2020年 8月 9日 礼拝 聖書:マタイ27:27-38
イエス様の最後の一週間の出来事をたどり始めたのが昨年の11月半ばです。一週間の出来事をかれこれ9ヶ月かけてたどっています。最後の晩餐の日から翌朝の裁判のわずか一日の出来事も3ヶ月ほどかけて読んで来ました。途中、クリスマスがあったり、新年を迎えたり、月に一度は年間主題に合わせ「今月のみことば」を取り上げたりもして、抜けた週もありましたが、それにしても長くイエス様の十字架に向かう道のりをたどっています。
福音書の中でもかなりの分量を割いて描いていますから、それだけじっくり味わうべきことがあるはずです。
こうして、イエス様の歩まれた十字架への道のりをたどりながら思い巡らすことを、伝統的には「十字架の道行き」と言います。言い方はともあれ、こうやってイエス様の十字架への道のりを少しずつたどり、追体験し、その意味を思い巡らすことは、イエス様のご愛の深さ、私たちを救うために十字架を引き受けたその覚悟や決意の固さ、あちらこちらに垣間見られる人間の罪深さ、そこまでしなければ私たちの罪が赦され聖められることがないという重い事実が突き付けられます。これほど長くイエス様の味わった苦しみの跡をだどるのはなかなか忍耐のいることではありますが、それだけに得るもの、受け取れる恵みも豊かにあるというものです。
1.茨の冠
聖書を良く読むと、4つある福音書のどれを見ても、あることに気付きます。イエス様の感じたであろう苦痛や、拷問や処刑によって受けた生々しい傷そのもは具体的にはほとんど描かれていません。むしろ、十字架に向かって行く中で、人々がイエス様に浴びせた嘲りのほうを詳しく描いています。イエス様がその中でどう苦しんだかは、ある意味読者に委ねられているのです。
27節から31節は、十字架による処刑に正式に引き渡される前に、兵士たちによるひどい虐めが、まるで余興でもしているかのようになされていることが描かれています。ローマの法律では、囚人に対する公の場での残虐行為は禁止されていていました。それでなくても十字架という処刑方法自体があまりにも残酷で、十分な見せしめ効果があったのです。ですから、これは群衆の前に引き出す前の待機時間にされた、兵士たちにとってはまさに余興だったのでしょう。この総督の兵士たちというのは、正規軍ではなく、ユダヤの周辺の民族から集められた外人部隊で、ユダヤ人憎しの感情が強く、ユダヤ人の王を名乗って死刑に定められた囚人をからかうのは、きっと願ってもないチャンスでした。
兵士たちに囲まれて、真ん中に引きずり出されたイエス様は、着ていた服を脱がされ、代わりに緋色のマントを着せられました。そして茨の冠と、葦という植物のくきを折ってこしらえた棒を持たせました。それは、紫色の衣を纏い、王冠と笏という権威の象徴を身につけたローマ皇帝の服装のパロディです。
兵士たちは王様のかっこうをさせられたイエス様の前に跪き、「ユダヤ人の王様、万歳」といってからかい、はやし立てました。さらに、近づいていっては意唾をかけ、右手に持たせていた葦の棒を取り上げてそれで頭を叩いたりしました。
考えて見れば、これ自体は肉体的な苦痛はさほどなかったでしょう。すでに前の箇所、26節で鞭で打たれていましたので、そちらの方が肉体的にはかなりの苦痛だったはずです。
しかし、人間の残酷さは、肉体的な苦痛を与える以上に、ばかにし、からかい、人間としての尊厳を踏みにじるところにあります。
兵士たちは気の済むまでイエス様をからかい、虐めた上で、正式に十字架刑に引き渡すために連れ出しました。マントも茨の冠も葦の棒といった小道具は全部とりあげ、何事もなかったかのように元の服を着せて連れ出しました。
その間、イエス様がどんな反応をしたか、何を語ったのか、うめき声を上げたのか、あるいはどう感じていたのか、何一つ描かれていません。イエス様の数百年前に預言したイザヤはこう記しました。「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。」
誰もイエス様が自分たちの救いのために、このような辱めを黙って受け入れていたとは思いもしませんでした。今でも、イエス様を否定したり、笑いの種にパロディにしたりする人たちがいますし、無視する人たちがいますが、そのような仕打ちをする人たちを救うために、イエス様はこの苦しみを黙って味わっておられました。
2.クレネ人シモン
今日の二つ目の場面には、クレネ人シモンという人が登場します。同じ出来事を書いているマルコの福音書では、「彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた」とさらに詳しく書かれています。
そのような書き方がされている場合、大抵はその名前が初代の教会の間では良く知られた人物、教会の一員でした。福音書が書かれた時代は、クレネ人シモンより、息子たちのほうが有名だったのでしょうが、彼らのお父さんが、実はあのとき、こんな経験をしていたんだ、という話しとして載っているわけです。
兵士たちはさんざんイエス様をからかってから、十字架につけるために連れ出しました。
裁判が行われた総督官邸はエルサレムの中心部にありましたが、十字架刑が行われるのは「どくろの場所」という意味のゴルゴダとです。そこまでは、人々の罵詈雑言を浴びながら、歩いて行かなければなりません。しかもそのとき、囚人は自分が磔にされる十字架の横木を自分で背負っていいくことになっていました。ローマに反逆したり、重大な犯罪を犯したらこうなるんだという見せしめの効果は絶大でした。
十字架の横木はそれ自体かなり重いものだったそうですが、イエス様は前日から一睡もしていません。弟子たちが眠気に負けて居眠りしている間にも、夜遅くまで必死に祈っていましたし、明け方まで続いた祭司長たちによる尋問と裁判、朝になってから行われた総督ピラトによる裁判と続き、鞭で打たれ、兵士たちのいじめの的になり、体力も気力も相当削られていたはずです。
ちなみに26節でイエス様が受けたむち打ちというのは、形式的なものではなく、背中の皮と肉が裂かれ、骨が見えるほど厳しいものでした。その身体で十字架の横木を背負わされても、とても負いきれるものではありませんでした。
そこで兵士たちは、たまたま道端で見物していた、クレネ人シモンを臨時に徴用して、「お前、代わりに担げ」と命じたのです。そうなると拒絶する権利なんてありません。シモンは重い十字架の横木をイエス様の代わりに背負い、ゴルゴダを目指してエルサレム市内の狭い路地を歩き、その後ろをふらふらになったイエス様がついて行くかっこうになりました。
この出来事がなぜ福音書の中に記されたのか、神様はマタイを通して私たちに何を告げておられるのか、少し考えて見ましょう。
最初に言ったように、イエス様がどれほど苦しかったか、辛かったかは直接書かれていませんが、このような出来事を通して、イエス様が体力の限界をとっくに超えていたことを感じ取ることができます。そして、マタイは当時のクリスチャンたちによく知られた、シモンという名前を出すことで、生々しさが表現されます。それによって私たちに伝わることは、十字架の重さというのをイエス様もその人としての肉体をもってしては背負い切れなかったということです。直接は経験できませんが、シモンが背負った重さを想像することで、イエス様の背負った私たちの罪の重さをずっしりと感じることができます。それはあたかも、私たち人間は自分の罪の責任を、自分の力ではとてもじゃないけれど背負い切れないのだということをほのめかしているかのようです。
3.十字架のまわりで
今日の箇所の三つ目の場面は、イエス様が十字架に磔にされたことです。35~38節になります。ただし、マタイはイエス様の苦しみよりも、十字架につけられたイエス様の周りで何があったかに注目しています。
マタイは、イエス様の十字架の苦しみがどれほどのものであったかを伝えようとはしていません。実際、私たちはそれを理解できません。私が自分の罪のために受けるべき裁きの厳しさ、苦しさは、死んで地獄に行かなければ味わえないでしょうし、まして全人類のすべての罪を背おうことの痛みを想像しても理解はできません。
しかしマタイは、イエス様の十字架の周りで起こった一つ一つの出来事を丁寧に描くことで、旧約聖書のいくつかの箇所と響き合っていることを思い出させ、それによってこの十字架が何を意味し、イエス様はどういう方なのかを示そうとしています。
イエス様が十字架に付けられる前に、34節である人がイエス様に「苦みを混ぜたぶどう酒」を飲ませようとしました。この苦みを混ぜたぶどう酒は、磔にされる人への情けとして、感覚を麻痺させる麻酔剤だったと言われています。しかし、イエス様はそれを拒否します。十字架の苦しみをまるごと引き受けるためです。この場面は詩篇69:21を思い出させるものと言われます。詩篇69篇は苦しみを受ける義人、正しい人の嘆きの詩です。
そのあと、イエス様はいよいよ十字架に磔にされます。福音書はどれもイエス様の十字架の苦しみ、苦痛そのものをあまり詳しくは描きません。マタイも、35節でさらっと「彼らはイエスを十字架につけてから、クジを引いてその衣を分けた」とあります。この書き方は、十字架に磔にしたことより、そのあとで兵士たちがイエス様の来ていた服をクジで分けたことに注目しています。この出来事もまた旧約聖書の詩篇22:18と響き合っています。詩篇22篇はキリストの受難を表した預言になっています。
着物を分け合ったあとで兵士たちは腰を下ろしてイエス様を見張りました。一応、誰かが助けに来たりする可能性もあるので、見張りは必要でした。このこともまた詩篇22:17と響き合います。
さらに、イエス様の頭上には「これはユダ人の王イエスだある」と書かれた罪状書きが貼り付けられました。ユダヤ人は、聖書の様々な預言を解釈して、キリストは自分たちの王として来られると信じていましたが、人々が自分たちの王になってくれたらと願ったその人を十字架につけてしまいました。
さらに、38節では二人の強盗がイエス様の左右に、同じように十字架に磔にされていました。この場面はイザヤ53:12を思い出させます。
つまり、イエス様の十字架の周りで起こっている事柄は、聖書の中で何度もくり返されている「正しい人が苦しみを受ける」「約束の救い主は苦難を通して人々を救う」というイメージとピッタリかさなっていたのです。
人々の目には、血と汗にまみれ、馬鹿にされたり、つばをかけられたりして惨めな姿を晒している人が、自分たちの王であり救い主であるようには全然見えませんでした。しかしマタイは、注意して見れば、まさにこの方こそが、約束された救い主、神の御子なるお方であることは明白じゃないかと指し示しているのです。
適用 私たちの痛みを
十数年前に「パッション」という映画が大変話題になりました。教会にも DVDがあって上映したことがありますが、描き方があまりにリアルで、怖かった、直視できないという方もおられました。
映画の中では、イエス様に対する裁判、むち打ち、兵士たちの暴力、そして十字架の場面が、見る者にイエス様の痛みが伝わるように描かれていました。イエス様が十字架に磔にされるとき、手を十字架の横木に釘で打ち付けられるのをクローズアップで写した場面があります。あまりにショッキングで、映画鑑賞中に心臓発作で倒れた人もいたという話しです。現実問題として、イエス様が受けた苦しみは、本当に目を覆いたくなるような凄惨なものだったはずなのです。
罪の赦しというのは、単に言葉だけのやりとりで済むことではなく、そういうイエス様のリアルな苦痛と思わず目を背けてしまうような悲惨さがあってのことだということを忘れてはいけないのだとは思います。教会には十字架が飾られていますが、十字架を掲げるからには、イエス様の苦難を忘れるわけにはいきません。
けれども、今日は神様がマタイを通して描いたイエス様のお姿に注目したいと思うのです。残酷な死に方をした人なら他にもいるでしょう。日本の切支丹禁令の中で迫害の中では、たぶん十字架刑よりも残酷ないたぶられかたをした人たちがいました。それでもイエス様の十字架だけが特別なのは、その意味にあります。
イエス様の苦しみは私たちの罪の身代わりとなり、私たちが罪のために負うべきだった報いを、代わりに引き受けるものだったからです。イエス様の受けた苦しみと打ち傷によって私たちは癒され、平安を与えられるのです。
イザヤ53:5に「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」とあるとおりです。
だから私たちはこんな惨めで悲惨な目に合った方を、救い主とあがめ信じるのです。
イエス様を十字架につけた人たちの残酷さ、執念深さ、裏切りはもちろん酷いもので、そこまで残虐なことを私たちはしたことがないかも知れません。
けれども彼らのそういう残虐な罪の根っこにあったねたみや怒りや、正義や真理への無関心、自己中心、高慢さやひねくれた思いなどはどれも身に覚えのあるものです。イエス様の苦しみは、ただ、その時代の人々の罪を背負うだけのものではなく、後の時代の私たちの分も含んでいます。
そのような私たちを赦し、癒やし、平安を与えるために、私たちの痛み、私たちの罪、私たちの傷をその身に負ってくださったのは、今月のみことばにもあるとおり、私たちを愛してくださっているからです。
私たちを愛する故に、ここまでの苦しみを、割り引くことなく、まるごと引き受けてくださったイエス様の十字架の道のりを、しずかに思い巡らし、心に染み渡るようにしましょう。
祈り
「天の父なる神様。
今朝も、主イェス様の十字架の道のりを、ともに味わいました。イエス様に対して行われたすべての仕打ちが、イエス様こそが私たちの救い主であることを指し示していました。
イエス様は黙ってそれらの苦しみを引き受けてくださいました。私たちを愛する故に、私たちの罪が赦され、私たちの傷が癒され、私たちが得られずにいる平安を得るためです。
イエス様がどんな惨めで悲惨な最期を遂げられたとしても、私たちはこのイエス様を私たちの救い主と信じます。
現代もなお、イエス様に背を向け、イエス様をばかにしたり、こけにするような人が多いとしても、私たちは神の御子として信じます。
イエス様が私たちを愛してくださっているからです。
どうぞ、ここにいる一人一人のたましいに触れてください。あなたの愛を恐れることなく受け入れ、委ねることができますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。」s