2025年 2月 9日 礼拝 聖書:エペソ3:1-13
今日開いている箇所は、パウロのユーモアが垣間見える書き出しで始まっています。救いはユダヤ人だけでなく、律法の外にいる、彼らが異邦人と呼んで遠ざけていた人たちにも等しく与えられるのだとパウロが言い広めていたことに腹を立てたユダヤ人が難癖をつけて訴え、裁判を待つ間、パウロは囚われの身となっていたのです。
そうした状況について、エペソのクリスチャンだけでなく、多くの人々がパウロの身を案じつつ、ある種の信仰の危機に直面していました。なぜ神様のご用のために労苦している人がそういう目に遭うのか。なぜ神はペテロを牢獄から連れ出した奇跡をパウロの身に起こさないのか。それに対してパウロは「私はローマのじゃなく、キリストの囚人なんだ!」と笑い飛ばしているかのようです。
私たちも苦難に直面したとき、ユーモアをもって笑い飛ばせるくらいの心のゆとりが欲しいところですが、なぜパウロはそんなふうに言えたのでしょうか。
1.委ねられた務め
パウロはユーモアとともに、今日の箇所の最後の節では、自分のことで皆にがっかりしてもらいたくない、ということを結論として言っているのですが、その説明のために、自分に与えられた務めについて語り始めます。2~7節です。
パウロには二つの大きな使命が与えられました。これらの務めが与えられたこと自体をパウロは自分に対する大きな神の恵み、贈り物だと考えていました。
パウロに与えられた務めの一つは何度も繰り返されているように、「キリストの奥義」を人々に明らかにするということです。その中身は、3節にあるように、手紙の前のほうで簡単に書かれています。少し振り返ってみましょう。1:9~10を読みましょう。
神のご計画に従い、キリストにあってすべてが一つに集められると、確かに「短く」書いています。もう少し具体的に言えば、神の民、選びの民と呼ばれてきたユダヤ人だけでなく、彼らが異邦人と呼んで遠ざけて来た人々も全く等しく、イエス様による罪の赦しと救いが与えられ、共に神の国の民、神の家族の一員とされ、一つにされていく。そしてこの新しい交わりにはそれまであったあらゆる隔ての壁が取り除かれ、和解と平和が与えられるということでした。6節では「キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人となり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になる」というふうに描かれていますが、これはイエス様を信じた者が、神の子どもとされ、教会の一員となり、神の国の民となることを表しています。2章で教えられて来たことをまとめています。
今の私たちは、初めから福音をそのように聞いていますが、3:5にあるように、以前はその奥義は人々には知らされていませんでした。しかし、神様がパウロにこの奥義をお示しになったことで、他の使徒たちもイエス様の救いがどういうものであるか、誰のためのものであるかをはっきり理解し、今では彼らも確信をもって教えるようになっているということです。
そしてパウロに与えられたもう一つの務めは、異邦人も神の家族に加えられるという、神の奥義を、良い知らせとして、福音として、その当事者である異邦人に伝えるという役割です。
パウロはもともとは、ユダヤ教パリサイ派という、ユダヤ教の中でも厳格なグループの中で育ち、教育を受け、非常に熱心に律法と伝統を守り、熱心さのあまり、クリスチャンたちを迫害するほどでした。しかし、ダマスコという町に行く途中で突然強い光に照らされ、視力を失った状態でイエス様の声を聞きます。そして、自分たちが待ち望んでいた救い主が、自分が迫害しているクリスチャンたちが信じているイエスであることを悟り、人生が大きく変わりました。イエス様は彼を異邦人に遣わす選ばれた器だとおっしゃいました。数年後、パウロはアンテオケの教会から派遣される形で福音を、つまり、ユダヤ人だけでなく誰であってもイエス様を救い主として信じるなら、罪赦され神の家族、神の国の民とされることを伝える旅に出るようになるのです。エペソの教会もそのような旅の中で生み出された教会でした。
だから、エペソの人たちはパウロが何のために旅をし、苦労しながら教会を建て上げているか、それを神の恵みとして受け止めていることをよく知っていたのです。
2.大きな恵み
では、パウロが福音の務めを受けたことをどれほど大きな恵みと感じていたかを見てみましょう。
8節でパウロは自分自身について「すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に」と、非常にへりくだった評価をしていますがどういう意味でしょうか。
誰かが自分のことを余り極端にへりくだった評価をすると、逆に嫌みっぽく聞こえてしまうことがありますが、パウロはどういうつもりなのでしょうか。
推察されることの一つは、パウロが使徒とされたことが、分不相応だと考えてということです。1コリント15:8を見てみましょう。新約聖書の349ページです。ここは、福音の中心的な内容について記している箇所で、イエス様が旧約聖書で約束され預言されてきた通りに十字架で死なれ、葬られ、三日目に復活されたことを書いています。イエス様がよみがえられたことの証人として使徒たちや弟子たちが上げられていますが、その末席に滑り込むようにして、パウロにもイエス様が現れてくださいました。「最後に、月足らずで生まれた者のように私にも現れてくださいました。」この表現は「未熟児」や「死産で生まれた子」のことを表す表現です。当時の医療技術では、未熟児が生き延びる可能性はほとんどありませんでしたので、月足らずで生まれる子というのは死んだも同然という意味合いがありました。
パウロが自分のことをそこまで言うのは、先ほども触れたとおり、その直前までむしろ教会を迫害し、イエスを敵とみなしていたことがあるからです。それは、他の使徒たちと比べて圧倒的に引け目に感じたとしても不思議ではありません。
しかし、パウロは「使徒たちの中で最も小さい」と言っているのではなく、「すべての聖徒たちのうちで」つまり、どのクリスチャンよりも自分は小さい者だと言っています。大げさな言い方なのでしょうか。後にエペソ教会の指導者となったパウロの弟子であるテモテに書き送った手紙の中にこんな一文があります。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(1テモテ1:15)。
テモテへの手紙はパウロの晩年近くのものです。歳を重ねるごとに、自分自身を見つめるとどうにも自分が救いを受けるにまるで相応しくないということを思わざるを得なかったのです。他の使徒と比べてということではなく、ただただイエス様によって与えられた恵みの大きさを考えれば考えるほど、こんなに大きな恵みを受ける資格が自分にあるようには思えない。具体的にパウロが自分のどういうところを罪深いと感じていたかは分かりません。それを詮索するより、その恵みの大きさと自分の小ささを考えると、与えられた福音が「計り知れない富」のように思えてくるのです。
そして、この計り知れない富を、一番相応しくない人間に思える自分に委ねてくださったことが、実は神様のご計画であり、知恵であって、この世界に対して神様の豊かな知恵、救いの力、大きな愛をはっきりと示すことになるのだとパウロは確信しています。たまたまではなく、神様はちゃんと考えた上で、小さい者に福音を明らかにし、委ねてくださるのです。
3.恐れず状況を見る
このようにして、イエス様によって誰もが罪赦され、救われ、一つの民、一つの家族とされるという奥義が明らかにされ、福音として私たちに届けられたことには、神様の大きなご計画と深い知恵によるものであり、そんな救いを受け取った私たちが自分自身の存在と比べてみれば、この救い、この福音が途方もなく大きな恵み、計り知れない富として見えてきます。
高級レストランで豪華な食事をした後で「いったい幾ら払わなきゃいけないんだろう」と内心焦っていた時に、太っ腹な先輩が払っておいてくれたことを知ったら、もうその寛大さに、ただただ、ありがとうございます!と言うしかありません。そんな驚きと感謝をもってイエス様の救いを受け取ったなら、私たちは12節にあるように、確信をもって大胆に神様に近づくことができます。なぜなら、私たちが恐れることなく、恥じる事もなく、神様に近づくことができるのは、この救い、この愛が、私たちの立派さや成功、努力に根ざしているのではなく、イエス様の十字架と復活に完全に根ざしているからです。私の中は見れば見るほどダメだなあと思いますし、歳を重ねるごとに成長しているかもしれませんが、同時に自分の中にある根深い弱さ、罪の性質に気付かされるのです。
しかしイエス様の救いはそのようなものをまるで気になさらず、大丈夫だと言ってくださり、この人たちとともに良い交わりを築きなさいと、教会の兄弟姉妹のもとへと導き背中を押してくださるのです。とんでもない大きな富が私たちに与えられました。
そのような福音の豊かさ、素晴らしさ、そしてその務めを委ねてくださった神様の大きなご計画と深い知恵という確信に立つ時に、13節の結論が見えてきます。
「ですから、私があなたがたのために苦難にあっていることで、落胆することのないようお願いします。私が受けている苦難は、あなたがたの栄光なのです。」
あなたがた、というのはエペソの教会だけのことを指しているわけではなく、エペソ人をはじめとする異邦人全体のことを言っているのでしょう。いわれのない攻撃をされたり訴えられたりすることも、思いがけない災難や、酷い目に遭わされたということではなく、生涯かけて取り組むべき使命を果たすうえでの労苦の一つに過ぎないとパウロは受け止めることができました。
小学校の子どもたちを連れて、農業体験に行ったことが何度かあります。種を植えたり収穫するのは楽しいのですが、熱い夏に畑の草取りをするとき、中には「暑い~」といちいち口にし、泥がついたと報告し、疲れたと訴えます。でも、一緒に仕事をしてくれる地元の農家の方は、何も言わずニコニコしながら、むしろ励ましながら作業を続けます。収穫に至るまでの途中の大変さは、たまにだけ体験する人には、大変なことに思えても、それもまた仕事の一部だと知っているのです。
普通なら、言いがかりをつけられて牢に入れられるなんて、とんでもない不幸なことであり、怒りを覚え、そんな目に遭わせた人たちを恨んで当然でしょう。しかし、パウロはキリストにあって人々に救いをもたらし、一つにするというもっと大きなストーリーの中で自分の経験を見ることができ、それによって今の苦難に目を背けることなく、しっかりと受け止めることができたのです。
適用:自分の経験を振り返る
昨年、ある友人の奥様が末期のがんであることが分かりました。友人は牧師であり、奥様は長い間、その友人とともに教会に仕えて来られました。余命数ヶ月と宣告を受け、話し合って積極的な治療は行わず、緩和ケアを受けることにしました。
二人ともクリスチャンとして死しのものを恐れることはないし、復活の希望を真剣に信じています。そして感謝なことに今年に入ってもまだ痛みはコントロールでき、日々の暮らしもわりと普通に出来ているそうです。そんなとき、二人がそれぞれ、聖書を読んでいる時、まったく同じ箇所が心に留まったという証を、つい先日お聞きしました。
その聖書箇所は詩篇112:7:8です。開いて見ましょう。
私たちは悪い知らせをあまり聞きたく無いし、聞いても「そんなはずはない」とか「きっと大丈夫だ」と否定したり、根拠のない希望を持とうとしたりしますが、種に信頼する人は恐れることなく、「自分の敵を平然と見るまでになる」と、詩人は語ります。お二人は、末期癌という悪い知らせを聞きましたが、主が共にいてくださるので、最大の敵とも言える死をも平然と見ることができるのだなあと確認しあったのだそうです。
パウロがローマの囚人となっていることをキリストの囚人だと言ってしまえたのも、そんな自分の置かれた状況を平然と見ることが出来たからですし、それが可能になったのは、自分自身が受け取った福音の恵みの大きさを思えば思うほどに、途方もない、計り知れない富としか言いようのない、大きな大きな恵みだったと実感していたからです。
ぜひ私たちも、受け取った福音の恵みの大きさを思い巡らしてみましょう。単に聖書が教えていることを頭で理解しようとするのではなく、この救いの恵み、福音の恵みを私が受け取ったということを、自分の経験を振り返りながら思い巡らしてみましょう。
私にはパウロのような、かつては教会を迫害していたというような経験はないかも知れませんが、自分の罪深さや弱さを思い知らされた経験はなかったでしょうか。
若い頃より、年を重ねて気付かされる根深い問題に気付かされはしないでしょうか。繰り返しくり返し、自分の人生の中で何度も同じ問題が起こってしまうということはないでしょうか。
「すべてのクリスチャンの誰よりも自分は小さい者だ」「私は罪人のかしらだ」と口で言うことが重要ではありませんし、そこまで思っていないのに、謙遜ぶるために言うべきではありません。そんなことをしなくても、神様の恵みの大きさの前で自分自身を見つめれば、十分に小さい者であることは分かるに違いありません。そして重要なことは、イエス様の恵み、愛、救いがとてつもなく大きいし、そんなスゴイものを私たちに与え、任せてくださったということに気付くことです。自分の弱さに打ちのめされることが大事なのではなく、恵みの大きさを味わうことが大事です。
この恵みの大きさを実感をもって味わうことができたなら、私たちは自分の人生を神様のご計画というより大きなストーリーの中で受け止め、自分に降りかかることがら、悪い知らせであっても、恐れず、詩篇の言葉を借りるなら「平然と見る」ことができるまでになります。
祈り
「天の父なる神様。
福音という計り知れない大きな富を私たちに与えてくださりありがとうございます。
私たちがイエス様を信じて救われ、時代を超え、世界中の兄弟姉妹と同じ神の民とされ、主にあって神の家族されただけでなく、福音を宣べ伝えるようにと私たちに福音の務めを委ねてくださいました。
自分のことを正直に考えれば考えるほど、私たちはまったく相応しくない者ですが、そういう私たちをあえて選んでくださったのもまた神様の知恵によるものだということに、ただただ驚くばかりです。
どうか、この恵みの大きさをじっくり味わわせてください。恵みと知恵に豊かなあなたに信頼することができますように。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。」