2020-11-01 試みの時に

2020年 11月 1日 礼拝 聖書:コリント第一10:11-13

 「今月のみことば」としてこの月に覚えて行きたい聖句は、コリント第一10:13です。好きな聖句ベストテンに入るんじゃないかと思うほど人気もありますが、信仰生活の中では本当に助けと励ましになるみことであることに間違いはありません。

聖書は時代遅れな宗教的戒律を押しつけるものではなく、学者でもなければ理解できないような難解な教えの集まりでもありません。確かに、書かれた時代、文化の違いのために分かりにくいところはありますが、書かれていることは、実際の生活に深く関わるものです。神様を信頼して生きて行く現実に即した、実践的な教えと励まし、慰めとして私たちに与えられています。

コリント第一10:13のような箇所が好まれるのは、人生には試練が多いからです。苦難と無縁の幸せいっぱい、平穏で、豊かな人生であるなら、この箇所の重要性に気付くことはないでしょう。しかし、神の民として歩む私たちにとって、試練は避けられないのです。

けれども、私はこのみことばについて多くの方々が少し誤解しているというか、半分の意味しか受け取っていないのではないかと心配しています。そこで今日は、私たちが知っているよりずっと豊かなこの聖句の意味と力を学んでいきましょう。

1.荒野の試練

第一に、私たちの歩みはイスラエルの民がたどった荒野の旅に良く似ています。

荒野の試練とはいったい何だったのでしょうか。13節で「試練」と訳されている言葉は、信仰が試されるテストという意味での「試練」と、神に背き罪にいざなう「誘惑」と、両方の意味を持っている言葉です。

試練というと苦難や困難を思い浮かべやすいですが、実際は平穏な時、豊かな時にも試練はあります。エデンの園でのアダムとエバを思い出してください。彼らは何不自由ありませんでした。

コリント書の前後に書かれている神の民の荒野で経験したことを見ていくと、私たちの経験と重なるものがあります。

1節から4節で、パウロはイスラエルの民がエジプトを脱出するとき海を通って行ったことと、私たちが罪と死の支配から救い出され、信仰のしるしとしてバプテスマを受けたことを重ね合わせています。また、私たちがイエス様を信じ、イエス様からいのちを頂いていることを表す主の晩餐のパンと杯を、荒野で天からのマナを食べ、岩から湧いた水を飲んだこととに重ね合わせています。

経験したことは違いますが、私たちも旧約時代のイスラエルの民も、本質的には同じ経験をして神の民として歩み始めたとパウロは説明しているのです。

しかし5節にあるように、エジプトを脱出した民のほとんどが旅の途中で滅んでしまいました。それは彼らが荒野で経験した試練の時に、神に信頼するより、誘惑に負けてしまったためでした。

では彼らはどんな試練を経験したのでしょうか。彼らが経験した試練とは、水がないとか、食べるものがないといったような苦難ではなく、偶像に心が傾いてしまったことを言っています。7~10節に書かれているのは出エジプト記や民数記に描かれている、神の民が実際に経験した「試練」です。

7節は、モーセが十戒を受け取っている間に、人々がしびれを切らして金の子牛を作ってこれを神だといって拝み始めた時のことです。8節は、民数記に出て来ますが、モアブ人の娘たちと関係を持ち始め、その招きに応じた出かけた人々が、次には偶像礼拝に引き込まれたという出来事を指しています。また、9節と10節は、自分たちを荒野の旅に連れ出したモーセと神様に不満を言いつのった時のことです。自分たちの思い通りになら無い時に神に不満をぶつけ続けるのは、神の忍耐を試すことです。

パウロが荒野の試練としてあげている事は、要するに「神様なんか信じたってしょうがないんじゃないか」「前の暮らしの方がまだ良かった」という思いに傾かせるようなことです。

イスラエルの民だって馬鹿じゃないです。いくらなんでもシナイ半島を抜けるのに40年もかかる訳がないのは誰でも知っています。それでも律儀に神が行けと言えば出発し、留まれと言えばいつまでも留まることに何の意味があるのか。偉そうにしているモーセは何者か。神の与える食べものにはもう飽き飽きした。エジプトや他の人たちのほうが楽しそうにしてるじゃないか。

そうした試みは苦難の時だけでなく、神様が彼らを導き、養い、支えているその最中でも起こっていたのです。

2.試される時

ですから第二に、私たちが味わう試練もまた、苦難そのものではなく、その中で起こって来る誘惑こそが問題なのです。

11節でパウロはこのようにまとめています。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」

旧約時代の神の民が経験したことは、今日の私たちへの教訓です。ですから、彼らが実際に荒野の旅で何を試されたのかに注意しなければならないのです。

そこを見誤ると「自分は大丈夫」なんて下手な自信を持って、立っているつもりが、ぱたっと倒れてしまうようなことになります。コリント教会には優秀な人、賢い人、裕福な人が多かったせいか、ちょっと自身ありすぎな人が目に付いたようです。人生経験豊かな人も、もしかしたら少しそういうワナがあるかも知れません。

さて13節に「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。」とあります。

私たちが試練に直面するときに時々感じることは、この苦しみは他の人には分からない、ということです。それは確かにそうなんだと思います。家内ががんの手術を受けたり、抗がん剤の激しい副作用に苦しんでいる時、私にはその大変さや辛さを十分には分かっていませんでした。同じ病気で同時期に治療していた方と知り合いになりましたが、その人の苦しみはまた家内のものとは違いました。病気との闘い以外にも、家族の問題だったり、子どもの年齢の違いもあって心配する内容が違うのです。どれ一つとして同じ経験はありません。しかし、試練の中で試されていることは共通です。

あるいは、逆にコリント教会の人たちのように豊かさの中にあって自信たっぷりな時にも、実は同じことを試されています。私たちはその苦難の時に、あるいはまったく逆に豊かさの中にある時でも、神に信頼し、神のことばに聞くかどうかを問われるのです。

抗がん剤の副作用や手術後の辛いリハビリに耐えれるかどうかを神様は試しているわけではありません。愛する者を失った悲しみや寂しさに平然として居られるかを試しているわけではありません。

クリスチャンでない人たちも人生の試練に会い、忍耐を試されていると感じるでしょう。でも私たちが試されているのは忍耐し続ける意志の強さや頑張りではありません。だから弱音を吐いたり、助けを求めたり、逃げ出すことも、不信仰でも何でもありません。私たちの身体も心も、無限に耐える力などないのです。

私たちが試されているのは、そういう状況の中で、なお神に信頼するか、神のことばに聞こうとするか?というところです。豊かさや成功体験の中にある時も、自分の力や経験に頼るのではなく、へりくだって神に信頼し、神のことばに聞くか試されます。

あからさまな罪への誘惑の中にある時も、エデンの園のアダムとエバのように神と神のことばに信頼するか試されるのです。

思い通りにならない時に、神の忍耐を試すように文句を言い続け、不満を言い続けるか、それとも「恐れるなわたしがともにいる」「わたしがすべてを益と変える」「野の花や空の鳥さえも省みてくださる神を信頼しなさい」といった神のことば、そして神ご自身に信頼し、助けを求め、祈るか。

3.試みの中での恵み

第三に、そうした試みの中には、それ以上の恵みがあります。私たちの歩みに試練はつきものですが、恵みははるかに多いのです。

13節の中程にこうあります。「神は真実な方です」そうです。試練の中で試されているのはこの信仰です。神は真実な方だ。数週間で行けるところ40年もかけて歩ませる神だけれど、神は真実な方で、そこには意味があるし祝福もあるし、神はちゃんと約束の地へと導いてくださると信じることを試されていたのです。

モーセが神のことばを授かって降りてくるまでの間、待っていなければならず、それがとても不安な時間だったとしても、神は真実な方で、私たちを忘れたりはしないと信じることを試されていたのです。

毎日毎日、天から降ってくるマナに飽き飽きして、エジプトにいたときのほうがもっといろんなメニューを楽しめた。モアブ人のきれいなお姉さんたちと楽しく遊びたい。なんで神はそのようなことを禁じるのか、神に従うのは面白さがない、前のほうが良かった、というような時に、神の真実さを信じ、神が離れなさい、ついて行っては行けない、と警告なさることには重大な意味があると信じることを試されていたのです。

私たちも荒野を旅したイスラエルの民と同じ神様を信じています。イエス様によってその愛と真実さを証しして下さったお方です。クリスチャン生活にも、荒野の旅と同様の試練があります。それは苦難や困難の時かもしれないし、豊かさや成功、一見平和に見える時かもしれません。

しかし、神は真実な方ですから、13節の続きにあるように「あなたがたを絶えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」

先ほどから言っているように、苦しみや痛みそのものに絶えられるかどうかが聖書が問いかけている信仰の試練という訳ではありません。耐えがたい苦しみや痛みというのはあるのです。耐えがたい孤独や絶えられない空しさもあります。その中でも、神様の約束された救いや祝福を信じ続けるか、困難の時に助けを与えてくださる神様に信頼するかを問われます。

豊かさの中にあって、特に心配するようなことがないとき、神に従うことは窮屈で人生の楽しみを奪っているような気になるかも知れません。教会に行くよりは友だちと会ったり、大人気の映画『鬼滅の刃』でも観に行きたい、聖書を読むよりはYouTubeで面白そうな動画を探しているほうが夢中になれるかもしれない。でも、私たちを導き、特に警告を与えるのは、私たちをつまらない人生、喜びのない人生に閉じ込めるためではなく、本当の喜びと祝福を与えたいと願っておられるからだと信じるかどうかを問われます。

困難な時もそうでないときも襲ってくるそうした試み、誘惑ですが、これはかなり手強く、強力です。けれども、神様は私たちが人生の中で出会う様々なかたちの試練についてよく見ておられます。小さい子どもがチャレンジしている困難が今の成長段階で乗り越えられるものか、危険なものかを見極め、無理そうなのは与えないのと同じです。すぐに手助けできるように見ておられ、挑戦してみても難しかったら撤退できるように備えていてくださるのです。

適用 試練も誘惑も

「こんな時にイエス様信じて何になるのか」「前の方が楽で楽しかった」そういうささやきを私たちは経験します。そういう気持ちが心の中に起こってくることにビックリしたり、そんな気持ちが起こって来ることに、自分の信仰は偽物なんじゃないかと恐れるかもしれません。

けれども、そういうことはあなたがはじめてではありません。誰もが通る道です。そして実はイエス様も同じ試みに会われました。

イエス様はバプテスマのヨハネからバプテスマを受けた後で、荒野に退き40日の断食をなさいました。もちろん40日の断食というのは、それ自体が意志や忍耐、信仰が試されることでしょう。

しかし、イエス様への試みは、その断食の最中ではなく、断食が終わって空腹を覚えた時に訪れました。悪魔が近づいて来て、石をパンに変えてみろとか、神が聖書の約束どおりに助けるかどうか試すために神殿のてっぺんから飛び降りてみろとか、十字架の苦難なんか受けなくてもこの世を全部やるから私の前に跪いてみろといった誘惑です。

神のことばに頼るより自分の力に頼ってみようとする誘惑。神の忍耐や神の約束がどこまで本当か試してやろうという誘惑。神が指し示す道ではなく、自分で良いと思う楽な道を行こうとする誘惑。それは荒野で神の民が経験したこと、そして私たちが経験することです。イエス様は過酷な断食の後の極限状態の中で、このような誘惑に合いました。イエス様がそれらの誘惑を退けた方法は、神のことばである聖書を頼りに、神に信頼するという単純な方法でした。悪魔による直接の誘惑を退けるために、ゴーストバスターのような大げさな道具は使いませんでした。悪魔払いのための特別な儀式もありません。

私たちが直面する試練がどんなものでも、イエス様が味わったものほどではないはずです。であれば、なおさら特別な事は要りません。神様のことばを頼りに神様の真実さを信頼することです。もし強力な誘惑に対処するだけのみことばを思い出せなかったり、力がないと感じるなら、逃げ出すことです。逃げることをためらうのは、実は損をするんじゃないかとか、人から意気地なしと思われるのを恐れたり、恥ずかしいからかも知れません。

しかしもっと深刻で切実な問題は、そうした試練や誘惑が外から来るものではなく、自分の内側から起こってくる時です。逃げ場もなく、戦うだけの力もなく、いつも負けてしまうような場合はどうしたら良いのでしょう。どこに救いがあり、どこに助けと脱出の道があるのでしょうか。その問題はコリント書を書いたパウロが自分自身の経験と重ね合わせてローマ書で取り扱っています。

ローマ7章全体、とくに18~25節で、善を行いたいと思いながら、自分のうちに悪が存在している。心では良いことを願うのに、もう一つの思いが戦いを挑み、本当なしたくない悪を行ってしまう。自分はそういう惨めな人間だと。しかし、そのような自分をキリストによって受け入れ愛してくださる神を感謝するしかない。

それをふまえて、8:23では望みを持ちながら心の中でうめいているし、26節ではそういう言葉にならないうめきを、聖霊が取りなしてくださる。そして神は、この自分の中にある悪をも益と変えてくださる方であると28節で告白し、最終的にはこういう神様だから39節にあるように、この世界の何者も神の愛から私たちを引き離すことはできず、圧倒的な勝利者になるのだと語ります。

そのようなわけで、私たちはどんな試練の時でも、神様の真実さを信頼するほうを選びましょう。様々な苦難、困難、痛みの中にある時も神の真実を信頼しましょう。神に従うことや神のことばにへりくだることにあらがう誘惑の中にある時も、神様は私たちに真実であり続けることを信じましょう。神は私たちを訓練するために試練の中に置きますが、神は私たちを愛しておられます。

祈り

「天の父なる神様。

私たちの人生には、苦難の中で信仰が試される時があり、神に背を向け罪に誘惑される時もあります。

そのような中で、私たちは神様を信頼するのか、神様の真実さを信じて従うのか試されます。時にそれは厳しく、思う以上に強いことがあります。

けれども神様は無意味に私たちをそのような苦しみの中に置かれる方ではありませんし、私たちが絶えられないような無謀な訓練を与える方ではないこと、真実な神様であること、愛し祝福しようといつも願ってくださる方であることを信じます。

心の中の戦いが激しく、自分自身の弱さに恥じ入り、混乱し、どうして良いか分からないこともあります。それでも、あなたの真実と愛に変わりないことを感謝します。どうか、どんな試練の時でも、あなたの真実さ、あなたご自身を信頼することができますように助けてください。イエス様のお名前によって祈ります。」