2020年 9月 13日 礼拝 聖書:マタイ27:57-66
皆さんの多くは葬儀や埋葬の場面に立ち会ったことがあるかと思います。牧師になってからは司式者として遺族に寄り添うことが多いので、遺族への気遣いや式そのものへの配慮といったことに気を回すことが多いので、自分の感情はわりと後回しになります。それでも、火葬の時にあの扉が閉じられる場面は何度経験しても胸が締め付けられます。
葬儀で十分に悲しみを注ぎ出すことができ、丁寧に弔うと、実際にお墓に埋葬する時には結構気持ちが整理されていることが多いように思います。悲しみもよみがえりますが、笑顔も見られます。
しかし、イエス様の埋葬の場面はまったく異なりました。イエス様の死そのものが十字架による処刑であったというショッキングさに加え、お葬式のような死を受け入れて行くための備えもなく、慌ただしく埋葬しなければなりませんでした。埋葬に立ち会った人たちは心の整理をする間もなく、愛するイエス様を葬らなければなりませんでした。
使徒信条の中には、イエス様について、「ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ、死にて葬られ」とあります。死んだというだけでなく、葬られたということがわざわざ告白されていることには何か意味がありそうです。
1.主イエスの埋葬
まず、イエス様の葬りそのものについて丁寧に見ていきましょう。
前回の箇所になる56節には、3人の女性の名前が出てきます。マグダラのマリヤ、ヤコブよヨセフの母マリヤはイエス様のお母さんであるマリヤでしょう。そしてゼベダイの子、つまり12弟子のヤコブよヨハネのお母さん。
彼女たちもこの埋葬に立ち会っていましたが、埋葬そのものを引き受けたのはアリマタヤのヨセフという名の金持ちでした。57節によれば「彼自身もイエスの弟子になっていた」ということです。
マルコの福音書によれば、彼はユダヤ人議会の議員の一人でした。つまり、イエス様を十字架につけるべしと決定した議会のメンバーだったということです。しかし、彼はイエス様の対するこの企みに反対していました。ルカの福音書には、彼はその議決のとき同意しなかったとはっきり書いています。
首都エルサレムのすぐ外に墓を持っていたことからも、彼が確かに金持ちであったことが分かります。
そして、ヨハネの福音書によると、彼は周りの目を恐れて隠していましたが、以前から神の国を待ち望みイエス様の弟子となっていたのは確かでした。つまり議員の一人であったヨセフは、イエス様を救い主と信じていることを公けにすることは出来なかったけれど、何の罪もないイエス様を十字架に付けて亡き者にしようとする企てにははっきりと反対したのです。
しかしイエス様が目の前で亡くなったいま、その恐れを振り払って、思い切ってピラトのもとに出向き、埋葬の許可をもらい、自分のために用意していた、まだ使われたことのない墓に葬ることにしたのです。
しかし、時はすでに夕刻です。イエス様が十字架につけられた日はすべての労働を休まなければならない安息日の直前、備え日と言われる日です。日没になれば安息日が始まるので、埋葬もできなくなります。
それで、アリマタヤのヨセフはピラトに遺体の下げ渡しを願い出ますが、実は、十字架につけられた犯罪人というのは、埋葬されることなく地面に放置するというのが普通でした。さすがにユダヤ人はそこまでではありませんでしたが、それでも家族と一緒に埋葬することを禁じ、日本風に言うなら無縁仏の公共の区画に葬られ、敬意を払われることはありませんでした。
ですから、ヨセフがイエス様の埋葬を願ったということは相当異例なことだったのです。それは自分がイエス様と親しい間柄にあることをばらすことになるし、処刑された犯罪者をかばうような行動は人々の非難の的になる可能性があります。議員であればなおさらそうした評判には敏感なはずです。ちなみに、ヨハネの福音書によれば、ニコデモという律法の教師も一緒に埋葬を手伝っています。以前一人でイエス様のもとを訪ねましたが、その時は態度を決めかねていました。でも、このときはリスクを承知で加わったのです。
そんなリスクと時間的な制約がありましたが、ヨセフはできるだけ丁寧に葬ろうとしていました。十字架で処刑された人を綺麗な亜麻布に包み、まだ使ったことのない墓に埋葬するというのは、当時の常識で考えたらやり過ぎなくらいでした。
2.封印された墓
第二に、墓が封印されたことに注目しましょう。
日本のお墓とはだいぶ様子が違います。当時の墓は洞窟を利用したり、岩をくりぬいたもので、中にしきりや棚のようなものがあり、一つの墓に何人か分の遺体を入れられるように作られていました。そして盗難や野生動物が荒らすのを防ぐため大きな石で塞ぐのが普通でした。ただし、こういうのはかなり立派なもので、しかもエルサレムのすぐそばにこんなお墓を持てるというのは、そうとうの金持ちでなければ出来ないものでした。
アリマタヤのヨセフの墓も岩をくりぬいたものでした。何とか日没前に埋葬を終えた後、普通に墓を大きな石で塞ぎました。
それだけでも簡単には人が入ることはできないはずなのですが、埋葬の話しを聞いた祭司長やパリサイ人のグループは念には念をと、ピラトのところに出向きました。
62節に「明くる日、すなわち、備え日の翌日」とあります。要するに安息日のことで、本来ならこの行動はユダヤ教的には律法に違反している行為です。彼らはそれを承知で、しかし大急ぎで対処する必要があると考えました。というのも63節にあるように、イエス様が「三日後によみがえる」と言っていたことを思い出したからです。弟子たちがすっかり忘れていた言葉を祭司長たちが覚えていたのはちょっと驚きですが、本気でイエス様が復活することを信じていなかった彼らは、むしろ弟子たちが死体を盗み出し、空になった墓を根拠にイエス様が死人の中からよみがえったと宣伝し始めるのではないかと恐れたのです。
次回の箇所にも出てきますが、実際にはイエス様の遺体を弟子たちが盗んだというウワサは、祭司長たちが流したフェイクニュースでしたが、その手の話しは百年以上たった2世紀半ばにも広められていたそうです。
とにかく、祭司長たちはそうやって弟子たちがイエス様の遺体を別のところに隠してイエスが「死人の中からよみがえった」と宣伝し始めるのは、イエスがメシヤだ、救い主だという話しよりもっと厄介だからと、墓の警備をピラトに頼んだのです。
祭司長たちにも警備をする力はあったはずですが、ローマ兵による警備があるともっと安心ということでしょう。人々に厳しく求めて来た安息日律法を犯してでもピラトに頼まなければならないと思うほどに、彼らはイエス様の影響を恐れていたのです。
もちろん、ピラトが処刑された犯罪人の墓の番をしなければならない義務はこれっぽっちもありませんでした。しかし彼はあっさり「番兵を出してやろう」と言います。おそらくピラトは祭司長たちの異常なほどの執拗さに、いささかうんざりしていたのではないかと思います。十字架につけるという企みは何とか回避しようと努力をしましたが、ここではあたかも「わかったもう気の済むようにすればいい」とでも言うかのようです。そうして、墓の穴を塞ぐ石は封印され、ローマ兵による見張りがつくことになりました。
墓が封印されたことが意味しているもっとも重要なことは、日曜の朝にイエス様の埋葬されたはずの墓がからっぽになっていたことは復活以外に説明のしようがなかったということです。
こうして使徒信条に告白されているように、イエス様は「ピラトとのもとに十字架につけられ、死にて葬られ」たのです。
3.本当に死なれた
第三にイエス様は本当に死なれたました。使徒信条では葬りの後に「よみにくだり」と続きます。
日本語訳に用いられた「よみ」は日本神話の古事記に出て来ます。イザナギノミコトが死んだ妻イザナミノミコトを追いかけて「黄泉に下る」という話しが出てきます。黄泉の世界で見たイザナミノミコトの姿は、埋葬された肉体が腐敗し、朽ちて行っている姿を描いていると言われます。そういう言葉を当ててしまったものだから「よみにくだる」というのは聞く人によってはおぞましい感じや恐ろしい感じを受けるかも知れません。
使徒信条はイエス様の時代から三百年くらい経ってからまとめられたものですが、その元になった最も古い信条、ローマ信条には、この「よみにくだり」という文はありませんでした。
福音書にもイエス様が死なれた後、どうされていたかは何も書いていません。新約聖書全体でも、イエス様が死んで「よみにくだった」と書いている箇所はありません。ひょっとしたらそういう意味かも、という箇所はあるのですが、よく読めば違う意味です。
では、どういうことかというと、「よみにくだり」という文は、イエス様が本当に死なれたということを強調するための表現だったのです。聖書の中で「よみ」という言葉が何度も使われていますが、「よみ」と訳されている言葉は、ある時には死者の世界という意味で用いられます。日本語で人が死ぬことを「あの世に行った」というくらいの意味です。また「よみ」は単に「お墓」の意味で用いられています。つまり本当に死んで生きている者の世界から完全に切り離されてしまったということを強調しているだけなのです。
ですからイエス様が十字架で死なれて葬られた後、三日目に復活なさるまでの間に、死者の世界で何かをなさっていたなんて想像を働かせるのは、いまどきのファンタジー映画なら面白いかもしれませんが、聖書の教えからはだいぶ離れたものになってしまいます。
使徒信条が告白していることも、聖書が語っていることも、イエス様は確かに死なれたということです。死なれよみがえられるまでは完全の沈黙の中にあったのです。
使徒信条で、もともとはなかった「よみにくだり」という言葉をわざわざくっつけたのは、当時流行っていたグノーシス主義の教えに対抗するためだったと考えられます。
グノーシス主義は、この世界を目に見えない霊的なものと物質的なもの二つに分け、霊的なものをより上等なものと考えます。その考えによれば、神であるイエス様が汚れた人間の肉体をまとうはずはなく、本当は肉体を持っておらず、人間の目に肉体があるように見えた。だから、本当には十字架の上で死んでもいないし、復活したのも、そもそも生きておられた方が姿を表したのだとなります。そういう教えが教会の中に影響力を持つようになっていました。そういう教えに対して、そうではなく、人としてお生まれになった神であるイエス様は、確かに十字架で死んで葬られたのだ、ということを強調して「よみにくだり」を加えたのです。
イエス様が死なれたは、私たちが愛する人を失い、お葬式でお別れをしたり、火葬場で炉の扉が閉じられる時に胸が締め付けられるような感覚を覚えて「ほんとうに死んでしまったんだ」と実感するように、完全に、確かに、間違いなく死なれたのです。
適用 新しいいのちへの希望
さて、今日の箇所、イエス様の埋葬の箇所ですが、これは私たちにとってどんな意味があるのでしょうか。
この出来事は、あとに続く復活とセットになっています。これは1コリント15章で最も大切なこととして書かれている箇所でも同じです。「私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、」
死んで葬られ、墓は封印されましたが、イエス様はよみがえって、封印は破られ、埋葬された墓はからっぽになったのです。
イエス様の復活は、イエス様が文字通り死なれたので私たちにとって希望であり、意味があります。
イエス様は十字架の上でほんとうに苦しまれました。昔の異端の教えのように、みせかけの肉体で、苦しんでいるように見せただけなら、イエス様は私たちの苦しみなんか理解できなかったでしょう。しかしイエス様は私たちと同じような肉体をもって歩み、飢えも悲しみも味わい、十字架で苦しみ、死なれました。
もちろんイエス様が死なれたのは30代ですから、私たちが病気や年齢のために、身体のあちこちが弱ったり動かなくなったり、記憶が失われていくような経験を、そのまま経験したわけではありません。しかし十字架の上で自由を奪われ、苦痛の中で身体が弱り、いのちの火が消えていくことをありありと感じながら、死んで行かれました。私たちがまだ経験していない死を味わいました。だから、私たちの恐れや悲しみ、辛さを理解してくださいます。
イエス様はその霊を父なる神様にゆだね、いのちの離れた肉体を自分ではどうすることもできず、埋葬する者たちに任せるしかありませんでした。死とはそのようなものです。
私たちもやがて死すべきものです。老いや病は、死に捕らわれいる私たち人間が、死の断片を少しずつ味わっているとも言えます。
しかし完全に死なれたイエス様は、父なる神の御手で三日目によみがえってくださいました。イエス様の復活のいのちは死に打ち勝つものです。その新しい命を私たちにも分け与えてくださいます。イエス様は確かに死なれ、葬られたので、復活の希望も力も、見せかけや気休めではなく、確かな希望、確かな力となるのです。
エペソ1:19~20を開いてみましょう。
「また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、」
死に行く体であり、日々衰えて行くとしても、また今なお罪との戦いが絶えないとしても、イエス様を死者の中からよみがえらせた神の力が私たちのうちに働き、私たちを新たにし続けます。イエス様の十字架の時に死んでいた聖徒たち生き返ったような驚くような奇跡はないかもしれませんが、試練の中での悲しみや苦しみさえもが、新しいいのちに生きるための糧となり、深みを与えるものとなるなら、そこれこそが私たちのうちに起こされる奇跡です。
イエス様の復活のいのちの生き生きとした生命力や喜びが一番遠くにあると感じられるような時、悩みや嘆き、失意、弱さを感じる時ほど、実はイエス様の復活のいのちの一番近くにいるのです。復活は死んで葬られ、完全な無力さに明け渡したイエス様に与えられた力です。その力を、私たちにも働かせてくださると約束された主を信頼して、希望を持ちましょう。慰めを期待しましょう。
祈り
「天の父なる神様。
今日、私たちは主イエス様が葬られた場面をともに味わってまいりました。
その霊を父なる神の手にゆだね、その身体を後に遺された者たちに任せ、文字通り死なれたイエス様が、死からいのちへとよみがえってくださったからこそ、私たちには希望があります。
どうぞ、私たちが弱さの中にあるとき、死を身近に覚える時、無力さに打ちひしがれるときこそ、イエス様を死の中からよみがえらせた神の力が一番近くあることを思い出させてください。
悲しみや苦しみさえもが生きて働き、私たちを強め、霊的に豊かなものにするという聖書の約束を私たちにも味合わせてください。私たちは待ち望みますので、どうぞ慰め、助けてください。
イエス様のお名前によって祈ります。」