2020-08-16 わが神、どうして

2020年 8月 16日 礼拝 聖書:マタイ27:39-50

 「死に際」という言葉があります。朝から重い言葉ですが、人は、誰かが亡くなった時に、その死に際がどうであったかにとても惹かれます。岩手には、義経伝説がありますので、弁慶が主を守るために何本も矢で射られても死ぬまで立ったままだったとか、義経は本当はその後も生きていたかもしれないなんて話しに興味が惹かれるだけではありません。

家族や友人、知人のいのちの火が消えようとするとき、どんな言葉を残したのか、苦しそうではなかったか、どんな表情だったか。そこにその人の気持ちや思い、あるいはその人の人生の意味や生き方まで重ね合わせ、その死を受け入れていくために、何かを求めて、「死に際」に心を向けるのかも知れません。

いよいよ今日はイエス様が十字架上で息を引き取られた場面となります。まさにイエス様の死に際です。

イエス様が十字架の上で語った言葉がいくつか、具体的には7つの言葉があります。福音書を残すよう導かれた四人がそれぞれの視点で十字架の出来事とイエス様の言葉を取り上げ、その意味を描こうとしました。私たちが今読み続けているマタイの福音書ではその中の一つだけを記録しています。

 1.主イエスの称号

まず最初に目を留めたいのは、人々の目にはみじめに十字架に磔にされているイエス様に対して投げかけられた言葉を見ていくと、そこには、イエス様の「称号」がいくつも挙げられていることがわかります。

人々は、イエス様をばかにし、皮肉の意味でそれらの称号を用いているのですが、そのどれもが、いちいち、実は真実であったことを私たちは知っています。彼らは、そのつもりはなかったし、全然信じてはいなかったのですが、それらの罵りの言葉が、イエス様が実はどういう方であるかを証言していたのです。

前回までの箇所では「ユダヤ人の王」という称号がくり返されていましたが、今日の箇所では「神の子」がくり返されます。

39節で「通りすがりの人たち」が登場し、イエス様をこう罵っています。「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」

「神殿を壊して三日で建てる人」というのは、祭司長の家での尋問の中で飛び出した証言ですが、そのことがもうすでに市中に拡がっていました。そして、ここでイエス様につけられた称号は「神の子」です。神殿を三日で建てるというような大風呂敷を広げるくらいなら、自分を救って、十字架から降りてみろよと罵ります。もちろん、イエス様が多くの病人を救い、数々の奇跡を行ったという話しは広まっていたでしょうが、エルサレムに集まっていた群衆が直接それを見ていたわけではないかもしれません。本当に力があるなら、それを見せてみろ、というわけです。

次に登場するのは、41節の「祭司長たち…、律法学者たち、長老たち」です。彼らこそがイエス様を十字架に追いやった張本人ですが、彼らもこう罵ります。「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」ここでも「神の子」という称号が使われています。やはり、他人を救ったのだから、自分を救えと言い、神のお気に入りだと自分で思っているなら、助けてもらえと挑発します。

44節では一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じように罵ったとあります。具体的な言葉はありませんが、だいたい同じことを言っていたことがルカの福音書から分かります。

「あなたが神の子なら~してみなさ」という言い方で思い出すことはないでしょうか。そうです。マタイの福音書の4章、イエス様が公の働きを始める直前に荒野で受けた悪魔による試みでの、悪魔のセリフです。「あなたが神の子なら、この石をパンに変えてみろ」「あなたが神の子なら、神殿のてっぺんから飛び降りてみろ、神が助けてくれるはずだから」。人々が罵っている言葉と重なります。神の子であるなら、その力を自分のために使って、自分を救え、神のお気に入りなら、神が助けてくれるのを見せてくれ。

イエス様は悪魔の誘惑を拒絶しましたが、それは神の子ではないからではありません。イエス様は群衆や祭司長たちの挑発に応えませんでしたが、それは神の子ではないからではありません。イエス様はそのような挑発に乗らずに、この苦しみを引き受けて救いを与える方、間違いなく神の御子、キリストなのです。

2.主イエスのことば

第二に、人々の罵りや挑発には無言を貫いたイエス様ですが、語った言葉はあります。最初にお話したように7つの言葉が記録されていますが、マタイは一つだけを取り上げました。もちろん意味があってのことです。

イエス様が十字架につけられた後、ヒルの12時頃から午後3時頃まで、空は闇に覆われました。皆既日食があったと言われたこともありましたが、過越の祭がある満月の時期に日食というのはあり得ませんので、分厚い雲に覆われるようなことだったのかもしれません。自然現象としてどうだったかも興味深い話しではありますが、大事なのはその意味合いです。

旧約聖書のアモス書という預言書の中にこんな言葉があります。「わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くする」。十字架の場面を預言したものではありませんが、暗やみは不正や悪に対する神様の怒りを表すことの一例です。

モーセの時代に、奴隷状態だった民をエジプトから脱出させようとしたときに、頑なにこれを阻止しようとしたエジプトを闇が覆ったというのも同じような意味があります。

この神の怒りは、イエス様を十字架に付けようとした祭司長たちや、ののしる群衆への怒りなんてものではありません。天地を造られ、全ての生きとし生けるものに命を与えた神に背を向け、自分が良いと思うように勝手に生きているあらゆる時代の全ての人間の罪に対する神の怒りです。しかしその怒りは人々ではなく、十字架の上のイエス様に向かっていました。

その暗やみの中でイエス様は叫びました。46節「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」」

イエス様は十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでいました。

これまでの十字架に至る道のりの中で、イエス様は一度もご自分の考えやお気持ちを表して来ませんでしたが、ここでそのお気持ちを叫んでいます。それは「父なる神に捨てられた」という思いでした。46節の言葉自体は、詩篇22篇の出だしの言葉です。この詩は義人が苦難に合い、その苦しさを神にうったえる祈りの詩篇ですが、イエス様は冷静沈着にこの場に相応しい聖句を選んで叫んだというようなことではないと思います。日頃から聖書に親しんで来たために、十字架の苦しみ、孤独と神の怒りの重みの中で、「捨てられた」という感覚にぴったり合う聖書の言葉が自然に叫びとなって出て来たのでしょう。

周りにいる人々はそのようなイエス様のお気持ちをこれっぽっちも分かっていませんでした。聞いていた人たちはイエス様がエリヤを呼んでいると思いました。約束のキリストが到来する時代には預言者エリヤが再来すると信じられていたので、ああ、ナザレのイエスもエリヤに助けを求めたんだと、勝手に誤解していたのです。

けれどもイエス様が味わっていた見捨てられたという感覚は、何の望みもなくなってしまった絶望ではありません。あまりの苦しみに叫びましたが、その叫びを「わが神」と、なおも神に向かって訴えることができました。この苦しみはイエス様が私たちの救いのために、父なる神様の手から、自ら受け取った苦い杯なのです。ゲッセマネの祈りの中で飲み干すことを決意したあの苦い杯なのです。

3.主イエスの最期

最後に48節と49節は、イエス様のご最期です。

イエス様の叫び声を聞いて、ある人が駆け寄り、海綿にぶどう酒を含ませ、それを木の棒かなにかにつけてイエス様の口元に持って行きました。たぶん、憐れみの気持ちから出たものだと思われます。「酸いぶどう酒」というのは、疲労回復のための飲み物で、ワインビネガーを水で薄めたものだそうです。ヨハネの福音書によれば酸いぶどう酒がいっぱい入った器があったそうですので、見張りをしている兵士たちが誰でも飲めるように準備されたものだったのでしょう。兵たちのうちの何人かが親切のつもりでやったことだと思います。

しかし他の人たちはその親切な行為に「ちょっと待て」とストップをかけて、「エリヤが救いに来るかを見てみよう」と、あくまで笑いとあざけりの種にしようとしました。

このような状況でも親切心を示す人がいるということに感動を覚えますが、同時に人間はここまで残酷に、冷酷になれるのかと、驚かされます。

ただ、自分自身の中にも、すごく親切心や可哀想に思う気持ちが強く働くこともあれば、とても冷たい反応したり、見て見ぬ振りをしてしまうこともある事に気付かされます。相手によるのか、状況によるのか、自分でも良く分かりませんが、それが人間なのかもしれません。

そうやって最期まで人間の罪深さがあばかれ続けたゴルゴダの丘で、いよいよイエス様の終わりの時が近づいていました。

この場面でも、マタイの描き方はとても簡潔です。

映画でもドラマでも主人公が死ぬ場面はたいがい、長回しで時間をたっぷり使って描きます。過去の思い出を走馬灯のように巡らせたり、名台詞を吐かせたりします。大河ドラマで明智光秀を主人公にしていますが、光秀が信長を討ったとき、燃えさかる本能寺の奥の間で自害する場面なんて、本当に歌ったかどうかも分からない歌を歌わせたりします。

もちろん、福音書の記者たちがそれぞれイエス様の最期の場面を創作したわけではありませんが、それにしてもマタイはとてもあっさりと描きます。「しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。」午後3時頃のことです。

近代医学の発達により、十字架刑の時に人間の身体に何が起こって死に至るか、かなり詳しく解明されています。それを読むとちょっとぞっとします。その苦しみを描くことも出来たはずですが、それは飛ばしています。具体的に何を叫んだのかも、確認のために兵士がわき腹を槍で刺した話しもカットされています。そして「霊を渡された」神様にご自分の霊をゆだねた、という少し変わった言い方で、イエス様の最期を描きます。ただ息を引き取ったのではなく、ただ死んだのではなく、なすべきことをし、引き受けるべき苦しみを全て引き受け、あとのことは父なる神にすべて任せて死なれたということを強調しているのかも知れません。

人間のありとあらゆる悪意、ねたみ、罪深さがこれでもかというほどに顕わにされた十字架の場面で、イエス様の死だけは本当に、単純に死んだという事実、その霊が父なる神の手に委ねられたことだけが記されています。

適用 神である方が

さて、今日はイエス様のご最期を共に読んできたわけですが、こうしてみると、イエス様の最期の言葉も、息の引き取り方も、誰か親しい人の死を受け入れ、その悲しみを乗り越えるために死に際を知るというのとはまるで違ったものであることが分かります。

それは明確なメッセージ、私たちに語りかけるために書かれたものです。

マタイが十字架の最期の場面を通して描いているのは、神の御子である方、約束の救い主である方が、すべての人の罪を背負って苦しまれ、そのいのちを差し出してくださったということです。

その場にいた誰も彼もが、イエス様を嘲って神の子、王、キリストと呼びながらも、誰一人として、本当にそう呼ばれるべき方であることを認めようとしていませんでした。

惨めに十字架の上で苦しみ、見せしめのように死なれたイエス様は人々の罪を背負い、神に捨てられるという経験をしていました。しかし誰もそれが自分のためだとは考えもしませんでした。

それでも、イエス様はただただ、ご自分のなすべきことをシンプルに果たし続けました。 十字架の苦しみを背負い、命を注ぎ出し、父なる神の手に委ねました。

苦しみの中で叫んだ「わが神、わが神 どうして私をお見捨てになったのですか」という言葉で有名な詩篇22篇には、もちろん続きがあります。苦しみの中で神に訴える詩人に対して神様は沈黙を守っておられますが、それでもその神様に信頼し、賛美しています。そんなふうに、イエス様は苦しみの中で神様に、自ら決意して引き受けた苦しみであっても、現実に味わっている苦しさを訴え、神に捨てられた悲しみと恐怖を訴えます。父なる神様はお答えになる代わりに、重苦しい闇で地を覆うだけです。それでもイエス様は、詩篇の詩人が告白したように、その神様に自分の霊を信頼して委ねるのです。

新約聖書はこのイエス様のお姿を、「へりくだり」とも「従順」とも呼びます。神である方が、徹底してご自分を低くし、十字架の死にまでも従われました。それは、私たちに救いを与えるためです。そして、このイエス様を、祭司長や群衆のようにからかったりあざけったりする意味ではなく、文字通り、神の御子、キリストと信じる私たちに対して、聖書は「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。」と命じています。ピリピ2:5~11です。

私たちはイエス様と同じような意味で他人の罪を背負ったり、身代わりになるような重荷を背負うことはありませんが、「神様、どうして」と言いたくなるような、言ってしまうようなことが起こりますん。互いに愛し合うようにと教えられているクリスチャン同士であっても、お互いに遜ったり、仕えるよりは、一言文句を言ってやりたい、言って当然だと思うような事も経験します。私自身、そういう場面では結構ムキになることがあるので、後でやり過ぎたなと思うほど失敗することもありますから、気持ちは分かります。

でも、その度に、この箇所を思い出し、神の子である方が私のためにしくださったことを思い出し、その思いを自分のものにすべきだという教えをくり返し学ばされます。

神の子でありながら、私たちのために捨てられ、苦しむことを、自分の飲むべき杯として受け入れたイエス様が私たちに与えてくださった救いの恵みを受け取るとともに、その思いをあなたがたのものとしなさい、という聖書の言葉をしっかり受け取りましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今日、私たちはイエス様の十字架のご最期の場面を味わって来ました。本当に人間の罪深さがあふれ出るようなその場面の中でも、だまって、受けるべき苦き杯としてその苦しみを受け止めてくださったイエス様。それゆえに与えられた罪の赦しと救いを心から感謝します。

どうか、ここにいる一人一人が、今一度、イエス様が神の御子でありながら、嘲られ、罵られても、だまって苦しみを受けた意味を理解し、思い巡らし、自分自身に向けられた愛と恵みであることを信じることができますように。

またこの愛を受け取った私たちが、イエス様のその思いを自らのものにするようにとの聖書の教えに学び続け、へりくだり、仕える者、赦す者であることが出来ますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」