2025-10-12 私たちが立ちあがるため

2025年 10月 12日 礼拝 聖書:ルカ2:21-38

 先週、神戸・大阪に出張に行って来ました。思いがけない方と会うことができたり、久しぶりにお会いする方々との交わりはとても楽しかったですし、会議と研修自体は深く考えさせられる時となりました。大阪から帰る時、空港でお土産を物色していたら「佐々木先生」と後ろから声を掛けられ、振り向くと、夏の子どもキャンプの時にご一緒に奉仕したある教会の方でした。会社の出張帰りということでしたが、こんな所でばったり会うとは驚きでした。それにしてもよく見つけてくれたなあとも思いましたし、声を掛けていただけて嬉しかったです。

さて、今日の箇所では、マリアとヨセフが思いがけない人物、ただし彼らの場合は見ず知らずの老人たちから声をかけられています。一人はシメオン、もう一人はアンナという女預言者です。マリアとヨセフは二人の様子、語る言葉に驚きながらも、その意味合いを深く思い巡らすことになります。いったい彼らを通して神様は何を示そうとしておられるのでしょうか。

1.貧しい献げ物

まず、最初の場面はマリアとヨセフがエルサレムの神殿に献げ物をしにいくところからはじまります。ここで注目すべきは彼らが最低限の献げ物しかできない貧しさの中にあったことです。

21節から24節のは、律法で定められた三つつの儀式が描かれています。

一つ目は21節で、これは出産から一週間後のことです。男の子にはアブラハムの契約を受け継ぐ者であることを証する割礼を施す儀式が行われ、名前がつけられます。マリアとヨセフは御使いが告げた通り、男の子にイエスと名づけました。

二つ目の儀式は男子の初子に関する儀式で、これについては23節で触れています。最初に生まれる男の子は神のものとして献げる献児式を行いました。実際には赤ちゃんを献げることはありませんが、神のものであることを表すために、5シェケルの銀を献げることが求められていました。1シェケルは二日分の労賃に相当すると言われていますので、十日分の労賃に当たる銀貨を献げる必要がありました。ざっくり、月給の三分の一と考えてみてください。

それから三つ目の儀式ですが、これは出産後の女性は儀式的に汚れた者とみなされ、7日間は隔離され、それからさらに男子の出産の場合は33日間、女子の場合はその倍の期間、聖なるものから遠ざけなければならないとされていました。22節にある「きよめの期間」というのがこの規定にあたります。現代的な感覚では「汚れている」なんて女性に対する侮辱のように受け取られますが、このきよめの期間の律法は結果的に産後のお母さんを守ることにもなったと思います。それはともかく、無事にきよめの期間を終えたらば規定の献げ物をすることになっていたのです。それが24節に書かれていることです。

このきよめのささげ物は経済力に応じた動物が指定されていて、余裕のある人は牛やひつじを献げましたが、経済的にゆとりのない人は24節に書かれている山鳩一つ外か家鳩の雛2羽でも良いとされていました。山に行って捕獲したものでもいいということです。

マリアとヨセフの行動は、ユダヤ人として当たり前のことではあったし、一つ一つのイベントは通過儀礼として楽しみな面はあったと思います。それでも、貧しさの中にあった人たちにとっては結構な負担であったことも事実です。男子の初子に課せられた5シェケルは金持ちにとっては大した額ではないかもしれませんが、貧しい労働者にとっては十日分の労賃はかなりの痛い出費です。きよめの期間を終えた後のささげ物も最低限のものしかできません。

そして、直接は描かれていませんが、彼らが出かけた宮、つまりエルサレム神殿には、神殿を管理し、礼拝を司る大祭司を筆頭とする祭司の組織があり、商売で儲けた人を除けば、金持ちの代表といえるのがこうした祭司職だったのです。

日本も格差社会になっていて、昔ほど頑張れば出世できるとか、成功者になれると簡単には言えませんが、それでも可能性はあります。しかし階級社会のユダヤでは貧しさから抜け出すことはほとんど不可能なことでした。描かれてはいない絶望がユダヤの社会を覆っていたのです。そして救い主はまさにそうした、この世にあっては望みのないような人たちのためにおいでになった方であることを表しているのです。

2.待ち望んだ人々

次に、救い主の到来を待ち望んでいた人たちが描かれます。

一番大きく扱われているのはシメオンという老人で25~35節に登場します。次に36~38節に登場するアンナという年老いた女預言者。そして最後に38節で触れられている「待ち望んでいたすべての人」です。

ルカは彼らを描くことで、人々がどういう思いで何を待ち望んでいたか、それに対して神様がキリストによってどんな救いをもたらそうとしているかを示します。

エルサレムに住んでいたシメオンは「正しい人、敬虔な人」でした。表面的に神の命令を守るような人たちとは違って、心から神を畏れ敬い、それゆえに神の教えに従っていたのです。そして彼は「イスラエルが慰められるのを」待ち望んでいました。

84歳という高齢の女預言者アンナは、シメオンとマリアたちのやりとりを見て近づき、神に感謝を捧げてから、「エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人」に、約束の男の子が誕生したことを告げ知らせています。

この「イスラエルの慰め」「エルサレムの贖い」という言葉が、当時のユダヤ人の待ち望んでいた神の救いをよく表しています。

イスラエルの王国が滅び、バビロンに捕囚となったのは紀元前586年のことです。これをバビロン捕囚と言います。その時代、主は預言者たちを通してやがて神の民を連れ戻し、国を再建すると約束されました。実際、紀元549年にバビロンから支配権を奪ったペルシャの王クロスが勅令によってイスラエルの民をエルサレムに帰還させ、神殿の再建や城壁の再建を進めさせます。

一見バビロン捕囚が終わったように見えたのですが、ユダヤ人の感覚では、捕囚の時代は全然終わっていなかったのです。

ペルシャによるイスラエルの土地の支配は変わらずに続きましたし、その後も支配者がギリシャやローマへと移り、真に独立した国とはなれませんでした。それどころか、ある時はユダヤ人の伝統を破壊し、ギリシャの文化に馴染ませるために神殿での礼拝やいけにえを献げることが禁じられたり、ユダヤ人が汚れたものとして嫌悪するようなものを神殿に持ち込んだりと、ひどい屈辱を与えられてきました。

一方で大祭司を初めとする祭司階級の人たちは貧しい人たちが身銭を切って献げる献げ物で私腹を肥やし大金持ちになっており、それがどれほど不公正で非情な社会になっていたとしても「神がこのように定めたのだ」と言って決して特権を手放そうとはしません。多くの人たちにとっては政治の課題よりも、絶望的な不平等の中で神が自分たちを憐れんでくださるのを期待するしかありません。

そんな中で捕囚時代が完全に終わり、神の王国をもたらしてくれるキリストを待望する信仰が強まります。約束のキリストが来てくれればエルサレムを完全にローマから取り戻し、神の王国としてのイスラエルを再建してくれると期待しました。預言者たちによればこの方こそ、世の中にあふれる不公正や不正義を正し、自由を与え、目の見えない人を見えるようにし、主の恵みをもたしてくださる、貧しい者にも恵みをもたらしてくださるはずでした。

そしてシメオンは、聖霊によってその時が来たことを知り、神殿へと導かれ、幼子を抱えた若い夫婦の前に現れたのです。

3.幼子の未来

いきなり目の前に現れた老人が、誰も知らないはずの男の子について語り始め、神をほめ讃えるのにヨセフとマリアは驚きました。シメオンはマリアから幼子を受け取ると抱きかかえ、「これでやっと安らかに死ねる。この目で神の救いを見たから。この幼子こそが、神がすべての人に備えた救いであり、異邦人さえも照らす啓示の光であり、神の民の誉れだ」と神をほめ讃えるのです。

聖霊に満たされて歌うシメオンの歌と言葉はそれ自体がまるで預言者たちの預言の言葉のようです。そして、聖霊によって語ったシメオンの言葉には、当時のユダヤ人が考えもしなかったような、神の救いについての重要な情報が含まれています。

イエス様の誕生は確かにイスラエルの栄光であり、ユダヤ人が待ち望んで来たものですが、その救いはイスラエルに限定されるものではありません。すべての民に備えられたもの、異邦人にまで及ぶものだとはっきり語っています。

さらにこの幼子による救いは、幼子を待ち受ける未来と深い関わりがあります。34~35節には幼子の未来が語られています。

「ご覧なさい」と始まる言い方は、旧約時代の預言者が未来の驚くべき事を告げるときに「見よ」と言って語るのと同じ言い方です。「この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ちあがったりするために定められ」ているとシメオンは聖霊によって告げます。

ちょっと分かりにくい言い方で何を言わんとしているかはっきり分かりません。でも、救い主として来られたイエス様にある人たちは躓き、ある人たちは力づけられ立ちあがるということを私たちは知っています。この「立ち上がる」という言葉は、新約聖書の中では復活に関連して使われる言葉です。つまり、イエス様の復活のいのちに与って立ち上がる、新しいいのちをいただく、新しい人生を生き始める。そんなことを指していると考えられます。

しかし、続けて不吉なことが告げられます。「人々の反対にあうしるしとして定められ…あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」

もちろん福音書を最初に受け取ったテオフィロも、初代教会のクリスチャンたちも、これがイエス様の十字架を意味していることはすぐに分かったはずです。多くの人たちにもたらされる救いはこの幼子が将来直面する反対、反抗と十字架の苦しみを通してもたらされます。母としてのマリアはイエス様が目の前で鞭打たれ、十字架に磔にされるだけでなく、始終罵られ唾をかけられ、殴られるのを見せつけられます。それは親としてまさに心を刺し貫かれるような痛みを覚える光景です。それはイエス様が受ける苦しみ、痛みへの共感以上に、そのとき顕わになる人々がうちに隠していた憎しみ、冷酷さ、暴力性などが明らかになり、民の指導者であるべき人たちの腹黒い策略や裏切り、我を忘れて十字架で殺せと叫ぶ群衆の熱狂がイエス様の腕や足に釘を打ち付けるその一点にぶつけられるのを見ることになるからです。

当時のユダヤ人は、約束のメシアにそんな未来が待ち受けているとは考えもしませんでした。輝かしい勝利をもたらしてくれるはずだと考えていたのです。そう、確かに勝利をもたらしますが、それは戦いではなく、十字架の苦難を通しての勝利なのです。

適用:私たちが立ちあがるため

もう一人の年老いた女預言者アンナが、マリアたちとシメオンのやり取りを見かけます。彼女は10代後半に結婚し、7年間という短い結婚生活の後、夫を亡くし、20代からはずっと独身生活を貫いていて、このときはもう84歳でした。女預言者という立場で、当時どんな働きをしていたかは定かではありません。あるいはやもめとなってから、ずっと神殿に通って礼拝を捧げ続け、断食と祈りを繰り返すような敬虔な女性に神様が最後の預言者としての役割を与えたということなのかもしれません。彼女は生涯の終わりに、もっとも重要な預言をすることになります。

38節の終わりで「エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人に、この幼子のことを語った」とあります。

エルサレムの贖いというのも、イスラエルの慰め同様、当時のユダヤ人が待ち望んでいた神の王国の再建と結びついています。そして王国の再建をもたらすキリストがお生まれになったということを人々に語ったのです。彼女の預言が人々にどんな反応を引き起こしたかは記されていません。また、実際にイエス様が人々の前に出て教え始めるまで30年の空白がありますから、それまでに人々がアンナの預言をどの程度記憶していたか、エルサレムの外にまで拡がったのか、そのあたりも全く分かりません。もしかしたら30年後イエス様が人々の前で教え始める頃にはシメオンの預言も、アンナの預言は忘れられていたかもしれません。

しかしながら、羊飼いたちの証言に続き、神を畏れ敬って約束の救い主到来を待ち望んでいた二人の老人の証言によって、約束のキリストが誕生したことが証されました。しかしその救いは、今はまだ赤ん坊のイエス様の将来の十字架の苦しみを通して、信じる人々が立ち上がることができると告げられました。このことは私たちにとってどんな意味があるのでしょうか。

テオフィロも初代のクリスチャンたちも、そして私たちも、イエス様の十字架の苦難も復活もすでに知っています。イエス様が、私たちを立ち上がらせるためにその苦難を引き受け、十字架で死なれ、よみがえってくださいました。私たちはすでにその死とともに復活のいのちにもあずかっています。ルカが福音書を通して私たちに示そうとしていること、神様がルカを用いて気付かせようとしていることは、神のご計画がこのようなものだったということを理解させるためだけでなく、実際に私たちがイエス様の十字架の御苦しみと復活を心に刻み、私たちが立ち上がれるためです。

私たちはイエス様の前にして倒れる者ではなく、立ち上がる者です。自分の罪深さに気付いたり、弱さに打ちのめされて倒れたり、遜らされるかもしれませんが、それで終わらず、罪の赦しをいただき、立ち上がることができるように復活の力をいただいています。

疲れることも、心が弱くなることも、信仰に迷いが生まれることも、生活の中に罪が忍び込むこともありますが、私たちは打ちのめされて終わりではありません。イエス様を死者の中からよみがえらせた力で立ち上がれるようにと、イエス様はおいでくださいました。そのことを信じて、新しく力を受け取り、また今日も新しい日を歩んでいきましょう。貧しい者、年老いた者を見捨てず恵みと栄光を見せてくださった神様は、私たちにも同じように恵みと栄光を見せてくださいます。

祈り

「天の父なる神様。

幼子イエス様が経験されたこと、イエス様について語られたことばを通して、イエス様が誰のために来られ、何のためにおいでになったのか改めて学ぶことができました。イエス様はまさに私たちのために、私たちが立ち上がるためにおいでくださいました。しかもそのために十字架での苦しみをお受けくださいました。

私たちのために十字架で死なれたイエス様が、よみがえられた方であり、その力を私たちに注ぐと約束されたことを信じて、今日も立ち上がることができますように。私たちの心、体でその御力を味わうことができますように。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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