2020-11-29 荒野の旅路

2021年 11月 29日 礼拝 聖書:民数記6:22-27

 若い頃の自分を振り返って、もう少し素直で謙遜だった、もっと多くのことを学べたのではないかと思うことがあります。あまり良い生徒ではなかったかも知れません。

今、新しいことを学んだり、身につけようとしても、集中力は続かないし、覚えてられないしということで、担当している神学校のクラスの準備にもなかなか苦労しています。知的にもそうですが、習慣を変えたり、身につけるのも同じように、あるいはそれ以上に難しいなあと実感します。

学べるときに学び、成長できるときに最大限機会を生かすといいなと思うのですが、当事者には今が学び時、成長のチャンスだとなかなか気づかないでしまうものです。

さて今日は民数記に入ります。エジプトを脱出し、救い出されたイスラエルの民が、神の民、祭司の国として歩み出す契約を結んだイスラエルの民です。しかし、すぐに契約を破ってしまうという考えられないような愚かさ、反抗心を見せましたが、神様は憐れみによって罪が赦され、聖められる道を示してくださました。いよいよこれから約束の地に向けた旅が始まります。数週間もあればたどりつけたはずの旅が四〇年にも延長されてしまった事情がこの民数記に描かれています。この旅は、イスラエルの民にとっては訓練の日々でありました。

1.主の祝福と守り

民数記は、大きくわけて3つの場所で滞在期間の出来事と、その間をつなぐ旅の途中での様々な出来事を描いています。最初のシナイ山のふもとでの箇所とモアブ平原の箇所でそれぞれ人口調査が行われていて、それが民数記という名前の由来になっています。

最初の区分は1章から10章前半までで、シナイ山のふもとで荒野の旅へと出発するための準備をする場面です。エジプトを出て2年目のことです。

神様は出発にあたって、まずモーセに人口を調べるよう命じます。人口調査に続いて、宿営を張るときの各部族の配置についてかなり詳細な指示が告げられます。

その後で、祭司や礼拝の奉仕にあたるレビ部族の役割分担や、宿営の中を聖く保つことや、生活を聖く保つことについて追加の戒めが与えられます。そして今日読んでいただいた祝福の言葉を挟んで、各部族からのささげ物と過越のまつりと荒野の旅に出発するための準備が命じられます。

というわけで、今日の箇所、6:24~26は祝福の祈り、祝祷として今日も用いられる祈りですが、荒野の旅へと向かうにあたっての、神様からの特別な祝福ということができます。神様はアロンにイスラエルの民を祝福し、その道のりの守りと神が常にともにおられ、恵みを与え、平安を与えるよう祈りなさいと命じます。

出発に際してモーセの指導のもと礼拝のための幕屋が設営され、各部族からの精一杯のささげ物がささげられ、エジプトを出発したときのように過越のまつりが祝われたとき、天幕を覆うように雲が立ち上り、それは夕方になると赤く火の柱のように見えました。昼は雲の柱、夜は火の柱が民の行くべき道を指し示すことになりました。そしてラッパの響きとともに軍隊が行軍を開始するようにして旅は始まったのです。それが、10章前半までの話しです。

ここからイスラエルの民はシナイ半島の荒野を旅して、パランの荒野に向かいます。

神様の祝福と守り、平安があるようにと祈られ、雲の柱・火の柱という主ご自身のご臨在と導きの目に見えるしるしが伴って、荒野の旅がはじまりました。その最初の旅路が10章後半から12章にかけて記されています。

どれほど楽しく、喜びに満ちた旅になるかと思いきや、11章で驚くようなことが記されています。「さて、民は主に対して、繰り返し激しく不平を言った。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。」

さらに4節以降は食べ物のことで不平を言い出し、12章ではモーセの権威に姉にあたるミリヤムがアロンをそそのかして不満をぶつけます。これら3つの不平のために、神様の激しい怒りがくだり宿営を火が舐め尽くし、疫病で人々は倒れ、ミリヤムはツァラアトに冒されます。モーセはその都度、執り成しの祈りを捧げたり、こんな不満ばかり言う民をどうやって一人で導いたら良いかと神様に訴えます。神様はさばきの手を収め、モーセを補佐する長老たちを与え、民の不平不満と反抗にも拘わらず、荒野の旅を約束されたとおりに導き続けてくださいました。民の頑なさや反抗にも拘わらず、厳しい時もありましたが、赦し、アロンが祝福したように、主は民を守り、導き続けてくださったのです。

2.40日の終わりに

2番目の大きな宿営地はパランの荒野という場所でした。13:1~2を見ましょう。ここで神様は12部族からそれぞれ1名ずつ選んで偵察部隊を編成し、約束の地であるカナン人の土地を調べに行かせます。12人の偵察部隊はカナンの地に密かに侵入し、地形や土地の様子、豊かさ、また敵の戦力を調べ上げました。

40日後、偵察部隊がたくさんの果物を持って戻って来ました。27節で彼らはモーセに報告します。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこには確かに乳と蜜が流れています。そして、これがそこの果物です。」それは、約束の地がすばらしく豊かな土地であることを示していました。

しかし12人のうち、ヨシュアとカレブを除く10人は、約束の地は素晴らしいけれど、そこに住むカナンの諸部族は強く、頑丈な城壁で守られていて、とてもじゃないけれど勝てるわけがない。しかも、巨人の子孫のような戦士たちまでいたと、「行くのは無理だ」と主張しはじめたのです。

一方、カレブとヨシュアは「行くべきだし、勝てる」と主張しました。もちろん、それは神様が約束された地であり、神様がそこに行けと言われているからこそで、それを信じる信仰ゆえのことです。しかし、反対派の人たちはイスラエルの民に「あそこはとんでもないところだ。あの巨人みたいなカナンの戦士に比べたら俺たちはバッタみたいなもんだ」と触れ回ります。イスラエルの民はその言葉に動揺し、泣き叫び、エジプトに帰りたいと言い出します。

ヨシュアとカレブは主がともにおられるから恐れてはならないと訴えます。それでも民は耳を貸しません。

神様は、かたくななイスラエルの民を討ち滅ぼすと言われましたが、モーセはここでも必死の執り成しをします。神様はモーセの執り成しを聞き入れ、滅ぼすことはしませんでしたが、約束の地に行きたくないと言い続けた者たちに対して、彼らの言葉通り、約束の地に入ることは赦さず、この荒野の旅で死に絶え、次の世代が約束の地に入ることになると宣言なさるのです。40日の偵察の後でのこの反抗に対して、荒野の旅が40年に及ぶことになってしまいました。ヨシュアとカレブだけは、その信仰ゆえに約束の地に入ることを許されました。

ところが話しはこれで終わりません。この後もイスラエルの民は何度も何度も神様に対して反抗的な態度をとり続けます。その都度、神様は厳しい裁きを下しますが、モーセがその度に執り成しをし民全体が滅びるのを免れる、ということがくり返されます。

そしてついには、モーセ自身も躓いてしまいます。メリバの水と呼ばれる箇所ですが、20:1~13で、民はいつものように不満を言い始めます。水がない、喉が渇いたと文句を言い出すのです。そして、こんな酷い目に会うなら、前に死んだ人たちと同じ時に死んでしまえば良かったとさえ言ってしまうのです。神様はモーセに岩に命じて水を飲ませなさいと言いましたが、モーセは神様が言われたとおりにはせず、「なんで私がこんなことをしてやらねばならないのか」と半分切れ気味に岩を二度叩いて水を出すのです。

人々はその水を飲んで渇きを癒しますが、モーセはこの時の不遜な態度を咎められ、荒野で死に絶える世代と同じように、約束の地には入れないと神様に告げられてしまうのです。

3.仰ぎ見て生きよ

こうして荒野の旅は40年まで引き延ばされました。そうして三十数年が経過し、22章ではヨルダン川を挟んで対岸にはエリコの町が見えるモアブの草原に場面が移ります。この間に、ことある毎に約束の地には行きたくない、エジプトに帰りたいと言い続けた世代は死に絶え、新しい世代に入れ替わっていました。そのことを象徴するように26章で再び人口調査が行われます。

しかし、モアブの草原にたどり着く前に、とても印象的な出来事が起こっています。旅も終盤となった頃で、21:1~3に小さな戦闘の記録があります。イスラエルの民が近づいていることを知ったカナン人アラドの王が戦いをしかけてきました。イスラエルの民は主に祈り、これを打ち破りました。これから続くカナン人との戦いの最初の勝利です。その最初の勝利の直後に事件は起こります。

イエス様はこの出来事を引用して、ヨハネ3:14で「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」と言われました。イエス様はご自分の十字架のことを言われたのですが、その元の話しがここです。

イスラエルの民はエドム人の地を迂回しましたが、エドム人は民の先祖であるヤコブの兄エサウの子孫なので争いを避けたようです。もうすぐモアブの草原に着くというところで、また民は我慢できなくなり、食糧と水のことで神様とモーセに反抗し、文句を言い出しました。40年近く毎日天から与えられるマナを「このみじめな食べ物に飽き飽きしている」、エジプトのほうが良かったと、この期に及んでまだ言いつのるのです。

しかし、イスラエルの民が水や食糧のことで文句を言い、エジプトが良かったという場面はこれが最後です。この時、宿営の中に毒蛇が現れ、そのために多くの人が死んでしまいました。それを神の裁きと感じ取った民はモーセに訴え、罪を犯してしまった。私たちのために主に祈ってくださいと頼み込んだのです。

すると主は不思議なことを言われました。8節「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」

なぜここで急に「青銅の蛇」が出てくるのか、ちょっと唐突すぎで分かりません。蛇は律法によれば汚れた動物です。その汚れた動物を模した青銅製の蛇を見上げること自体に何か魔法のような効果があったということではありません。これまで何度も何度も神様の哀れみと恵みを経験しながら反抗をくり返して来た民に、もう一度神のことばに聞き、素直に応答することを求めているのです。

「青銅の蛇なんか見て何になるのか」と見上げなかった者は毒蛇の毒で死んで行きましたが、信じて見上げた者は回復しました。これが最後の反抗というわけではありませんでしたが、主を信頼し、その言葉に応じる者たちが生き、約束の地に向かえたのです。

青銅の蛇は、私たちのために十字架につけられ、呪われた者、汚れた者とみなされたイエス様を信じて見上げる者に救いが与えられることを遠くから指し示していたことを私たちは死っています。

荒野の旅とは何だったのでしょうか。イスラエルの民に、荒野でのサバイバル技術を教えるための訓練ではなく、神に信頼し従うことを学ばせるための訓練でした。その中で民は反抗をくり返しましたが、神様はあわれみ、赦し、助けの手を伸ばし続けたのです。

適用 ヨルダン川のほとりで

22章からは最後の場面、モアブの草原に宿営してからの話しになります。モアブの草原からくだり谷間に流れるヨルダン川を挟んで向こう側には城壁に囲まれたエリコがあります。ここでも、いろいろと興味深い出来事がいくつも記録されています。

モアブの王バラクがイスラエルの民を恐れて呪いをかけようと、バラムという呪術師に依頼しますが、バラムは3回も呪いの言葉を口にしようとするのですが、口から出てくる言葉はイスラエルを祝福する言葉だけ、という奇妙な体験をし、バラクが激怒するという話しがあります。また出エジプト世代の最後の人たちが背信行為を行いモアブ人の神々についていってしまい、そのことで滅ぼされるという事件がありました。古い世代が死に絶え、新しい世代の人口調査が行われ、約束の地についてから重要になってくる土地についての律法が追加されたり、十二部族の一部がヨルダン川のこちら側に定住するようになったり、いよいよ約束の地を手に入れる具体的な足がかりが出来て行くのです。

民数記の最後は、ヨルダン川のほとりにあるモアブの草原でモーセを通して主が語ってられる場面で終わり、これは次の申命記に繋がっていきます。

さて、イスラエルの民を呪おうとしたバラムが意に反して祝福をしてしまった場面で一つの重要な預言がなされています。それは3回目に呪いをかけようと挑戦したときのことです。24:17で彼はこのように告げました。

「私には彼が見える。しかし今のことではない。/私は彼を見つめる。しかし近くのことではない。/ヤコブから一つの星が進み出る。/イスラエルから一本の杖が起こり、 /モアブのこめかみを、/すべてのセツの子らの脳天を打ち砕く。」

約束の地を占領していく話しとごっちゃになってはいますが、イスラエルの子孫として登場する「一つの星」「一本の杖」と喩えられる人物が表れることをバラムは預言しました。それは、やがて来られる救い主を指し示しています。アダムとエバが罪を犯し呪われた者となってしまった後で神様が告げた、惑わす者であった蛇の頭をくだく「女の子孫」、またアブラハムへの約束の中にあった、世界に祝福をもたらす「子孫」、バラムが告げた「一つの星」「一つの枝」そして間もなく迎えるクリスマスの中心におられるイエス・キリストは一本の線で繋がっています。

イスラエルの民の荒野の旅は、神の祝福と守りの約束で始まったのに、不平不満と神の怒り、そして神の忍耐のくり返しでしたが、それでも、世代交代して約束の地に向かったという話しで終わらず、やがておいでになるイエス様につながっているのです。

もちろん、民数記の主なテーマはこれまで見て来て浮かび上がって来たように、イスラエルの民の頑なさ、反抗と神の憐れみです。

荒野の旅のように、私たちの人生にも様々な困難があり、信仰が試される場面があります。それらは私たちをふるい落とすためのテストではありません。私たちを神様への信頼と従順へと導くための訓練として受け止めましょう。

考えてみれば、私たちもイエス様を信じ、神に従いますと誓約を立て信仰の歩みをはじめたはずなのに、すぐに後戻りしたくなったり、心が他を向いたりします。40年も神に反抗し続けた民のように年数ばかり経っても、なお神様に信頼しきれない、従い切れないかもしれません。それでも、神様の忍耐と忠実さが失われることなく、キリストが与えられたように、私たちの御国を目指す歩みに神様はともにいてくださり、私たちを導き、イエス様のゆえに赦し続け、守り、支えてくださいます。

祈り

「荒野の旅を守り導かれた天の父なる神様。

イスラエルの民の頑なさとあなたの憐れみを覚え、人間の不忠実さにも拘わらず、あなたが約束に忠実で、ついには私たちにイエス様を与え、約束された祝福へと導いてくださったことを感謝します。

私たちの人生もまた、荒野の旅のようです。様々な困難、問題に直面するとき、しばしば私たちは信仰が揺らぎ、昔に戻りたいという誘惑や、神様以外の何かに救いを求める誘惑に会い、心が揺れ動き、時には過ちを犯します。

それでもあなたがキリストにあって赦し、あなたの真実をもって、私たちの旅路を導き、ともない続けてくださることを感謝します。

どうか、私たちの行く道を祝福し、守り、導き、平安を与えてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」