2022-12-25 待ち望んだ慰め

2022年 12月 25日 礼拝 聖書:ルカ2:25-35

 今から70年前の1952年。昭和でいうと27年のことです。アメリカから渡って来たユダヤ系アメリカ人の一家が、川岸に借りた家を拠点に、クリスマスに合わせて聖書のメッセージ書かれた小さな冊子を配りました。この地での教会の働きの始まりです。

彼らはクリスチャンであり、この町に医者としての資格と技術を用いて救い主イエス・キリストの良い知らせを伝えるために来たのです。町の方々にクリスマスの本当の意味を知って欲しいと願い、クリスマスの朝にトラクトを広い地域に配ったそうです。

それから70年、毎年祝われて来たはずのこのクリスマスを、特別な感謝をもって祝いたいと思います。

毎年様々な思いでクリスマスを迎えるのですが、今年私が主からいただいた一つの言葉は「慰め」です。今年の漢字は「戦」だそうですが、このような世情に対する福音の応答が「慰め」と言えるかも知れません。戦場となってしまった国で失われた命や芸術が元に戻ることはありません。そんな中で求めることは単に戦いが止むことではなく、傷付いた人たちが慰められることかもしれません。

戦場とは遠く離れていますが、それでもこの世の生きづらさの中で傷付き、また傷つけてしまう私たちに救い主誕生のメッセージは慰めについて何を語っているでしょうか。

1.慰めを待ち望む老人

今日の箇所にはそんな慰めを待ち望んでいた一人の老人が登場します。

イエス様がベツレヘムの家畜小屋でお生まれになってから一週間後のことです。ユダヤ人の伝統で男の子の赤ちゃんには割礼の儀式が施されます。このタイミングで名前がつけられるのですが、天使がマリヤに告げたとおり、イエスと呼ばれることになりました。

そして、最初の男の子の誕生の時には特別に神殿に行って、赤ちゃんのために献げ物を献げる儀式も行いました。24節には「山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽」とありますが、これは最も貧しい家庭のために定められたもので、リッチな家なら牛や羊を献げるところですが、ヨセフとマリヤには余裕がなかったので一番小さな献げ物を準備するしかありませんでした。

そこに登場するのがシメオンという老人です。ルカはこの人について、「正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた」と描いています。誠実で信仰深い人、そして慰めを待ち望む老人です。

「イスラエルが慰められる」とはいったいどういうことでしょうか。彼には聖霊によって「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはない」と告げられていたそうです。

シメオンの抱えている痛みが具体的にどんなことを意味していたか、詳しい説明はありませんが、状況はよく知られています。

イスラエルの民は全世界に祝福をもたらすという祖先アブラハムの約束を受け継ぐ国として、世界の祝福になるはずでした。しかしシメオンの先祖たちは長い間、祝福を約束してくださった神に背を向け、契約をやぶり、結果として国を失い、入れ代わり立ち代わりやって来る強大な国々によって支配され続けていました。世界の祝福どころか、彼ら自身が非常に惨めな状況に置かれていたのです。

そのこと自体をシメオンが傷として感じていたのか、あるいはもっと深いこと、例えば同胞たちが、本当の意味で神に対する信仰を取り戻すことを願って憂いていたのか、そこまでは分かりません。しかし、彼は確かに困難な時代に生きた一人の老人として、傷付いた人であり、慰めを待ち望む人だったのです。その慰めは約束の救い主がもたらすはずだ、というのが預言者たちによって告げられて来たことですし、それが彼の希望にもなっていました。

そしてこの「慰め」という言葉は、「励まし」とも訳される言葉で、単に同情心を示すような感情的なことではなく、実際に力づけ、助けとなるようなものです。災害の被害にあった人たちを気持ちで応援するのではなく、具体的にお金や物資や人を送って支援する、そんな意味合いが込められた言葉です。彼は本当に傷付いた心が癒され、実際に助けられることを願っているのです。

だれもが、その人の生きている時代、環境の中で傷付いたり、逆に誰かを傷つけたりしながら生きています。私たちは誰かに傷つけられた痛みが癒され慰められることを必要としています。しかし同時に、誰かを傷つけた故の痛みを、まことに自分勝手ですが、やはり慰められることを求めています。

2.照らす光によって

シメオンは、幼子のイエス様に会った時、この方によってもたらされる慰めがすべての人を照らす光として与えられると言います。29~32節の賛美の言葉の中にあります。

驚くべき事に、当時のユダヤ人としては珍しく、救い主によってもたらされる救いは、ユダヤ人のためだけのものではなく、すべての人のためであることを理解していました。選ばれた民であるユダヤ人の、さらに宗教的エリートのような人たちのものでなく、すべての人のためのものです。

この赤ちゃんがやがて人々にもたらす救いは異邦人にとっては啓示の光であり、イスラエルの民にとっては栄光だと言います。

異邦人とは、今まで聖書の神、ユダヤ人の神なんて自分には関係ないと思っていたすべての人たちです。彼らを照らす光として、イエス様の救いはもたらされます。私たちの知らなかった神の愛と正義、慈しみと聖さがイエス様を通して明らかにされます。

預言者たちも救い主のもたらすものを「闇を照らす光」「暗闇の中にいる人たちに光が差す」といった言い方で預言していました。

暗闇の中にいるとき、光が差し込むとそれまで見えなかったものがよく見えるようになります。しかし光は私たちが隠したいものや、見たくなかったものを明るみに出す力もあります。

あるとき、我が家のワンコが遊んでいた小さなボールをテレビ台の下に入れてしまいました。たぶん、わざとやりました。影になっていて暗くて見えなかったので、スマホのライトで照らしました。もちろん、ボールはすぐに見つかりましたが、見たくない埃の固まりや、いつ入り込んだか分からない紙切れとか、いろいろ見えてしまいます。

私たちがこんなこと大したことじゃないと思っていた些細な事が、神の前では大きな罪であることに気づかされます。他人を馬鹿にしたり、罵ったりすることは、誰だってやることだと思うかも知れませんが、すべての人の命を価値あるもの、大切なものとして造られた神様にとっては人殺しと変わらぬ罪深さです。

不倫やスキャンダルで芸能人や政治家をつるし上げ、批判し、叩きのめすことは平気でやりますが、神様からすれば情欲を抱いて他人を見るだけのことも同じくらい非難されるべきことです。

しかし。見たくない埃も見えますが、ボールも見つかるのです。私たちがこの光に照らされて知ることは、そのような罪深い私たちを愛していてくださることです

救い主が与える慰めを受け取るためには、世の中の不条理や戦争の悲惨さを嘆くだけでなく、私たちを傷つける本当の原因である罪が自分自身の中にもあるという現実を直視しなければなりません。私たちが他人や世の中を非難し、嘆くとき、同じ闇が私たちの中にもあることを知らなければなりません。そのことを受け入れた上で、それでも愛し、赦し、いやしてくださるイエス様の救いを受け取る時にはじめて私たちは慰めを得ることができるのです。

3.痛みを伴う慰め

しかし、この慰めには代償が伴います。慰めには刺し貫くような痛みが伴います。ただし、その代償は私たちが支払うのではありません。救われるために高額な献金をしなさいとか、生活をなげうって教会で奉仕しなさいとか、何かを食べたり飲んだりするのを禁じたり、楽しみを捨てなさいとか、そんなことを救いや慰めの代償として求めたりはしません。慰めの代償は、あの赤ん坊として産まれたイエス様がやがて引き受けて、代わりに支払ってくださるものです。シメオンには、目の前の生後8日目の赤子の未来が見えていました。

シメオンが赤ん坊についていろいろしゃべったり歌ったりしているのを驚きながら見ていたヨセフとマリアでしたが、やがて老人は母マリヤにまなざしを向け、語りかけます。それは祝福であると同時に、厳しい未来を告げるものでもありました。

イエス様に出会った人たちの反応は二つに分かれます。イエス様によって倒れる人もいれば、立ちあがる人もいる。イエス様に救いを見出す人もいれば、拒絶する人もいます。そしてイエス様を前にしたとき、人々の隠された思いが顕わになり、やがて母マリヤの心を刺し貫くことになるとシメオンは告げます。これは、光が闇を照らすようにイエス様の存在と言葉によって人々の心が照らされる時に、求めていた救いと慰めを見出す人もいれば、見たくなかった自分の罪の現実を認めたくなくて拒否する人もいるということです。

当時の宗教指導者たちは自分たちの正しさを主張したいがため、過ちを認めることができずついにはイエス様を十字架にかけて処刑してしまうのです。

母マリヤにとって、それは我が身を引き裂かれるような、まさに刺し貫かれる経験となるでしょう。しかし、イエス様の十字架こそが私たちの受け取る慰めの代償でした。

福音書を読み進めていくと、イエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえられた出来事が記されている事が分かります。イエス様はそれをご自分のなすべきこととして受け入れています。

ですから、すでに私たちの救いと慰めのための代償は支払われています。罪の赦しも、救いも、慰めも、未来への希望も、すでに私たちのために用意されています。綺麗な包装紙でラッピングされ、リボンをつけたプレゼントのように、もう用意され、差し出されています。あとは私たちが受け取るだけです。

適用:うちにある求め

今日は、慰めを待ち望んでいたシメオンが生まれてまもないイエス様にお会いしたときに、「もうこれで思い残すことはない」と、慰めを見出し、この方こそが約束の救い主であり、ご自身の犠牲によってすべての人に慰めをもたらす方であることをマリアに告げた場面を見てきました。

皆さんの心のうちには何があるでしょうか。イエス様の光に照らされることで、何が明らかになるでしょうか。

覗かなきゃ良かったとテレビ台の下の埃の固まりを見つけるように、直視したくない何かが見えるでしょうか。それとも闇の中でゴソゴソ這い回る嫌な虫を見つけたような、自己嫌悪を覚えるようなものが見えるでしょうか。そうなら、それらこそが慰めを必要としている、救いを必要としているものの正体です。それを見ること、考えることが痛ければ痛いほど、恥ずかしければ恥ずかしいほど、心の内にある求めは自分で思っていた以上に、本当は強いのです。

神の前にへりくだりましょう。へりくだることは、謙虚そうな態度を取るだけのことではありません。見たくないようなものが私たちの心の内にあることをそのまま認め、受け入れ、だから私にはイエス様の救いが必要です。イエス様の慰めを必要としていますと申し上げることです。

今年のクリスマスはあまりウキウキした気持ちが起こりませんでした。体調の問題というより、悲しいことの方が大きかったからです。小原さんが召されたことはとても残念でしたが、いつかはこのような知らせが届くことは覚悟していたことでもあるので、大丈夫だと思っていましたが、思った以上に堪えました。数日前に召された友人のことはさらにショックでした。弔問に行くこと自体できないので、毎日の暮らしに大きな変化があるわけではありあせん。しかし思いのほか深い悲しみがあることに少しずつ気づかされました。私たちはこのような弱さや嘆きを抱えながら生きています。

私はイエス様を信じて罪赦され、イエス様の救いを頂いていますが、それでもこの世で生きている限り、日々、慰めを必要としていると心から実感します。心の嘆きに触れていただくだけでなく、大丈夫だと背中を押されたり、良くやったと認められたり、心配するなと励まされたりすることを本当に必要としています。それは違うよ、その道じゃないよと教えてもらうこと、導いていただくことも必要です。

赤ん坊としてお生まれくださったイエス様は私たちのそうした弱さや嘆き、痛み、必要をよく分かっていてくださり、力と慰めをくださいます。

どうぞ、皆さんも、イエス様の光に照らされてそれぞれの心のうちを覗き込み、そこに何があるかよく見てみましょう。きっと主の慰めを待っている自分がいます。そしてその慰めはすでに差し出されています。心を閉ざすことなく受け取りましょう。

祈り

「天の父なる神様。

クリスマスの日曜日に、こうして主イェス様のご降誕とその恵みを思い巡らし、味わう時を与えてくださり、ありがとうございます。

私たちが心の内で待ち望んでいる慰めを主イェス様が与えてくださることを心から感謝します。そのための代価を十字架のうえですでに支払ってくださり、私たちはただへりくだって受け取るだけであることも大きな恵みです。

どうぞ、おひとりおひとりが主の前に静まり、へりくだり、自分自身を知ることができますように。そして主の慰めをいただくことができますように。

私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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