2020年 11月 15日 礼拝 聖書:出エジプト記9:1-6
イエス様を信じてクリスチャンになり、その信仰の証しとしてバプテスマを受けると、皆におめでとう!と拍手で迎えられます。ところがその後、けっこういろいろなことをクリスチャンとして求められることに驚いたり、引いてしまう方もおられます。教会に来なさい、献金しなさい、何か奉仕をしなさい、友だちや家族に証しをしなさい、聖書を読みなさい、祈りなさい。もちろん、それらは強制されるものではないのですし、それをしなければクリスチャンの資格を失うとか、救いが取り上げられるということではありません。でもなぜ、そのようなことが求められるかというと、神様が私たちを救うのは私たち自身を救うためだけでなく、もっと多くの人に神様の祝福をもたらすためです。
出エジプト記の後半はエジプトから救い出された民が、19章で神の民として生きて行くという契約を神との間に結び、20章から神の民としてどう生きていくのかの基本的な指針となる十戒とそれに基づいて社会を作っていくための礼拝や戒めが続きます。25章以下は神の民の生活の中心となる礼拝の場としての会見の天幕を作ること、そして最後に完成した会見の天幕で礼拝を捧げる話しで終わります。
設計図を朗読されているような分かりにくい箇所もありますが、いったい神様は神の民である人たちに何を求めたのでしょうか。
1.祭司の国
第一に、神様は、救い出したイスラエルの民に、世界の人々に神の祝福をもたらすとういう役割を与えました。そのことを「祭司の王国」になるという言い方で言い表しています。
場面は、エジプトを出発してから三ヶ月目のことです。モーセに率いられた民はシナイの荒野に到着し、山のふもとに宿営しました。モーセはシナイ山に上り、そこで主のことばを聞きます。
神様は、奴隷であったエジプトからいかにして救い出したかを改めて告げた上で、5節で契約を結ぼうと呼びかけています。
神様がイスラエルの民を救い出した様子は、まるで鷲の翼に乗せて脱出させるような、力強いものでした。ファラオの頑なさに対して神が示す力は、エジプトの神々や神官たちが決して及ばないような力であり、途中で王の側近たちは「もう彼らに出て行ってもらいましょう」とお手上げになる程でした。それでも主の前にへりくだることをしないファラオに対して、神様は厳しい態度を取ります。彼がイスラエルの子どもたちにしたように、エジプト中の男子の初子が皆殺されてしまう、という恐ろしい結果が待ち受けていました。ついにファラオは「もう出て行ってくれ」と言う他ありませんでした。それでもまた心変わりして軍隊を率いて追いかけて来ましたが、彼らは海に飲み込まれて滅んでしまいます。
エジプトに来た時は70人の大家族という程度でしたが、今では100万とも200万とも言われるまでに大きく膨れ上がった民は、奴隷の苦しみ中から、鷲の翼に乗せられて救い出されるようにエジプトを旅立ったのです。
その民に対して、神との間に契約を結ぼうと語りかけているのです。この契約を守るなら、イスラエルの民は「あらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる」と言われます。
全世界を造られた神にとって、すべての民族、国民は神の手の中にありますが、神の民は、宝として特別なものとなります。何が特別なのかというと、他の人種より優れているとか価値があるということではありません。特別な役割を与えるということです。
6節「あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民」となる」。神様はイスラエルの民をエジプトから連れ出し、救い出しましたが、その目的は「祭司の国」にするためです。そのために契約を結ぼうと呼びかけています。しかし、「祭司の国」とは一体なんでしょう。
祭司は人々の代表として神聖な神の前に立ち、人々のために神に仕える者です。赦しを宣言したり、神の祝福を届けます。それが、一人の人間として祭司の役割ですが、これが国そのもの、民全体が祭司の役割を果たすとなると、どういう意味でしょうか。
これはアブラハムと神様の約束に繋がって来ます。神様はアブラハムとその子孫を通して全世界を祝福すると言われました。エジプトから救い出された民を、全人類の代表として神に仕えさせると言っているのです。それはアダムとエバが神のことばに背いたために失った人類への祝福を取り戻させるためのものです。ですから、その役割を担う祭司の王国は神のことばに従うことが必要だったのです。ユダヤ人はこれを後に間違った選民意識に歪めてしまい、外国人を「異邦人」と蔑むようになってしまいますが、もともとは世界を祝福するための役割を与えよう、ということだったのです。
2.聖なる国民
第二に、神様は救い出した民を「聖なる国民」にしようとされました。
「聖なる」とはどういう意味でしょうか。創世記から出エジプト記のこれまでのところで「聖い」という言葉はそんなに多く使われていません。
創世記では神様が天地創造の7日目の「祝福して、この日を聖なるものとされた」とあるだけです。
また出エジプト記で最初に出てくるのは、3:5のモーセが燃える柴の前で驚いているときに神様が「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」と言われた時です。
「聖なるもの」とは、創世記では、神様のために特別に取り分けられたものという意味で使われています。モーセの柴の箇所では、神様ご自身が聖い性質を持っているので、神様がおられる場所が神聖だという意味で使われています。
聖書全体でも、「聖い」とか「聖なる」と言った場合、神のために取り分けたものという意味と、神様の聖い性質を表す意味の二つが使い分けられています。
では、神の民が「聖なる国民となる」とはどういう意味になるでしょうか。もうだいたい想像がついていると思いますが、祭司の王国になると言われているように、神様のご用のために特別に取り分けられた民である、という意味があります。同時に、聖い神様のご性質を表す民になるという意味もあるのです。イスラエルの民は、神様の祝福を全世界にもたらす祭司の役割が与えられ、その役割を果たしていくために、神様の聖い性質を、一人一人の生活や社会のあり方を通して表して行くことになると言われているのです。
出エジプト記20章には、これからイスラエルの民が神の民として歩むため、「祭司の王国、聖なる国民」となっていくための基本となる十の戒め「十戒」が授けられます。これは神と人間、そして人間社会の基本的なあり方を示すものです。
続けて21章からは奴隷のあつかい、殺人事件や過失による死傷事件事故の場合の賠償責任、火事を起こしてしまった時の賠償、預けたものをなくしてしまったり、盗まれたり、所有権を侵害した場合の賠償のことなど、今で言う民法が定められています。また、異教の習慣を真似することの禁止や、外国人ややもめ、みなしご、貧しい者など社会的な弱者の保護というような当時の周辺の国々にはない社会正義が求められました。また礼拝に関する様々な決まり事は、神の聖さをどのように表して行くかという具体的な教えになっています。
神の民となったイスラエルは、神の祝福と神の聖さ、栄光をすべての国々に表していく、特別な役割を担うのです。そういう意味で神の民は神様にとって「わたしの宝」なのです。ただし、それは金庫にしまって隠しておくものではありません。結婚指輪をしまっておくのではなく、見えるところにつけるように、神様の素晴らしさを表すものとして、人々に指し示すものとしての宝なのです。
イスラエルの人々は、これらの神のことばを聞いた時、8節にあるように口を揃えて答えました。「私たちは主の言われたことをすべて行います。」契約を受け入れ、守ると誓いました。
3.聖なる神と共に
第三に、エジプトから救い出された民は、神の民となるという契約を受け入れ、聖なる神と共に歩む新しい歩みが始まりました。
先ほどもお話ししたように、その最初に示されたのが十戒と、その補足となる様々な法律でした。
その後で、神様は25章から礼拝の場所になる「会見の天幕」と呼ばれる聖所を作るための設計仕様書を与えます。また礼拝のために用いる祭壇や様々な調度品、天幕を他の場所から聖別するための門と囲いの作り方、聖所の最も奥の至聖所に安置される「契約の箱」と呼ばれる箱の作り方を細かく伝えます。
さらに会見の天幕で仕える祭司やそのホサをする人たちを任命し、彼らが着る祭服の作り方まで指定します。
これらの指示を伝えた後で、神様は31:18で、あの十戒を神様がご自身が記した石の板をモーセに与えます。これで契約が成立しました。
こうしてイスラエルの民は聖なる神と共に歩み、祭司の王国となり、世界中に神の祝福を届け、また神様の聖さと栄光を現す者となっていくはずでした。
ところが、ここで大事件が起こります。その一部始終が32章から35章にかけて詳しく描かれています。
32:1に事件の発端が書かれています。神の民として、祭司の王国にしようという神様からの契約の提案があり、喜んでそれを受け入れた民のために、モーセが十戒や社会の秩序や礼拝の場を整えるための命令を授かっている間、あまりに時間がかかったものですから、人々はだんだんいらいらしてきました。そして、モーセの兄で、モーセの補佐をしていたアロンに民が詰め寄ります。
いやいや、ついさっき、神の民として歩み始めると約束したばかりなのに、もうすでに彼らの心はふらふらとさまよい出していたのです。彼らは、自分たちの旅の先立ちとなる神々を求めました。アロンはその声に負け、金の飾りを集めさせ、金の子牛を作って、これが私たちをエジプトから救った神だと宣言してしまうのです。
人々は、金の子牛の前に献げものをし、宴会を開いて祭を始めました。もちろん、神様はそのことをご存じです。7、8節でモーセに「下りて行け。彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道から外れてしまった」とショッキングな知らせを伝えます。そのうえ10節で神様は金の子牛を拝みはじめたイスラエルの民を滅ぼして、モーセ自身の子孫を「大いなる国民とする」つまり、アブラハムの契約を受け継ぐ民、イスラエルに代わって新しい民をモーセからはじめると言われたのです。モーセはあわてて、そんなことはしないでくださいと必死で取りなします。神様は、モーセの嘆願を聞き入れてわざわいを思い直します。
モーセは怒りで燃え上がり、この事件の首謀者たち3000人を処断します。30節。翌朝、モーセは民が大きな罪を犯したが、自分はこれから神の前に出て、執り成しをする。もしかしたら赦していただけるかもしれないと言って、主の前に行きます。そこで彼が主に訴えたことは、彼らの罪を赦してくださるなら、神様の書物から自分の名を消してください、つまり、自分の命を代償にしてもいいから赦してくださいと願ったのです。
聖なる神と共に歩む歩みは、初めから躓いてしまいました。
適用 入れなかった栄光へ
出エジプト記は、神様がアブラハムとの約束を忘れることなく、時を見計らってイスラエルの民をエジプトから力強く脱出させ、彼らを神の民、特に、祭司の国とすべく契約を結ぶという、非常に大事な書物であることが分かります。モーセ五書の中心と言っても良い書物です。
しかし、創成期以来の神様の救いのご計画を実現するための熱心さと力強さに比べて、「契約を結びます、守ります」と喜んで答えた民の何と心もとないことでしょうか。
その危うさを象徴する出来事が出エジプト記の最後のところにあります。40:33の終わりに「こうしてモーセはその仕事を終えた」とあります。モーセのとりなしによって罪赦されたイスラエルの民は、改めて礼拝のための幕屋を建設し、礼拝のための準備を整え終えたのです。その時、雲が幕屋を多い、神様の栄光でみたされました。顔と顔を合わせて神の言葉を聞く間柄だったモーセですが、この時はその栄光のために幕屋に入って行くことができなかったのです。神の聖さと栄光に対して、モーセほどの人であっても、罪ある人間がそば近くに行くことができなかったのです。
聖なる神様に選ばれ、救い出され、祭司の王国として、聖なる国民となるように、聖なる神様と共に歩み始めたイスラエルの民は、回復されるはずだった神様との親しい交わりを、自分たちの罪深さのために完全には得ることができなかったのです。
しかし、今や、イエス様がおいでくださり、私たちを神の民としてくだいました。そして、モーセやイスラエルの民が入ることのできなかった栄光へと招き入れてくださいました。
ペテロの手紙第一2:9~10を開いてみましょう。
「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。」
選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民、これらは民族としてのイスラエルのことではありません。イエス様を信じてクリスチャンとなったすべての人のことです。私たちが神の宝となったのです。祭司、聖なる国民として、私たちがこの世界に神様の祝福と素晴らしさを伝え、表す者となっていくよう救われました。そして闇の中から、驚くべき光の中へと召してくださいました。そんなふうにしてくださった神様の素晴らしさを私たちは周りの人たちにお伝えするためです。
続く11~12節を読んで見ると、出エジプト記の内容とピタリ合わさる事がわかります。彼らがその後の旅と歴史を通じて成し得なかったこと、地上では旅人として歩みながら、人々の間で立派に振る舞うことによって、神様の素晴らしさを表す者になるようにと励まされています。
なぜ他の人たちよりも道徳的にも高い基準を持って歩むように言われるのか、窮屈な思いをするのかと、心に疑問が起こって来るとき、ぜひ思い出しましょう。私たちの周りの人たちがイエス様を知り、神様の祝福を受け取ることが出来るのは、私たちが祭司として、聖なる民としてこの世界で振る舞い、歩むことを通してなのだということを思い出しましょう。
私たちの中にはイスラエルと同じような罪深さ、頑なさがあるかもしれないけれど、イエス様によって完全に赦され、イエス様のいのちと心を頂きました。聖霊によって、助けられ、強められ、慰められて歩むことができます。
そのような私たちを、神様は「あなたがたはわたしの宝」だとおっしゃってくださることを、感謝と恐れを持って歩ませていただきましょう。
祈り
「天の父なる神様。
今日はエジプトから救い出された民が、世界に神様の祝福と素晴らしさを届ける祭司の国として、神様の聖さを表す聖なる国民となるように召されたところを学びました。
人間の罪深さゆえに、それは果たし得ませんでしたが、今やイエス様によって、その立場、務めが私たちクリスチャンに委ねられていることを、感謝と恐れを持って聞きました。
私たちが、この世にあって立派に振る舞い、神様の素晴らしさ、恵み深さ、聖さを表していけるように助け、励まし、導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。」