2025年 12月 14日 礼拝 聖書:ルカ4:16-30
アドベントに入ってクリスマスに向けての準備もいよいよ本格的に進み始めています。リリーベルの皆さんの練習曲もクリスマスに因んだ曲が多くて、かすかに聞こえてくる演奏にクリスマス気分をずっと味わっています。
さて、そのクリスマスに人の子としてお生まれになったイエス様は、およそ30歳になったときに、ガリラヤ地方でメシヤ、すなわちキリストとしての働きを始め、あたり一帯で評判になっていました。人々の関心は、イエスの教えの評判、病人をいやし、悪霊につかれた人を解放する奇跡の力でしたが、実際のところ彼は何者なのか、待ち望んでいたメシアなのだろうかという疑問もありました。
今日の箇所でイエス様はご自身が何者であり、何のために来られたかを明らかにされますが、すべての人がそれを歓迎したわけではありませんでした。いったい、何があったのでしょうか。イエス様がもたらそうとしている神の祝福を受け取るには何が必要なのでしょうか。
1.イエスの宣言
まず、イエス様がナザレの会堂で決定的な宣言をなさった場面を見ていきましょう。
ガリラヤ一帯で教え始めたイエス様は、その一貫として、ガリラヤ地方の小さな田舎町である故郷のナザレに向かいました。イエス様は毎週の安息日ごとに、どこかのユダヤ人会堂に出かけ、そこで人々とともに礼拝を捧げていました。そして、いつもやっているように、聖書を朗読するために立ち上がると、イザヤ書が手渡されました。印刷技術がまだなかったので、昔の聖書は書巻ごとに巻物にされ、イザヤ書のようにボリュームのあるものなどは何巻かに分けられていました。おそらく会堂管理者と呼ばれていた、ナザレの会堂の管理や礼拝の段取りを任されている人から、今日はこの中から読んでくださいという意味で渡されたのでしょう。
イエス様は、巻物を手にとってそれがイザヤ書であることを確かめると、さっと目を通した上である箇所を選んで読み始めます。それが18節と19節に書かれています。基本的にはイザヤ61:1~2からの引用ですが、他の箇所からの引用も少し織り交ぜています。これらの箇所は来るべきメシヤの働きについて預言した箇所です。「主がわたしに油を注ぎ」とありますが、この「油注がれた者」というのが、メシアまたキリストの直接の語源になっています。神がある人を王、また祭司、時には預言者として選ぶとき頭にオリーブ油が注がれました。油に何か力があるわけではなく、神の聖霊が注がれたということの象徴です。事実、イエス様はヨハネからバプテスマを受けた時に聖霊がくだり、荒野での誘惑を退けた後にも聖霊の力に満たされて働きを始めました。
イエス様は「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため」と、この預言が自分自身について語っているかのように朗読したのです。そして、シアの務めは貧しい人に良い知らせを告げること、主の恵みの年が訪れたことを知らせることでした。
捕らわれ人、目の見えない人、虐げられている人は、その貧しい人の代表でした。無力で、誰からも救いの手を差し伸べられず、物乞いをしてわずかな施しものを得ることで何とか生き延びている人たちに、主の恵みの年が訪れたことを知らせるためにメシヤは遣わされると預言者は告げていました。
この箇所を読み終えて、聖書を教えるために座ると、人々の目がイエス様に一斉に向けられました。その注目の中で、「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました」と宣言なさったのです。実際にイエス様は各地で人々を教えるだけでなく、病を癒しましたから、イエス様の言わんとすることは明瞭です。ご自分がイザヤの預言した「油注がれた者」すなわちメシア、キリストとして神から遣わされたと言っているのです。
そして、もう一つ重要な点は、「主の恵みの年」と呼ばれている、神の救いが成就する時代がやって来たという宣言です。ユダヤの人々はメシヤの到来とメシヤによる新しい時代を待ち望んでいました。それは未来の話しだと思っていたようです。もっと違った、ローマの支配を打ち破るために反乱軍を立ち上げるようなことを想像していた人もいたようです。しかし、イエス様は、最も弱い人たちに手を差し伸べることで、主の恵みの年が来たことを知らせたのです。
2.人々の反応
イエス様の宣言を聞いた人々の反応は、イエス様を褒め、驚いているようですが、どこか微妙です。
22節「人々はイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。」
人々はイエス様の言葉に驚き、褒めています。ルカはイエス様の言葉が「恵みのことば」だったと書いていますが、ナザレの人々は、その内容の素晴らしさではなく、「ヨセフの子」にすぎない人から、たいそう立派な言葉を語っていることに驚いているのです。昔からよく知っているヨセフの息子。そして地元の人たちは、その子が生まれるときの町に拡がった噂をよく覚えていたに違いありません。
マリヤよ、ヨセフは婚約中でした。法律上は夫婦と同じ権利と義務がありましたが、正式に結婚するまでは一緒に暮らすことはできず、婚約期間に子どもができるなんてことがあったら大変なスキャンダルになった時代です。二人は、聖霊によって身籠もった子どもだと言い張りますが、真に受けた人がどれほどいたでしょうか。
また12歳の頃、町の人たちと一緒にエルサレムに巡礼に行ったときの迷子騒動を覚えている人たちもいたことでしょう。帰り道、一緒に帰ったはずなのに、見当たらず、結局両親がエルサレムまで戻って神殿で律法学者達と聖書のことばについて議論していたことや、その時の少年の言葉を聞いて、生意気な子だと思った人もいたのではないかと思います。
「ヨセフの子ではないか」という驚きの言葉には、イエス様がご自身を主の霊が注がれた油注がれた者で、主の恵みの年を告げるために遣わされたと宣言するのを聞いて、まともに信じようとはしなかったことが現れています。
それは23節のイエス様の応答にも見えます。イエス様は彼らに答えて言いました。「きっとあなたがたは『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ』と言うでしょう』」
「カペナウムで行ったこと」と言わずに「カペナウムで行われていたと聞いていること」という言い方にすることで、話しには聞いているけれど信じてはいなかったナザレの人々の心中を表しています。イエス様は、彼らがイエス様の様子に驚いてはいましたが、信じてはいなかったことに気付いていたのです。
24節で『預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません』という、これまた当時のことわざを引用して、彼らが故郷に戻ったイエス様を一応、聖書を解き明かす教師として丁寧に迎えてはくれたものの、本当にはご自分を受け入れていないことを突き付けたのです。
ナザレの人々の態度は、石をパンに変えてみろと挑戦したり、聖書の言葉を引用して高いところから飛び降りてみろと試した悪魔の誘惑にも似ていて、イエス様を信じても、敬おうともしていないくせに、しるしを見せてくれというものでした。奇跡を行えば満足するかもしれないし、それでイエス様を受け入れるということでもありません。私たちがイエス様に奇跡的な助けや介入を祈り求めるとき、本当は何を願い信じているのか、よくよく自分の心に問いなおす必要があるのではないでしょうか。
3.信仰が必要
イエス様は続けて、良く知られた旧約時代の二人の預言者にまつわるエピソードを取り上げて、何が奇跡を呼び寄せるのかについて語ります。エリヤが大飢饉の時代にイスラエルのやもめではなく、シドン人のやもめのところへ遣わされた話しというのは、イスラエルが王様から民に至るまでバアルという土着の神に傾倒してしまっていた時代に、悔い改めを促すためにひどい飢饉が起こったときのことです。やもめというのは経済的にも社会的にも脆弱で、助けが必要なことは他の人たち以上でした。たくさんのやもめがいましたが、エリヤが助けたのはシドンという外国に暮らすやもめでした。
27節のエリシャの時代の話しはもっと有名です。ナアマンという外国の将軍、しばしば敵対関係となっていたシリアの将軍がツァラアトに冒されました。イスラエルにも同じ病気に罹った人はいましたが、エリシャが病を癒し清めたのは外国人のナアマンだけでした。
二つのエピソードに共通しているのは、イスラエルの民が真の神を信じないで偽物の神を礼拝していた時代だということ、そして助けが必要な人はイスラエルの中にもいたけれど、実際に神の恵みを受け取ったのは外国人だったということ。
この話しは聞いていた人たちを怒らせました。まず、この話しを例に挙げるということは、「あなたがたは偶像礼拝者だ」というようなものだからです。故郷の人たちをそんな風に言うなんてとんでもない侮辱だということになったでしょう。さらに、神の奇跡がイスラエルの民ではなく異邦人に与えられたというエピソードは、あなたがたは異邦人以下だと言われているような気がしたはずです。
実際、ナザレの人々はイエス様に腹を立て、町の外に追い出し、丘の崖のふちまで追いやって、突き落とそうとしました。イエス様は彼らの真ん中を堂々と通り抜けて去って行きましたが、それほどにナザレの人々を炎上させたのです。
しかしイエス様がしたかったことは彼らを貶めたり侮辱することではありません。イスラエルの民だから神の力を見ることができるのではなく、信じる者に神の恵みと力は示されるということです。
この出来事は、この後何度も繰り返されるパターンの原型になっています。神の恵みは約束されたものでした。主の恵みの年が到来したことを告げるためにイエス様は来られましたが、イエス様を油注がれた者、メシアとして敬い信頼するより、自分たちが望むような力を見せてはくれないこと、自分たちの利益になるために動いてくれないと分かると、イエス様を拒絶し、追い出し、ついには殺してしまいます。それはイエス様の働きの中でもそうでしたし、使徒の時代になってからも繰り返されました。そして良い知らせは受け入れようとしないユダヤ人ではなく、異邦人であっても信じる人々に向けられていったのです。
そして、福音書を最初に読んだテオフィロや初代教会のクリスチャンたちは、初めからこの福音が異邦人である自分たちにも開かれていたことをイエス様ご自身のことばから確信することが出来たのです。主の恵みの年は、ユダヤ人が拒否したからやむを得ず外国に拡がったということでなく、初めからすべての人のためのものとして計画されたのであって、イエス様を受け入れる者であれば誰でも救いに与ることができるものなのです。
適用:私たちの信仰は
今日の箇所からどんなことを教えられ、どんな教訓を得ることができるでしょうか。
今日の聖書箇所自体が語っていることは、イエス様が聖書で約束されていた救い主であること、救い主がもたらす主の恵みの時代がすで到来していること、そしてこの良い知らせは最も弱い人たち、貧しい人たち、祝福から遠い人たちに与えられているということです。このことは、神の救いが罪人と呼ばれ蔑まれていた人たちや、異邦人と呼ばれ神からもっとも遠い人たちと背を向けられていた人たちにこそ与えられるものであることがだんだん明らかになっていきます。
確かに、自分たちは正しいと傲慢になっている人たちよりも、取税人や罪人と呼ばれる人たちのほうがイエス様の話しによく耳を傾けたという面はありますし、ユダヤ人が拒否することで異邦人に福音宣教が拡がっていったという面はあります。しかし、それはたまたま流れでそうなったということではなく、最初から罪ある者、貧しい者、遠くに追いやられた人たちのためのものとして備えられていたということです。
しかしながら、主が与えようとしておられるものをそのまま受け取ろうとせず、自分の望みや自分の期待を押し付け、それが叶えられないなら信じない、という態度でいるなら、この恵みは受け取れないという厳しい一面もあることを教えています。
この中の多くは、イエス様によってもたらされる救いを受け取った者です。この救いの恵みは揺るぎないものですから、その点で心配することは何もありません。
しかし、ナザレの人たちの態度を見るとき、「カペナウムで行われたと聞いていることを、…ここでもしてくれ」と同じようなことを考えたり、言ったりすることがあるんじゃないかと思いました。祈りの言葉として、聖書に描かれているように、私たちをあわれんで力を示してくださいと願うことが悪いということではありません。そういう祈り方自体は聖書の中に、特に詩篇にはよく見られるものです。
問題は、神様が恵みとして私たちに与えるものを喜んで受け取ることより、自分の願いや期待を神様に押し付けて、「そっちじゃなく、こっちがいいです」という態度、考えになってはいないかということです。
イエス様の目的は、私たちをイエス様に似た者として成長させることと、私たちを通して神の恵みと祝福を世界にもたらすことです。そのためには何でも与えます。私たちが欲しがるものを与えて私たちの機嫌を取るのではなく、私たち自身の回復と成長のために必要なこと、神の恵みの器となっていくために必要なものを与えます。
私たちにも目を向けてくださったことを感謝して、イエス様の前にへりくだりましょう。私たちの願いについては、なんでも願いなさいと言われていますから遠慮せずに祈りますが、それ以上にイエス様の願いは何かを知ることを求めましょう。
主がイエス様を通して与えてくださるものが良いものであることを信じて受け取りましょう。時にはキリストとともに苦しみを味わうことも含まれると聖書は明言しています。「たとえ主から差し出された杯は苦くとも、恐れず感謝を込めて、愛する手から受けよう」と歌うように、信仰をもって受け取りましょう。
そうすれば、ナザレの人々が味わうことのできなかった素晴らしいキリストの御わざを私たちの人生で受け取ることができます。
祈り
「天の父なる神様。
イエス様が私たちの救いのために、初めからそのことを思い描いてキリストとしての務めにあたってくださったことを覚えて感謝します。
しかし人は時として、神様が与えるものと自分が望むものが違ったときに腹を立てたり、神様が差し出すものにがっかりしたりする、自分勝手なものです。
あなたがくださるものはすべて良いものであり、苦い杯であっても良い意図とご計画があることを信じて受け取ることができるようにしてください。
どうぞ、イエス様を通して与えられる主の恵みを余すところなく味合うことができますように。
イエス・キリストの御名によって祈ります。」