2025-07-20 収穫のための働き手

2025年 7月 20日 礼拝 聖書:マタイ9:35-10:1

 今日の箇所では「働き手を送ってくださるように祈りなさい」というイエス様の有名な勧めがありますが、「働き手」とは誰のことでしょうか。牧師が高齢化したり突然亡くなったり、どこか他の働きへと向かったために新しい牧師が必要になった、そんな時にこの箇所が読まれ、「祈りましょう」というふうに用いられることが多いのかなと想像します。

しかし、神学校の校長という役割を与えられ、日本や世界の神学校の置かれた状況を知るにつけ、このみことばを単に次の牧師や宣教師を与えてくださいという意味に捉えたのでは、おそらく失望する教会やクリスチャンが少なからずあることを痛感させられます。必要に対して牧師を目指す神学生は圧倒的に足りていません。

「働き手」を牧師や宣教師のような人たちに限定することはイエス様の本来の意図だったのでしょうか。確かに、この祈りの教えの後で12使徒が選ばれた話しが出て来ますが、どういうことなのでしょうか。

1.弱り果てた群

福音書を書いたマタイは、「働き手のために祈りなさい」と教えた場面を描くにあたって、この教えがどんな状況で語られたかを説明してくれています。

35~36節を見るとその頃のイエス様の働きの様子、そしてイエス様の視点が記されているのが分かります。

35節「それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆる患いを癒された」。

すべての町や村を巡って、というのは、他の福音書と比べて見ると、イエス様の生まれ故郷ナザレを含む、ガリラヤ地方一帯の事だと言うことが分かります。ガリラヤの町や村を巡回するのはこれで三度目でしたが、相変わらず大勢の人たちがイエス様の教えや癒やしを求めて集まっていました。

イエス様が各地を巡回するとき、拠点として使ったのがユダヤ教の会堂です。会堂はその町や村の礼拝の場であり、教育の場であり、公民館的な役割も担っている場所です。ユダヤ人にとっては一番集まり易い場所ですし、聖書を教えるには一番自然でした。

そしてイエス様の働きの中心は聖書を教えること、福音を宣べ伝えること、病気の人たちを癒すことでした。マタイの福音書が書かれた時代、すでに教会がローマ帝国内に拡がりつつありましたが、教会はイエス様がなさっていたことを継続し、聖書を教え、福音を宣べ伝え、いやしの賜物を持つ人がいれば癒やしを行いましたが、そうでなければ慈善や助け合い、愛の行いとして、地域社会の必要のある人たちのために奉仕して神様の愛とあわれみを表していました。

そして36節では、そのような働きをしながらイエス様が集まっている人たちをどのようにご覧になっていたかが記されています。

イエス様の心の内にあるのはまず深いあわれみです。「あわれみ」という言葉は内蔵がよじれるような意味合いの言葉で、深く心が動かされる様子を表しています。その理由は、イエス様の周りに集まっている人たちが「羊飼いのいない羊の群のように、弱り果てて倒れていたから」だというのです。

羊飼いのいない群というのは、旧約聖書に由来する表現で、指導者がいないために混乱し、弱って、傷付き、外敵からいいように奪われている様子を表しています。

イエス様の時代、民には王もいたし、宗教的指導者たちもいるにはいたのです。しかし彼らの教える聖書の教えは人々に何の希望も喜びも与えず、彼らの必要に応えることもありませんでした。それどころか、あなたの病気は罪のためだ。罪を犯している者や汚れた者は神の国には入れない。律法を守り、汚れたものから離れ、定められた儀式と先祖たちから言い伝えられた伝統を守りなさいと教え、人の生活を見ては「それは罪」「それは汚れ」「それは罪の結果だ」「神に祝福されていないのは罪のせいだ」と指摘するだけで、人々は打ちのめされ、傷つけられ、希望を失っていました。しかし、生まれた時からの宗教的な習慣や生き方以外には知りませんし、家族や地域社会の中で生きて行くためには、その縛りの中にいるしかありません。そこにイエス様が本来の聖書の教えと、罪ある者にこそ神の恵みが向けられていることを伝えたのです。

2.収穫のための働き手

収穫の時ややってきていました。

この「収穫」と「働き手」のイメージは旧約聖書に由来する表現です。

畑をやったり家庭菜園をやっている方、あるいは学校で農業体験などをやったことがある人もいると思います。収穫の時というのは、一定の時間が経過して機が熟したときにやってきます。そろそろいいかなと思って収穫に行ったら先に鳥や動物に食べられていたなんてこともありますが、動物も美味しいタイミングが分かります。

ただ、旧約聖書で「収穫」のたとえが用いられている箇所を読むと、多くが、神の裁きの時について語っているのです。葡萄を収穫してワインにするために大きなタライの中で葡萄を踏んで潰すみたいに、人々の反抗心、罪深さがたまりにたまって、警告されていた神の怒りがくだり悪に報いるという感じです。

しかしイエス様はこの比喩を警告されていた神の怒りがくだるより、約束されていたキリストによる救いの時が来たこととして使っています。預言者たちを通して警告され、予告されていた神の裁きの前に、その裁きから逃れ、救うために救い主、キリストを遣わすと約束していた、あの約束が、時満ちて果たされた。実が熟して収穫の時が来た。

救い主の到来を待ち望み、救いを受け取りたいと願う人たちは大勢いる。これから世界中に福音が語られる時、それまで知らなかった神の恵みとあわれみを知って、イエス様の差し出す救いを受け取りたいという人はこの世界には大勢いる。しかし「働き手が少ない」のだとイエス様言われます。

イエス様の言葉から分かることは、私たちが心配しなければいけないこと、考えなければならないことは、収穫の多さではなく、働き手の少なさだということです。

私たちは、新しくクリスチャンになる方が少ないとか、聖書に興味を持つ人がもっとたくさん起こされるといいなというふうに考えるのですが、イエス様の視点からすると、問題はそこではないということです。収穫はちゃんとある。だけど、働き手が少ないのが問題だというのです。

アメリカで不法移民を送り返すという政策が取り入れられたとき、多くの産業で大きな打撃を受けたという話しを聞きました。その一つが農業でした。収穫の時期が来たのに労働者がいなくなって収穫が出来ないと、ある農場主は嘆いていました。インタビューを受けている背景には収穫の時期を迎え、まさに働き手を待っている広大な農場が拡がっていました。

だからイエス様は「働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われます。もちろん私たちは救われる人が起こされるように、教会に導かれる人が起こされるようにと祈って良いし、祈るべきでもありますが、それ以上に、収穫のための働き手を送ってくださいと祈るべきです。

働き人は牧師や宣教師だけではありません。イエス様がしたように、福音を宣べ伝える人、聖書を教えて群を強める人、弱った人々や社会のために奉仕する人、そういう収穫のための様々な働き手が起こされるようにと祈るべきなのです。

3.使徒たちを選んだ意味

今日の聖書の箇所の最後の部分は10:1になります。

働き手を送って下さるように祈りなさい、という教えの後で十二人の使徒たちが選ばれた場面が描かれます。働き手とはやはり使徒たちのような特別な指導者、現代なら牧師や宣教師か、というふうに思うかもしれませんが、話しはそう単純ではありません。

実は、十二人が使徒として選ばれたのは38節の祈りの教えよりもだいぶ前のことです。実際の時間の流れで言うと、38節の祈りの教えの後に直接つながるのは10:5以降の、12弟子を派遣する場面です。つまり、イエス様はもっと働き手が起こされるように祈りなさいと教えてから、前に選んでおいた12人を遣わしたのです。

この十二人は、これから収穫のための働き手として立つすべての人たちの先駆けとなる人たちです。イエス様が何を教え、何をなさったか、それは何のためだったかを直接目撃し、教えられた証人として選ばれたのです。彼らも収穫のための働き手ですが、彼らを通して福音を聞き、みことばによって教えられた人たちが、次の世代の収穫のための働き手となっていきます。

具体的に聖書の記録を辿っていくと、使徒の働き1:15では、イエス様が天に帰られた後、十二使徒とともに120人ほどの弟子たちが集まっていたことが書かれています。そして2章で弟子たちの上に聖霊がくだる、ペンテコステの日になります。この日、聖霊がくだったのは12人の使徒たちだけではありません。そこにいたすべての弟子たちに聖霊がくだります。そして、それぞれが様々な国の言葉で福音を語り始めるのですが、9節以下に出て来る国、民族の名称は12以上あります。この日福音を語り始めたのは使徒たちだけでなく、聖霊を受けたすべての弟子たちなのです。だからこの日だけで3000人ほどが新しく群に加えられても対応することができました。

さらに11:19~20を見ると、教会に迫害が起こり、ギリシャ語を話すユダヤ人クリスチャンたちが各地に散らされるのですが、彼らが行く先々で福音を語り始めたことが記されています。最初はユダヤ人にだけ。しかしすぐに福音はユダヤ人以外の人たちにも語られるようになり、アンティオキアという町では初めて異邦人中心の教会が誕生します。その働きの中心を担ったのは使徒たちではなく無名の人々です。彼らは初めてこの町で「キリストにある者」という意味のあだ名をつけられます。つまりクリスチャンと呼ばれるようになります。

だから、イエス様が収穫のための働き手が与えられるよう祈りなさいと言って、すぐに使徒たちを遣わすのですが、イエス様はこの12人や牧師や宣教師といった肩書きのある人たちだけでなく、イエス様の福音を自分にも託されていると自覚し自分にできることをしたいと願う人たち。また教会の交わりを強め互いに成長するため何かしたい、周りにいる様々な必要をかかえた人たちのために奉仕したいという志を持つすべてのクリスチャンを念頭に置いていたのです。

現代の教会は働き手、働き人をあまりにも狭く捉えてしまっています。本来は、私も神の御国のために何かしたいと願うすべてのクリスチャンを指しているのです。

適用:私たちの祈り

それでは、今日の箇所から教えられたことに立って、私たちの祈りはどう変わって行くべきでしょうか。

まず、救われる人や教会に集まる人が少ないということで嘆くより、収穫は多いと言われるイエス様のことばを信じましょう。

そして続けて一人でも多くの方々がイエス様を知ることができるように、神様の愛を受けより、信じることができるように祈りましょう。特に、この人にはぜひイエス様を信じて欲しいと願うような人がいるなら、名前を挙げて祈り続けましょう。

次に、イエス様は何より、働き手を送ってくださるように、収穫の主に祈りなさいと言われましたから、そのように祈りましょう。これは福音を宣べ伝える上でも、教会がみことばによって強められしっかり立っていくためにも、教会が置かれた地域に仕え、貢献する上でも最優先で祈らなければならないことです。

このところ、私たちの教会ではたとえ直接証できないような場であっても、積極的に教会の外に出て行って、様々な活動に加わる人が増えてきました。がんチャリティのボランティア、音楽イベント、市内各地のふれあいデイサービスでの活動、認知症の方々の生きやすさや社会参加のためのイベントなどなど。同じ人がいくつも関わっている場合もありますが、少しずつ輪が広がっているのはとても嬉しく感じます。

こうしたことのためだけでなく、福音を証しすること、教会をみことばによって強めるためにも、働き手が必要です。神様のお考えになっている収穫というのは、数が増えることだけではなく、信じた人々がみことばによって強められ、交わりが豊かになり、隣人に対して神の愛が具体的に表されるようになることまでを含みます。それらのための働き手となるのは、これが神様が自分に与えた務めだと受け止めて答えようとするすべてのクリスチャンです。私たちはまず、そういう人が起こされるように祈るべきだとイエス様は教えてくださいました。

このような祈りをしはじめるとき、私たちの心に変化が起こってくるでしょう。主イエス様の御国のための働き手を送ってくださいという祈りをしはじめるとき、御国のための働きが、どこかよそのことではなく、自分たちのことなのだと分かってきます。

そしてもしかしたら、私たち自身に「あなたはこれをやってみたら」と語りかけるように神様が私たちの心を動かしてくださるかもしれません。すでに使徒に任命されていた12人に、あなたがたを遣わすとイエス様が遣わしたように、祈り始めた私たちを遣わしたいとおっしゃるかもしれません。そのようなときはぜひ「わかりました」と答えましょう。

私たちが日々暮らし、働き、生活しているこの町、人々をイエス様がご覧になったら、2000年前と同じように「彼らが羊飼いのいない羊の群のように、弱り果てて倒れている」のを見て深く憐れんでおられるに違いありません。今日は選挙ですが、日本がどうなっていくか混沌としていて、本当かどうか分からない大きな声や甘い言葉になびいたり、互いに罵倒し合っているだけで答えを見つけられずにいるように見えます。問題は羊飼いを見つけられずにいることなのです。良き羊飼いであるイエス様が、私たちに教えた祈りを私たちの祈りとしていきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

イエス様が収穫は多いと言われた言葉を、今のこのときも信じて、働き人を送ってくださるよう祈りなさいという教えに答えて祈ります。

私たちの周りにいる救いを求める人々のために、また教会がみことばによって強められるため、人々に仕えるために働き手を起こしてください。働き手が遣わされるよう祈り続ける者であらせてください。そして主が「あなたがいきなさい」と言われるなら、喜んで応えることができるよう、あなたが見るように、まわりの人たちを見ていることができますように。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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