2021年 12月19 日 クリスマス礼拝 聖書:ルカ2:1-20
昨年のクリスマスの時には、来年のクリスマスこそは、思いっきりお祝いできると期待していましたが、今年も、少し息を潜めるではないですが、やはり静かに祝うことになりました。
今年ご一緒に思い巡らしたいクリスマスのテーマは「平和」です。神様はキリストによって平和を与えると言われますが、それはいったいどのようなものでしょうか。
1914年12月。第一次世界大戦が勃発しておよそ5ヶ月が経っていました。ベルギー南部からフランス北東部の「西部戦線」と呼ばれていた地域では、「クリスマス休戦」と呼ばれる自然発生的な停戦状態がありました。感動的なストーリーとして伝えられ、映画化もされています。その物語自体は私も好きですが、クリスマスに一時的に休戦したからといって平和が訪れたわけではありません。戦争は激しくなり、第一次大戦後にドイツが味わった屈辱と不平等はやがてナチスを産み、第二次世界大戦に向かっていきます。
私たちも規模は小さいのですが、同じような経験をします。夫婦、家庭、職場など様々なところで、表面的には争いは無いけれど、誰かが不平等を感じ、不満がくすぶったままということがあります。それは平和と言えるでしょうか。最初のクリスマスの夜、天使たちが「地には平和があるように」と歌うのを羊飼いたちが聞きました。聖書が語る平和とはどのようなものなのでしょう。
1.飼葉桶の赤ん坊
一つの古い預言があり、今から2000年ほど前のユダヤ人たちは神が平和をもたらしてくださることを待ち臨んでいました。その平和の担い手となるのは、約束された救い主です。
そもそも聖書が言う平和とはどのようなことを言うのでしょうか。ヘブル語では「シャローム」、ギリシャ語では「エイレーネー」という言葉が用いられますが、これらは単に戦争や争いがないというだけの意味ではありません。心や身体が健やかで、つつがなく生活出来ていること・神や人との関係が良好であること・社会に正義があること・道徳的にも相応しい状態にあることなど、とても幅広い意味合いを持つ言葉です。まとめて言うなら、あらゆる面で万事OK、ものごとが本来あるべき状態だということです。それはちょうど神様がこの世界をお造りになった直後に、造られたすべてをご覧になって「すべてが良かった」と言われたような世界です。
しかし、私たちの現状はそのような万事OKという状態とはほど遠い、とても平和、シャロームとは言えない状況です。
イエス様がお生まれになった時代、ユダヤを含むヨーロッパから西アジアにかけての一帯はローマ帝国によって平定され200年におよぶ「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)と呼ばれる時代を迎えていました。ローマ領内には様々な国、民族がいましたが、比較的安全に自由に行き来できました。しかしその平和は少数の民族や戦争に負けた国々の犠牲、あるいは権力闘争の末に追いやられた人々の犠牲の上に成り立った平和でもありました。多くの人にとっては「平和になったな」と思えたでしょうが、その影に取り残され、抑圧された名も無き人々がいたのです。ユダヤの人々にとってもそうでした。聖なる都として大切にしていたエルサレムにローマ軍が駐留し、王家の血筋ではないヘロデが王を名乗り、ローマ人の総督が実質的な支配者になっていました。ユダヤの人々にとっては不当に支配されているという思いが非常に強く、本来あるべき姿からはほど遠く、民族的なプライドも許さない状況でした。
そういう時代ですから、人々の期待は、ローマの支配を打ち破り、ローマによる平和ではなく、神による平和をもたらしてくれる約束の救い主、新しい王の誕生でした。けれども、王となるはずの救い主は、王様の力や豊かさとは正反対の場所に産まれました。血筋だけは確かにダビデ王の子孫であるヨセフとマリヤのもとに生まれました。しかし小さくひっそりと生まれたイエス様は、家畜小屋の飼葉桶に寝かされ、すやすやと眠っているのです。
王となるはずの救い主として生まれた方が、どういうわけで飼葉桶に眠ることになったか、詳しい説明はありません。ただ、「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」とあるだけです。
ユダヤの人々は救い主を待ち望んでいたはずです。しかし聖書の別の箇所によれば、イエス様はご自分の世界に来られたのに、この世はイエス様を受け入れなかったとあります。自分たちが望んだ救世主の姿と違ったのでイエス様を拒絶し、十字架につけてしまうのです。泊まる場所がなく飼葉桶に眠らねばならない状況は、イエス様が味わうことになる居場所のなさを象徴しています。
表面的な平和の影で不満がくすぶる社会にも、救いを求めつつも神の備えた救いを受け取る霊的な状態においてもシャロームがありませんでした。
2.野宿をする羊飼い
しかし救い主誕生の知らせを喜び、確かめるために走った人たちもいます。ルカの福音書が記している大変美しく牧歌的な光景は私たちの記憶に残り、たくさんの讃美歌の題材にもなってきました。
この羊飼いたちは、神の平和・シャロームがないもう一つの面を表す象徴的な存在でした。
旧約時代には名だたる人々が羊飼いとして生活していました。イスラエルの父祖であるアブラハムの一族は羊の群と共に生活をし、イスラエルを奴隷から解放したモーセも羊飼いとして過ごしました。だれもが歴代ナンバーワンの王様としてあげるダビデも羊飼い出身でした。有名な詩篇23篇では、作者ダビデが神様のことを「私の羊飼い」と呼んでいます。しかしイエス様の生まれた時代、現実の羊飼いたちは尊敬の対象とは程遠い扱いを受けていました。
というのも、羊の群を世話するには、ずっと囲いに入れておくわけには行かず、草を求めて野山を歩き回るのですが、その際に他人の土地に入り込んでしまったり、羊飼い同士の争いがあったり、あるいは野生の動物に羊が襲われるようなことがありました。羊飼いたちは羊の持ち主である主人から群を預かって世話をするのですが、そうやって野宿しながら野山を渡り歩く間は主人の目から離れます。中にはそれをいいことに、動物に襲われたという口実で主人の羊を横流しするような悪い羊飼いもいましたから、疑われやすい存在ではあったわけです。また、羊の世話には安息日も関係ありませんし、仕事上動物の死体に触れる機会も多く、戒律を重んじる人たちからは罪人、汚れた人というレッテルを貼られました。
ユダヤ社会にとって羊は衣食住だけでなく、礼拝や祭の時のささげ物として欠かせないものでした。羊飼いはなくてはならない大切な職業だったはずです。しかし、羊飼いとは信用ならぬ者とされ、たとえ裁判の席でも羊飼いの証言は信用のおけるものとはみなされなかったとも言われます。
罪人とみなされ、信用されなかった羊飼いは、社会にとって欠かせない存在でありながら、神の義と恵みから遠い者とみなされていたのです。
イエス様が生まれたベツレヘムはダビデ王の出身地ということで、ダビデの町と呼ばれていました。しかし羊飼いたちは町ではなく、その郊外で夜を過ごしていました。もちろん羊の群を世話するためには、郊外に留まる必要があるし、これは仕事としてやっています。しかし、街の灯りから離れた野宿という光景は、どこか、のけ者にされ、守る者も覆うものもいない象徴のようにも見えます。イザヤの預言に「闇の中に住んでいた民」「死の陰の谷に住んでいた者たち」とありましたが、そんなイメージにつながります。
当時の羊飼いたちのような立場というのは、自分ではどうすることも出来ません。他人からの疑いや批判は頑張ったからといって覆るものでもなく、生きていくためには羊飼いであり続けるしかない。万事OKどころの話しではなく、「どうしようもない、しかたがない」「ほんとはこんなはずじゃないのに」。そういう彼らにとって、どこに救いがあるのでしょうか。
しかし主は、あえてそのような羊飼いを救い主誕生の知らせの、最初の受け手に選びました。神様が備えてくださった救いはまさにそのような人々のためのものだからです。
3.地の上で、平和が
野宿していた羊飼いたちを突然眩しい光が照らしました。光とともに天使が現れ救い主が生まれたこと、その赤ん坊がダビデの町、つまりベツレヘムで、飼葉桶に寝かされていることを告げます。
そのお告げが終わるやいなや、数えきれないほどの天使たちが現れて神を賛美し始めました。
「いと高き所で、栄光が神にあるように。 地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように。」
今日私たちが注目しているのは、この歌の後半です。「地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように」
先ほどから繰り返しているように、聖書の平和、シャロームは表面的な平和ではなく、物事が本来あるべき状態になっていること。私たちの心と身体、人間関係、社会、道徳的な状態が、神様が天地を造られた時に非常に素晴らしいと感嘆した時のような状態です。
しかし私たちが目にするのはせいぜい、表面的に争いを収め、誰かが不満を持ちながらも我慢してまるくおさめるというくらいです。そのために誰かが犠牲になっていても、事を荒立てないため、大ごとにならないように、我慢を強いたり、取り繕ったりする姿です。私たち自身の中からも、罪の性質がなくなることも、他人との関係が万事うまくいっている状況も滅多にありません。そこにどうやって神の平和がもたらされるというのでしょうか。
それを知る鍵は、イエス様が救いを与えるために何をなさったかということです。
イエス様がいよいよ王様になるのではないかとの皆の期待を背負って首都エルサレムに向かったとき、人々は大喜びでイエス様の到着を祝いました。しかし、その後のイエス様の行動は人々にとって不可解でした。はっきり言って期待外れだったのです。
王座に着くことを宣言し軍隊を率いてローマ軍を追い散らすどころか、イエス様は人気を妬んで亡き者にしようとする祭司長たちにあっさり捕らえられてしまいました。すぐに裁判にかけられ、わずか数時間で死刑が確定し、その日のうちに十字架にはりつけにされて処刑されてしまうのです。思っても見ない結末に、共に歩んできた弟子たちでさえ、困惑し、恐れ、逃げ出しました。
イエス様が救いと平和をもたらす方法は力で敵に鉄槌を下すことでもなく、ご自分のいのちと交換で赦しを差し出すことでした。
イエス様がなさったことは、悪に満ち、罪に捕らわれて自力ではなんともならない人々を「赦す」ということでした。ただ赦すとは言っても、人の犯した罪とこの世界の悪を不問にするというのでは神の正義が成り立ちません。ですからイエス様は罪の報いを十字架で苦しみ、いのちを差し出すことで、代わりに引き受けたのです。
だから十字架の上でイエス様が語った言葉は、罪を責めるのではなく赦す言葉でした。「あなたがたは酷い罪人だ、この悪行の報いはいつか受けることになるぞ」というものではなく、「父よ、彼らの罪をお赦しください」という執り成しの祈りだったのです。
何度、懲らしめられ苦しんでも学ばず、悔い改めても再び悪に戻っていく人間。表面的な平和を喜びその恩恵を楽しみながら、その背後で苦しみ抑圧されている人々を放っておくこの世界は、文字通り救いようがありません。その救いようのない私たちを救い、平和を与える唯一の道がキリストの十字架による赦しなのです。
適用 賛美しながら家路に
最後に羊飼いたちの家路につく様子を見て終わることにしましょう。救い主によってもたらされる神の平和の、最初の痕跡が羊飼いたちの姿にすでに見て取れます。
羊飼いたちは、ベツレヘムの街に向かい、飼葉桶の赤ん坊を見つけました。興奮しながら見たこと、聞いたことを話し、すべてが御使いのお告げ通りだったのを見て、「神をあがめ、賛美しながら帰って」行きました。
今まで彼らは世間から「罪人」「信用ならぬ人たち」とレッテルを貼られ、神の国から最も遠いグループに分類されていたいました。しかし今、彼らは自分たちのために救い主がおいでくださったということをはっきり理解しました。お前たちには関係ないと言われ、自分たちもどうせだめだと諦めていたのに、この方はあなた方のための救い主だということの意味をはっきり理解したのです。
羊飼いたちは、神様が「あなたがたは大丈夫だ、人が何を言おうが、あなたがたは神に受け入れられている、神のみこころにかなった人たちだ」と言ってくださっているのが分かったので、神をあがめ、賛美したのです。そこに、自分自身についての理解の回復があります。足りないところや人から責められることがあっても、「俺たちなんかダメだ」ではなく「俺たちでも大丈夫だ」に変えられたのです。神に受け入れられており、そのような自分を自分自身も受け入れることができる。そういう神と自分、また自分自身との関係の回復があります。本来あるべき姿に回復する最初の一歩がそこには確かに刻まれています。
「地には平和が みこころにかなう人々にあるように」。この救いは、イエス様の十字架による赦しを通して、すべての人に差し出されています。イエス様がすべての罪と悪の責めを負ってくださり、あなたがたはもう大丈夫だ、この赦しを受け取って欲しいと今なお語っておられます。
神の平和、シャロームを必要としているのは、私と神様との間だけのことではありません。私たちにはそれぞれ、回復やいやしを必要としている様々な関わりがあります。だいたい、私たちの心が傷付き悩むのは人間関係です。そこにいろいろと課題があり、中には解決の難しいものもあるのが事実です。だから私たちは過去を引きずり、いつまでも相手を責めたり、自己嫌悪に陥ったりします。どれほど他人や自分を責めても、そこに回復はありません。だいたいやられたことで仕返ししたって、その時は気が晴れても、すぐに後悔し、争いがエスカレートするだけで、もっと悪くなります。
しかしイエス様が人の罪、怒り、憎しみを黙って引き受けてくださった時、憎たらしい相手の罪はもちろんのこと、私の罪と共に、その人を責めるその怒りと憎しみも一緒に引き受けてくださったのではなかったでしょうか。こういう私たちに平和を、神のシャロームをもたらすためにイエス様はおいでくださいました。それらが本来あるべき姿に回復されていくなら、どれほど私たちの心は晴れ、穏やかになり、満足できることでしょうか。
まずはそんなふうに傷付き、人を責め、自分に失望しているこの私を、それでもイエス様が「大丈夫だ」「わたしはあなたを赦しているよ」「平安があるように」と言ってくださっている事に立つことが最初の一歩です。イエス様がこの世界も、憎たらしいあの人をも赦し、平和を与えようと救いを差し出しているのは事実ですが、だからといって私が敵を愛し、赦せるようになるのは簡単ではありません。まず私がイエス様の赦しを受け取り、私が回復される必要があります。その回復は決して現状を否定したり、仕返しや憎しみ、他人を否定することの中にはありません。イエス様による赦しを受け取り、私はイエス様のゆえにもう大丈夫なんだというところから始めるのです。それが地に神の平和、シャロームが満ちていく最初の一歩、クリスマスの喜びが私のものとなる第一歩です。
祈り
「天の父なる神様。
ひとり子イエス様をお与えになるほど私たちを愛していてくださり、ありがとうございます。そして今年も愛する方々とクリスマスを祝うことができ感謝します。
同じ場所に立つことのできない方々がおられることに心が痛みます。オンラインでつながることの出来る方、それもできない方々、状況は様々ですが、どうぞあなたの祝福が恵み豊かに注がれますように。
そしてイエス様を通して神様が与えようとなさっている平和を私たちが受け取ることができますように。あなたが私たちを愛し、キリストにあって私たちを受け入れてくださったように、私たちもあなたの差し出す赦しを受け取り、自分自身と周りの人を赦す者にしてください。この地に、キリストによる神の平和が満ちていきますように。イエス様のお名前によって祈ります。」