2020-08-02 クリスチャンのしるし

2020年 8月 2日 礼拝 聖書:ヨハネ13:34-35

皆さんが、クリスチャンらしさを発揮しようと思ったら、どういうことをするでしょうか。教会がこの世界にあって、教会らしくあるとはどういうことでしょうか。

イエス様を知らない人と私たちが違う生き方をするとしたら、その違いはどういうかたちで表れるべきでしょうか。子どもたちに、クリスチャンとしての生き方を伝えようとするなら、何を大切にするよう教えるでしょうか。

8月の「今月のみことば」として挙げさせていただいたのは、「新しい律法」とか「新しい戒め」と呼ばれているヨハネ13:34です。今月はこのみことばをくり返し味わいながら、歩んで行きたいと思います。来週からはまたマタイの福音書に戻りますが、私たちを愛してくださったイエス様の愛がいちばん表れている十字架の場面になっていきますので、そちらもじっくり味わいたいと思います。

さて、聖書が私たちに教えているクリスチャンらしさ、教会らしさは、この聖句に表れています。目に見える教会堂の形とか、特別なキリスト教の伝統や習慣、クリスマスやイースターなどのイベントなどではなく、互いに愛し合うことこそが、クリスチャンのしるしである、というのがイエス様の教えです。

 1.裏切りと新しい戒め

まず、この新しい戒めが、どんな状況で語られたかを確かめたいと思います。

31節の出だしに「ユダが出て行ったとき」とあります。これはイスカリオテのユダがイエス様を祭司長たちに売り渡すために出て行った時のことです。つまり、この教えは、最後の晩餐の中、ユダがイエス様を裏切っていくという状況で語られたということです。

すこし遡って、13:1を開いてみましょう。

「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」

イエス様は、もう間もなく十字架に付けられるという時、弟子たちと過ごす最後の機会に愛情をたっぷり注ぎ、語り尽くせぬ思いをこれでもかというほど言葉にしてくださったのが、13章から17章まで続く、長い長い教えになっています。

そういう中で語られました。

しかし、その語りの中には、ユダの裏切りという暗い面も含まれていました。13:10~11には、イエス様が弟子たちの足を洗っている場面で、ユダの裏切りのことが触れられています。直接は言われませんでしたが、まるで影が差すように、裏切りへのほのめかしがあります。また21~30節、つまり今日の箇所の直前には、イエス様で弟子たちにはっきりと裏切りがあることを告げています。他の弟子たちは、イエス様が何を言っているかよく分かりませんでしたが、ユダ自身ははっきりと裏切りの思いがバレていることが分かりました。

それでも、イエス様は食卓の中で、パンをユダに与えています。家の主人が特別なお客さんに対して親愛の情を示すために、上等なぶどう酒にパンを浸して渡すというしきたりがありました。ですからこれは単に取ってあげたというのではなく、裏切ろうとしていることをわかりながらも、なお愛を表してくださったということです。13:1にはイエス様が弟子たちに対して「最後まで愛された」とありました。まさにこの場面は、最後まで愛されたということの大切な一面を表しています。

しかし、ユダはそのイエス様の愛に応えることなく、示された愛に心動かされることもなく、席を立ち、離れて行ってしまいました。そのあとユダがしたことは最近、マタイの福音書から学んだばかりのことです。

「互いに愛し合いなさい」という教えが、人間の罪深い裏切りの影が差している中で語られたことには、大きな意味があるように思います。しかも、この裏切りは、ユダだけの問題ではなく、他の弟子たちもイエス様を見捨てて逃げ出していくことになるのです。裏切ると分かっていても、見捨てると分かっていても、最後まで愛してくださるイエス様が、互いに愛し合うようにと教えておられるのです。

皆が仲良く、お互いに親しく感じている時に「互いに愛し合いましょう」と言うのと、密かに裏切りが行われ、愛する弟子たちがやがて自分を見捨てて行くことを分かった上で「互いに愛し合いましょう」というのでは、まるで意味合いが異なって来ます。

2.新しい戒め

第二に、この命令は「新しい戒め」として与えられました。

新しいというからには古いものもあるわけです。古い、というか以前の戒めは、旧約聖書の律法にあたるわけですが、その中心は「神を愛し」「隣人を愛する」ということに尽きます。

新しい戒めとは言っても、古い戒めが無効になるわけではありません。クリスチャン同士の間に愛があれば、神を愛し、隣人を愛することは不要になるということではないのです。

しかし、今やキリストによる新しい時代が到来しました。31~32節に人の子、つまりイエス様が栄光を受けるという話しが出てきます。その直ぐあとで、33節「もう少しの間あなたがたとともに」いるけれど、彼らから離れ、イエス様が行くところに「あなたがたは来ることができません」と言われます。

これらはすべて、イエス様が十字架の苦しみをお受けになることを表しています。イエス様の十字架によって新しい時代が到来したのです。そして、新しい時代には新しい時代にふさわしい、新しい生き方があります。

イエス様によってもたらされた新しい時代の特徴って何でしょうか。それはイエス様の十字架によって、罪の赦しが無償で、ただで与えられるということです。罪の代価はイエス様が引き受けました。新しい時代はこの恵みの時代なのです。正しくなければ神に受け入れられない、律法を守っていなければ仲間でない、という時代は終わり、誰であってもイエス様を受け入れる者は神に愛され、神の家族として愛される資格があるのです。そういう者同士として生きる生き方が、新しい戒めには表れています。

最近のコロナの騒ぎの中で、「新しい生活様式」なんてことが言われています。人との距離を2mとりましょうとか、手洗いや換気をこまめにしましょうとか、細々と推奨されていますが、それはあくまで感染症の拡大を防ぐための一時的な対策にすぎません。

しかし新しい戒めは、一時的な対策のようなものではなく、私たちに人との関わり方を根本から変えなければならないことを教えています。しかも、この命令には「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉が添えられています。

私たちはお互いを見る時、相手の中に、自分以上に弱さやいろいろな欠点が見えるでしょう。一般論として人間は罪深いというだけでなく、争いや、気持ちの行き違い、ねたみや傲慢さに傷つくこともあります。しかし、同じ罪が別の形で私の中にもあります。そういう罪ある者たちのためにイエス様は十字架で死なれました。

今日は婚約式がありますが、結婚してお互いのことを深く知るようになれば、今は上手に隠している面や、都合良く見えていない相手の面も、だんだん分かって来ます。それでも愛するということが真実な愛の姿です。

私たちはお互いに、主の愛を受け取った者同士です。不完全で罪があっても、キリストのゆえに赦し、受け入れ、愛さなければならないのです。神に赦された者は他の人を赦すべきだと教えられた通りです。キリストにあって愛され、結び合わされたからこそ、お互いを兄弟姉妹と思うからこそ、傷ついたり悩んだりすることもあります。私たちは、私たちを愛して下さったイエス様を想い起こしながら、このお互いを愛するのです。それが新しい生き方です。

3.弟子のしるし

第三に、私たちがイエス様の愛を思って、お互いに愛し合う姿は、イエス様の弟子であることの唯一の目に見えるしるしです。

私たちクリスチャンは、クリスチャンでないことのしるしとして、イエス様だけを礼拝し、偶像礼拝は拒否するとか、日曜日は礼拝に行くとか、清く正しい生活を送るとか、いろいろ思うかも知れません。しかしイエス様がおっしゃっているのは、他の人たちが見た時に、ああこの人はイエス様の弟子なんだ、と分かるのは、私たちが愛し合っている姿だということです。

神戸の神学校の校長先生、吉田先生が書いた「キリスト教の”はじまり”」という本があります。エルサレムで始まった教会がどうしてローマ帝国内のすみずみまで拡がることができたか、ということを研究したものです。読みやすく書いてあるので、機会があったらぜひ読んで欲しい本の一つです。

それによると、初代教会がローマ社会に大きな影響力をもった幾つかの特徴がありました。例えば、当時のローマの宗教といえば国家の繁栄を祈るものだったり、御利益を求める伝統儀式のようなものしかなかったのに、教会は社会の不安に応ることができました。また、身分制度がかなりはっきりしていた帝国内でしたが、教会だけは多種多様な身分、職業の人たちが男女の区別なく、大人も子ども老人も、夫を失った未亡人も受け入れられていました。隣人愛を具体的に実践し、社会では軽んじられていた女性たちが教会では生き生きと活躍していました。女性の人権なんて考慮されず、子どもも平気で中絶したり捨ててしまうような社会の中で、女性と子どもがとても大切にされていたのです。

それらの特徴の中心には、クリスチャンたちが神の家族としてお互いを大切にし、愛し合う交わり、強い絆がありました。それが、ローマ社会のどんな組織や集まりとも異なる特別なもの、そして魅力的なものになっていたというのです。確かにそこには、神を愛し、隣人を愛し、兄弟姉妹が愛し合う姿がありました。そこに、人々は他のなにものとも違う何かを感じ取り、それがキリスト者=

クリスチャンと呼ばれている、イエス・キリストの弟子たちなんだということに、なるほどと思い、求めていく大きな力になりました。愛し合う姿は確かに弟子であることのしるしとして人々から認められていたのです。

このようなことは、人を招いて伝道するような集会が持ちにくくなった現在、どうやって教会が、クリスチャンがイエス様を証しするか、と言うときに、本当に大切にしなければならないことではないかと思わされます。

私たちが愛し合う姿は、どんな魅力的なイベントや、プロフェッショナルな設備、上手な話し方、豊かな聖書知識なんかより、はるかにイエス様の素晴らしさを表すものになります。とくに、イエス様が私たちを愛したように、お互いが不完全で、罪があり、時にはそのために傷つけ合うことがあるとしても、それでも赦しがあり、仕える姿が具体的にあり、互いを尊重し、決めつけず、違いを受け入れようとし、何があっても一緒に賛美し、一緒に礼拝し、パンと杯を分け合っている、そういう愛の交わりが人々の目に明らかになるとき、イエス様が言われるように「あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるように」なるのです。

適用 神の家族だから

今日は、今月のみことばとして与えられたヨハネ13:34を、語られた状況をふまえてご一緒に味わって来ました。新しい戒め、私たちクリスチャンの生き方、人間関係の基本としてしっかり覚えたいと思います。

ところで、古い戒め、律法は、イスラエルの民が世界中の様々な民族の中から選び出され、エジプトでの奴隷生活から救い出され、神の民となるという契約を結んだ時に、新しく神の民となった人々に与えられました。神の民の最大の特徴は、天地の造り主であるただ一人の神を愛し、神が愛し命を与えた隣人を自分のように愛するということでした。

新しい律法、新しい戒めである「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがも互いに愛し合いなさい」もまた、新しい契約によって私たちに与えられたものです。

いまどきは「契約」なんていうと、細かい字で書かれた難解な法律用語と分かりにくい文章で読む気にならないような契約書でもちゃんと確認しておかないと大変なことになる、そういうやっかいな時代になっています。

しかし、神様がイエス様を通して私たちに与えた契約は、神様のほうからの一方的な約束とも言える特別な契約です。独り子イエス様の十字架の死と復活によって、すべての人の罪の代価は支払われたので、自分の罪を認め、イエス様を神の御子、救い主として信じる者は誰でも赦され、神の子どもとされ、神の民、神の家族になる、という契約です。内容的にはもっとあるのですが、肝心なことは、私たちは単に天国に行けるチケットを手に入れただけのことではなく、この地上で同じイエス様を信じる人々と、神様の家族として一緒に生きるようにされたということです。今日はできませんでしたが、主の晩餐のたびに、私たちはそのことを想い起こします。

その神の家族としての生き方の基本、兄弟姉妹との関わりの基本が、互いに愛し合うこと。イエス様が私たちを愛されたように、愛することなのです。

しかし、また問題になるのは、愛するということは言葉では綺麗でカッコイイのだけれど、簡単なことではないということです。

愛するようにと言われている兄弟姉妹たち、クリスチャンたちを見ると、なかなかのくせ者だったり、個性豊かです。長く付き合えば、いやな面も見えるし、なんでそんなことを拘るのかと思うようなことに躓いたり、突っかかってくる人も出たりします。そしてやっかいなのは、自分もそうだから、どうしてもぶつかります。それはまるで、実の家族の場合と同じです。家族だから愛して大切にしたいし、そうすべきなんだけれど、親子なのに、兄弟なのに、夫婦なのに、合わない処があってぶつかったり、長くしこりが残ったりします。それでも家族だから、そのままにはできないし、放って置くと、私たちの人生そのものがガラガラと崩れてしまいます。

教会も、クリスチャン通しも同じことです。だからその時思い出しましょう。イエス様は私をどのように愛してくださったか。あのユダの裏切りや弟子たちが見捨てて行くことを知ってもなお愛してくださったその愛で、私を愛し、赦して、受け入れてくれました。

そして、何だかんだとぶつかるあの人、この人。よく考えれば、違う点より、はるかに共通点が大きく、しかもその共通点は揺るぎないものだということを思い出しましょう。私たちはともに神を信じ、キリストを受け入れ、赦された罪人であり、聖霊を受けて新しい者とされ続ける道の途中にいる者たちです。違いはあって当たり前、ぶつかって当たり前。その中で傷つくこともあるけれど、神様の愛は変わらない。イエス様の愛は変わらない。イエス様の愛に立ち戻り、思い巡らし、心に染み渡らせましょう。私の正しさ、私の被害、私の辛さを主張し、ぶつけるより、イエス様が分かっていて赦し、愛したことを思い出しましょう。うまく出来るかどうかはわかりません。でも、どうすべきかは、ちゃんと示されます。そして、思い切って従いましょう。

祈り

「天の父なる神様。

イエス様は私たちのための十字架で死なれ、よみがえり、私たちに罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださいました。そればかりか、私たちをキリストにある神の民、神の家族とし、互いに愛し合うべきものとして結び合わせてくださいました。

イエス様が、どのように愛するのかを身を以て教えてくださいました。私たちの中にはそんな力も愛もないことを知っています。でもイエス様の愛が注がれました。いつも、そこに立ち返って、神の家族である互いを赦し、仕え、敬い、認めあって、愛していけるように助けて、この交わりを豊かに祝福し、世にあっては輝かせてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」