2024-09-08 今日のことを誠実に

2024年 9月 8日 礼拝 聖書:マタイ6:25-34

 聖書は私たちに理想の正義や道徳を押しつけるものではありませんが、この世界をお造りになり、治めておられる神様の権威を認め敬って、神様の聖さと正義が行われることを願い、求めるよう教えています。ただし、神様は私たちが不完全な世界で生きる、罪の性質が残った存在であることもちゃんと分かっています。

そういう意味で聖書は、誰も到達できない悟りの境地に導くものではなく、現実の世界でどうやって生きていくのか、そこに信仰はどう働き、神様はどのように助けてくれるのかを教えています。

今日読んでいただいた箇所は19節からの教え、「人は神を愛し、同時に富を愛することはできない。富を追い求めるより、天に宝を積みなさい」という教えからテーマが続いています。

私たちの実際の生活では、富はとても大切です。宝や富と書くとなんだかすごい財宝のような感じがしますが、これはほぼお金を指しています。そして、私たちの生活はお金なしには成り立ちませんので、働いてお金を稼いだり、少しずつ投資して将来に備えたりします。生活のあらゆることがお金を中心に回っているようにも見えます。そのような中で、富を地上に蓄えるのをやめなさいとか、お金に仕えるのをやめて神を愛しなさい、神に仕えなさいと言われても、お金なしには生きていけないこの世界で富を愛さず、神を愛することができるのでしょうか。

1.心配するな

まずイエス様は、食べ物、着る物のことで心配するなと命じています。

現代の社会と違って、日雇いの労働が多かったり、布が大変貴重だったりする社会で、明日の食べ物が確保できるか、着ているものが擦り切れたらどこから布を調達するか、といったことは日常的に人々が心配する事柄でした。

今日、私たちがその点で心配することが少ないのはとても幸いなことです。もちろん、日本の社会の中にも貧困家庭が密かに増えていますし、ちょっと不安に駆られるとお米の買い占めなんてこともあります。東京や大阪では米が手には入らないと聞いて「大変だなあ」と気楽に考えていましたが、ここ数日、スーパーに買い物に行ったらどこも売り切れていて「岩手でも?」と驚きました。

それでも、イエス様の時代の庶民の暮らしから考えたら、ずいぶんと豊かな社会に私たちは生きています。パックのごはんもあるし、パンやうどんも手に入ります。それでも私たちもいろいろなことを心配します。そして、そんな私たちに対してもイエス様は「心配するのはやめなさい」と言います。

どういう意味でしょうか。「心配する」という言葉はある英語の聖書では「関心を払いすぎる」というふうに訳されています。まったく気を遣わないとか、何も考えないということではなく、優先順位を間違えたり、度を超した心配を戒めていると言えます。

というのも、食べ物より「自分のいのち」が重要だし、着る物より「自分のからだ」のほうが重要です。そして、神様は私たちのいのちとからだを大切にし、気に掛けてくださる方だから、当然、私たちのいのちとからだの健やかさのために必要なものについても備えてくださると信じるべきだと言っているのです。

そう考えると、イエス様の時代の庶民と比べて、衣食住についてそれほど心配しない私たちが、食べ物についてものすごく気を遣ったり、着ている服が流行に乗り遅れていないか心配したりしているのに、私たちの魂が健やかであること、つまり神様との関係や家族や友人との間に平和と喜びがあるかどうかをないがしろにしているようなら、私たちが向けるべき関心や優先順位が間違っているといえます。それは食べ物や着る物に限りません。たくさんの友だちや知り合いを作ることやSNSでいい反応が貰えることには一生懸命気を配っても、神様や親、最も親しい友人との関係に無頓着でいたら、心配すべきはそこじゃないだろと言われます。老後の生活や健康についていろいろ心配はあるのは当然だけれど、残された時間の中で向き合うべき過去や誤らなければならない誰かとの関係に心を砕いていないなら、やはり、あなたが心配すべきことはそれじゃないだろとイエス様に言われます。

いったい私たちの心を占めている関心事は何でしょう。私たちのいのちや体を健やかに保ち、私たちの魂が健康であること、神様や近い関係にある人たちの間に平和と喜びを求める以上に、何かに心を配り過ぎているなら、「心配するのはやめなさい」というイエス様の戒めをしっかりと聴く必要があります。

そこでイエス様は、そういうことで心配しなくても良い理由を身近な自然界でよく目にする光景を例にあげて説明します。

2.空の鳥と野の花

空の鳥と野の花を見るようにとイエス様は言われました。田舎のガリラヤ地方の人たちにとってはもちろんですが、イスラエルの人々にとって、それは日常的に見かける、ありふれた景色です。

決して、ジャングルの奥深くに行かないと見られない貴重な鳥ではないし、高い山の限られた場所に行かないと見られない植物でもありません。そこらへんを楽しそうに飛んでいる鳥であり、足元を見ればよく見かける可愛い花です。

この「ありきたりの、よくある」というところが大事です。神様は、ありきたりの、よくある鳥や花に目を掛け、手を差し伸べていてくださいます。

イエス様は空の鳥が「種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません」と言っていますが、私たちに働かなくてもいいと言っているわけではありません。ポイントは、天の父が養ってくださっているから、鳥たちは食べ物のことで心配しない、ということです。鳥だって食べるために餌を探します。上野の公園にある桜にはたくさんのメジロが集まって一生懸命密を吸っているのがとても楽しげで、可愛いです。可愛いだけじゃなく、カラスがゴミをあさったり、収穫間際のトマトや美味しそうなトウモロコシをつつきに来たりもするわけです。でも、神様が備えてくださる食べ物があるから、心配したりはしないのです。

野の花はどうでしょうか。イエス様が話しを聞いていた群衆と一緒に眺めている花は園芸用に品種改良された豪華な花ではなく、そこらへんに咲いている、雑草といってもいい花です。畑に拡がったら、明日には刈り取られて焼かれてしまうかもしれない、そんな花もまた、働きもしないし、糸を紡いで布を織ったりもしませんが、神様は栄華を極めたソロモンよりも美しく装ってくださいます。

最近あまりカメラを持ち歩かないのですが、花の写真をクローズアップで撮るのが好きで、教会の庭に咲く花もよく撮っています。とくに雨上がりや朝露に濡れた花を間近で見ると、その姿の美しさや可憐さはほんとうに感動的です。

もっとも、この話しのポイントもまた、仕事をしなくていい、努力をしなくても美しくなれるということではなく、花は自分の姿のことで心配したりはしない、神様が備えてくださるもので十分美しいということです。

イエス様は空の鳥が心配しないでさえずっている様子の楽しさやそこら辺に咲いている花の美しさをみんなが共感してくれることを分かっていて「あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではあありませんか。」「あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」と問いかけます。

13年前の震災の後、少し経ったころです。大船渡教会の補修工事が始まって間もない頃だったと思います。教会の近くの住宅街の通りには壊れた自動車がそのままになっていました。教会に向かう途中の家、そこもいくらか津波を被ったお宅でしたが、その家の庭先に梅の花だったと思うのですが、綺麗に咲いているのを見て、「きっとダイジョウブだ」と訳もなく感動したのを覚えています。妻のガンが見つかるのはその後の事ですが、津波の後でもああやって花を咲かせてくださる神様が、私たちを見離すわけがないという信仰は大きな力になりました。

3.神の国とその義

さて、心配してはいけないという命令から始まった今日の教えですが、31節から33節で結論が示されます。

空の鳥を養い野の花を美しく装ってくださる神様は、私たちの必要をご存じで、私たちに良くしてくださるから、心配しなくていい。そういう神様を知らない異邦人は神の配慮と愛を知らないから心配になっても当然だけれど、あなた方は心配しなくていいのだと語ります。

もう一度繰り返しますが、食べるために働く必要がないとか、がんばらなくても美しい体型を維持できると言っているわけではありません。私たちの関心が食べ物や着る物、将来のための蓄えや人より贅沢ができるかといったことに傾くことを戒めているのです。

聖書の別の箇所では、一生懸命働くことを教えていますし、しっかりと稼ぐことで自分の生活を安定させるだけでなく、困っている人のために献げることもできるようになると教えています。私たちが良く知っているように健康を維持するためには努力や節制が必要ですし、それ以上に美しくなりたいとか、強くなりたいならもっと努力が必要です。それが悪いということではありません。しかし、最優先にすべきことを忘れて関心を向けすぎてはいないか?と戒めているのです。

イエス様は33節で、神の民とされた者たち、イエス様の弟子たちがこの地上で最も大切にし、一番の関心を寄せるべきことは「神の国と神の義」だと教えます。それを大事にしていれば、それに加えて必要なものはすべて与えられると約束します。

では「神の国と神の義」を第一にするとはどういうことでしょうか。もっともシンプルな考え方は、となりのページの9節から13節の「主の祈り」に示されています。月に一度は礼拝の中で一緒に唱和していますから暗記している方も多いと思います。

主の祈りの中で最初に祈る内容は「御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」です。

つまり、神の国とその義を第一に求めるとは、神様を神様として認め、尊び、そのみこころがこの地で行われるように、という願いであり、私の生活と人生の中で神様のみこころを行ってください、という献身です。私たちの一番の関心、願いをそこに合わせるのです。それは自ずと、神様との関係が良い状態になっているか、神様が願っているような家族や兄弟姉妹、隣人との関わり方が出来ているか、それらを良いものにするには自分がどうしたらいいか、ということに心が向くようになります。

もちろん、仕事もするし、将来のために蓄えたり、趣味やゆとりのある生活のために時間とお金を使ったりもします。しかし神様との関係や大切な人々との関係をないがしろにしたり、犠牲にしてまでするようなことではないと、バランスを取り戻すことができます。神様は私たちの必要を知っていますし、単に最低限の衣食住ということだけでなく、精神的なゆとりやリラックスした時間が必要だということもご存じです。神様がそういうものをちゃんと与えてくださる方だから、信じて、本当に大事にすべきことを第一にするようにと教えておられるのです。

適用:今日のことを

「ですから」ではじまる最後の34節は、神の国とその義を第一とするなら、神様が私たちの必要とすること、心配していることを備えてくださるという結論を日々の暮らしに適用しています。

「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に十分あります」

似たような台詞に「明日は明日の風が吹く」というのがあります。こちらは江戸時代の歌舞伎に登場する台詞が元ネタだそうです。歌舞伎の台詞は、今日は辛いことがあったり酷い目に合っても、明日はまた違う風が吹く、きっと良いことがあるに違いない。そんな楽天的な、励ますための言葉です。

それはそれで良いなあと思いますが、イエス様は何をおっしゃっているのでしょうか。

生きていれば大変なこと、心配なことがあるというのは、どの時代のどんな国の人でも分かることです。イエス様の周りにいた人たちのように食べ物や着る物などの具体的な必要に関する心配毎もありますし、自分の選んだことがどんな結果を招くか、この道で正しいのかという心配もあります。だから明日は今日より良い風が吹いて欲しいというのは誰もが持つ願望かも知れません。

しかしイエス様は、私たちが本当の意味で楽天的になれる根拠を与えてくれました。神様は空の鳥や野の花よりも大切な私たちのことを気に掛けてくれて、良いものを備えてくださる方だから、心配することはない。となれば、私たちはどんな生き方ができるのか。

明日のことは神様に任せて、今日のことを誠実に、ということに尽きるのではないでしょうか。

「労苦はその日その日に十分あります」とイエス様がおっしゃっているのは、毎日の仕事、労働のことだけを言っているわけではないと思います。外での仕事や家での労働も含め、今日この日に、神の御名が崇められるように、神様のみこころがこの仕事や労働を通して行われるように、私が関わる人たちの間に平和があり、愛と喜びがあるように、そのための、今日なすべき労苦に誠実でありなさいということではないでしょうか。その視点、その目標がないと、私たちの労働や努力は神の愛と備えを知らない人たちと何ら変わらないものになってしまいます。そういう労働や努力に価値が無いとは言いませんが、神の御国がこの地に来ますように、という祈りには結びつきません。

今日のノルマをこなせたか、予定していたことを落ち度なく出来たかといったことは職場では重視されるでしょうし、給料に響くからちゃんとしたほうがいいです。でも、神の御国の民とされた私たちは別な視点で一日を評価しなければなりません。上司や同僚や取引業者の人にどんな関わり方をしたか、家に帰った時に家族にどう振る舞い、家族の一員として自分は何をしているかと。夫が帰って来たときにどんなふうに迎えたか。子どもに対してはどうか。悲しみや弱さの中にある教会家族の仲間のために何ができたか。忙しい毎日では、どうしても穴があり、うまく出来ないことも多いです。

でもイエス様は完璧じゃなきゃだめだとは言っていません。第一に求めなさいと言っているのです。心配するのをやめ、今日の私の一日の中に神様の御国が現れることを願い求めましょう。

祈り

「天の父なる神様。

イエス様は私たちに「心配してはいけない」とおっしゃってくださいました。ただの気休めや無理な命令ではなく、空の鳥や野の花を養い、飾ってくださる父なる神様が、私たちを愛し、良いものを備えてくださることを信じて、心配することはないと励ましてくださいます。

それよりも、御国が来ますように、みこころが天で行われるように、地でも行われますようにと、私たちが祈っていることが、私たちの願いとなり、日々の暮らしの中での一番の求めとなるように励まし導いてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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