2024年 8月 25日 礼拝 聖書:レビ記19:33-34
聖書は私たちに「新しい生き方をしなさい」「そのためにあなたがたは召されたのだから」と教えます。
新しい生き方とはどういうものでしょうか。常に新しいライフスタイルを取り入れるということではありませんが、考えるヒントにはなります。
ある働きを通して知り合いになったクリスチャンの方でヴィーガンの方がいます。ヴィーガンというライフスタイルは完全菜食主義者とも言われ、動物由来の食品や食べない、動物由来の衣類を身につけない、というものです。そのライフスタイルを取り入れるには、まずその人の考え方や心の中で、何かしら大きく変わるものがあったはずです。その人からヴィーガンになった理由を聞いたことはありませんが、そのライフスタイルを取る人たちには共通して動物から搾取しないという考え方があります。もちろん、健康のためにとか、なんとなくかっこいいから、という理由の人もいるのでしょうが、それでも何かしら共鳴する部分があるから、特定のライフスタイルを取り入れます。それぞれのライフスタイルには、それを実践しようとする人の理解や心に何かしら根拠があるのです。
今日は共同体の中に暮らす寄留者を愛しなさいという命令を取り上げています。この教えにはどのような考えがあり、現代の私たちのライフスタイルにどんな意味があるのでしょうか。
1.寄留者にも
今日の箇所では「寄留者」を「自分自身のように愛さなければならない」と教えられています。寄留者というのは、以前は在留異国人というふうに訳されていましたが、もともとの言葉では「よそ者」とか「流れ者」といった感じの言葉です。当然、イスラエル国内に暮らす外国人という意味もあるのですが、法律的な用語ではなく、自分たちの仲間でない者という意味合いのほうが強い言葉です。
「よそ者扱い」という言葉があるように、どんな社会でも、身内の扱いとよそ者の扱いには差があります。イスラエルがこれから行こうとしているカナンの地にいる民族は、そうした寄留者、よそ者に意地悪をしたり、仲間はずれにするのが普通でした。
日本でも同じです。田舎に移住した人たちのうち、移住がうまく行かなかった人たちが経験したのは、定住するようになって地元の慣習になじめなかったり、仕事が成功しすぎて妬まれ意地悪されるようなったという話しを聞きます。旅行に訪れる人にはとても親切ですが、ある町には特定の国の人たちがかなり集まって、文化や習慣の違いで地元の人たちともめ事になっていると聞きます。「おもてなし文化」が日本の文化だ、みたいな風潮がありますが、お客さんから寄留者に立場が変わると扱いががらっと変わるのです。
しかし神様は、神の民とされたイスラエルには新しい生き方を教えます。神の民とされた者は隣人を愛する者でありなさい。それは寄留者に対しても同じだ、というわけです。
隣人を愛さなければならない、というテーマは19章のあちこちに見られます。
19:9~10には貧しい者や寄留者のために畑に落ちた麦の穂やぶどうの実などを取り尽くさず、残して置くよう教えています。13節では雇い人を虐げてはならないとか、14節では目や耳の悪い人をばかにしたり意地悪したりしないよう教えています。
それ以外にも経済活動の中での不正やズル、まじないや占いに関わること、それに関連したファッション、性的に乱れた習慣、老人に対する態度、裁判での不公正といったことでカナン人の真似をしないようにと厳しく教えられています。
そうしたカナン人は、イスラエルが約束の地に定住した後も一定数生活を続けていました。イスラエルにとっては、避けるべき異教の習慣や忌まわしい文化の影響を及ぼすリスクであり続けたわけです。実際、後のイスラエルの王や民たちがカナンの宗教や風習を取り入れて神に背を向けることが何度も繰り返されました。そうした宗教や文化を取り入れることは徹底して避けつつも、現実にイスラエルの民とともに町や村で暮らす寄留者は疎外するのではなく受け入れ、いじめたりしないで親切にし、愛しなさいというのです。
しかも聖書は、これは単に街に暮らす外国人についてだけ教えているのではなく、貧しい者や雇われ人、障害のある人など、共同体の中でいじめられたり、仲間はずれにされたり、不当な扱いを受けやすい人たちに対しても隣人として愛しなさいと教えているのですから、ここには書かれていなくても、社会の中で疎外されている人たちを他の人たちのように一緒になって意地悪するのではなく、受け入れ、隣人として愛しなさいと教えているのです。それが神の民としての新しい生き方なのです。
2.自分自身のように
繰り返しますが、レビ記では、寄留者をはじめとする疎外されがちな人々を虐げず親切にし、愛しなさいと言われますが、さらに、「自分たちの国で生まれた一人のようにしなければならない」また「その人を自分自身のように愛さなければならない」とまで言います。これはとても興味深い表現です。
「自分のたちの国で生まれた一人」というのは同胞ということなのですが、実際的な面で考えてみたいと思います。イスラエルに生まれた子どもはどんな子でもアブラハムの子孫として受け入れられます。身分がどうであれ、性別がどうであれ、親の期待通りの子であるかどうかも関係ありません。同じ民族、国民に与えられる保護や保証されている権利は、当然のものとして与えられます。
時としてこの権利はいわゆる「普通」の人たちの間では当たり前に与えられるのに、病気や障害があったり、犯罪者の子であったり、特定の地域の出身だったりすると、途端にそうした権利が当たり前ではなくなってしまいます。
さらに外国人の方がちゃんと働いて税金を納めていても、何かの国の保証を受けたり、優遇されたように見えると急に「ずるい」とか「日本人を先にしろよ」といったことを言う人たちが出て来たり、制度として不平等になることもあります。
つまり、自分たちの国で生まれた一人のように扱いなさいというのは、隣人を愛するということが単に心情的に親しみを覚えるとか、仲良くなくということではなく、自分たちが持っている権利をその人たちにも保証するということになります。もちろん、聖書はイスラエルの民に禁じていることや命じたことを、寄留者であっても守らなければならないことも教えているので、単なる保護ではなく、自分たちの異教的な習慣や怪しげな風習をそのままやりながら権利だけ主張するということは出来ません。
もっとも、今日学んでいる命令は、イスラエルの社会、特に約束の地に定住してからの状況を想定しての、生活や国のあり方について教えているものです。ですから、これをそのまますぐに日本の国家としてのあり方や制度に適用し、要求するには無理があります。
しかし神の民とされた私たちの生き方としては、聖書の命令の背後にある原則、隣人をあなた自身のように愛しなさいという大原則を、外国人や貧しい人、障害のある人、疎外されている人、差別されがちな人にも、同じように当てはめ、隣人として尊重し、親切にし、愛を示すべきなのです。そして、これまで多くの先輩クリスチャンたちがそのように愛を示し、また社会や国に対して叫び続けた結果、社会のあり方や制度が変えられた面もあるし、今も戦っている人たちがいます。
ただし寄留者を愛すること、よそ者を自分自身のように愛するということには恐らく、思った以上の葛藤や不安が付きまといます。私自身にもあるのですが、ある国については「好きになれない」とか、「あの国の人たちってこうだよね」って見てしまう偏見があり、それを乗り越えるのは結構大変です。信用していろいろやってあげても裏切られるんじゃないかとか、裏で誰かとつながってるんじゃないかとか、そんな疑いを持っていたりもします。
それが普通の人間の感覚ですが、それを乗り越えて寄留者であっても隣人として愛すべき根拠を、主は私たちに示しておられます。
3.あなたもかつては
34節後半です。「あなたがたも、かつてエジプトの地では寄留の民だったからである。」
イスラエルの民がエジプトの地で寄留の民となったのは、およそ400年の間です。このことは創世記15:13で神様がアブラハムと契約を結んだ後に予告され、孫のヤコブの時代に飢饉を逃れてエジプトに寄留したことが始まりでした。死んだと思われていたヤコブの息子ヨセフが実は兄弟たちによって売り飛ばされ、エジプト人の奴隷となっていました。そんなどん底から主の導きによってエジプトの食糧危機を救う実力者になっていたことから、ヨセフの家族ならばとエジプト王ファラオによって土地が与えられ、自由に暮らしていました。
しかし時が経ち、ファラオも代替わりしていくうちにヨセフの功績も忘れられ、むしろ増える一方のヘブル人に脅威を覚えたエジプトは彼らを奴隷として使い始めるのでした。
エジプトでの寄留者としての生活は、はじめの頃こそ、ヨセフのおかげで優遇されましたが、エジプトを脱出した時代のイスラエルの民は奴隷生活しか知らないのです。しかも人口抑制策として生まれて来た男の子を殺さなければならないとか、ナイル川に流さなきゃいけないなんてとんでもない命令まで出て、その苦しみと嘆きは計り知れないものとなっていました。
そうした苦しみはエジプト人なら受けなかったものです。昨日まで仲良くしていたお隣さんが、急によそよそしくなったり、国の方針が変わることで一般の人たちの態度がコロっと変わるのはよくあることです。
しかし彼らは、主が遣わされたモーセによってその苦しみから脱出し、奴隷から解放されました。そして神の民として新しい生き方をしようとしているのです。
やられたことを誰かにやるのではなく、むしろ、あの時必要だった親切と愛を与える者になりなさいと主は教えているのです。
自分が苦しみと抑圧の中から救い出された者は、同じ状況にある人々に思いやりを示し親切であるべきなのです。
このことは、罪と死の支配の中にあった私たちにとっても大切な原則を教えていないでしょうか。私たちは身分としては奴隷であったことはありませんが、神様の目から見るなら罪と死の支配された奴隷でした。そのような支配を何に感じていたかは人それぞれです。特定の悩みに苦しんでいたかも知れないし、やめられない悪習慣とか、劣悪な家庭環境とか、傷つけられる人間関係とかかも知れないし、生きる目的や自分の価値が分からないと言うようなことだったかも知れません。病気や障害が引き起こす苦しみや差別かもしれない。その中で自分が苦しむだけでなく、その痛みや苦しみを形を変えて他の誰かに向けてしまっていたのではないでしょうか。
しかしイエス様の十字架の死と復活によって贖われた私たちは、それらの支配から解放され、罪赦され、新しく生きる者とされました。だから、あなたはあなたの隣人を愛しなさい、寄留者であっても自分自身と同じように愛しなさいと言われるのです。
人間は誰であっても罪の影響下にあり、この不完全な世界で苦しんだりもがいたりしています。自分と違うという理由で裁いたり軽んじたりしないで、自分自身を愛するように愛すべきです。
適用:主のゆえに
さて、今日の教えは「わたしはあなたがたの神、主である。」という宣言で締めくくられています。
このことばは、私たちの考え方や人への態度を、私たちの神である主の前で考え、決めなければならないことを教えてくれます。太字で「主」と書いてありますから、これは神様の名前です。そして神様の名前が登場する時、そこには私たちの神となってくださった方という、契約関係を強調する意図があります。そしてこれは単に法的な約束事という以上に、私たちを愛し、私たちのためにすばらしい計画を立て、その実現のためにキリストによって贖いを成し遂げる方である、という意味が含まれています。私たちは私たちを愛しイエス様の犠牲によって救ってくださった神様の民として考え、行動しなければならないことをはっきり思い出させます。
私たちは神ではないので、決して神の代わりに誰かを不必要だとか、価値が無いとか、意地悪してもいいとか、権利を奪っていいと決めることはできません。
イスラエルの民の周りにいる人々は、障がい者や貧しい人、外国人をいじめてもいいと考えたり、彼らの権利なんて尊重しなかったかも知れません。今日、私たちの周りの世界も程度の差こそあれ、そういう面があります。その中でどう考え、振る舞うかは悩むことがあります。
知り合いの中には、貧困家庭の子どもたちのためにと子ども食堂をやったり、LGBTの方々の権利のために運動している人もいるし、外国から難民として日本に来たのに不当な扱いを受けている人たちのために活動している人もいます。そうした取り組みをする人たちに感心し、また尊敬の念を持ちつつも、身の回りにそうした境遇の人たちがいるとどうしたら良いか、自分に何ができるかと躊躇し、ここから先へと行くべきか考えてしまいます。
時々教会にお金を貸して欲しいと訊ねて来る人や電話を掛けてくる人がいますが、殆どの牧師たちはそうした要求に対しては「できません」と応えます。実態として、そういうケースの殆どは「たかり」に近いものですが、実に巧妙で良心の痛みに訴えるセリフをよどみなく話されるとお断りすることは凄くストレスですし、隣人愛の原則に反してはいないだろうかと悩むことになります。
あるいはまた、世の中にはなかなか相容れない人たちがおり、どうしても好きになれないタイプの人や、ちょっと痛い目に会えばいいのにと思うような人もいます。そうした感情を根拠に、親切にすべき人としなくて良い人というふうに分けてしまいがちです。
しかし、そうした私たちの、いや私の悩みを簡潔な言葉で戒めてくれます。「その人を虐げてはならない。…あなたはその人を自分自身のように愛さなければならない。」
私には社会の制度や問題を変える力はないし、そういう運動をリードするだけのエネルギーはありません。しかし、私が関わる人たちに対しては隣人として、相手が誰であっても思いやり、親切にすることができます。それは小さなことかもしれません。けれども決して無力ではありません。実際の対応に迷うことも後悔することもあります。それでも世界に祝福をもたらす方法はいつも変わらずに、神の贖いによって新しく生きる者とされた私たちが、神を愛し、隣人を愛する道にあるのです。
祈り
「天の父なる神様。
今日は寄留者を隣人として愛するようにとの戒めから、隣人を愛することについて学びました。
私たちもかつては、罪の影響と不完全な世界の中で苦しみ悩んで来ましたが、イエス様によってそこから救われた者として、今なおその苦しみと悩みの中にある方々を思いやり、親切にし、愛を示すべきこと、主のゆえにそうすべきことを教えていただきました。
私たちに出来ることは小さなことですが、その小さなことを通して主の祝福が世界に拡がっていきますように。愛を示す神様を知る方々が起こされますように。主の平安がそれらの一人ひとりに注がれますように。
イエス様のお名前によって祈ります。」