

主イエス様のお名前によってお祈りします。」