2025年 6月 1日 礼拝 聖書:サムエル第一16:1-5
ダビデとヨナタンの友情の物語を読むと、ここまでの強い友情はなかなか得がたいなあと思わされます。
私自身の歩みを振り返ると、わりと自分から壁をつくってしまいやすいところがありましたので、こどもの頃から「友だち」と言える人たちはいても、あまり深い関わりは作らないでしまいました。今にして思えばもったいないことだなあとは思います。
それにしてもヨナタンの友情は、聖書の中でも飛び抜けているように思えます。いったいどういう意図でダビデとヨナタンの友情の物語は聖書の中に記されているのでしょうか。
今日は月一度の、年間主題にちなんだ箇所を取り上げる日ですので、友人となることによってどのような恵みの器になり得るのか、ヨナタンがダビデに示した友情からご一緒に考えてみたいと思います。今日お話することは、一般的な意味で友情とは何かとか、友だちとは何かではなく、友となることで神の恵みの器となることができること、その素晴らしさについてです。
1.主役はダビデだが
聖書全体の流れを考えると、明らかに主役はダビデです。ヨナタンとダビデの友情関係は、ダビデが歴史の表舞台に登場してから、ヨナタンが父であるサウル王と共に戦死し、生き残ったヨナタンの息子をダビデが優しく迎え入れるあたりまでのことで、ダビデの物語の初期の数ページのことと言えます。
一人ひとりの人間の価値に違いはなくても、役割の違いはあります。そういう意味で、ダビデは神の救いのご計画が歴史の中で進められていく中で、間違いなく重要な役割を果たした人物です。アブラハムに対する祝福の契約はイサク、ヤコブへと受け継がれ、出エジプトの時代のモーセ、そして王国時代のダビデへと受け継がれていきます。約束の救い主はダビデの子孫として生まれることが預言者達によって明らかにされ、約束のメシヤ、キリストはダビデ王のように神の国を統治する王として来られることが告げられていきます。ですから、ダビデの時代から1000年くらい経って人の子としてお生まれになったイエス様の時代、人々は約束のメシアを「ダビデの子」と呼ぶほどでした。
そのようなわけで、主役のダビデに対して、ヨナタンは物語の途中で退場する脇役のような役割と言えます。繰り返しますが、脇役であることがその人の価値が低いという意味ではありません。ヨナタンは、彼の人生においては主役であり、彼もまた自分の人生を精一杯生きた人です。
そんなダビデとヨナタンが出会ったのは、ある有名な戦いの直後でした。サムエル記17章に描かれている、巨人ゴリヤテとの戦いにダビデがその辺で拾った小石で倒してしまうという出来事です。牛若丸が弁慶をやっつけたみたいな、痛快な出来事です。
ダビデは、神に対する信頼と恐れを欠いたサウル王の代わりに立てられる王として、すでに預言者サムエルから油を注がれるということはありましたが、まだ歴史の表舞台には出ていませんでした。
イスラエルはペリシテ人との戦いで苦戦していました。とくにゴリヤテという身長3m近くある巨人の兵士はやっかいでした。一騎打ちを求めるゴリヤテに誰もいどむ者がいないのを嘆いたダビデは、主を侮辱するゴリヤテは私が倒しますと言って、挑戦を受けます。戦場に出たこともない少年ダビデは兵士たちが身につける鎧兜がぶかぶかで体に合わず、いつも羊の群を連れて野に出る時と同じ格好でゴリヤテの前に現れ、狼やライオンから羊を守るために使う、投石器を使って、小石ひとつで見事にゴリヤテを倒してしまうのです。
ゴリヤテを倒したのは誰かと気になったサウルが調べさせたら、それがダビデでした。ダビデはすでに王の下で仕えた経験がありましたが、サウルはダビデのことを全然覚えていなかったのです。
将軍に連れられてダビデがサウル王のもとに来た時、そこにサウル王の息子ヨナタンもいました。
王とダビデの会話を聞いていたヨナタンですが、18:1にあるように、ヨナタンの心はダビデの心と結びつきました。ヨナタンは「自分自身のようにダビデを愛した」という表現は何度も繰り返し登場します。近年、ある人たちはこの言葉に同性愛的なニュアンスを読み込もうとしますが、まったくそういう意味ではなく、ヨナタンの自己犠牲的な愛として表れる友情を表現しています。
2.友を支えるヨナタン
さて、ダビデを気に入ったサウル王はその日、自分のもとに置くことにし、家に帰しませんでした。
一方ヨナタンは、ダビデへの友情を3節にあるように「契約」という形で表しました。そして、自分の上着、鎧兜、剣、弓、帯といった武具までもダビデにプレゼントしました。着ている上着をプレゼントするなんて、現代人の感覚からするとピンと着ませんが、一国の王の息子、つまり王子が着ていた最上級の上着をつい昨日まで羊飼いとして生活していた若者にプレゼントするなんて、あり得ないことですから、どれほどヨナタンがダビデに心を許し、また友情を示したいと思っていたかが表れています。
ところで、私たちには友だちになるのに契約という言葉が出て来るのに違和感を覚えるかも知れません。最近では結婚する時、夫婦間で契約を交わしておくというカップルがいるそうですが、そういうのでしょうか。現代の契約はほとんどがリスク回避です。離婚した場合の財産分与や親権の問題で無用なトラブルにならないようにとか、将来訴訟になりかねないことを最初から決めておくという、いかにも現代的な感覚です。
しかしヨナタンがダビデと結んだ契約は、契約文書があったわけではなくても、昔ながらの、相手に対して誠実を尽くすという約束です。子どもたちが「今日から友だちになろう」という素朴な約束の延長線にある、シンプルで、利己的な思いのない約束です。
ここでは具体的に約束の内容は書かれていませんが、ヨナタンが実際にダビデに対してした行動を見ていくと、その内容は、ダビデがいかなる状況にあっても味方でいること、また危機に陥った時はいのちをかけてでも支え、助けるという約束であったようです。
ヨナタンは意識していなかったと思いますが、このような約束を伴った友情が、実際に神のご計画で大きな役割を果たすダビデを支えることになり、神のご計画の前進にヨナタンは重要な役割を果たすことになるのです。しかし、彼の心にはダビデに対する友情しかありませんでした。
国民や兵士たちの間でダビデの人気が高まっていくについれ、サウル王の嫉妬が最高潮に達し、自分の立場が危うくなるのではないかと恐れるようになりました。19:1ではサウルがダビデを殺すと王宮で宣言までしています。それでヨナタンはダビデに忠告し、またサウル王に思いとどまるよう説得し、危機を回避します。
ダビデはサウルの王宮では近親者もいませんし、信頼できる人もいませんでしたからヨナタンが友でいてくれることは大きな励ましであったに違いありません。そして、実際ヨナタンは何度もダビデを助けます。
20章では、いよいよサウルの疑いと恐れが強くなり、ダビデのいのちを狙い、それが本気であることを確かめ、逃がすためにヨナタンは一芝居打ちます。20:41~42では二人の別れの場面ですが、どれほど互いを大切にしていたかが分かります。そして二人の友情の柱となっていたのが、主に対する信仰であり、主の前での誠実さであることが分かります。ヨナタンは、王宮内で頼る者のいなかったダビデの友となり、ダビデが危機に陥った時には我が身を省みずに助けの手を差し伸べました。そうして、意図せずして、神のご計画が果たされていくために大きな役割を果たすのです。
3.自分が不利であっても
ヨナタンとダビデの友情に見られるもう一つの特徴は、どちらかというとヨナタンにとってメリットの少ない関係だったということです。というのは、ダビデはすでに預言者サムエルを通してサウル王に代わる次の王として神様に指名され、そのことを表す油注ぎという儀式を受けていました。普通だったらサウル王の後を継ぐのはヨナタンですから、言ってみればダビデはサウル王の跡目を争うライバルであったのです。
20:30~31を見てみましょう。サウルがダビデに対する疑い、恐れ、怒りが頂点に達し、それでもダビデをかばおうとする息子ヨナタンにも怒りをぶつける場面です。
この中で、サウルはひどい妄想にも捕らわれていることも見て取れますが、ヨナタンがダビデと友人であることは認識していて、それにも腹を立てています。そして、31節で、「エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も確立されないのだ」と指摘します。主がヨナタンではなく、ダビデを新たに王に立てようとしていることをサウルは知っていましたが、それでも息子に王位を譲ることを諦めていませんでした。もしかしたら、ヨナタンにはもっと王位を継ぐという意思を強く持って貰いたかったのかも知れません。自分の王位より、友情を優先するヨナタンに、そしてそこまで肩入れさせるだけの魅力があるダビデに腹が立って仕方がなかったのかもしれません。
ダビデとの友情を優先し、ダビデの味方になればなるほど、父との関係は悪化し、自分の王位継承の可能性はどんどん小さくなっていくとしても、ヨナタンはダビデを守ろうとしました。
少し戻りますが、20:13を見てみましょう。「主が父とともにおられたように、あなたとともにおられますように」と言っています。ヨナタンは、ダビデが次の王になることが主のみこころであることを理解していました。そして、このままサウルが抵抗を続ければ、血が流れる争いになってしまう展開も予想されます。父との交渉がうまくいかなければ自分の命も危ういことを覚悟していたことが14節から読み取ることができます。それで、ダビデには自分が死んだ後、ダビデに敵対する者が皆滅ぼされるような事態になっても、自分の家族を守って欲しいとダビデに頼み、このことについて改めて約束を交わすのでした。
しかし父サウルにつくより、ダビデについたほうが、自分の家族にとって得策だと、そういう打算的な思いからダビデと友人になったわけではないし、父サウルを見捨てたわけでもありません。事実、ダビデがサウルの手を逃れた後も、ヨナタンは息子として父を助け、宿敵ペリシテ人との戦いで戦死するまで一緒に戦うことで、誠実を尽くしました。
ヨナタンにとってはダビデと友だちになったからといって何か特別に得したことはありませんでしたが、そんなことのために友だちになったのではなかったのです。もちろん、聖書には書かれていないので分からない部分はありますが、主がダビデを王にしようとされていることを知り、彼のうちにある主に対する信仰に引き寄せられ、共感し、たとえ自分が王になれなくても、主が選ばれたダビデならば国を良くしてくれるに違いないと信じたのではないでしょうか。
適用:友となる
さて、今日はヨナタンがダビデの友としてどのように振る舞い、生きたかをざっと見て来ました。
ヨナタンが戦士したことを聞いた時、ダビデはヨナタンのために歌を歌い、それからしばらく戦いが続きますが、王位が確立した時に、ヨナタンとの約束を果たすための生き残っているヨナタンの家族を探します。そして、彼の息子でメフィボシェテという足の悪い人が生き残っていることを知ります。ダビデはヨナタンのゆえにメフィボシェテを王宮に招き、彼にサウルの土地をすべて返し、家族のようにいつも食卓をともに囲むようにさせるのです。
これらの出来事は美しい友情物語として、あるいは伝説的な王となったダビデの若き日の青春の一ページのエピソードとして、話しを盛り上げるために書かれたわけではありません。
本来なら王位継承者として、次の王となるべく自分の地位を固め、王として民を治める能力や兵を率いることに邁進していたはずのヨナタンが、主のみこころを知った時に、父サウルのようにダビデの行く道を邪魔しようとするよりも、むしろ友となって支え、助けようとしました。その忠実さ、誠実さに対して、ダビデはあの約束を覚えていて、ちゃんと応えようとしました。
ヨナタンもダビデも互いに自ら相手の友となり、いのちがかかっても、あるいは友が亡くなった後も、その友情に、友との約束に忠実であろうとしました。そうした友情が、神様の救いのご計画のために大いに用いられました。ダビデは王とされ、その子孫の中から救い主が誕生する先祖として、神の恵みの器として用いられたのですが、そのような人の友となることもまた、神の器として用いられる道であったのです。
今月のみことばにあげた箴言にはこう書かれています。「香油も香も心を喜ばせる。友の慰めは自分の考えにまさる」。
香料のようなものでなくても、花の香り、太陽の匂い、珈琲やお茶の香り、人によっては柔軟剤の香りとか、気分をリフレッシュさせてくれるものは様々ありますが、友の言葉、友の存在は、魂の深いところから、単に元気づけるというより、私たちの思いや考えを新たにする力を持っています。
もちろん、私たちは誰かからそういう言葉をかけて欲しい時があり、そういう存在がそばにいてくれたらと願うことがあります。しかし、律法の専門家がイエス様に「私の隣人とは誰ですか」と尋ねたとき、良きサマリヤ人のたとえをお話になってから、「あなたも…同じようにしなさい」つまり、あなたが自分の方から誰かの隣人になりなさいと言われました。誰かが友だちになってくれないかと待っているのではなく、あなたが友を必要としている人の友になりなさいということです。
私たちの周りにいる人たちはだれもが、神の恵みの器としてそれぞれ役割があります。もしかしたら、私たちは、その友となることによって私の役割を果たせるのかも知れません。
だれかが友になってくれないかと待っているより、自分から誰かの友になろうということは、勇気も必要かもしれませんが、きっと神様はそのような信仰と勇気を喜び、豊かな祝福を与え、思いもかけないようなみわざをなしてくださることでしょう。
祈り
「天の父なる神様。
ヨナタンのダビデに対する真実で誠実な友情が、神の器として召されたダビデを支え、助けた姿から、ヨナタンもまた、神の器として用いられたことを見ることができました。
私たちの周りにも、友の助けを必要としている人がいるかもしれません。もしかしたら、そうした人の友となることで、私も主の恵みの器として用いられる道があるのかも知れません。神様がそのように私たちの心を動かし、導いてくださるとき、主を信頼して、勇気を出して自分から友人になっていくことができますように。そうして主の恵み、御わざが豊かに拡がっていきますように。
私たちの友となってくださった、イエス様のお名前によって祈ります。」