2025年 6月 25日 礼拝 聖書:ヨハネ16:23-28
イエス様を信じれば、喜びと平安が与えられると聞いていたのに、なぜ自分の生活には喜びも平安もないのかと嘆く人がいます。状況は様々なので十把一絡げには出来ませんが、一つの大きな理由として考えられるが、イエス様が見ておられ考えておられることと、自分が見ていることや願っていることとの間にズレがあるとき、「あれ?おかしいなあ」「平安がない」「しっくりこない」「嬉しくない」ということになりやすいように思います。
今日開いている箇所は、イエス様が十字架につけられる前の夜、最後の晩餐の席でイエス様が弟子たちに語ったものの一部です。イエス様が約束のメシヤとしておいでになったことを信じている弟子たちですが、彼らの先行きには暗雲が立ちこめていました。イエス様の口からは不安をかき立てるような予告が語られ、あなたがたはきっと悲しみ嘆きに打ちのめされるだろうとさえ言われます。この方に救いがあると信じてついてきたのに、これからどうなるだろうと、弟子たちは恐れ迷っていました。
1.「その日」には
しかし、イエス様は今日の箇所で、彼らの不安や悲しみが、確信と喜びに変わる日が来ることを告げておられます。
それが、今日の箇所で二度繰り返されている「その日には」から始まる言葉です。これはイエス様が十字架の死の三日目によみがえる日のことを指しています。
けれども、ご存じの通り、実際の出来事としては、イエス様が復活した朝から夕方にかけて、弟子たちの主な反応は「信じられない」というものでした。それでも復活はすべての疑問の答えでした。十字架で死んだ人がなぜ救い主、約束の王、メシアなのか。また、救い主であるはずの方が、なぜ十字架で無力に殺されるのか。自分たちが信じている方は本当に救いをもたらすのか、私たちの希望は本物なのか、という疑問に明解な答えを与えるのが復活です。
ですから「その日には」というのは、イエス様が復活した日曜日、その一日のことだけを言っているのではなく、イエス様が復活によって始まった全く新しい日々のことを指しています。
今日の箇所の前の節、22節を見てみましょう。「あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」
おそらく12人の弟子たちの中でイエス様が捕らわれていくのを目にして最も悲しんだのは使徒ペテロとイエス様を裏切ったユダでしょう。
ユダは、金に目が眩んでイエス様を裏切り、祭司長たちにイエス様を売り渡してしまいます。その金額は銀貨30枚。それは奴隷一人を売り買いするときの相場でした。しかしユダは激しく後悔し、祭司長たちに「無実の人を売ってしまった、何とかしてくれ」と泣きつきますが、「お前の都合なんか知ったことか」と断られ、絶望したユダは自ら命を絶ちます。ユダはイエス様が為そうとしておられる事も、それが自分のためでもあることを理解することも信じることもしないで、ただ、正しい方を裏切ったという自分に対する絶望に捕らわれてしまったのです。
一方、ペテロは、ユダの裏切りによって捉えられたイエス様がどうなるのかと気になり、こっそりついて行きます。裁判が行われている祭司長の家の中庭で、そこにいた人たちに次々と「お前もあいつの仲間だろう」と指摘され、三度も「いや、知らない、関係ない」と否定し、たとえ死んでも従いますと誓ったはずのペテロもまたイエス様を裏切ってしまいます。鶏の鳴き声と、中庭の向こう側から自分を見つめるイエス様の眼差しにハッとしたペテロは外に出て号泣します。
十字架の死から三日目の朝、マリヤたちが「主がよみがえった」という知らせをもたらし、ペテロは急いで墓に駆けつけ、墓が空っぽなのを確認します。しかし何が起こったのかうまく飲み込めません。それから何度もイエス様が彼らの前に現れようやく復活されたことを信じるのですが、ペテロの心は晴れませんでした。
ペテロの心が真に解放されるのは、ヨハネの福音書の最後の場面です。ガリラヤ湖のほとりで三度「わたしを愛するか」と問われ、三度裏切ってしまったことを否応なしに思い出し悲しみながらも「愛します」と応え、そこからペテロの新しい歩みが始まります。
2.すべてのなぞが解ける
イエス様の復活は、すべての謎を解く鍵です。
23節でイエス様は言われます。「その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。」
最後の晩餐での弟子たちとの対話は13章から始まるのですが、弟子たちは様々なテーマについて、何度もイエス様に質問しています。例えば13:31からイエス様はいよいよ十字架に向かう時が来た。わたしが行く所にあなたがたは来ることはできない。あなたがたには新しい戒めを与えよう。互いに愛し合いなさい、とお語りになりますが、それに対してペテロは「主よ、どこにおいでになるのですか」「主よ、なぜ今ついて行けないのですか」と質問します。
また14:5でもトマスが「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか」とまた質問しています。ピリポは14:8で「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」と大胆な要求をし、14:22では別のユダが「主よ。私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか」と問います。16:17では、弟子たちがイエス様のおっしゃっていることの意味が分からず「どういうことなのだろうか」と互いに言い合います。
弟子たちはイエス様が約束のメシア、新しい王として来られたと信じていました。しかし、救い主が祭司長たちに捨てられ、十字架で死ぬことになるということが分かりませんでした。
救いについても、彼らの理解はローマに支配されていた民族が解放され、約束の地に自分たちの国が再建されることだと思っていましたから、ローマへの反逆や重罪人の象徴である十字架による死が必要であることの意味が分かりませんでした。何より、死んでしまったらどうやって人を救うことができるでしょう。だからペテロはイエス様に「そんなことはあってはいけません」と慌てて口出しし「下がれサタン」と叱られることさえあったのです。
実際、イエス様が捕らわれた時には弟子たちはみな散り散りに逃げ出し、自分たちも捕まるのではないかと恐れて、日曜の朝まで息を潜めて身を隠していました。
しかしイエス様の復活がすべての謎を解く鍵となりました。死んで終わりではなく、父なる神が死なれたイエス様をよみがえらせることによって、確かにこの方が救い主であることがはっきりと証明されました。そして十字架の死は予定外のハプニングではなく、人々の罪の赦しのためにあらかじめ計画されていたことであること、それがずっと昔の預言者達を通して預言されていたことに気付かされます。なかなか進まないジグソーパズルが、あるピースをはめた途端に全体像が見えてきてどんどん進み始めるということがありますが、23節に「わたしに何も尋ねません」とあるように、復活によって、神様の救いのご計画の全体像が分かるようになるのです。そして神のご計画の中で使徒とされた弟子たちは、自分たちの務めが何であるかもはっきり理解するようになりました。神のご計画と自分の人生がピタッと噛み合ったとき、私たちは確信と平安を得ることができるのです。
3.イエスの名によって
イエス様の復活は、神様との新しい関係性をもたらします。26節には「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます」とあります。
これは23~24節でも言われていることです。「わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。」
私たちは、ふつうに「イエス様のお名前によってお祈りします」と祈っていますので、この節の驚くべき内容がいまいち伝わって来ません。
直前の25節では、これまではたとえで話して来たことを、たとえではなく、はっきりと語るようになるとか、26節でも、イエス様の名によって求めるというのは、私たちに代わってイエス様が父に願うというのではない、つまり、私たちが直接、父なる神様に願うようになるのだと、私たちと父なる神様との関係が直接的で親密なものになることが中心的な内容であることが分かります。27節では、この新しい神との関係性を、「父ご自身があなたがたを愛しておられる」と表現しています。
イエス様を愛し、イエス様を信じる私たちを、父なる神様が愛してくださっているのです。イエス様の復活によって、神様の救いのご計画の謎がとけ、全体像が分かるだけでなく、その神様に愛されている。そのような私たちの祈りを神様はちゃんと聞いてくださると、イエス様は約束されました。
というのは、神の救いのご計画を理解し、自分の人生の意味、目的が神の救いのご計画、いわば大きな物語の中での自分の役割がはっきり分かって確信があるとき、私たちの願いは自己中心で自分の欲を満たすためのものから、神様の思いにかなったものに自然と変えられていくからです。私たちがイエス様を愛し、神様も私たちを愛していることを知っているなら、あえて神様を悲しませるような自分勝手で罪深い願いを神の前に願ったりはしません。
もちろんこの祈りは、会社の上司の好みを忖度して、上司の希望に添うような願いだけをするのとは違います。互いに愛し合っている夫婦が、お互いの思いや願いを知っていて、それを叶えることが自分の喜びであるのに似ています。あるいは王と王を心から尊敬し慕う臣下の関係にも似ているかもしれません。
神様の救いのご計画を知り、その中でゆだねられている自分の務めがはっきり分かった使徒たちは、その実現に生きがいと喜びを覚えます。自分の得意なこと、与えられている才能、与えられている時間やお金が、いちばん生き生きと輝く生き方が分かったら、その時願うことは、神様の思いと重なり、神様もその願いを喜んでくださるのです。
もっとも、私たちの理解は完全ではないかも知れないし、時には自分のとても個人的な強い願いを、神様の思いに沿うことより優先させたい時もあるでしょう。祈りに対する答えが返って来るまでに、思った以上に時間がかかることがあるでしょう。しかしイエス様への愛と父なる神様への信頼が勝っているので不安に捕らわれたり、恐れることがありません。
適用:確信と喜びにあふれて
イエス様は、ご自身の復活が弟子たちの様々な疑問を解消し、待ち受ける悲しみを乗り越えさせる力があることを伝えました。そして父なる神様が私たちの願いを聞いてくださるのは、私たちの喜びが満ちあふれるようになるためだとおっしゃっています。
イエス様は私たちに確信と喜びに溢れて生きて欲しいと願っておられます。
その確信は、単にイエス様が復活したことについての確信ではありません。イエス様が十字架で死なれ、よみがえられたことで明らかになった神様の救いのご計画の全体像が分かり、その中での自分の役割、目的にも確信が持てるようになることです。
ではイエス様がよみがえったことで理解できた神様の救いの全体像とはどのようなものでしょうか。弟子たちは、イエス様がよみがえったことで、確かにイエス様が約束の救い主であり、王であることを確信しました。そしてイエス様による救いはイスラエル民族として国家を再建することではなく、イスラエルが破滅した根本的な問題、神に背を向けて生きようとする罪を赦し、取り除き、罪によって壊れた人生、社会を回復させることであることが分かりました。さらにその救いがユダヤ人だけでなく全人類にも等しく差し出されていること、そして弟子たちを通して、つまり教会を通してこの救いの恵みを届けるのが神のご計画であることを知りました。
救いは私たちが個人的に罪赦され神の子、神の民とされるだけでなく、この救いの恵みを世界中にもたらし、罪によって破壊された世界を回復する神様のご計画を担う者とされたということでもあります。
あなたがたを人間を捕る漁師にしようとか、わたしはあなたがたを遣わすとイエス様が言われたことがどういうことかようやく分かりました。タラントのたとえなどで、イエス様が再びおいでになるまでに、めいめいに与えられた責任に忠実であることを求めていることも分かります。それぞれの務めを果たすために必要な力を神様が備えてくださることも、鍛え整えてくれることも知っています。そして人生に起こる様々な苦難もまた、無意味なものは一つもなく、私たちを鍛え整えるものであり、また主が再びおいでになるとき報いてくださることも、天に蓄えられた祝福があることも分かりました。
聖書の理解という点では不完全で、また実際、意味の分からない聖書の言葉もたくさんあるかも知れませんが、神様が全体とそて何をなさろうとしておられるのかは分かり。そして、イエス様によって救われ、この世にあってなお生き続ける者とされている自分に何が託されているか、そのためにどんな力が与えられているかが分かるなら、私たちは確信をもって生きることができます。
私たちの信仰の歩みに確信や喜びがないのは、信仰心が弱いからとか楽しいことが経験できないからではありません。もっと教会で楽しいイベントをやったら喜びが増すというのではありません。神様のご計画の中で自分の生きる意味が明確になり、今も生きておられるイエス様が、もう一度おいでになるときまでに、生かされている人生を通してこれをすべきだ、これが託されていることだという確信があるとき、私たちは充実した歩みができ、イエス様と共に歩む喜びというものを味わうことができます。
イエス様は「わたしの名によって何でも願いなさい」と言ってくださいました。「私が人生を通してなすべきこと、あなたが私に託してくださったことを教えてください」という願いは、完全に神様のみこころにかなった願いです。まずはそこから始めてみましょう。
祈り
「天の父なる神様。
イエス様の復活が弟子たちの疑問や悲しみを取り去り、神様の御思いをすっかり分からせ、喜びをもたらしてくださったことを見ながら、私たちの人生について考えさせてくださり、ありがとうございます。
十字架で死なれただけでなく、よみがえってくださったイエス様を信じた私たちはいま、神様が何をなさろうとしておられるかを知り、めいめいに何を託してくださっているかを知ることができます。どうぞ、私たちに教えてください。そして確信を与えてください。私たちが生きるべき本当の人生を確かに歩んでいるという確信の中で、喜びと満足を味わうことができますように。神様がこの世界に生きる人々に赦しと恵み、癒やしと回復を与えてくださる御わざに、私たちたちなりに務めを果たせますように。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。」