2021-01-31 主は敬虔な者の足を守る

2021年 1月 31日 礼拝 聖書:サムエル記第一 2:1-10

 戦国武将の明智光秀を主人公にした大河ドラマも、いよいよ来週で終わるということで、どんな結末になるのか楽しみにしています。もちろん、歴史的な結末は分かっているですが、どんな視点で描かれるのかとても興味深いです。

なんでそんな話しをするのかと言いますと、サムエル記は聖書の中の「大河ドラマ」と呼ぶに相応しい物語になっているからです。もちろん、登場人物も、出てくる出来事も、実際にあったことですが、それが巧みに描かれ、またある一定の教訓が読み取れるような構成で描かれているのです。

主要な登場人物としては、預言者サムエル、イスラエルの最初の王サウル、そしてばらばらだった部族を統一国家に導くダビデ王です。どれも人物が生き生きと描かれています。脇を固める人たちも生き生きと描かれ、文化の違い、時代の違いのために「これはどういう意味だろう」と思うような面はあったり、馴染みのないしきたりがあったり、引き続き戦争が絶えない状況ではありますが、その中で神様がどのように働かれ、導かれたかが良く分かるように描かれています。まさに聖書の大河ドラマです。

もともとサムエル記第一と第二は一つの書物として記されましたが、ボリュームが大きいので、今日は第一の方を見て行きましょう。

1.ハンナの祈り

今日お読み頂いたのは「ハンナの祈り」と呼ばれる箇所です。不妊のために悩んでいたハンナの祈りが聞かれ、子どもが与えられた時に祈った祈りの言葉です。

実はこのハンナの祈りこそが、サムエル記全体の大きなテーマを表していますので、この箇所を手がかりに、サムエル記のメッセージを読み解いて行きましょう。

サムエル記に記された出来事、預言者サムエルの登場やサウル王、ダビデ王の時代というのは、昔話のように「昔々、あるところに」というようなぼんやりしたことではなく、紀元前1000年くらいの、今のイスラエルやパレスチナのあたりを舞台に実際に起こった出来事です。

そのころ、エルカナという人がいました。彼には二人の妻がおり、一人はハンナ、もう一人はペニンナといいました。エルカナはハンナを特別に愛していましたが、彼女には子どもが与えられませんでした。ペニンナのほうは「二番目」という扱いでしたが、子どもがいたので、何かとハンナに敵対心を燃やし、つらくあたりました。当時シロという町に神様を礼拝するための神殿があり、エルカナ一家は年に一度、シロの神殿を訪れ、そこで礼拝を捧げることにしていたのですが、ハンナにとってはペニンナがいつも以上に自慢げに息子や娘たちをひけらかすのに耐えがたい怒りと悲しみ、苦しみを覚えるのでした。

ハンナは神殿に行って一人祈りました。1:10を見てみましょう。家族と食事を終えたあと、ハンナは泣きながら神殿に入りそこで祈り始めました。祭司のエリが神殿の中でその様子を見守っていました。

ハンナは、もし男の子が与えれたなら、その子を自分の手元に置くのではなく、神様に仕える者として捧げますと誓願を立てて祈ります。その祈りはあまりに長く、そして時折泣いたり、うめいたりしているものですから、祭司のエリは「なんだよ昼間っから酔っ払ってんのか」と少々腹を立ててハンナに注意をしました。そんな酔っ払いが神殿に出入りすることは珍し事ではなかったのかも知れません。何しろ、士師記やルツ記のように、誰も民を導く者がなく、めいめいが自分が良いと思うことを好き勝手にやってる時代です。酔っ払ってでも神殿に来て礼拝に来てくれるならまだましだったのかもしれません。

しかしもちろんハンナは酒に酔っている訳ではありません。事情を説明すると、祭司エリは17節でこう応えます。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」

翌年、ハンナは身籠もり男の子を出産します。その時、彼女は神様の前で約束したことを覚えていて、年に一度の神殿での礼拝には同行せず、息子が乳離れするまで可愛がりました。当時の乳離れというのはけっこう遅くて、早くても2歳か3歳の頃だったようです。ハンナは祭司エリに幼い子どもを委ねるために出かけて行きます。主が願いを聞き届けてくださったので、私もこの子を主におゆだねしますと、愛する我が子を祭司エリの手にゆだねるのです。

その時に、歌のような体裁で祈られた祈りが、今日お読みいただいたハンナの祈り、ということになります。

2.傲慢な者の転落

ハンナの祈りの出だしは、願いを聞き届けてくださった神様への心からの喜びと賛美です。1節の中にある「私の口は敵に向かって大きく開きます。 」とか3節にある「おごり高ぶって、 多くのことを語ってはなりません。 横柄なことばを口にしてはなりません。」といった言葉は、彼女がペニンナからずいぶんと酷い言葉や態度を投げかけられていたのだなあと想像させるような祈りの言葉です。

しかし、これは個人的な仕返しができて喜んでいるというような祈りではありません。主は、不当な扱いや酷いしうちもすべてご存じで、救い出してくださる方だという告白になっています。

そして4~10節は、傲慢な者とへりくだる者への神様の取扱の違いを比較しながら、最後の3行に向かっていきます。

祈りの中には「勇士」「満ち足りていた者」「子だくさんの女」というような、強者、成功者と言える人たちと「弱い者」「飢えていた者」「不妊の女」というような弱者、この世の競争社会の中で敗れた者とが対比されています。そして、成功したように見える者、強い者が砕かれ、打ちしおれ、逆に弱い者が強くされ、満ち足り、子だくさんになるという逆転が描かれています。

これは、自分の豊かさや成功ゆえに傲慢になってしまった人々を神が低くし、弱さや貧しさのゆえに神に拠り頼む者を神が引き上げてくださる、という聖書の中で何度もくり返されるテーマです。

傲慢な者が転落する、という話しはサムエル記の中では何度もくり返されています。

例えば、この祈りを聞いていた祭司エリですが、彼の二人の息子も祭司として働いていました。しかし息子たちは傲慢で横暴な態度を取り、人々からの強い不満が出ていました。父であるエリも息子たちを制することができず、分かっていて見逃していました。この傲慢さゆえに、神様はエリの一族から祭司の職を取り上げ、滅びてしまうことになります。代わりにまだ幼いうちにエリに仕える丁稚小僧みたいなサムエルが神の言葉を人々に告げる預言者として引き立てられていくのです。

あるいは、サムエル記のもう一人の登場人物であるサウル王もまた、傲慢さゆえに転落していった人でした。

8章からサウルが王に立てられることになります。背も高く、筋肉隆々、その上美男子というサウルは、皆が期待する「王様」のイメージピッタリでした。初めは幾つかの戦いで勝利を挙げ、皆から「やあ、これは期待できる」と思われたのですが、彼には決定的な問題があったのです。神様の言葉、ご命令に対する誠実さに欠けていました。自分の判断で神の命令をねじ曲げ、それを指摘されると言い訳をするという、なんだか聞いたことのあるような話しが幾つか出てきます。そうした事を何度かくり返したあと、15:22~23で決定的な言葉を告げられます。「は、全焼のささげ物やいけにえを、の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたがのことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」

このようにしてハンナの祈りの中にあったように傲慢な者は転落して行くのです。

3.敬虔な者への守り

高慢さゆえに神に退けられたサウルの代わりに次の王に立てられるは、サムエル記のもう一人の主人公ダビデです。

ハンナの祈りの中で、弱い者、力のない者を神様が引き上げてくださると祈られていましたが、ダビデはそのような者でした。

ダビデが登場するのは、サウルの転落が告げられてからで、サムエル記の中では16章からになります。ただ、サウルはすぐに王位を失うわけではないので、しばらくの間、ダビデはサウル王の家来として仕えます。

ダビデは前回みたルツ記の、モアブ人ルツと農夫ボアズの間に生まれた子の子孫ですから、農家の出ということになります。ダビデ自身は羊の世話をする羊飼いでした。8人兄弟の末っ子で、体格では見劣りし、兵士として戦場に出ている兄たちから邪魔者扱いされるほどでした。しかし、新しい王を探しにいったサムエルに対して神様は、「人はうわべを見るが、主は心を見る」と言われ、ダビデを次の王として選ぶのです。

主がダビデの内に認めた良い点は、その誠実さでした。それゆえに主はダビデを引き上げ、サウルに代わる王として立て、彼によってバラバラだったイスラエル12部族を統一国家にされるのです。

その将来を暗示させる最初の出来事が、当時敵国であったペリシテ人との戦いでゴリアテという勇者と一騎打ちをする場面です。兄たちに弁当を届けに来たダビデは、ゴリアテの挑発にイスラエルの兵士たちが足をすくませ、震え上がっているのを見て怒りに燃えました。ゴリアテが主の御名をさげすみバカにしているのに、イスラエルの兵士たちは顔を見合わせるだけだったのです。ダビデは、羊を守るために狼だろうがライオンだろうが石のつぶて一つで立ち向かっている。ゴリアテもそんな獣の一匹と同じ運命になる。なにしろ神を馬鹿にしたのだから、と言って、剣ももたず、鎧も着けず、革で出来た石投げに使う小さな道具を持ってゴリアテの前に立ち、これを一撃で仕留めてしまいます。

これにはイスラエルの民は大喜びです。サウル王もダビデを気に入って、そばに置くことにします。ところが、次第に自分よりもダビデの方が人気が出て来たことに気づいたサウルは、精神的に追い詰められ常軌を逸した言動が目立つようになり、ついにはダビデの命を狙うようになるのです。しかし、そういう状況でもダビデの誠実さがよく表れる場面があります。

24章で、サウルの追っ手を逃れてダビデは部下と共にとある洞窟に隠れていました。そこにサウルが用を足しにやって来ます。無防備なサウル王を目にした部下は、今ならサウル王のお命を頂戴できますとダビデに進言するのですが、ダビデはこう応えます。6節「私が主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。彼は主に油注がれた方なのだから。」そうやってサウル王に自分の誠実さを示します。似たようなことは26章でもあり、その時もまた「主は生きておられる。主は必ず彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるかだ。私が主に逆らって、主に油注がれた方に手を下すなど、絶対にあり得ない」と応えます。とたとえ酷い王であり、彼の代わりに自分が王に立てられるとしても、その裁きは神の手に委ね、最後まで仕えるというのがダビデの姿勢でした

適用 仕える王

サムエル記は、そうやって高慢さの故に転落していくサウルと、敬虔さ誠実さゆえに立てられるダビデを描きます。そして、サムエル記第一の終わりは、サウル王と一族の悲劇的な最期を描いて閉じられます。

ダビデのその後はサムエル記第二のほうに譲りますが、今日は最後にハンナの祈りの終わりの部分に注目したいと思います。ハンナの祈りのテーマは、主が貧しい者、弱い者の見方となってくださり、引き上げてくださるというふうに言えます。これは私たちに傲慢さに対する警告と、へりくだり、誠実であることへの励まし、弱さや嘆きの中にある者への慰めと希望になっています。そして傲慢な者を打ち砕き、敬虔な者を守ってくださる神の正義と裁きは、ハンナ個人の範囲を大きく超え、この世界を治めるために神ご自身が立てる王についての歌で終わります。

しかし、サムエル記を通して明らかになるのは、サウルの代わりに立てられたダビデさえ、傲慢になり過ちを犯し転落してしまうという現実です。それは次回、サムエル記第二を取り上げる時に見て行きますが、ダビデさえそんなふうになるのなら、敬虔に生きること、弱さや嘆きの中にあっても誠実に、へりくだり、神に救いを求めて生きても、結局人間は謙遜にはなりきれない、誠実さを保ち続けられないという事になりはしないでしょうか。

ハンナの祈りは、ダビデがそんな王になるのかと思いきや、ダビデもまた転落してしまいます。では、私たちにはもう望みがないのでしょうか。いえ、むしろ高ぶる者を砕き、嘆く者、救いを求める者を引き上げるために、救い主であり王なる方をお与えくださいました。神様が立てる王のイメージは、やがて来られる救い主への希望と繋がっていくのです。

有名なキリストについての預言、イザヤ9:6はまさに、神が立てた王様のイメージそのものです。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」

イエス様は確かに、田舎の貧しい夫婦の子として生まれ、家畜小屋の不潔な飼い葉桶に生まれ、生まれた直後から命を狙われ、弱く無力な者、追われる者となられました。神であるのに、王として来られた方なのに、神としてのあり方を捨て、仕える者となり、私たちにいのちを与えるために、犯罪者のように扱われ、私たちの罪を背負って、私たちの受けるべき神の裁きを引き受けて死に渡されました。もちろん、イエス様は三日目に死を打ち破ってくださいました。そのようにして、神様は、イエス・キリストを私たちの救い主であり、ハンナの祈りを体現する王として立ててくださいました。

私たちはこのイエス様を救い主として信じ、王として仕えて行く時に、傲慢さから守られ、へりくだる者、苦難や嘆きの中でも敬虔に、神様の助けと慰めに望みを置いて生きる者となることができます。そして、神様は私たちの嘆きを知り、救いと慰めを与え、引き上げてくださるのです。

子どもが与えられない事で悩み悲しんでいる上に、ペニンナのこれ見よがしな意地悪に、苛立ち嘆いていたハンナと同じように、私たちもいろいろなことで悩んだり嘆いたりします。

しかし彼女が、怒りと復讐に走らず、神に嘆き、訴えることで慰めを得て行ったように、私たちも、この嘆きを神様に聞いて頂きましょう。弱い者、嘆く者に耳を傾けてくださる神様が助けてくださいます。そのような者を助け導く王としてすでに来てくださったイエス様が、私たちを救い出し、慰めをお与えくださいます。

祈り

「天の父なる神様。

今日はハンナの祈りを通してサムエル記第一を味わうことができて感謝します。祈りの中にあったように、主は傲慢なものを砕き、嘆く者、へりくだる者を引き上げてくださいます。私たちを救い出すために、救い主であり、王であるイエス様をお与えくださいました。

どうぞ、主イエス様を信頼し、その救いを期待し、王として従い、私たちが傲慢さから守られますように。誠実に、へりくだって生きる者となり、あなたの深い慰めをいただく事ができますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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