2020-08-23 この方は本当に

2020年 8月 23日 礼拝 聖書:マタイ27:51-56

 「気付いた時にはもう遅い」ということがあります。しかし他方で、「気付くのに遅すぎることはない」とも言います。

起こってしまったことはもう元に戻せませんが、元に戻せないそんな所から、新しいことを始める道も必ずあるものです。

イエス様を十字架にかけてしまうということは、取り戻せないことです。神様のご計画のうちに起こったこととはいえ、当事者たちは、ねたみや怒りに駆られてイエス様を殺そうとし、総督ピラトは群衆の反応を恐れ、兵士たちはまるで余興でも楽しむかのような残酷さをもって処刑を実行しました。しかし、イエス様が息を引き取った後、ある人たちは我に返るように、イエス様が本当に神の子であったことに気付きます。果たしてそれは遅すぎることだったのでしょうか。それとも、遅すぎることはないのでしょうか。

長い時間をかけて読んで来た、主イェス様の十字架の場面も、息を引き取った場面から、その後の出来事へと移ります。

けれどもこれは小説やドラマの後日談のようなものではなく、復活とその後の教会の歩みへと繋がって行く、新しい物語の始まりです。今日の箇所には、イエス様が十字架の上で死なれたことによって引き起こされた幾つかの出来事が記されています。これらは、イエス様が私たちに何をもたらしたかを指し示しています。

1.裂けた隔ての幕

第一に、イエス様が絶命したとき、51節にあるように「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂け」ました。

現象としてはその後に書かれている地震が引き起こした結果ということだと言えますが、このタイミングは偶然ではなく、神様が地震を用いて神殿の幕が裂けるようにされたというべきでしょう。というのも、幕は「上から下」に向かって裂けたと書かれています。非常に大きな幕でしたので、人間がやるとしたら、どうしても下から引き裂いていく形にならざるをえません。上から下に裂けるというのは、通常ではない力が働いたということです。

では、この出来事は何を意味しているのでしょうか。そもそも、「神殿の幕」というのは何でしょうか。

紀元70年まで、エルサレムには神様を礼拝するための神殿がありました。その場所には今はイスラム教のモスクが建っています。イスラエル人にとってはエルサレムを完全な形で取り戻すのが積年の願いだとは思いますが、今そんなことを無理にしたらイスラム諸国との大戦争になってしまいますからさすがにそれは出来ません。

現在は、神殿を取り囲んでいた外壁の西側の部分だけが残っていて「嘆きの壁」と呼ばれています。黒い服を着たユダヤ教徒が壁に向かって祈りを捧げているのをニュースの映像などで観たことがあるかもしれません。とにかく、その神殿はかつてのユダヤ教の中心地であり、毎日そこで礼拝が献げられ、人々は自分の罪の赦しを求めて動物の犠牲を献げにやって来ました。

この神殿の内側、いわば境内には祭司だけが入れる聖所という建物がありました。聖所には毎日、祭司が入り、ロウソクの灯りを絶やさないようにし、パンを供え、香が焚かれました。聖所のさらに奥には至聖所と呼ばれる、最も神聖な部屋がありました。神がおられる場所とされ、その部屋は普通の祭司も入ることが許されず、大祭司だけが、しかも年に一度だけ入ることが認められていました。

それほど神聖な場所を隔てるように一枚の幕が掛けられていました。その幕が表しているのは、聖なる神に近づくにはどれほど聖くなければならないか、一点の罪も汚れの染みもあってはならないということです。イエス様の十字架の死とともに引き裂かれたのは、この仕切りの幕、聖い神と汚れた人間を隔てる幕でした。

しかし、イエス様の十字架の死によって、すべての人の罪の代価は支払われたので、誰でも、どんな人でも神のもとに行くことができるようになりました。隔ての幕が引き裂かれたということは、神様と人間の間を隔てているものはもう取り払われたことを意味します。たとえ、私たちに罪があり、汚れがあったとしても、神様の愛を受け取る邪魔にはなりません。むしろ聖い神様の方から隔てていたものを取りのけ、罪ある私たちの方に近づいて下さったのです。

今日、多くの人たちが神なんかいない、いたとしても私たちはには関係ない、と考えています。しかし、神様のことが分からないのは、神様は幕の奥に引っ込んで隠れているからではありません。神様のほうでは、もう幕を取り払いました。人間の側が、シャッターを下ろし、見ないようにしているか、見当違いの方を見ているために見えなくなっているのです。

独り子イエス様を与えるほどに、この世界とそこに生きる人々を愛された神様の愛とまなざしは、今も変わることがないのです。

2.聖徒たちの復活

第二に、イエス様が息を引き取ったとき、もう一つの驚くような出来事がありました。

神殿の幕を引き裂くことになった地震の様子が51節の後半に描かれています。この地震によって、神殿の幕以外に、もうひとつの出来事が引き起こされたのです。

「地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。」

いろいろと不思議な点はありますが、話しの要点は、イエス様の十字架がもたらした結果には二つあり、一つはさきほどの神殿の幕が引き裂かれたこと。そしてもう一つは、「聖なる人々」が生き返ったということです。それは、イエス様の十字架の死が、神様との隔てを取り除いたと共に、イエス様と同じように死を打ち破る復活の希望が与えられたということを表しています。

しかし、この出来事にはいろいろと謎があます。

まず、かなり衝撃的なニュースだったはずですが、4つの福音書のうち、どういうわけかマタイしかこの話しを載せていません。

それから「聖なる人々」とはいったいどういう人たちで、何人くらいなのかまったく情報がありません。

さらに神殿の幕が裂けたときの地震で墓が開き、生き返ったということですが、彼らがエルサレムに入って人々の前に姿を表したのはイエス様がよみがえった後ということです。十字架から復活までに丸二日間、彼らはいったいどこで何をしていたのでしょうか。さらに、このときの復活をどう理解したらいいのでしょう。彼らはあとどれくらい生きたのでしょうか。その時から生き続けている人はいませんから、再び死んだはずです。だとすれば、この時の復活は、私たちに約束されている復活とどうして違うのでしょうか。

これはいわば、普通の意味では証明できない歴史的な事実です。旧約時代には、死んだ後により良い新しい命に復活するという信仰に生きた聖なる人々、信仰者たちがいました。そして、イエス様が十字架で死なれ三日目によみがえったことで、その希望はいつかかなう願いから、現実的な希望に変わりました。そのしるしとして、神様が何人かの人たちが生き返らせたのでしょう。ただし、マタイが記録として残している以外にこれを証明する証拠はありません。私たちは、書かれたことばを信仰を持って受け止めます。

しかし、ああ神様はこういうことをなさったんだ、と信じれば、イエス様の十字架の死がもたらした意味、大事な意味をもう一つ捉えることになります。イエス様を信じるなら、私たちの存在は死んで終わりではなく、イエス様にあって新しい命によみがえる希望を持つことができるのです。

イエス様の十字架の死と復活に、死んだ者をも活かす力があるならば、私たち人間が、どんな罪を持っていようが、どんな弱さを持っていようが、新しい人として生まれ変わらせ、歩ませてくださるという約束を信じることができます。また、この世で得ることのできなかった祝福や正義を、また癒されなかった病や傷の完全な回復と慰めを、すべての労苦に対する豊かな報いを、単なる言葉ではなく、手で触れられるものとして得る確かな望みとして持つことができます。

3.百人隊長の告白

第三に、イエス様の死がもたらした出来事として三つ目に記されているのは、百人隊長をはじめとする兵士たちの告白です。

54節「百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」

54節は、マタイの福音書の一つのクライマックスと言えます。

マタイの福音書の出だしを覚えているでしょうか。1:1に「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」とありました。イエス様はキリストなのだ、神の子、約束された救い主なのだ、というのがマタイの福音書の大きなテーマです。イエス様はその働きと教えを通して、キリストがどんな方かを教え、ご自分が救い主であることを示して来られました。ユダヤ人にとって目で見ることのできない聖なる神が人間として生まれるなど信じがたいことであり、神を冒涜するような主張に思われました。しかし、イエス様の不思議と権威ある教えや、病院を癒す力は本物ですし、当時のユダヤ教指導者たちの偽善ぶりを遠慮なく指摘し悔い改めを求める姿に民衆は拍手喝采で、人気はどんどん高まりました。そんなイエス様に対する怒りと憎しみによって民の指導者たちはイエス様を亡き者にしようとしました。

そのようにして裁判に引きずり出されたイエス様は、ユダヤ人の王、神の子と嫌みやっぷりにあざけられ、十字架の上で神に捨てられ呪われた者として死なれたました。

十字架という処刑を担当した百人隊長と兵士たちは一番近くでイエス様の最期を見届けていました。その彼らが、「この方は本当に神の子であった」と気づき、告白しているのです。彼らは恐れを感じていました。しでかしたことの大きさに怖じ気づいたような怖さではなく、神のご臨在と権威に、恐れを覚えたという意味です。

イエス様こそが確かに神の子であり、王なる方であること。神に捨てられ呪われたのも私たちの罪の身代わりであったということ。しかも、この救い主はユダヤ人のためだけでなく全ての人の救い主であることを、ローマ人の告白を通して指し示しているのです。

地震のあとの出来事をいろいろ見て語られた告白だったのですから、この告白は十字架でイエス様が息を引き取って直ぐのことではなく、神殿の幕が裂けたとか、ある人たちが墓から出て来たという話しを聞いて、振り返って見ればあの十字架上のイエス様は、確かに「神の子だった」と告白しているのです。

しかし、その神の子であったかたを十字架にかけてしまったのです。首謀者は祭司長たちだったし、最終決定をしたのは総督ピラトだったかも知れません。群衆もそれに加担したのでしょう。けれど、実際に鞭打ち、取り囲んでイエス様をからかい、恥をかかせ、十字架を背負わせ、釘で打ち付け、さんざん罵り、最後に死亡を確認するためにわき腹に槍を突き刺したのは兵士たちです。今さら、イエス様が神の子であったということを気づき、告白して遅すぎはしないでしょうか。彼らのその後についての記述はありませんが、遅すぎたということはないはずです。イエス様はご自分のとなりで十字架につけられていた強盗が悔い改めの思いを伝えた時「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と言われたのですから、百人隊長や兵士たちの告白も決して遅過ぎはしません。

適用 十字架の主イエスこそ

今日の箇所は、十字架の場面に居合わせた女性たちのリストで終わっています。55節と56節ですが、彼女たちのことは、この後の出来事と大きく関わってくるので、次回お話したいと思います。

今日は、イエス様の十字架の死の後で起こった幾つかの出来事を見ながら、人々が期待しながらも十字架で神に捨てられるようにして死んだイエスとは、結局どのような者であったのか、という疑問への答えを見て来たことになります。

イエス様の十字架がもたらした三つのこと。

第一は、神と人との間にあった隔てが取り去られました。

イエス様が息を引き取った時に起こった地震によって、神殿の幕が上から下に向かって引き裂かれました。聖なる神と罪ある人間とを隔てていたものは取り除かれました。誰でも、イエス様を通して神のもとに行くことができ、神の恵みと祝福を、どんな人でも受け取れるとうになりました。

第二に、死と滅びが定められていた人間に、新しく生まれ、生きること、復活の望みが与えられました。

神殿の幕が引き裂かれたのに続いて、神の約束を待ち望んで死んで行った人々が生き返りました。イエス様が命を与え、新しく生きる者にしてくださる方であることが示されたのです。

第三に、百人隊長がイエス様を神の子であったと告白しました。

百人隊長は、これらの驚くべきことを目撃した後で、自分たちが十字架に貼り付けたあのイエス様が、確かに神の御子であったことに気付いたのです。前は、ばかにして「お前は神の子なんだろ」とはやし立てていましたが、今は恐れをもってイエス様を神の御子と認めています。

これらをもっとぎゅっと簡潔に言い表すなら、誰でも神様に受け入れられるし、誰でも人生をやり直せるし、死もすべての終わりではなくなった。そして、誰にとってもイエス様は救い主だということです。イエス様の十字架の死が、これらの変化をもたらしたのです。十字架の死は、終わりではなく、イエス様による救いがもたらされる新しい時代の始まりです。

今まで、神様に愛されるとか、受け入れられるとか、考えたことがなかった人も、神様は愛し受けいれてくださいます。自分の弱さや欠点、罪深さを自覚していて、どうせダメだろうと思っている人にも、イエス様は大丈夫だと語りかけてくださいます。

人生をやり直すとか、自分を変えるとか、散々挑戦してみて、上手く行かず、疲れたり諦めた人に対しても、死んだ者をも活かしてくださるイエス様が、新しいいのちを与えてくださいます。

十字架にかかって死んでくださったイエス様こそ、私の救い主なのだと信じることに、遅すぎるということはありません。人間の目には、人の心には「今さらもう遅い」と移るような状況だとしても、イエス様は、あの百人隊長が「あの方は神の子だった」と告白したように、私たちが、イエス様こそ私の救い主ですと告白するのを待っていてくださるのです。

もし、今、そう信じたいという願いがあるなら、今がその告白すべき時です。

祈り

「天の父なる神様。

私たちのために独り子イエス様をお与えくださり、ありがとうございました。

十字架で死なれたイエス様のおかげで、誰であっても、神様に愛され、受け入れられること、新しいいのちの中を歩んで行けることを感謝します。

人間として取り返しのつかないことをしてしまった者であっても、イエス様が救い主であることに気付かされた時に、遅すぎることはないことを感謝します。

今、もう一度私たちのために十字架で死なれたイエス様を感謝し、救い主として賛美します。

祈りをともにしている方々の中で、今、そう信じたいと願う方がいたなら、どうぞその心と唇にイエス様を救い主として信じ告白する言葉を与えてください。そうして、あなたの溢れるばかりの愛と祝福を注ぎ、キリストにある新しいいのちによって新しい歩みを始めさせてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」