2025-09-14 あなたのおことばどおりに

2025年 9月 14日 礼拝 聖書:ルカ1:5-25(38)

 だいぶ涼しくなりましたが、ちょっと気を抜けば暑さが戻ってくるような時期に、今日のような箇所を開くのはちょっと季節外れのような気もします。いつもならクリスマス近くに開かれるような箇所ですが、今日は二つの「受胎告知」と言えるような出来事を取り上げます。読んでいただいたのは25節までですが、38節まで見ていきます。

クリスマスを祝う習慣はずっと後になってから出来たので、ルカはクリスマスや季節の行事とは全く別の意図でこの場面を最初のエピソードとして取り上げました。4つある福音書の中でルカだけが取り上げたのは、バプテスマのヨハネとイエス様がどのようにして誕生にいたったのか、二人の親となる人たちはその出来事にどのように反応したのかを描くことで、福音書を受け取ったテオフィロや今日の私たちに考えて欲しいことがあったからです。

今日はご一緒に、赤ちゃんを身籠もるというお告げを受け取ったゼカリヤとマリアに注目していきましょう。

1.ザカリヤの応答

まずザカリヤですが、5~7節に簡単な人物像が描かれています。ユダヤの王ヘロデというのは、ヘロデ大王のことですが、この時代、ユダヤはローマの属州シリアの一部とされており、ある程度の自治が認められていました。ヘロデ大王は純粋なユダヤ人ではありませんでしたが、ローマ統治以前のギリシャ系の支配者の血筋を利用して政治的にのし上がってユダヤの王にまで上り詰めました。とても疑り深く、嫉妬深く、その上残忍な性格ということで、それを考えただけでこの人の人生や統治がやばい感じになりそうなのが分かります。

そんな時代の祭司でザカリヤという老人がいました。「アビヤの組」というのはたくさんいた祭司たちをレビ部族の先祖達の名前をとったグループに分けて、当番制で神殿の務めを果たすためのものです。月毎にそれぞれの組が割り当てられ、さらに組の中で誰がどの務めを果たすか、くじ引きで決めていたのです。

ザカリヤの妻はエリサベツといいました。彼女は出エジプト記に登場する最初の大祭司、モーセの兄アロンの子孫という立派な家系でした。

二人とも神の前に正しく歩み、律法を忠実に守る、神を敬う典型的なユダヤ人といって良い人たちです。しかし、エリサベツが不妊だったために子どもがなく、すでに年老いてしまっていました。

そんなザカリヤがくじを引いたところ、神殿の聖所に入って香をたく担当になりました。たった一人で聖所に入って香を焚くその務めは大変名誉なものでした。

聖所の中は選ばれた祭司しか入ることはできませんから、他に誰もいるはずがありません。しかしそこに突然主の御使い、天使が現れました。取り乱し恐怖に襲われて声を上げることもできないザカリヤに御使いは「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい」と語ります。

続く御使いの説明によれば、生まれてくるヨハネは約束のメシアの前に遣わされると言い伝えられていた預言者の役割を果たすようです。しかし、ザカリヤにはにわかには信じられませんでした。

18節で「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。」と問います。言い方は遠回しですが、年老いた自分たちに子どもが生まれるなんて、信じがたいので、何か証拠を示して欲しいということです。

御使いは、良い知らせを告げるために遣わされたガブリエルだと名乗ります。かつて、捕囚となっていたダニエルがイスラエルの民のために祈り、その罪を告白し、赦しと回復のために祈った時に神のご計画を告げるために神から遣わされた御使いがこのガブリエルでした。ガブリエルは救いの知らせを伝えるために特別な役割を担った天使です。

しかしザカリヤはそのことばを信じませんでした。それで子どもが生まれるまで口がきけなくなる、という小さな罰を受けることになります。そうなって初めてザカリヤは信じたのでしょう。やがて妻エリサベツは初めて子を身籠もりました。諦めていたけれど、主が恥を取り除いてくださったと、大いに喜びました。しかしザカリヤのほうは相変わらず口が利けません。

2.マリアの応答

それから半年後のことです。

今度はエルサレムからはずっと北のほうにあるガリラヤ地方にあるナザレという田舎町にマリアという若い未婚の女性がいました。

彼女はダビデ王の家系のヨセフという、大工の婚約者でした。そして、彼女自身も実はダビデの血筋であり、またあのエリサベツとは親戚関係と、不思議なつながりがありました。ただ、別に有名人というわけでもなく、世間から見たらどこにでもいそうな田舎町の娘です。

そんなマリアのもとに再びガブリエルが訪れます。

28節で「おめでとう、恵まれた方。主があたなとともにおられます」という不思議な挨拶にマリヤは戸惑い、考え込みました。恐怖で固まってしまったザカリヤとはだいぶ違った反応です。

それからガブリエルは言葉を続けます。20~21節をよく読んでみてください。そして13節のザカリヤに対する言葉と比べてみてください。とても良く似ている言い方です。

「恐れることはありません」と言ってから名前を呼びます。それから「あなたは神から恵みを受けたのです。」と続き、「男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」そして、その男の子の役割が告げられます。

御使いが告げた言葉の内容は、この男の子が旧約聖書で約束されていた神の王国を治める王、メシアになるという意味だと、ユダヤ人であるマリアはすぐに理解しました。

そしてマリアも、ザカリヤと似ているけれど、少し違う意味でこう尋ねました。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに」

ガブリエルはザカリヤに「あなた信じなかったね」と言ったようには、マリアには言いませんでしたから、マリヤの意図は信じられないということではなく、男の子を産むことになるというお告げを受け入れつつも、やはり信じがたいことではあったのです。信じがたいことだけれど、どのように実現するのか知りたいというマリアに、ガブリエルは35節で答えます。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」。どのように、という問いに対する最初の答えは、聖霊の力によって、というものです。神の力によってと同じ意味ですから、生まれる子は神の子と呼ばれるようになります。もう一つの答えは、親類のエリサベツがみごもったという実例です。不可能と思われることでも神にはできるという実例です。だから神にとって不可能なことはないというわけです。

それを聞いたマリアは、「私は主のはしためです。」と応じます。はしためとは女のしもべ、という意味です。私はしもべですと言っています。「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と御使いのお告げ、つまりは主のことばを信じ受け入れました。

マリアは当時16歳か17歳だったと言われています。現代人から見るとちょっと早すぎるようですが、当時のユダヤ人はだいたいその年齢で結婚するものでした。それでも未婚の女性が妊娠したとなると、現代では想像もできないほどの大スキャンダルで、下手をすれば処刑される可能性がありました。しかし、マリアは「あなたのおことばどおりに」と受け入れたのです。

3.テオフィロへの問いかけ

今日の二つの物語を、単にクリスマスのお話の前日譚としてではなく、主イエス様の福音と使徒たちの教えの確かさについて何らかの疑いや迷いを感じていたテオフィロや、後のクリスチャンたちが確信を持てるようにするために取り上げたエピソードだというふうに見た時、どういう意図で福音書に書かれたのか、考えてみる必要があります。

ルカの福音書の大きな特徴の一つは、いろんな出来事を二つ並べて書くということです。正反対の例として書くこともあれば、強調するために似たような出来事や教えを並べることもあります。今日の場合は、いろんな意味で対照的な二人が、御使いのお告げを受けるという共通の体験をし、実に対照的な応答をするという描き方がされています。そして御使いの語る言葉にも、この出来事のもつ意味を理解するヒントが隠されています。

二人に子どもが与えられるという話をするとき、ザカリヤには「あなたの願いが聞き入れられたのです」と語りかけ、マリアには「あなたは神から恵みを受けたのです」と語りました。この違いは何でしょうか。もちろん、ザカリヤ夫妻は子どものことで祈ってはいたでしょう。ただし、自分たちがかなり高齢になっていましたから、何歳頃まで真剣に祈っていたかは分かりません。もう期待できないほど十分年を取っていました。もちろんマリアが子どもを身籠もることは将来の希望としては持っていたでしょうが、まだ結婚もしていない今ではなかったはずです。考えもしなかったでしょう。

ですから、この御使いの言葉の違いには、二人の子供に対する期待の違いとは別の意味合いがあります。それは、長い間メシヤの到来を待ち望んでいたイスラエルの民に対する神の答えという面と、救い主の誕生が人の願いや祈りの熱心さによるものではなく、神の完全な恵みによるものであるという面が際立つように描かれているのです。しかもザカリヤは御使いの言葉を信じることができず、一方のマリアは驚きながらも受け止め、信じました。

もちろん、ヨハネは無事に産まれます。それは年老いたザカリヤも口が利けなくなり、言葉を失ってからではあっても御使いの言葉をちゃんと受け止めたということです。半年後にはイエス様も生まれます。

しかし、この場面での二人への御使いの言葉と二人の反応は、神の約束を待ち臨んで律法や先祖の決めた伝統を守ることにいそしんでいた人々に、いざ約束の時が来たという良い知らせが告げられた時に多くのユダヤ人がイエス様を拒んだこと。逆に神の約束を待ち臨みながらも貧しさや罪深い者として蔑まれたり、のけ者にされていた人たちには、神の恵みとして良い知らせが告げられ、彼らは喜んでイエス様に従ったことを予感させるような出来事として書かれているのです。

神様のなさろうとしていることは、二人が感じたように人間的には不可能に思えるようなことです。罪ある人間が新しく生まれ、この世界に祝福をもたらす者に変えられる。しかも神様のことなんか全然知らなかった人たちに、一人や二人ではなく、やがて世界中に広がっていくなどというとてつもないことを神様なさろうとしています。しかし聖霊の力が臨む時、人にはできないことが信じる人たちのうちに働くことをテオフィロに気付いて欲しいのです。

適用:みこころがなるように

御使いがザカリヤとマリアに語った、幼子が大人になってから成し遂げることについて改めて見てみましょう。

ザカリヤに生まれる男の子はやがてバプテスマのヨハネとして知られるようになります。17節にヨハネに託される働きが書かれています。ヨハネは預言者エリアのような特質が与えられ、「主に先立って」つまり、ヨハネのあとに表舞台に登場するキリストの先触れとしての役割があります。中身は「父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意」するというものです。親子関係を変え、罪深い者、神に対して心が頑な者たちの心を変えるというのです。

マリアに対するお告げの中では、32節で生まれて来る男の子がダビデの王位を受け継ぎ、永遠に「ヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません」と、約束のメシアとして、神の王国を治めるという神の救いのご計画を実現する方になるというのです。

これらのお告げをまとめると、ヨハネが道備えをし、イエス様によってもたらされる神の救いの実現は、イエス様が王となって治める王国であり、その支配は親子関係が良くなったり、罪深さや反抗心のある者の心が柔らかく素直な心に変えられるような形に表れるようなものだということです。

ルカがテオフィロに福音書を書いた時代、紀元70年前後というのは、教会がヨーロッパに拡がっていましたが、パウロは処刑され、ローマといざこざに耐えなかったユダヤはついに陥落しエルサレムは破壊されてしまい、教会に対する迫害はますます頻繁に起こるようになっていました。

それまで異邦人伝道と教会建て上げのリーダーとして人々を教え励まし続けていたパウロが捕らえられ処刑されたことは、教会にとって大きな衝撃だったはずですし、これからどうなるだろうという不安が少なからず諸教会全体を覆ったのではないでしょうか。

しかし、御使いがマリアに語った言葉を借りてテオフィロやクリスチャンたちに語りかけます。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。…神にとって不可能なことは何もありません。」

ザカリヤとマリアに語られた言葉と二人のそれぞれの応答のエピソードは、ここから始まる神の救いのご計画が実現し、完成に向かって行く大きな物語のスタートであり、もし私たちが神の御力と聖霊の導きに信頼して、あなたのおことばどおり、この身になりますようにと応答するなら素晴らしい御わざを見ることができます。

今日、私たちが生きる世界は、信仰や宗教には無関心か否定的。もし信仰心や宗教心はあっても特定の組織とはあまり関わりを持ちたがらない人が多いと言われます。少子高齢化が進み地方の教会だけでなくお寺や神社でも維持が大変とか、後継者不足で悩んでいます。日本に最初に基督教が伝えられて500年以上。プロテスタントの伝道が始まっても150年以上経ちますが未だに基督教の割合は1%前後をウロウロしています。そんな私たちの世界に、イエス様による神の御国が訪れるのでしょうか。

人間的な知恵によってではなく、主がルカを通して遺してくれた神様のやり方を信じて、マリアのように「どうぞおことばどおりになさってください」と言う者でいましょう。

祈り

「天の父なる神様。

神様の救いのご計画は人の力や人の知恵ではなく、神様ご自身の力、聖霊の導きによってなされます。人の目には難しいこと、壁の高さ、私たちの力のなさばかりが目に付きますが、主が聖書の時代の人たちを通してなさったやり方に学び、主の方法で、私たちの周りにも御国が広がっていくようにしてください。

私たちそれぞれにも、委ねられたそれぞれの務めがありますから、喜んで受け取ることができますように。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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