2024-08-04 私たちも一緒に

2024年 8月 4日 礼拝 聖書:ゼカリヤ8:18-23

 『舟の右側』というキリスト教月刊誌の今月号に「健全な弟子訓練とは」という特集があり、その中で不健全な弟子訓練の特徴について興味深いコメントがありました。私たちの神学校が提供し、教会でも取り組んでいる基本原則の学びの最初は「主の弟子となる」というテキストを用いていますので、とても興味深く読みました。

私も若い頃経験したので注意しなければならないと思っています。記事を書いた先生は「牧師が弟子訓練を教会の数的成長に役立つ【手段】と思っていることが元凶になると」と指摘します。そして本来の弟子訓練は「主イエスのからだに属する信徒一人ひとりが、恵みの中で癒されて成長し、自ら主の御声を聴いて従い、人生の中で結ぶべき実を豊かに結べるように助ける営みのことです」と書いていました。まったくその通りだと思います。

魅力的なクリスチャンを育てるより、何か有能な営業マンや教会の戦略に役立つ駒になるような人材を育てることに必死になってしまったら、その中で傷付き、疲れてしまう人たちが出てきて、教会自体が傷付いてしまいます。大事なことは、私たちには癒されるべき傷があることを受け止めつつ、その上で主が願われるような私になっていくという視点を持つことです。魅力的なクリスチャン、教会になるにはどうしたら良いでしょうか。今日はゼカリヤ書から学んでいきましょう。

1.なげきから喜びへ

預言者ゼカリヤは、イスラエルの民がバビロンの捕囚となって、預言された70年の捕囚期間がもうすぐ終わり、神殿再建の工事が始まったころに使わされた預言者です。周囲の執拗な邪魔のために思うように進まず、工事が中断してしまっていたのです。本当に新しい時代が来るのかと多くの人々は神の約束を疑いました。

主はゼカリヤを通して、約束のメシアヤによる新しい時代、メシアの王国が必ず到来することを告げ、あなたがたは神の国に加わる準備ができているかと問いかけます。私たちは、それがおよそ2000年前にお生まれになったイエス・キリストにおいて実現したことを知っています。そしてメシアの時代には大きな変化があることを繰り返し告げています。その変化を象徴するのが、今日読んでいただいた19節にある、断食が「楽しみとなり、喜びとなり、うれしい例祭となる」というものです。

さてゼカリヤの預言を聞いた人たちのうち、ある人々は一つの質問をもって訊ねて来ました。7:2~3「私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。」その質問に答えるように5節から預言のことばが続くのですが、今日読んだ8:19はこの質問に対する結論になっています。

そこで、それぞれの月の断食とは何かということを簡単に説明しておきまます。それらは70年前のエルサレム陥落にまつわる、それぞれの月に起こった重大な出来事にちなんで、嘆きを表すために断食をして記念したものです。

第四の月はバビロン軍によってエルサレムの城壁が破られた月。第五の月は神殿が破壊されました。第七の月はバビロン王がユダの総督として立てたゲダルヤを、王家に属する人たちが暗殺し、報復を恐れてエジプトに逃亡するという事件があろました。そして第十の月は、バビロン王によってエルサレムの街が包囲されました。これらは、ユダヤ人にとって辛い記憶であり、それぞれの事件が起こった月に断食をすることで70年にわたって嘆き続けて来たのです。しかし7:5~6を見ると、その断食も本当に神の前に悔い改め、嘆いているというより、形だけになっていて、自分たちのためになっている。自分たちは捕囚とされて可哀想だと言うために嘆いているようなものだったのです。

しかし、メシアが到来するとき、もはや嘆きを繰り返す必要はありません。救いと回復が与えられるので、嘆きに代えて喜びと楽しみが与えられるのですから、形だけの断食はもう不要なのです。

私たちは捕囚時代のユダヤ人のように毎年定期的に断食をする習慣はありませんが、時として、過去の傷や嘆きに捕らわれ続け、イエス様が与えてくださる喜びや楽しみを味わうより、受けて来た痛みや悲しみを繰り返し味わい、自分がどんなに辛かったか、可哀想だったかを神様や周りの人に訴えていることがあります。

もちろん、そうした過去の傷を軽く見るべきではありませんが、13節に「あなたがたは祝福となる。恐れるな、勇気を出せ」とあります。過去に起こったこと、受けた痛みは事実として受け止めつつも、イエス様がなしてくださる救いと回復が自分の痛みや傷にも及ぶことをもっと信じるべきです。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された」というイザヤの預言、約束を私のためのことばとして受け止めましょう。

2.真実と平和を愛する

続いて主はゼカリヤを通して、メシアによる救いと回復をいただいた者にふさわしい生き方を示します。それは真実と平和を愛するということです。

真実であるとは、信頼でき、忠実で、何があってもやり遂げる継続性があるということです。旧約聖書での一例はヒゼキヤ王です。第二歴代誌31:20~32:1を開いて見ましょう。長い間偶像礼拝や異教的なものに染まってしまった神殿と国内から偶像礼拝に関わるものを徹底して取り除き、壊れたままの神殿を修復し、何十年も行われていなかった過越の祭を再開し、他の部族にも礼拝に集うよう呼びかけ、共に主の前に悔い改め、山と積まれた献げものの分配も誠実に行いました。この人に任せたら大丈夫、ちゃんとやってくれる、安心して任せられる、そんな真実なあり方を愛しなさい、最も大切なこととして求めなさいというのです。

平和を愛するとは、神様との間に与えられた和解、平和を心と生活、人間関係に広げていく、それを私たちの言葉や態度、行動の原則にしていくと言って良いと思います。そう言うと分かりにくいですが、この人には裏表がなく安心できる、他人を責めたり自分が相手より優位に立とうといような態度とは無縁で穏やかな関係を築いてくれる、そんなあり方を求めるということです。

真実と平和を愛するとは、神様の大きなご愛と恵みの確かな裏付けがないと出来ることではありません。自分自身の罪深さや弱さ、負ってきた傷や嘆きを知ってなお、神様が愛してくださり、救い、いやしてくださるという確信と実感があってこそできることです。

残念なことに、人間は真実と平和を愛するより、自分の願望やプライドのために真実と平和をいとも簡単に犠牲にしてしまいます。それは昔も今も変わりません。日本人は昔から「和を以て貴しとなす」の精神で、お互い平和に暮らすことを大事にして来たと日本文化の素晴らしさを一生懸命宣伝する人たちもいます。そういう面はあるかもしれませんが、私たちが現実世界で経験することは、むしろ表面的な平和を保つために偽りや問題から目をそらしてしまうことが結構多いということではないでしょうか。あるいは自分に正直であろう、真実であろうとすると途端に波風が立ち、平和をぶち壊してしまうようなやり方をしてしまうのもよく見かけます。夫婦の関係からスーパーのレジや自治会、会社、政治の世界まで、同じようなことが見られます。

しかし私たちイエス・キリストによる新しい御国の子とされた私たちは、過去の痛みや傷、罪から救われ、回復を与えられ、嘆きは喜びや楽しみへと変えられる、そんな祝福の中に入れられたのだから、新しい生き方をしなさい、いや新しい生き方が出来ると神様は励ましておられます。過去の経験をほじくり返して痛みを繰り返し味わったり、恨み言をつぶやき続ける必要はありません。イエス様が与えてくださった恵みに進んで心をゆだねていくなら、すでに赦されていることや、嘆きを越えた恵みがあったことに気付いたり、赦せなかった誰かを責めずに生きることができるようになっていきます。それは私たちがイエス様による救いと回復への道のりの中にすでにいること、神の御国の中にすでにあることのしるしです。そしてこの恵みはご自分を偽ることのできない神様ご自身の誓いとイエス様による十字架の死と復活に裏付けられた確かなものです。

3.私たちもあなたがたと

さて主はゼカリヤを通してさらに驚くべき事を告げます。20~23節です。

ここに書かれていることは、主がアブラハムに約束した「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」という約束の成就です。そして私たちはその成就した姿を、使徒の働きで始まった教会の宣教を通して見ることができます。

約束のメシア、キリストが来られる時に神の御国は実現し、待ち望んでいた民に救いと回復が与えられます。しかしこの祝福が世界へと拡がって完成するまでのプロセスでは、恵を受け取った民の応答の仕方が鍵となります。救いと回復を受け、嘆きが喜びに変えられた人々が真実と平和を愛する生き方が大変大きな役割を果たすことが示されているのです。

最近、SNSで何人かの友人たちがある聖書学者の言葉を引用していました。「(神の国)は軍事的勝利によって達成されるものではありません。悪を倒すためとはいえ、平和の君が軍事力を用いることなどあり得ないのです。」(N.T.ライト)。全く同感です。悪に対して悪を報いてはならない、右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい、悪に対して善をもって報いなさいと教えた主が御国の完成のために暴力を用いるわけがないのです。

ではどのように天の御国、神の国は拡がり、完成に向かうのでしょうか。伝道によって、福音宣教によって、と言うかもしれません。確かにイエス様が最後に弟子たちに命じた大宣教命令は重要です。しかし、その使命を果たそうとする私たちはどういう人間であるべきかが問われるのです。神の民とされた人々が真実と平和を愛する者として生きるこなら、人々の方から求めてやって来るというのです。

「再び諸国の民がやって来る。…」「さあ行って、主の御顔を求め、万軍の主を尋ね求めよう。私も行こうと言う。」「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、一人のユダヤ人の裾を堅く掴んで言う。『私たちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聴いたから。』」

もちろん、言葉で福音を伝えること、イエス様を証しすることは必要だけれど、その証しは、私たちの真実と平和を愛する生き方を土台としていなければなりません。そのようにするとき、「神があなたがたとともにおられる」ことが人の目に明らかになるのです。

 新約聖書の教えを見てみましょう。コロサイ3:12~17です。神の救いの恵みに与った者として「真実と平和を愛しなさい」という旧約の教えが、もっと生き生きと具体的に描かれています。

そうすることで私たちの態度や行動に真実と平和を愛するイエス様の陰がチラチラと見えると言っても良いと思います。

紀元260年頃、ローマ帝国全土に疫病が拡がりました。まだ教会が迫害されていた時代ですが、その時のクリスチャンたちの行動が教会の拡大に大きな影響があったということが指摘されています。ディオニシウスという人のこんな記録があります(引用)。

神の民のそうした姿は、ローマの神々を信じる人々や、哲学者たちやとは全く違いました。だから多くの人々がまさに主の御顔を求めて「私たちも一緒に行きたい」と言うようになったのです。

適用:神の宣教の戦略

ゼカリヤの時代、目の前の神殿再建で苦労していたユダヤ人に示された神の大きな恵みは、やがて来られるメシアとその御国への希望というかたちで示されました。

この恵みを与えられ、その希望に生きる者とされた人々には、神への応答として真実と平和を愛する生き方をが求められました。それは彼らがより良く生きるためだけでなく、神の祝福が世界に拡がって行くための鍵、宣教の戦略なのです。

一方、私たちも目の前の様々なことに苦労したり、悩んだりしなが生きていますが、約束された恵みと希望はイエス様によってすでに実現したものとして受け取っています。であるならなおさら、真実と平和を愛して歩むべきです。

しかしおそらく、多くの人たちの心の深いところには、まだ癒えていない過去の傷や嘆きがあったり、どうしても手放せない怒りや恨みがあったり、はたまたどれほど頑張っても自由になれない誘惑や恐れに縛られている感じがあることでしょう。

そうしたものは、ユダヤ人にとっての故郷の破壊と捕囚の記憶のように、自分たちではどうしようもないものに感じられます。けれども、主イエス・キリストによる救いと回復が、この痛み、この苦しみ、この苦い思いをも癒すことができると信じるとき、それらは自分の力及ばない問題ではなく、私たちの手の中にある問題、ちゃんと自分で扱うことのできる感情となっていきます。ゆっくりかも知れませんが、確実に回復の道のりを歩み始めることができます。私自身も中学生の頃、はじめて人を赦せない感情に支配されましたが、イエス様の救いに与っているということを受けた止めた時に、その感情が自分の手の中にあって、それを捨てられることに気付けました。後でまた似たような問題には悩むのですが、それもまた私のための回復の道のりであることを教えられています。私たちに与えられた救いと回復は単なる教えではなく、それほどに力のある恵みとして与えられたことを信じましょう。

そして、私たちは過去に囚われることから離れ、真実と平和を愛する者となっていきましょう。完全に回復できていなくても、完全に解放されていなくても、その希望があるから、すでにその恵みの中にあるから、私たちは、真実と平和を愛する歩みへと進んで行けます。ローマ帝国時代のクリスチャンたちがそうしたように、私たちも今置かれている世界で、真実な態度と行いを求め、平和をつくる者でありましょう。

人を集めるためにもっと効果的な方法はないか、信仰を次世代につなぐために良い学習システムはないか、人口が減少する時代に何かあっと驚くような方策がないだろうかと、私も考えることはあります。けれども、教会が誕生し、使徒たちが教えたことを見ていくと、それはまさに真実と平和を愛する生き方とはどういうものか、という原則を教えたに他なりません。それが御国の拡大と完成に直結していることを聖書から教えられていたのです。

やがて「私もあなたがたと一緒に行きたい」と思ってくれる人が起こされると私は信じます。少なくとも、すでに心の中でそうした願いを持っている人、実際にはまだ足を動かせてはいないけれど、そういう気持ちになりかけている人たちが周りにいると感じています。忍耐のいることですが、これが主の示してくださった道です。

祈り

「天の父なる神様。

神の御国は本当に来るのだろうかと疑い迷っていた民にゼカリヤを通して与えられた約束と教えを学び、私たちの歩みについて、また神様の御国を完成させるための道筋を知りました。」

もし、私たちのうちに、未だに毎月断食をし嘆きを繰り返していたユダヤの民のように、過去に囚われたり、傷や痛みを味わい続けているなら、すでに私たちのために救いを成就してくださったイエス様によって、そんな私たちも救われ、癒されるのだと信じ、手放していけるように助けてください。そして、主から受けた恵みのゆえに、真実と平和を愛する者となることを私たちの願いとし、日々の歩みや夫婦、家庭、職場、社会のあらゆる関わりへと広げていくことができますように。

そのようにして「私もあなたがたと一緒に行きたい」と願う方々と出会わせてくださいますように。あなたの世界を祝福するというご目的のために、これが最も確かな道であること、私たちにも見させてください。

主イエス様の御名によって祈ります。」

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