2020-05-03 私の歩く道

2020年 5月 3日 礼拝 聖書:箴言3:5-6

 私たち、現代人の生活はあふれるほどの情報と知識に囲まれています。ある研究によれば、現代人が1日で受け取る情報量は江戸時代の人の1年分にあたるそうです。

学校で勉強すべき内容も幅が広くなっていますし、身につけるよう期待されていることも増えています。しかし、たくさんのことを学び、知識として蓄えたからといって、生活や心が豊かになるかというと、必ずしもそうではありません。

このことは信仰によって生きることを目指す私たちにとっても大事な問題です。どれほど信仰が熱心であっても、あるいは聖書の知識が豊富でも、人生が確かで豊かになっているかは別問題です。

頭が良くても人との関わり方や感情の表し方が下手だと、いつも人間関係の問題が起こり、人生が不安定になります。知識が豊富でも実際の技術や経験が乏しいと、自信のなさが他人への批判や気持ちの不安定さとなって現れます。信仰が深くても現実の人生に結びついていなければ、何でもできる、きっと大丈夫という間違った万能感のために自分に嘘をつき、周りを混乱させることになります。

今年度、私たちは月一度、クリスチャンとしてぜひ暗記し、心に留めておくべきみことばを取り上げようとしていますが、今日は箴言3:5~6から知恵と謙遜さについてご一緒に学びましょう。

1.信仰と生活

第一に、私たちは信仰に基づいて日々の生活を整え、人生を確かなものとしていかなければなりません。

よく「信仰生活」という言い方をします。時にはこれは「教会に行くこと」や「毎日祈ったり聖書を読むこと」という意味で用いられるのですが、本来はもっと大きな意味を持っています。

先週まで、世の終わりについてのイエス様の教えを学んでいました。イエス様は世の終わりにはどのような前兆があるか、最後の審判の時にはどのような基準で判断されるのか、ということを教えていましたが、その教えの目的は、世界の終わりについての知識を与えることではありませんでした。そのような知識に基づいて、イエス様を救い主と信じるクリスチャンはこの時代をどのように生きるべきか、ということを考えさせるために語られていました。

私たちは、神様が天地を造られたただお一人の神であると信じています。私たちには罪があり、罪に対しては報いがあることを信じています。私たちは、イエス様が私たちの罪の裁きをかわりに引き受けてくださったことを信じます。そのために十字架で死なれ、三日目によみがえってくださったことを信じます。そして、天に挙げられたイエス様が再び戻って来られ、この世界をお裁きになることを信じています。イエス様にある者は新しいいのちを与えられており、地上での生涯を終えてもなお神の前に生き、イエス様がお帰りなるときには新しい肉体によみがえり、愛する者たちと再会することを信じます。

それらは、信仰の内容です。そのように教え、また約束してくださった神様を信頼することが信仰にとっては肝心です。

しかし、そこから先があります。そのように信じ、神を信頼するなら、どう生きるのかということです。

人間同士の間でも、相手との信頼関係や親しさが増したり、深くなれば、生活に変化が起きてきます。単に気持ちの問題だけではありません。挨拶するときは笑顔や穏やかな表情になり、冗談を言い合えるようになったり、呼び方が変わったりもします。相手の好きな食べ物や苦手なものを知れば、自然とこれは好きそうだなとか、これは勧めるのをやめておこうとなったりします。今まで打ち明けなかった悩みや恥ずかしい失敗談を話すようになります。関係が変われば行動も変わるのです。

私たちが信仰を持つ、ということは、他の人が信じようとしない変わった教えを信じる、変わった人種になるということではありません。私たちをいのちがけで愛してくださっている神様との信頼関係、親しい関係を持つようになったということです。神様と人間の関係が親子に喩えられたり、イエス様と私たちの関係が花婿と花嫁に喩えられるのはそのためです。そこには信頼と愛に根ざした深い絆があります。

結婚したり、子供が産まれれば生活ががらっと変わります。同じように、神様の子供となり、イエス様の花嫁となったら、私たちの日々の暮らしと人生が大きく変わらなければおかしいのです。

だからローマ12:1ではこう言われます。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」

2.二つの方法

第二に、クリスチャンの生き方には二通りあります。どちらもクリスチャンらしく生きようとするものですが、中身はだいぶ違います。

一つは自分の考えや人から言われた方法で生活をクリスチャンっぽく見せるようにすることです。

もう一つは、みことばによって生活を整えて行こうとする生き方です。

まず、一つめの、自分の考えや人から言われた方法で生活をクリスチャンっぽく見せるようにする生き方ですが、たとえば「クリスチャンになったら毎週教会に来るんだよ」「毎日祈ったり聖書を読むんだよ」「クリスチャンになったら、これとこれとこれは止めなきゃいけないんだよ」と言われたら、素直にその通りにしようとします。

その素直さは良いのですが、実際に聖書でどう教えられているか、なぜそのように言われているのか、よく考えもしないで従うなら、それは「信仰によって」とは言いがたいです。自分がなぜそういう行動をするのか、という時に、みことばがこう教えているからというのではなく、誰々先生がこう言ってたからとか、教会でこういうふうに教えて来られたから、というのしか出てこないとしたら、ちょっと危ないです。しかしまた、逆に自分勝手な解釈で「おれはこうする」というような、結構独特な信仰理解、信仰生活を送る人がいます。「自分の悟りに頼るな」「自分を知恵ある者と考えるな」という箴言の言葉はそうした他人の考えや自分の考えに頼ろうとする者への戒めとなっています。

二つ目の生き方は、みことばによって生活を整えて行こうとする生き方です。

3:1には「わが子よ、私の教えを忘れるな。」とあります。この「教え」とは、律法、つまり神の言葉である聖書を意味しています。神様は私たちに人の意見に考えなしに聞き従うのでも、自分の考えにこだわるのでもなく、みことばの教えに聞く事、その教えを心に刻み、忘れずにいることを願っておられます。それは暗唱聖句をするように文章として覚えて置くということではなく、神様のお考えや心を、我が物とするということです。

神様の造られた世界の素晴らしさを通して、あるいは人生の中での経験を通してでも、もある程度まで神様がどんな方かを知ることができますが、それは人それぞれのもっている色眼鏡によって違って見えるものです。だから、みことばを通してこそ、私たちは神様がどのような方であるかを知り、みことばを通してこそ、神様が私たちに何を願っておられるかを知ることができるのです。

そうしたみことばの教えに立てば、私たちが毎週教会に集うことも、礼拝を捧げることも、一生懸命奉仕することも、日々祈ったり、聖書を読んだりすることにも意味が出てきます。

けれども、クリスチャンとしての歩みは、そういうクリスチャンらしい習慣を身につけるということだけでなく、6節に「あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ」とあるように、人生のあらゆる面、生活のあらゆる側面に関係するものです。

くり返しますが、私たちは信仰に基づき、みことばによって日々の生活を整え、人生を確かなものとしていかなければなりません。

3.知恵と信頼

第三に、信仰によって生活を整え、人生を歩んでいくためには、知恵と神様への信頼が必要です。

箴言3:5には「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。」とあります。

箴言はもともと、神様の民である人達に、信仰によって歩むための知恵をさずけるために書かれました。というのは、聖書の教えというのは生活のすべて、人生のあらゆる場面に関わるものですが、私たちの日常生活や人生のあらゆる状況について具体的に触れているわけではないからです。

聖書には、新型コロナによって教会に集まれなくなったときにどうしたら良いかというようなことは書いていないし、インターネットが普及した時代に、どう使うのが正しいかも教えていません。

逆に、聖書が書かれた時代に起こっていた問題のいくつかは、私たちの生活の中では、まったくといっていいほど問題になりません。教会の中で女性が帽子を被るべきかどうかはコリント教会では大問題になりましたが、日本では、そもそも部屋の中では男でも女でもかぶり物は取ります。

旧約時代、何人もの奥さんとやその子どもたちの間で争いが起こり、そこで信仰や誠実さが試されたりした人達の物語を読みますが、私たちの現実の生活ではそういうことが問題になることはありません。

だから、知識として聖書を知っているだけでなく、そこで教えられていることを、今の私たちの生活の中に当てはめていくための知恵が必要なのです。

今、まさにこの知恵が求められる時代です。3月の末に、東京でワッツ・ザ・パスターというインターネット番組の収録があったとき、関東におられるお二人の先生がたと、大変だねえという話しをして、これで何週間かしたら「なんてのんきなことを言ってたんだ」と言うことになるんじゃないかと笑いながら話していましたが、まさにその通りになってしまいました。

それらの先生がたと時々やりとりしていますが、それぞれの教会の状況に応じて、それぞれに工夫し、対応しています。教会の皆さんも、今の岩手の状況や家庭環境、仕事との関わりなど、様々なことを考えながら、何がよりよいことかを迷いながらも、決断し、ある人は自宅で礼拝を守ることを選び、ある人は教会に来たくてしかたがないのに我慢し、またある人は最大限注意しながら集っています。どの判断も尊重されるべきですが、いずれの選択にも、何が神様を礼拝し、兄弟姉妹との交わりを大切にすることと、他の人に感染を広げるリスクを最小限に抑えることで、隣人愛を実践することになるかのバランスを取ろうとしての行動なのかどうかが問われます。そういう、現実の問題の中で、神様の基本的な教えをどう活かして行くかを考え、判断し、工夫していくのが知恵です。

しかし、この知恵は、自分の悟り、理解に頼らず、神を信頼するという謙遜さを併せ持っていなければなりません。私たちの理解も経験も完全ではありませんから、神様の前にへりくだり、自分ではなく神様に信頼することが大事です。

適用 賢く謙遜に

あらためて3:5~6を読んで見ましょう。

「心を尽くして主に拠り頼め。
自分の悟りに頼るな。
あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。
主があなたの進む道をまっすぐにされる。」

ここには知恵という言葉出て来ませんが、私たちの歩みを確かなものとし、主に喜ばれる歩み、また私たち自身が幸せで、他の人にも恵みを分かち合える歩みをするためには知恵が必要だという箴言と聖書全体の教えが土台になっています。

そのうえで、自分の悟りに頼るのではなく神様に頼る謙遜さ、人生のどんな場面でも、主に信頼し、主の言葉によって歩む時に、私たちの歩む道はまっすぐなものになります。

私たちクリスチャンは、この揺れ動く不確かな世界で、確かな道を歩み、平安と確信をもって歩むために、賢く謙遜でなければなりません。その賢さはみことばによるもの、その謙遜は神の前での謙遜でなければなりません。

そのような賢さと謙遜を持つにはどうしたらよいでしょうか。

それは、祈りつつ考える習慣を身につけることに尽きると思います。

考えるよりまず行動し、経験する方がいいという体育会系の人も、自分の直感に頼るのではなく、神様に拠り頼み、経験したことをみことばによって確かめる習慣をつけましょう。

祈ることは神様に信頼し、謙遜に願い求めることですが、ただ答えを待つのではなく、考え続けるところに知恵が生まれます。

失敗もあるでしょうし、間違った理解をすることもあるでしょうが、祈りながら、考え、判断し、また祈り問いなおす。その継続の中で、本物の知恵が与えられていきます。

人から教えられたり、アドバイスをもらったときも、素直に耳を傾けつつ、自分でも考え、やってみて、また考え、祈り求める。

現代の私たちは、知恵を求めるとき、人に聞くより、すぐネットで検索します。そういう文化の中に生きています。知恵として自分の身につく努力をしなくても、別の新しい状況に置かれれば、その時はその時で、またとりあえず検索する。

けれど、そこで得られるのは情報であって知恵ではありません。通信が遮断された何も分からなくなります。何よりもそんな風にして得た情報や知識が、みことばに根ざしたものであるかどうか、相当疑わしいです。

面倒なことかもしれませんが、私たちは、祈りつつ考えるという、とても原始的でアナログな方法で、知恵と謙遜さを養っていきます。そうすることが、この不確かな世界で喜びと平安を持って生きて行く道です。ぜひ、祈ること、考えることを習慣にしましょう。

祈り

「天の父なる神様。

私たちにみことばを与えてくださり、ありがとうございます。主の御名によって祈ることを教えてくださり、ありがとうございます。

どうぞ私たちがあなたの御心を知り、自分の生活や人生を整え、主に喜ばれる者となり、あなたの恵みを人々に分け与えられるような者となれるように、私たちに知恵を与え、また神様の前で謙遜でいらえれるようにしてください。

日々の生活の中で、祈り、考えることを習慣にすることができますように。あなたのみことばを思い巡らし、自分の置かれた状況で神様が何を願っておられるか、祈り求め、みことばに立って考えていける力を与えてください。

今私たちが置かれている世界は、大きく変わろうとしています。今までの当たり前が通用しないかも知れません。そのような中で不安や恐れに支配されず、私たちの歩む道がまっすぐにされるために、知恵と謙遜さを身につけさせてください。

主イエス様の御名によって祈ります。」