2024-10-13 いのちをもたらす務め

2024年 10月 13日 礼拝 聖書:コリント第二 3:1-11

 キリスト教信仰は神様に対しては祈り、賛美、礼拝などで、また人に対しては夫婦関係、家族関係、社会、奉仕、福音の証、隣人への愛の奉仕などのかたちで具体的に表されます。それらが適切に行われるためには、みことばに聴くこと、つまり自分で聖書を読んだり、学んだり、教えを聴いたりすることが重要です。

しかし、このみことばを聴くということが、日曜日の礼拝で説教を聞くだけで終わらせたり、とりあえず聖書を通読するだけで終わらせず、自発的に、主体的にみことばを学んでいるかというと、なかなかそうはいっていないかも知れません。

体を動かす奉仕や、とりあえず参加して座っていてもできる賛美や礼拝と比べ、みことばに聴くことには他にはない集中力や自発性が求められます。ちょっと苦手意識を持つ方もおられるかと思います。

また別な理由としては、教会で聖書を教える人たちに対する敬意が払われてないときに、神のことばを聴こうというより、何か評論家のように話し方や内容の拙さやぎこちなさに注意が向かっているということがあります。若い牧師たちや経験の浅い説教者、教師がそうした目で見られることにプレッシャーを感じ自信を失うこともあります。けれども、このような問題は使徒パウロのような経験豊かな働き人に向けられることもありました。

1.推薦状を求める人々

問題の多かったコリント教会でしたが、使徒パウロにとっては「お荷物」どころか、自らの働きによって生まれた教会であり、どれほど混乱し、間違いが多くても愛して止まない教会でした。

しかし、そんなパウロの愛にもかかわらず、失礼にも使徒パウロの権威を疑い、推薦状を求める人たちがいました。コリント教会の一部の人たちであるには違いないのですが、こういう声は教会の雰囲気を大きく変え、悪くしがちだということは皆さんも容易に想像が付くのではないでしょうか。

コリント教会の様々な問題について相談を受けたパウロは、何度か手紙を書き、また実際に足を運んで心に大きな悲しみと痛みを抱えながら、それを隠す事無く、しかし明確に問題は問題として指摘し、指導しました。

その結果、多くの人たちが悔い改めへと導かれたのですが、一部には「なんでパウロがいちいち口を出してくるのか」「どんな権威があるのか」と不満を言う人たちがいました。

3:1には「私たちは、またもや自分を推薦しようとしているのでしょうか」とあります。パウロたちが自己推薦したことはないのですが、まるで自分たちの業績をチラつかせて自己推薦していると悪口を言う人たちがいたのです。

一方では、誰か権威ある人からコリント教会に宛てた推薦状とか、パウロがほかの教会で働きやすくなるようにコリント教会からの推薦状を持たせてあげようかといったことが必要なのだろうかとパウロは問いかけます。

もちろん、そんなものは必要なかったのです。2節で「私たちの推薦状はあなたがたです。」と、コリントのキリストにある兄弟姉妹たちの存在、コリント教会という信仰の群の存在が、パウロの働き人としての正当性、権威を証明するものでした。

パウロがコリントの町に長くとどまり、夜昼となく人々を教え、福音を宣べ伝えて来たことは誰もが知っていることでした。しかも、パウロは生まれたばかりの教会に負担をかけまいともらう権利のある給料ももらわず、自分で働いて生活費を稼ぎながら福音を伝えました。

そのようにしてコリントに教会が生まれ、賜物豊かな人々が集っていました。間違いもありましたが、パウロの教えに応答して悔い改め、へりくだることでさらに信仰的に成長する人たちも多くいたのです。そういう人たちの存在、そんな教会の交わりが、パウロがこの福音の務めに相応しい者であることを証明していたのです。だから「私たちの推薦状はあなたがたです。」ということが出来たのです。

ではなぜ、ある人々はパウロに推薦状を求めるようなことをしたのでしょうか。

パウロがペテロやヨハネと同じようにイエス様によって任命された使徒であることを本気で疑ったのでしょうか。「私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれています。」とあるように、十分な資格がある事は誰の目にも明らかだったのですから、むしろパウロの言葉に従いたくない、使徒たちの教えを聞きたくないことの言い訳に利用したのではないかと思われます。

2.いのちをもたらす務め

コリント教会のクリスチャンたちのうちに起こった変化は、使徒たちの福音の務めがいのちをもたらす務めであることを指し示していました。

先ほども読み返した3節の続きにはこのように書かれています。「それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書きしるされたものです」。

この表現は、旧約の預言者エレミヤによって預言された預言に基づくものです。エレミヤ31:31~33を開いて見ましょう。

「見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

パウロは、コリントのクリスチャンたちの心の内に起こった変化こそが、エレミヤの預言した新しい契約が結ばれた時に約束されていたことの成就なのだと言っているのです。約束のキリストによって結ばれる新しい契約は出エジプトの時の古い契約とは違います。もちろん、同じ神様であり、契約を通して約束された祝福は変わっていないのですが、神様と人との関わり方、特に、神のことばがどのように人々に語られるかが変わります。

それをパウロは、墨で書かれたものではなく御霊によって、石の板ではなく人の心の板に、と表現します。つまり新しい契約では、以前のようないつか消えてしまう文字や命令の集まりの律法をではなく、聖霊によって新しいいのちがもたらされ、私たちの心そのものを造りかえるということです。そして、パウロにとっては、そのような新しい契約が結ばれ、その約束が果たされたことを、コリントのクリスチャンたちのうちに見ているといっているのです。

コリント教会は、様々な問題を抱えていただけでなく、その解決のためにパウロは何度も手紙を書いたり、足を運んでいます。コリント第一と第二の手紙の間にも、聖書には含まれていませんが、もう1通手紙を書いたことは確実です。同じ問題を何度も何度も丁寧に取り扱い、その度に悔い改める人々がいる一方で頑なになる人々がおり、今回もまた推薦状がどうのこうのと失礼極まりないことを言ってくる人たちがいました。それでも、この手紙の書き出しのところで宛先のコリント教会に対して「コリントにある神の教会、ならびにアカイア全土にいるすべての聖徒たちへ」と書き送っています。あくまでクリスチャンとして、神の民とされた聖徒たちとして認め、扱い、接しています。

それはパウロの人柄や気持ちの問題ではなく、どんなに問題が多くても、キリストによる新しい契約によって神の民とされた人たちだからです。たとえその成長がままならなくても、彼らの心の内に聖霊が働いていのちを与え、心を造りかえる働きがゆっくりであっても続いているのは確かで、パウロはそのようないのちをもたらす務めを誇りに思っているのです。

3.新しい契約の栄光

今日読んでいただいた箇所の後半、4~11節では、いのちをもたらす務めがどれほど栄光に富んだものかを語っています。

パウロは5節で、「何かを、自分が成したことだと考える資格は私たち自身にはありません」と明言します。自分の能力や努力で人の心を新しくしたり救ったりするのではありませんし、そのような務めに相応しいと認めてくださるのも人間の努力や才能ではなく、神様ご自身です。しかし、なぜパウロが、この務めの栄光について語るのかというと、例の推薦状を求める人たちに対するある種の反論として語っているのです。

コリントのクリスチャンたちのうちに聖霊が働き、たとえゆっくりだったり、寄り道があったとしても、確かに心が造りかえられていることが明らかで、それ自体がパウロが教えるみことばの奉仕が神によって委ねられたものであることを証明しているのに、あえて推薦状を求めることは、新しい契約による素晴らしい働きが始まったのに、あえて古い契約にしがみつくのと同じようなことです。

神様はパウロや使徒たちに、そして教会に、新しい契約に仕える務めを与えてくださいました。それは「文字に仕える」のではなく「御霊に仕える」ことです。

何を言っているかというと、7節にあるように「石の上に刻まれた文字」つまり律法ではないということです。紙に墨で書かれた推薦状と石の板に書かれた律法を重ねています。律法自体は良いものですが、文字で書かれた613もの命令は、一連の戒律として捉えた人間の解釈のために、命を与えるよりは人々を罪や汚れに定めものになりました。それで「文字は殺し」と言われ、石の上に刻まれた文字に仕えることは「死に仕える務め」とさえ言われるのです。

しかし、それでもモーセが律法を受け取った時に表された神の栄光は、イスラエルの人々が直視できないほど神の栄光を映すものでした。であるなら、古い契約に基づく律法ではなく、キリストによって結ばれた新しい契約に基づいて人の心のうちに働く御霊に仕える奉仕はもっとすばらしい神の栄光を映すものではないでしょうか。11節にあるように、どれほど古いものが優れていても、もっと優れたものが現れたら古い栄光はかすんでしまうのが当然です。

大谷選手が新しい記録を作るたびに、過去の栄光が霞んでいくように、古い栄光は廃れていくのが当然です。話しを戻せば、推薦状を求める人たちは、古い律法の基準であったり、人間の価値観に基づいて資格のあるなしを問いましたが、パウロは、イエス様によってもたらされた新しい契約により、御霊の働きに直接仕える者として、もはや古い栄光を求めるようなことはしない、そんなことは愚かなことだと言っているのです。

モーセは神の栄光を映して自分の顔が輝いていたので顔を布で覆いましたが、パウロはそんなことは不要でした。18節に「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」とあるように、イエス様を信じたすべての人が聖霊によって、造りかえられ続けるのです。文句を言っているコリントのクリスチャンも、同じこの栄光の務め、御霊なる種の働きのうちにすでにいることを気付いて欲しいのです。

適用:言い訳せずに

結局のところ、パウロに推薦状を求めた人たちは、誰か権威ある人からの推薦状を見て確認したかったわけではありません。ただ、パウロの言うことを聞くのがしゃくに障っていただけかも知れません。

しかしパウロが気付いて欲しかったのは、自分が使徒としての働きに相応しいことを証明できることではなく、コリントのクリスチャンたちのうちに始まった御霊の働きは、確かに生きて働いていて、たとえいま反抗的な態度を見せている人たちであっても、彼らもまた新しく造りかえられ、栄光から栄光へ、主イエス様と同じ姿になるまで変えられ続けということです。なぜなら、この救いはキリストにある新しい契約に基づいていて、ご自分を偽ることのできなきない神様の約束と誓いによるからです。

反抗的な態度を取っているクリスチャンたちにも、すでに彼ら自身、そういう歩みの中に入れられていることを知って欲しいのです。そこに気付けば、推薦状を求めることがどれほど陳腐か分かるというものです。いろいろ言い訳を探して、心を造りかえ、いのちをもたらすために語られるみことばを拒むのではなく、素直に聴く者になって欲しいのです。

昨年、70周年記念礼拝の時に、かつて神学生時代に一年間奉仕してくださった佐藤先生を説教者として招きました。ピチピチの神学生だったことしか直接は見ていませんが、皆さん、将司先生を迎えることを喜んでくれました。幸い、誰も推薦状を求めたりはしませんでした。懐かしさもあるかも知れませんが、福島の教会で忠実に仕え、原発事故によって避難生活を余儀なくされた兄弟姉妹のために身を削って奉仕していることも知っているからこそ、安心して奉仕を任せることができましたし、語られるみことばに聴こうと思うことができたわけです。

ところ、時に私たちはいろいろな言い訳を思いついてみことばに聴くことに心を閉ざします。説教者に対する個人的な思いだったり、その時の自分の状況や感情のためにそうしてしまうのかもしれません。しかし、今日の箇所が示すように、私たちがどんな状態にあっても、心持ちがどうであっても、すでにイエス様を信じて、新しい契約に基づいて聖徒された私たちのうちには生きておられる聖霊様が働いています。みことばが語られる時、聖霊様はみことばを通して私たちの心に書き込むように、ゆっくり、じっくり、私たちの心を新しく造りかえてくださいます。

推薦状を見せろと要求する人たちのように、感情的に心が閉じている時でさえ、永遠に変わることのない新しい契約に基づいて聖霊は私たちに語りかけ続けます。なんとかして、私たちを主イエス様に似た者へと変えようと忍耐強く、働き続けてくださいます。確かに、振り返ってみれば、心が頑なになっている時も、心の中がちくちくと痛み、思い起こせばそれは聖霊が語りかけていたのだと分かります。

だから、私たちはいろんな言い訳を探すのをやめて、語られるみことばを素直に聴きましょう。自分が聖書を読む時も、説教でお話を聴くときも、学びのために聖書を開くときも、神様が私たちの心の内に素晴らしいことをしようと語りかけてくださっていることを思い出して、耳を傾けるようにしましょう。

祈り

「天の父なる神様。

私たちにうちに住まわれる聖霊様が、私たちにいのちをもたらし、私たちの心を新しく造り替えようと、たえず働き、みことばを通して語りかけてくださいます。イエス様が私たちを愛し、いのちをもって贖ってくださったからです。神様にとって何にも代えがたい私たちを、このいのちの完成の時まで、イエス様に似た者に造り変えられるまで、忍耐強く語りかけてくださいますから、私たちもいろいろな言い訳を探すのではなく、柔らな心、遜った心でみことばに聴く者であらせてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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