2025-06-22 いのちを得るために

2025年 6月 22日 礼拝 聖書:ヨハネ5:39-47

 救いを求めているのに、救われているか確信が持てない。クリスチャンになったのに、どうにも充実した人生を送れている気がしない。クリスチャンがそうした症状に襲われることがあります。いったいどこに原因があるのでしょうか。

人間はそんなに単純ではないので、今日扱うことがすべての答えということではありませんが、多くの場合に当てはまる重要な問題を取り扱っているように思います。

今日の箇所でイエス様は、ユダヤ人たちに対して、あなたがたは永遠のいのちを得ようと探しているが、得られないとおっしゃっています。永遠のいのちを得ようと聖書に答えを探していたのに、得ることができなかった人たちの問題は、ユダヤ人特有にも思えますが、実のところ、それは誰にとっても課題となり得るものです。

そこで今日は、イエス様の言葉によって、永遠のいのちとはいったい何なのか、そして、永遠のいのちを得る方法と、それを邪魔する問題について見ていきましょう。

1.いのちに満ちた歩みとは

まず、永遠のいのちとはいったい何なのでしょうか。39節でイエス様は言われました。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。」

これは、イエス様を批判しているユダヤ人たちに対して言われた言葉です。事の発端は、ユダヤ人が宗教的理由から労働を禁止している安息日に、イエス様が38年もの間病気で歩けなくなっていた人を癒やし、横になってた床を取り上げるよう言ったことでした。

5章の前半にその事件が描かれています。今日は、詳しい説明はしませんが、有名な話しなので、ご存じの方もいらっしゃると思います。38年ものあいだ病気で苦しみ、彼を手助けする人が誰もいなかった人を癒やしたのに、それが安息日だからということで難癖をつけ、イエス様を迫害しはじめたのです。

イエス様は彼の病気をいやした後で、14節で彼を宮で見つけます。恐らく、感謝を捧げるために神殿に向かったのでしょう。そこでイエス様は、「あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません」と告げます。彼の病気は罪が引き起こしたものであった可能性があります。

イエス様が彼をいやしたということは、その罪を赦し、罪が引き起こした病から解放し、新しい生き方をするようにと招いてくださったということです。

今日の私たちのテーマである「永遠のいのち」を理解する鍵がこれらのことの中にあります。永遠のいのちは永遠に病気にならないとか、不老長寿のようなことではありません。イエス様のいのちに触れていただくことで、罪が赦され、罪が引き起こした悪しき結果から私たちを回復され、新しい生き方をするようにさせることです。

ヨハネ17:3ではイエス様が祈りの中で、「永遠のいのいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」とおっしゃっています。永遠のいのちは神とイエス様を知り、イエス様とともに生きること、神様との愛の交わりの中に居続けることです。その愛の交わりが私たちに赦しと回復、新しい人生をもたらし、喜びと希望を生み出すのです。

イエス様は、ベテスダの池にいた病人に、いやしを与えただけでなく、罪を赦し、新しい生き方をするように招いてくださいました。まさに永遠のいのちへと招いてくださったのです。ところが、それを見ていたユダヤ人たちは、38年も苦しんで来た病人が今まさに永遠のいのちへと招かれている事よりも、安息日のルールを破ったことで非難し、イエス様が神様を父と呼んだことに腹を立てました。その時のユダヤ人たちの攻撃の理由が18節に記されています。「イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。」

その非難に対してイエス様が延々とお答えになっているのが19節からで、その最後の部分が今日開いている箇所なのです。

その中でイエス様は、父なる神様がイエス様について証言しても、バプテスマのヨハネがイエス様について証言しても彼らは耳を傾けなかったと非難します。そして彼らは聖書を一生懸命学んでいたのですが、聖書もイエス様について証言しています。それでも彼らはその聖書の証言にも耳を貸さなかったのです。

2.イエスのもとへ

40節でイエス様はユダヤ人たちに言いました。「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」

彼らが一生賢明調べていた聖書そのものが、イエス様こそが待ち望んだキリストであり、永遠のいのちに至る道であることを指し示しているのに、彼らはそれにも耳を貸さず、イエス様に求めもしませんでした。永遠のいのちを得ようとするなら、イエス様のもとへ行く必要があるのです。

今は大抵のことはネットで調べられる時代です。体の調子が悪いのが続いたら、その症状をもとにネットでいろいろ調べるという人も結構いるのではないでしょうか。すると、いろいろな病気の可能性が結果として出てきますが、ほとんどの場合「早めに医師の診察を受けましょう」という勧めが出てきます。知り合いに相談してみると、案外似たような経験をしている人もいて、やっぱり「病院に行った方がいいよ」と行ってくれるかもしれません。あらゆる証言が「あなたは医者に行くべきだ」と示しているのに、それでも医者嫌いだったり、仕事を優先したかったり、あるいは単にプライドの問題で、医者に診てもらうことを避けていたら病状はますます深刻になり、治療が難しくなっていき、場合によっては取り返しつかないことになります。

あらゆることがイエス様こそが救い主で、永遠のいのちを得たいならイエス様のもとへ行くべきだということを指し示しているのに、ユダヤ人たちはイエス様のもとへ行こうとしませんでした。

それどころか、安息日に病気を治したとか、布団を上げて帰るよう指示したというようなことを取り上げてイエス様を非難し、イエス様が父なる神様を自分の父と呼んだということで、難癖をつけて来ました。彼らはルールを振りかざして、人間の本当の必要である永遠のいのち、神との交わり、イエス様とともに生きることをないがしろにしました。

もちろん、私たちの文化の中には安息日には一切の労働を禁じるというようなことはありません。しかし、神様との交わりやイエス様とともに生きることより、キリスト教の伝統や習慣を守ることに夢中になったり、聖書で教えられてもいないルールをまるで道徳的な基準であるかのように思い込んでそれを守ることこそクリスチャンの生き方だと勘違いしていることがあります。

あるいは、日々の仕事や忙しさにまさに忙殺されて、神様との交わりやイエス様とともに生きているということを確認し、味わうための時間をおろそかにしてしまうことが結構あります。今、やっている神学校のクラスで、自分に与えられたライフワークを実現するために一年の生活のリズムや一週間のリズムをどう造るかという課題が出ました。ある先生は、一週間のリズムの中に、毎日のこの時間に聖書を読んで祈る時間を入れる。これを犠牲にして仕事をするようになると、赤信号なんだと、自分の経験からおっしゃっているのがとても印象に残っています。

私たちはイエス様のもとに行かなければ、イエス様のいのちに触れ、イエス様のいのちに満たされて生きることはできないし、そこにある喜びも希望も言葉だけのものになってしまいます。それは愛していると言いながら一度も会いに行かない人のようです。

3.本当の求め

しかし、なぜユダヤ人たちはイエス様のもとへ行かなかったのでしょう。あるいは、私たちが日々の暮らしの中でイエス様のもとへ行くのをおろそかにしている時、何が原因なのでしょうか。

イエス様は41節と42節でずいぶん厳しい指摘をしています。

「わたしは人からの栄誉は受けません。しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。」

ユダヤ人たちは神の定めた律法について語り、それを守ることに一生懸命で、守らない人を見つければ寄ってたかって非難しまいした。しかし、イエス様は彼らの本質を見抜いておられました。彼らは本当には神を愛してはおらず、彼らが求めているのは人からの称賛だったのです。

律法を忠実に守ることで神に認められるというふうに思っていたけれど、実際のところ律法を守ることで「あの人は立派だ」と人から褒められることに喜びを感じていました。

クリスチャンホームに育った子供が時々陥る問題にも重なる部分があります。聖書の教えや教会の伝統によって生きることを神様に対する愛のゆえに喜んでやっているというより、そうすることが親や教会の人たちを喜ばせるからやっていたり、そうすることで自分が安心できるからやっている、ということがあります。私も経験がありますが、そういうクリスチャンっぽい生活はほんの小さなほころびで簡単に壊れてしまいます。

しかしユダヤ人たちの問題は、神を愛すると言いながら実のところ人からの称賛を求めて生きていたので、神の名によってこられたイエス様を受け入れることができなかったことにあります。

他の誰かだったら、「誰々の使いで来ました」とか「○○の代理で来ました」と言えば、その人自身を迎えるかのような態度で迎えるはずです。しかし、本当には神様を愛していなかったから、神様がご自身の名によって遣わしたイエス様を受けれませんでした。それが彼らの問題の本質でした。永遠のいのちを求めていると言いながら、本当は別のものを求めていたのです。神を愛すると言いながら、彼らが愛しているのは誰かから褒められている自分でした。

もし、私たちが神様とともにあること、イエス様と共に歩むことの喜びや楽しさ、充実感を味わえていないとすれば、イエス様の方に問題があるとか、教会や聖書の教えに問題があるのではなく、自分が本当に求めているのが違うものだからなのかも知れません。

しかしイエス様のもとに行かずして、ただ欲しいものだけを訴え、追い求めて生きているなら、イエス様のいのちにあずかる喜びも希望も、充実感も得られません。ひょっとしたら頑張って欲しいものを手に入れるかもしれませんが、それは永遠のものではなく、やがて失われます。

イエス様を求めることは、健康のために食生活を改善し運動の習慣をつけなさいと言われるのに少し似ています。初めは必要だからと続けているうちに、健康が回復するにつれ、野菜そのものの美味しさに気付き、体を動かすことが喜びとなるようなものです。

私たちの心と魂が健康で、健全な生き方ができるためには、イエス様のもとに行く必要があります。しかし、だんんだんそれは必要だからという以上に、私たちの楽しみ、また喜びになるのです。

適用:いのちを得るために

最初の問いに戻りましょう。救いを求めているのに、救われているか確信が持てない。クリスチャンになったのに、どうにも充実した人生を送れている気がしない。クリスチャンがそうした症状に襲われることがあります。いったいどこに原因があるのでしょうか。

今日の箇所でイエス様は、イエス様のところへ行こうとしないユダヤ人たちの問題を指摘しました。そして根本的には口では愛していると言いながら、実際には神を愛するより大事なことがあって、本当には神とともにある人生も喜びも求めてはいないということを明らかにしてしまいました。

これがすべてのケースの原因であるとまでは言えませんが、一度よく考えてみる必要のあることです。そして、イエス様のもとに行こうとしなければ永遠のいのちも、その喜びも受け取れないのはどんな場合でも当てはまる真理です。永遠のいのちはイエス様のうちにあるのですから、当たり前です。

そして神を愛することなしに、神の愛の素晴らしさを味わうことはできません。もちろん神様は私たちを一方的に愛し、私たちがどんなに神様に背を向けていたとしても、私たちのためにひとり子イエス様を犠牲にして備えてくださった救いを誰にでも無償で与えてくださいます。それはそうですが、もう一つの面として、神様のその愛の素晴らしさは、私たちも神様を愛してこそ分かるものです。愛とは本来そのようなものなのです。愛を知らなかった私たちが愛されることで初めて愛を知るのですが、他方で、愛することなしに愛されることの本当の素晴らしさを知ることはできないのです。

イエス様のもとに行って、神の愛の交わりの中に自分を置くことで、私たちははじめて永遠のいのちを味わい、喜びを知ります。

であるなら、いつの日にかの復活の望みだけを希望とするのではなく、今日、この日にイエス様のいのちによって生き生きとした歩みができるために、イエス様のもとに行かなければなりません。また反対に、イエス様のもとに行くことを妨げるような願い、求めのほうが優先されていないかどうか、自分自身の心の中や生活の仕方を省みてみる必要があります。

聖書的にはイエス様は私たちのところに来てくださったり、聖霊を通して私たちのうちにいてくださるのだけれど、私たちの心持ちとして、姿勢として、イエス様のもとに行くということを表す必要があるのです。

私たちに必要なのは、礼拝の時に、ここにおられる方としてイエス様を意識して礼拝を捧げ、賛美し、祈り、みことばに聴くことかもしれないし、日々の生活の中でイエス様のもとへ行くことを意識しながら聖書を開いたり祈ることかも知れません。

あるいはタラントのたとえに出てくる忠実なしもべのように、いつの日か帰って来られるイエス様を覚えて、与えられたものを賢く管理して生活を築くことかもしれません。

いずれにしても、それらを神様から受けた愛への応答としてやり続けるなら、イエス様との交わり、神様との交わりが生まれ、イエス様のいのちによって生きているという感覚を掴むことができるようになります。

ぜひ、せっかくイエス様が与えてくださった永遠のいのちですから、日々、味わい楽しめるまでにさせていただきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

あなたは私たちを愛し、罪の赦しと、罪がもたらすあらゆる傷からの癒やしを与え、イエス様とともに歩む新しい人生へと招いてくださってありがとうございます。

どうぞ、私たちがそのような素晴らしい恵みを味わって、日々、イエス様のいのちによって生き生きと歩めるように導いてください。いつもイエス様のもとへと行く者としてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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