2021年4 月25 日 礼拝 聖書:エズラ記3:8-13
私たちの人生には、大きな転換点や、人生をやり直すチャンスがめぐって来る時があります。
今日はエズラ記をご一緒に見て行きます。歴代誌第二の続きで、内容も歴代誌第二の終わりの部分とエズラ記の出だしはほぼ同じ文章になっています。どちらもエズラが書いたものだという意見もありますし、別な人がまとめた歴代誌の続きとしてエズラが書いたのだという人もいます。いずれにしても内容としては、歴代誌の続きものとして書かれています。神様が、ペルシャ王キュロスによって再び神の民の歴史の時計を動かし始め、それがどうなったかを記して行きます。エズラ記の中心は、エルサレムに帰還した民がいかに神殿再建に取り組んだかということですが、よく読めば、単に建物としての神殿再建だけの話しではないことが分かります。神に背を向けたために捕囚となっていた民が、主を礼拝する民としてやり直すチャンスを与えられ、彼らがそれにどう応えたかという話しであることが分かります。
そのような神様のお取り扱いは、やがてキリストによってもたらされる救いの実現とつながり、それは私たちの人生の物語に重なって来るものです。今日はそのようなことを思い浮かべつつ、ご一緒にエズラ記を味わいましょう。
1.歴史を支配する神
第一に、エズラ記は神様が歴史を支配なさる神であるということを教えてくれます。
エズラ記と次回取り上げるネヘミヤ記は珍しく、誰が記したものか分かる歴史書で、もともとは一つの書物だったとも言われます。
しかしエズラが登場するのはだいぶ後のことです。まず1章から6章までは神殿再建の物語が記されます。総督に任命されたゼルバベルと大祭司ヨシュアを中心に、バビロンから帰国した人々が神殿再建という使命を果たすために苦労したこと、地元住民による反対のために20年近く工事が中断してしまったこと、そして再びペルシャのダレイオス王の勅令により工事が再開され、完成し、大きな喜びの中で奉献式が執り行われます。
7章になってようやくエズラの名前が出て来ます。彼は祭司であり聖書の学者でもありました。7:27~28から書き手が「私」に代わっていて、エズラが書いたものだということが分かります。
新しいペルシャ王アルタクセルクセスの治世の頃にエズラがバビロンから帰って来ました。ペルシャ王の命によるエズラの役割は、再建された神殿での礼拝を整え、聖書の教えに基づいて神の家としてのイスラエルの民全体を建て直すことでした。
こうしてエズラ記を読んで気づかされることは、ペルシャの歴代の王たちの勅令の役割の大きさです。神殿再建の勅令はペルシャの統治の考え方に基づくものでした。ペルシャは、広大で様々な民族が属する帝国を統治するために、帝国全体を統一する行政組織を作り上げました。これはどの民族も関係なく従わねばなりません。その代わり、各民族は自分たちの宗教を自由に信じることができました。それはペルシャの政治的な戦略であり、知恵によるものです。しかし、神様はこれをご自身の救いのご計画の実現と、捕囚から人々を連れ戻すという約束を果たすために用いたのです。
エルサレムに帰った人々は、イスラエル人が去った後に住み着いたり、その地域で利権を握った人たちの猛反対、猛攻撃に会います。それもまた、神の民がこの世の大きな動きに翻弄され、揺り動かされる経験ではありましたが、神様は歴史をご支配なさり、ペルシャのような大きな国の王たちの心に働きかけ、神の民の利益になるような政策決定をするように導いたのです。
このように神様が歴史に介入することはそれほど頻繁にはありません。このことが後のキリストの誕生と救いのご計画の完成にとって重要なことだから、神様はこここまでのことをなさいました。神が選び、アブラハムに約束した祝福の契約を果たすため、一度滅びた民族を捕囚から連れ戻し、破壊しつくされた神殿と国を再建するという驚くような大事業を実現させる必要があったのです。
神様が今日、私の個人的な願望を叶えるために一国の総理大臣や大統領を動かすことがあると考えるのは聖書的とは言えません。しかし他方で、この世界の現実に対して神様が一切何もなさらないと言い切るのも間違いです。
特に、私たち人間が神様の前に新しく生き直そうとする時に、神様はこの世界に介入されます。周りにいるあらゆる人を用い、時には世界情勢や私たちの人生に起こる様々な困難さえも用いて、私たちに働きかけ、心に語り、背中を押し、新しく生き直すチャンスを与えてくださるのです。
2.神殿と礼拝の再建
第二に、帰還した民は国を再建するにあたって、まずは神殿と礼拝の再建にあたりました。これは、歴代誌で見て来た教訓に基づくことです。国が滅びたのは、主の宮、神殿と礼拝をないがしろにし、主のみことばにへりくだらず、耳を傾けなかったためでしたから、そこからやり直すのです。
今日、読んでいただいた箇所は、神殿再建工事が始まり、基礎が据えられた場面です。定礎式ということができるでしょう。ペルシャ王キュロスの勅令によってバビロンから帰って来た時に、かつて略奪された様々な宝物、神殿で礼拝のために用いる道具が返還され、エルサレムに運ばれました。これは1章に記されています。つづいて2章にはエルサレムに帰って来た人たちのリストがあります。どういう人たちだったかは、かなり詳しい記録が残っていたようです。祭司職を担うはずの人たちの中には家系を証明できない人たちもいたようで、このあたりは祖国の滅亡と数十年におよぶ捕囚生活の厳しさが伝わって来ます。
そうやって数万の民が帰って来ましたが、3:1に彼らがエルサレムに到着して最初にしたことが記されています。
数万の民がエルサレムに集まると、祭壇を築き全焼のささげものを捧げて神様を礼拝しました。ちょうど彼らの先祖アブラハムが約束の地に到着したときに祭壇を築いて礼拝したのと同じです。あるいはまた、大きな失敗をしたあと、やり直しをしようと同じ場所に戻って再びそこで礼拝を捧げたのと同じです。
しかも、時はちょうど仮庵の祭の時期です。仮庵の祭は、エジプトで奴隷となっていた民がモーセに率いられて脱出し、荒野の旅をし、その中で神が守り支えてくださったことを思い起こすための大切な祭です。今や彼らは、捕囚という長い荒野の旅を終えて、再び約束の地に戻り、そしてここから新しい歩みをやり直そうとしているのです。このタイミングでもっとも相応しいのは、祭壇を築いて礼拝を捧げることでした。
しかしながら彼らは、周りの民族や国々の敵意を非常に警戒しながら、こうした礼拝をしなければなりませんでした。
エルサレムについて2年目になって準備も整い、ようやく工事を始めることができました。
基礎が据えられた時、11節にあるように祭司たちがラッパやシンバルなどの楽器と共に大きな賛美を捧げました。これはバビロンから戻って来た民にとって大きな喜びでした。このときの礼拝の仕方は、かつてダビデが規定したやり方で、11節の賛美の様子や内容は、ソロモン王が神殿を建設したときと同じです。特に賛美の歌詞は歴代誌第二5:13のソロモンの時と全く同じ言葉です。ソロモン時代の繁栄したエルサレムの姿なく、主の栄光でその場が雲に満たされることもありませんでした。周りを見渡せば戦争の傷跡がそのまま風化したような瓦礫の山、敵の影もちらついています。しかし、この賛美の中に主が力強く生き、導き、栄光を現してくださったことを彼らは実感していたに違いないのです。
一方でこの光景に一部の老人たちが大声で泣き出しました。喜びの叫びと対比されていますから、老人たちの涙は失望と嘆きです。かつての栄光や壮麗さに遠く及ばない姿にがっかりしたのかも知れません。しかし彼らには見落としていることがありました。
3.主の道を歩むため
第三に、神様が神殿再建に導いたのはソロモンの時代の栄華を取り戻すためではなく、彼らが主の道を歩み直すためです。
これは過去の栄光を取り戻すチャンスではなく、新しく生き直すチャンスなのです。神殿の土台を見て過去の栄光を見ていた人々は落胆し、涙を流しましたが、そこにこれからの新しい歩みを見た人たちは期待と喜びに溢れて大声で賛美しました。
その落胆と喜びの入り交じった大きな声は、エルサレムの外にいる人々にまで届きました。
エルサレムの外でその声を聞いたのは敵です。神殿再建のためにかつての住民たちが帰って来たという知らせを聞き、敵たちはなんとか工事をやめさせようといろいろな手段に訴えました。
反対運動が功を奏して4:24では神殿再建工事がペルシア王ダレイオスの治世第2年まで中断されたことが記されています。実際に神殿再建工事が完了したのはダレイオスの治世第6年ということで、最初の勅令が出てから、中断を挟んで22年くらいかかって工事が完了したことになります。
私たちの信仰生活も似たようなところがあります。キリストという新しい人生の土台を置いて、いざ新しく歩み始めようとした途端に邪魔やら反対やらが起こってきて、期待と喜びで始まった歩みが途端に苦しいものになってしまうということがありあす。しかし帰還したイスラエルの民は何とか神殿再建を果たします。ここまでが6章でエズラ記の前半ということができます。
そして7章でようやくエズラが登場します。祭司の家系に生まれ、聖書学者でもあったエズラがエルサレムに帰還を果たすのです。7:1の「これらの出来事の後」とありますが、神殿再建直後と考える人と、だいたい60年くらい経っていると考える人がいます。学問的には解決したいところですが、どちらであっても聖書全体のメッセージに大きな違いはありません。
7:10にエズラが帰還した時に心に抱いていたビジョンが記されています。「主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルで掟と定めを教えようと心を定めていた。」。エズラの帰還を許可したアルタクセルクセス王も、エズラが律法に従って国を再建する仕事を十分に果たせるよう手紙を書き送っています。
そして7:27~28でエズラ記の本文を中断するようなかたちで突然神様に対する個人的な賛美の言葉を挟んでいます。この中でエズラは、「主の宮に栄光を与えるために、このようなことを王の心に起こさせ」たと記しています。
つまり、神殿が完成して良かった!で終わるのではありません。この神殿が本当に神の栄光を現すのは、建物の立派さではなく、人々が主のみことばに学び、主の道を歩むことによるのです。その努力には涙と痛みが伴いました。
8章でエズラは王から託された仕事をし始め、軌道に乗りますが、9章で驚くべき報告を聞くことになります。せっかく神殿が再建され礼拝が再開されたのに、かつて王国を滅ぼした偶像礼拝が再び持ち込まれているというのです。9:3でエズラは呆然として座り込みました。涙ながらの祈り、悔い改めの告白の祈りの後でエズラは10章で民を前に厳しい決断をしなければならないことを告げ、人々は大きな嘆きと涙とともにこれを実行するのです。
適用 私たちの人生
エズラ記は「新しいことが始まりそうだ」という期待に満ちた感じで幕を開け、実際に困難を乗り越えて神殿が再建されるのですが、最後の場面はかなり衝撃的な結末になっています。
10:33もとても中途半端な終わり方で、問題が解決したわけではないことを示しています。実際、エズラ記の続きはネヘミヤ記へと受け継がれて行きます。それはまた次の機会に見ていくとして、今日はエズラ記が語っていることが現代の私たちにどんな意味があるかを考えてみましょう。
第一に主は、私たちにやり直しの機会を与えてくださいます。私たちはクリスチャンであったとしても、罪の性質が残っていて、間違うことがあります。救われたとは言っても、過去の傷や自分でも気づいていない深い心の闇に捕らわれたままでいることがあります。そのような私たちに、自分の問題に向き合い、そこからやり直す機会を与えてくださいます。
その時、神様はいろいろなことを用います。神殿再建のために帝国の王の心を動かしたほどの神様は、私たちが自分の問題に向き合い、やり直す機会を与えるために何でも用います。バビロンに捕囚とされた民のように、私たちもいろいろなものを失い、傷付き、嘆きの中に放り込まれるようなことさえあるかもしれません。けれども神様は私たちを見捨てたのではなく、そこから取り戻し、私たちが新しく生き直すための道を用意してくださいます。
第二に、私たちは過去の栄光を取り戻すのではなく、瓦礫の中から歩み出します。私たちは人生をやり直すといっても、過去に戻れるわけではありません。足元に瓦礫が転がるように、私たちは傷や涙の後がなまなましく残るその場所からまた歩み始めます。しかし、そんなボロボロの状態であったとしても、神様がともにいてくださり、「またわたしと共に歩もう」と言ってくださり、私たちの祈りと賛美を聞いてくださるのです。
第三に、私たちは新しく生き直す中で、さらに深くまた成熟した主の民となって行きます。
私自身、これまで何度か自分の問題に向き合い、やり直すチャンスを与えていただきました。楽なことではなかったですが得たものは大きかったです。イスラエルの民が神殿再建を始めた途端に邪魔が入ったり、隠れていた大問題が明るみに出たように、新しくやり直し始めてから出てくる問題や明るみに出る問題も確かにあるのです。それでも、その中で教えられ、遜らされ、慰められて来ました。仕事が上手く行くようになったとか、金回りが良くなったとか、そういう意味で得たものは特にありませんでした。しかし、自分の心を縛り付けていたものから自由にされたり、聖書のことばをより深く理解できるようになり、自分の弱さや足りなさを受け入れることができるようになったり、人からみたら地味で目立たないものですが、確実に幸せになりました。そして、何より、神様と共に歩むことの幸いと安心、自分の失敗や足りなさに拘わらず未来に期待できる希望がより確かなものになりました。
エズラ記が道半ばで物語が閉じられるように、私たちも常に道半ばです。そしてやり直しを迫られる機会はこれからもあるでしょうが、確かに言えることは、どんな時でも私たちは神様の御手の中にあるということです。
もし今、そんな渦中にあるなら、主の御手を信じてそのまま進みましょう。もしこれからそのような機会が巡ってきたら、恐れがあったとしても主の御手を信じて進んで行きましょう。
祈り
「天の父なる神様。
神様がイスラエルの民のためにやり直しの機会を与え、彼らがそれに応えていく姿を通して教えてくださりありがとうございます。
あなたは私たちにもそのような機会を与え、私たちが過去の失敗や間違い、隠れた罪や心の闇に向き合い、そこからまた生き直させてくださいます。すべてはあなたの御手の守りの中にあることを信頼して、その機会を受け止め、前に進めるようにしてください。
私たちが、今までより、ほんの少しでも、あなたのみこころを深く知り、へりくだり、成長できるように助けてください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。」