2025-05-18 あなたもあなたの家族も

2025年 5月 18日 礼拝 聖書:使徒の働き16:23-34

 先週は「母の日」でした。ご存じの方もおられると思いますが、「母の日」の由来は、一人のアメリカ人クリスチャンが、お母さんが亡くなった時に、教会で聞いた「あなたの父と母を敬え」という教えを思い出し、お母さんへの感謝の気持ちを表す方法はないかと考え、追悼会を開き、来られた方々にお母さんが好きだった白いカーネーションを配ったという出来事が始まりです。

聖書においては、家族は非常に大切なものとして扱われています。そして聖書は、救いの恵みというものを、個人のものとしてというより、家族にまで及んでいくものとして描いています。

今日開いている聖書箇所には、有名なピリピの看守が登場し、看守に対するパウロの言葉として「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という有名な聖句が出てきます。ある人はこの言葉を神の約束だと信じますが、また一方でなかなか変わらない状況に失望する人もいます。聖書はいったいどういう意味でこの言葉を記しているのでしょうか。

1.試練の中での言葉

まず、看守の心を開くことになった状況を見ていきたいと思いますが、そこで教えられるのは、試練の中にある時の私たちの言葉が与える影響力です。困難の中にあるとき、口にすることが、周りに与える影響力について見ていきましょう。

今日読んでいただいた箇所は、いきなりパウロたちが鞭で打たれて牢屋に入れられる場面から始まります。何があったのでしょうか。有名な箇所ですから知っている方もおられると思いますが、ざっとおさらいしてみましょう。

パウロは、今のトルコの北西部沿岸にあるトロアスという港町にいたとき、一つの幻を夢の中で見ます。一人のマケドニア人、つまりギリシャのマケドニア地方の人が「私たちを助けてください」と懇願するのです。そこでパウロと一行は、その地域一帯の主要都市であるピリピに来ました。

ピリピではリディアという商人の女性とその家族がイエス様を信じるようになりました。彼らがよく集まっていた川岸に通う途中、占いの霊につかれた女奴隷が毎日、パウロと仲間たちの後をついて来て叫び続けるので、困り果てたパウロはその女奴隷から悪霊を追い出してしまいます。その結果、占い女で儲けていた奴隷の主人が腹を立て、町の商売仲間を巻き込んで、パウロを訴えたのです。

それで行政長官はよく調べもしないまま、むちで打った上で牢に入れるという、犯罪者に対するような取り扱いをパウロたちにしました。実は、ローマ市民権を持っているパウロを裁判もなしにこんなことをしたら大問題だったのですが、パウロは文句も言わず、その決定に従っていました。

夜、鞭で打たれた傷が痛みますので、普通ならうめき声を上げるか、不当なことをされたと抗議の声を挙げそうなところですが、パウロとシラスは祈りつつ、賛美歌を歌っていました。そしてかなり大きな地震が起こります。

地震が収まると、牢の扉という扉が開いており、囚人を繋いでいた鎖も外れてしまっているようでした。囚人たちに逃げられたら看守として責任問題です。気が動転していたのか、看守は状況を確認する前に剣を取って自らいのちを断とうとします。

そこでパウロは看守を呼び止め、「みなここにいるから」と安心させます。

パウロたちだけでなく、なぜ他の囚人たちも逃げなかったのでしょうか。理由は書かれていませんが、文脈から読み取れることは、17節で占い女が宣伝していた、救いの道を宣べ伝えていた、いと高き神のしもべたちが、不当な扱いを受けてもなお、祈りつつ賛美を献げ、その祈りと歌に囚人たちが聞き入っていたということです。地震が起きたときに、彼らは神がパウロたちの祈りと賛美を聞いてくださったに違いない、彼らの神は生きているという聖なる恐れが、逃亡を思いとどまらせたのではないでしょうか。

もし、パウロたちが他の囚人たちと同じように痛みに不平を述べ、不当な扱いだと不満をわめいていたら「そうだそうだ」と共感を得たかも知れません。しかし地震が起こって扉が開き、鎖が外れたら、こぞって逃げ出したことは容易に想像できます。苦難の中でパウロたちが口にしたことが、周りに良い影響を与えていたのは間違いないと思います。

2.扉が開かれる時

次に、この出来事が看守にとっても扉が開かれる時となりました。大きな地震は牢獄の扉を開いただけではありませんでした。結果として、看守の心の扉を開くことになったのです。

我に返った看守は、そこでようやく明かりをつけ、牢獄の様子を確認しました。そして、パウロとシラスのもとに欠けより、ひれ伏します。地震で逃げ出せる状況だったのに、誰一人逃げなかったという奇跡的な状況は、明らかにパウロたちの影響によるものでした。だから看守もパウロたちを神のしもべだと認めたのです。

看守は30節でパウロたちに問います。「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか。」

この質問は何を意味しているでしょうか。この「救い」という言葉はどこから来たのでしょうか。

看守は引き渡されたパウロたちに足かせをつけ、牢に入れました。夜、パウロたちが祈り、賛美しているのを囚人達が聞き入っている様子を不思議な気持ちで見ていたに違いありません。そんなことはまず起こらないからです。そして、彼自身も恐らくパウロ達の祈りの言葉や歌っている賛美に耳を傾けていたことでしょう。

この人たちがなぜ牢に捕らわれることになったかは、大騒ぎになっていましたから看守の耳にも入っていたに違いありません。彼らが語っている救いの道とは何なのか考えていたかも知れません。

ピリピの町でどんな話しをしたかは書かれていませんが、17章にはアテネで語った内容が記されています。宗教熱心なギリシャの人々がまだ知らずにいる神、しかも人に仕えられたりする必要のない、生きておられこの世界のすべてを造り命を与えた神がおられ、私たちのすぐ近くにいてくださる。この神が私たちに悔い改めを命じている。キリストによってこの世界を裁こうとしているからだ。しかしキリストは私たちの罪が赦されるために身代わりとなって死なれ、三日目に復活して、神がこの世界をさばくこと、悔い改めを求めていることを明らかにした。そんな話しをしたはずです。

そこまで詳しい内容が看守の耳に入っていたかは分かりませんが、パウロたちが伝えている神が本当に生きておられ、力ある神だということは、さっきの地震と、パウロたちの祈りと賛美が囚人達に与えた影響から、はっきりと分かったのです。

だからあの女奴隷が「救いの道」と言っていたことをちゃんと知りたくて、「どうすれば救われますか」と答えを求めたのです。

これまでパウロたちは直接は看守に福音を語っては来ませんでした。ピリピの町に来てから証していたこと。また、女奴隷を悪霊から解放したために鞭で打たれ投獄されることにはなったけれど、その試練の中で彼らが口にしていた祈りの言葉や賛美の歌。それらはいずれも直接看守に向けたものではありませんでしたが、一本の糸で結び合わされるようにしてやがて看守の心に届き、地震とその後の出来事が最後の一押しとなって、看守の心の扉を開かせたのではないでしょうか。

ピリピの町で最初にクリスチャンになったリディア家族と違って、看守はそれまで聖書の話しを一度も聞いたことがありませんでした。そのような人々のために使徒たちの言葉と行動が備えとなり、神の時が来たときに、イエスが救い主であることに目が開かれていったのです。

3.あなたの家族も

第三に、私たちに差し出された救いは、自分だけのものではなく私たちの、それぞれの家族にも差し出されています。

31節の、看守に対するパウロの答えは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

この言葉はどのような意味で言われているのでしょうか。まず「主イエスを信じるならば救われる」というのは、使徒たちやクリスチャンたちが福音を語る時に常に語っていることです。イエス様を救い主として信じることだけが、救いを受け取るたった一つの方法です。他に何かをする必要はありません。

では「あなたもあなたの家族も」とはどういうことでしょうか。私がイエス様を信じれば、自動的に家族も救われるとか、私の信仰によって家族も救われるということでしょうか。そうした教えや約束は聖書の中にはありません。パウロが勝手にそのような約束を与えたのでないとすれば、看守が気に掛けていることについて語っているということです。

看守は救いについて考える時、自分だけが救われるというふうには考えられず、家族も救われるなければならないと考えていたのではないでしょうか。

日本ではクリスチャンになるとき、家の宗教を離れ自分だけがクリスチャンになるというケースがわりと多くなります。信仰は個人の自由だという憲法の理念も教育されています。信仰については、自分は自分、家族は家族と分けて考えがちな面があります。信仰が家や伝統、まして国家によって強制されないというのは非常に大事なことです。しかし、看守にとっては、そんなふうに分けて考えられるものではありませんでした。なぜなら、パウロが宣べ伝えていた福音は、個人的な悩みや苦しみから解放されるだけに留まらない大きなものだからです。

パウロがギリシャ世界で語っていた福音の大まかな内容は先ほどもみた17章に収められています。神を知らなかった世界が無知故に罪に捕らわれているのを見過ごしていたけれども、キリストがおいでになった今は、義を持ってこの世界を裁こうとしているので、悔い改めるよう求めている、ということでした。福音が指し示す救いは個人的なことや心の問題に留まらず、この世界全体の命運に関わることなのです。地震や災害があれば、まずは自分が助かることを考えなければなりませんが、当然、大事な家族の安全も優先事項です。たとえ前の日まで喧嘩をしていたとしてもです。

そういうわけで、救いについて考える時、看守が気に掛けていたであろう家族のことにもパウロは触れて、イエス様を信じれば、あなたも、もちろんあなたの家族も救われるのだと告げたのです。

そしてパウロは看守と看守の家族に改めて主のことば、つまり福音を語りました。正確には合法だったのか分かりませんが、その夜、看守は自宅にパウロとシラスを引き取りました。傷の手当てをし、それから直ぐに看守とその家の者全員、つまり妻や子どもたち、その家に属する奴隷などが、ということですが、全員がバプテスマを受けました。34節にあるように、それぞれが福音を聞いて神を信じたのです。他の囚人たちと同じように、二人を牢に戻す必要がありましたが、その前に心づくしの食事のもてなしをし、喜びを分かち合ったのでした。

適用:私の家族にも

さて、「あなたもあなたの家族も救われます」という言葉が、あなたの家族も救われますよという約束というより、あなたが気に掛けている家族にも救いは差し出されています、という意味だとすると、私たちはここから何を学ぶことができるでしょうか。

多くの人が経験していますが、キリスト教の背景がまったくない家庭でだれかが教会に行き始めたとか、キリスト教信仰を持ちたいと言うと、とても心配され、反対されたり「ほどほどにしておきないさいよ」と釘を刺されたりします。

学生時代、教会学校で中高生会を担当していました。その時、ある高校生は家族から大反対されていて、教会に来るのも家族に内緒で来たり、親の酷い言葉に泣きながら教会に来ることもありました。そうすると、気持ち的にはその子の味方になっていますから、理解のない家族は敵とまではいかなくても、なんでそこまで辛く当たるのかという悲しい気持ちになるのでした。

そのときの私のものの見方では、反対する家族から逃れて教会に来ているクリスチャン、というふうに見えていました。しかし、目の前の看守とその背後にある家族にも救いは差し出されているというふうに見ていたパウロなら、今、あなたに反対している家族にもまた神の救いを差し出されている。なぜなら神様はあなたも、あなたの家族も愛しておられるから、と言ったのではないかと思わされるのです。

信仰の問題は、ただ個人的なことに留まるものではないし、心の問題ではありません。もちろん、私たちの心に根ざす事柄で、他人が口を挟んでいいことではなく、個人として応答すべきことですが、この福音には、私だけでなく、私の家族をも神様は気に掛け、愛しておられ、救いを受け取って欲しいという願いが込められているのです。そして救いは私の生き方が変わるだけでなく、家族の人間関係や絆が主の愛と教えによって、もっと良いものに変えられることを目指していますし、それを可能するする神の力です。

皆さんの家族、夫や妻、親、子ども、兄弟などが、信仰についてキリスト教についてどんな態度、関心を持っているかは当然、異なります。十把一絡げには出来ませんが、少なくとも、神様の目は、いつも私とともに私の家族にも向けられていることをいつも思い出すようにしましょう。

私の家族はどうなりますかと看守が質問する前に、パウロが「あなたもあなたの家族も」と言ったように、神様は私たちが家族のことを気に掛ける以上に気に掛けてくださっていて、私たちが諦めたり、もうだめかなとさじを投げ出したくなるときでさえ、神様は愛と忍耐をもって、私だけでなく、私の家族に目を向けておられることを忘れないようにしましょう。

また、看守がすぐに家族といっしょに福音を聞いたようには、自分の家族の場合は、そんなにうまく行かないかも知れません。しかし看守の心が開かれるまでにパウロたちの証や、牢屋での振る舞いがジワジワと看守の心に働きかけ、地震とその後の奇跡的な出来事が最後の一押しになったように、私たちの家族の心が開かれるためにも準えが必要です。家族に対する日毎の関わり方、特に口にすることが大きな影響を与えることを思い出しましょう。そうしているならば、家族の心を開くための最後の一押しを神様がなさる時があります。私たちは神様がそのようなお方であることを信じて、家族のために祈りつづける者、良い心で仕える者でいましょう。

祈り

「天の父なる神様。

ピリピの看守が家の者全員とイエス様を信じバプテスマを受けた場面は、私たちにとって憧れであり、希望でもありますが、長い間その時を待ち続けて疲れたり、諦めてしまうことがあるのも事実です。

しかし、今一度、あなたが私だけでなく、私の背後にいる家族にも愛とあわれみの眼差しをもって見ていてくださり、その救いを受け取って欲しいと待ち続けておられることを覚えさせてくださりありがとうございます。あなたの深いご愛と忍耐強さを感謝します。

あなたのご愛と忍耐に信頼し、私たちも日毎の関わりの中で口にする言葉や態度に、神様への愛と喜びが表れるように助けていてください。その一つ一つが回りの人たちの心の扉を開く備えになることを信じていることができますように。

イエス様のお名前によって祈ります。」

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA