2025-08-10 悲しみながらも愛する神

2025年 8月 10日 礼拝 聖書:イザヤ54:7-8

 先週に引き続き、子どもキャンプのときに「イエス様はぼくのことをどう思っているの?」というシリーズでお話した3回のメッセージをもとに、今日も聖書を味わっていきたいと思います。

さて、前回の箇所では神様が「遠くから」私たちに近づいて来て語りかけ、「永遠の真実の愛で愛している」と伝えてくださったことを見ました。今日は神様が「遠くから」語りかけてくださったということの意味合いを考えたいと思います。

「遠くから」という言葉でいつも思い出す場面は、13年前の震災の後、ちょうど東京に旅行中だった娘がなかなか帰ってこられず、二週間後にぎりぎり予約できた臨時の飛行機で帰って来られることになり、空港で出迎えたときのことです。こちらから近づいていくことはできませんが、到着ゲートの向こう側に姿を見つけ、荷物を受け取ってロビーで再会したときは本当に嬉しかったです。私たち親子を遠ざけたのは震災でしたが、神様と私たちを遠ざけるものはなんでしょうか。続きを読む →

2025-08-03 私たちを喜ばれる神

2025年 8月 3日 礼拝 聖書:エレミヤ31:1-4

 先週の日曜日から火曜日にかけて、岩手と秋田の合同の子どもキャンプがありました。久しぶりに子どもたちのための聖書のお話をする機会を与えていただきました。それ以外の時間はひたすら一緒に遊び、とても楽しい時間を過ごすことができました。

今回のキャンプでは3回のお話をしましたが、その内容を3週にわたって礼拝でも分かち合いたいと思います。キャンプではゲームを入れたり、スキットといって短い劇を入れたりしましたが、礼拝の中では再現しにくいので省きますが、内容は同じです。

今回の3回のお話の共通テーマは「イエス様はぼくのことをどう思っているの?」というものでした。神はどのようなお方か、どんなご計画をもっておられるのか、神の力とはどのようなものか。そうしたことを理解することは大事なことではありますが、神はなんといっても人格的な存在です。神様が私たちのことをどんなふうに感じ、思っておられるかを知ることは、私たちの心にとってとても重要なことです。

1.苦難の時でさえ

第一に私たちが苦難に直面するときでさえ、そこに神の恵みを見出すことができます。

エレミヤ書が書かれた時代、イスラエルの王国はまさに崩壊し、アッシリア帝国に捕囚として連れ去られるという事態に直面していました。それはもう警告ではありません。

しかし神はエレミヤを通して、そうした厳しい時代に生きる民に、やがてもたらされる回復を告げ慰めを与えようとしています。31:1でその回復の時には「わたしはイスラエルおすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる」と、神と民とは全く一つとなり、その絆が揺るぎないものとなることを約束されました。

しかし、回復までの間、アッシリアのとの戦争を生き延びたイスラエルの民は荒野に行かなければなりません。それは、文字通りの砂漠に放り出されるということではなく、アッシリアに捕囚となることを指しています。それは厳しく、希望のない状況であり、飢え渇きが待ってる状況です。

しかし主はそんな捕囚の時代を単に罰や苦しみとしてではなく、神の恵みを見出すとき、休みを得るときだと語りかけます。

なぜそんなことが言えるのでしょうか。戦争に敗れ、国が滅び、住み慣れた家や街を追われて、奴隷ではないとしても知らない土地に連れて行かれます。そこまでの数ヶ月の徒歩での移動は命がけです。生き延びられたらラッキーです。たどり着けたとしても、言葉も文化も違う土地でゼロから生活を立て直さなければならない。なぜそれを神は、恵みを見出し、休息を得る時だと言われるのでしょうか。

それは、荒野に放り出されるような経験こそが、イスラエルの民がそれまでの歩みの中で見失っていたものを取り戻す時だからです。

「情緒的に健康な教会を目指して」という書籍を書いたスキャロゼというアメリカ人牧師がいます。彼はニューヨークで急成長している教会を牧会し、注目を集めていました。しかし、教会の分裂や夫婦の危機を経験します。その経験の中で自分自身の心の奥底にあった情緒的な未熟さと向き合うことになり、本当の意味でイエス様の弟子となる道のりを歩み始めました。まさに荒野の経験が神の恵みと真の安息を得る時となったのです。

私たちの人生にも時々、そうした荒野の経験を通らされます。その時、気付かされる自分の弱さ、未熟さ、心の傷といったものを見なかったことにして誤魔化したりしないで、神様の前で正直に、きちんと向き合うなら、神様の大きな恵みに気付き、知らず知らずに自分を縛っていたものに気付かされ、何より自分で自分を縛っていたことに気付かされ、解放され、本当の意味での安息を得ることができるようになります。

間もなく、私も倒れて2年になります。昨年、カウンセリングでお世話になった先生とせん妄の中で見た夢や幻の内容について話しをして、非常に短時間のうちに、自分の過去や抱えて来た傷、コンプレックス、それらゆえに身につけてしまった考え方や行動の良くないパターンなんかを見せつけられ、直面する経験だったのだなと思わされました。私にとっての荒野の経験でしたが、確かに恵みを見出し、真の安息に結びつく経験になったと実感しています。

2.遠くから呼びかけ

第二に、イエス様は遠くから私たちに愛していると呼びかけてくださいます。

「イエス様は僕たちのことをどう思っているの」というテーマを考えるために、子どもたちとこんなゲームをしました。皆さんも想像の中でやってみてください。

二人一組になって向かい合います。15秒間、相手について何か考えます。何でもいいです。時間になったら、それぞれ相手が自分について考えたことについて3回以内で当てるというゲームです。40人くらいの子どもと大人がいましたが、1回で当てられた人はいませんでした。2回目、3回目で当てられたという人が数名いましたが、ほとんどは相手が何を考えたか当てられませんでした。

イエス様が私たちのことをどう考えているか、どう思っているかは、当てずっぽうでは分かるものではありません。イエス様が語ってくださることに耳を傾ける必要があります。

もう20年以上前に「世界の中心で愛を叫ぶ」という恋愛小説とそれもとにした映画やドラマが大ヒットして「セカチュー」という言葉が世の中を駆け巡りました。

しかし主は、世界の中心ではなく、遠くから呼びかけ語りかけてくださいました。その言葉に耳を傾ける必要があります。主は「あなたがたを永遠の愛をもって愛し、真実の愛を尽くし続けている」と語りかけてくださいます。

なぜ遠くからなのか、という話しは次週のテーマなので今日は省きますが、こんな場面を想像してみてください。幅の広い道路の向こう側に友だちがいます。一生懸命手を振り、名前を呼びます。一瞬こちらに気付いたように見えましたが、ふっと視線を外します。どんな気持ちになりますか。どんなことを考えますか。たぶん、心が傷付き、あれ友だちじゃなかったのかな。嫌われているのかな、なんて不安になったり悲しくなったりするのではないでしょうか。

一方、同じような状況で、逆にこちらが友だちの存在に気付いていないときに、相手のほうが先に気付いて遠くから名前を呼んで走り寄って「いやあ久しぶり、元気だった?」と声を掛けてくれたら、とても嬉しいのではないでしょうか。

子どもキャンプの時、スポーツミニストリーをしている金さん、まどかさんと7年ぶりに再会しました。目が合った瞬間、笑顔になって「お会いしたかったです~」「あのときはめっちゃ祈ってました」なんて言って貰えて本当に嬉しかったです。

遠くから主が私たちのほうに近づいて来て主が伝えたかったこと。それは、永遠の愛、真実の愛で私たちを愛しているということです。神様にとって、私たちの存在は、遠くから近寄って「愛している」と伝えるほどに大切な存在なのだということです。子どもキャンプの子どもたちにお話ししたことは、イエス様にとって私たちはとても嬉しい存在なのだということです。

待ち望んでいた赤ちゃんが生まれたときの喜び、家に帰ったときにそこに居てくれるだけで嬉しい気持ち。成長の段階ではいろいろありますし、大人になれば生活の場所が離れることもありますが、それでも「ただいま」と言って帰ってきてくれることの嬉しさ。主は私たちの存在を喜び、愛してくださっています。エレミヤを通してそれを伝えたかったのです。

3.御国の建設

第三に、ここは子どもキャンプでは話さなかった部分ですが、私たちの存在を喜び、永遠の愛、真実の愛で愛してくださる主は、私たちを神の御国として建て上げてくださいます。

小さい赤ちゃんは存在自体が私たちの喜びであり、その仕草一つ一つが愛おしいものです。時には、この可愛らしい姿のままでいてくれたらいいのにと思うほどです。しかし、実際に愛情をもって子育てをしている親が願うのは、すくすく成長して幸せになってくれることです。

神様も、遠くから私たちのほうに近づいて、永遠と真実の愛で愛するとおっしゃってくださいますが、言葉をかけるだけではありません。

主はエレミヤを通して約束されました。「おとめイスラエルよ。再びわたしはあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び踊る者たちの輪に入る。」

直接は、これから捕囚となって荒野の経験をすることになるイスラエルの民が、再び集められ、祖国を取り戻す約束のように読めるのですが、少し違和感もあります。「おとめイスラエル」という呼び方に違和感を感じるのです。

「おとめ」とは未婚の女性という意味なのですが、預言者たちはむしろ、イスラエルを夫を裏切った妻に喩えて非難してきました。例えば、預言者ホセアは、何度も夫を裏切り浮気を繰り返す妻としてイスラエルを描きました。それなのに、今まさに捕囚の民となっていくイスラエルをまるでシミも汚れもない者であるかのように「おとめイスラエルよ」と語りかけるのです。

それは、捕囚という荒野の経験を通して神の恵みを見出し、真の安息を経験した民を主ご自身がキリストによって贖い、罪を赦し、汚れのない者として受け入れてくださることを予感させます。

そのようにして生まれ変わった民を、建て直し、喜びの踊りの輪に加えてくださいます。その実現はいつのことなのでしょうか。この約束が部分的に成就したように見えるときは何度かありました。ゼルバベルに率いられて捕囚からエルサレムに帰り神殿を再建しました。ネヘミヤに率いられてエルサレムの城壁を再建しました。エズラによって再び聖書が読まれ祭が祝われたこともありました。

それらは神の約束が確かであることを指し示してはいましたが、約束の成就は、やがておいでになるキリストを待たなければなりませんでした。彼らは再び国を失い、ギリシャやローマの支配下に置かれ、独立を果たすことなく、ローマ帝国によってエルサレムは再び破壊されます。

その代わり、キリストによって始まった神の御国がローマ帝国中に拡がり、全世界へと拡大していきました。主がエレミヤを通して約束されたイスラエルの民の再建というのは、国家としての再建ではなく、約束のキリストによって建てられる神の御国なのです。民族としてのイスラエルの民、ユダヤ人だけでなく、イエス様を信じる全ての人たちがイエス様によって結ばれ、神の家族として世界中のあちこちに建て上げられることを通して神の御国は建て直されていったのです。私たちの存在を喜び、永遠の真実な愛で愛してくださる主は、私たちを教会の交わりと働きの中で、新しい神の民として育み、建て上げてくださるのです。

適用:私たちを喜ぶ方

今日は子どもキャンプでお話ししたことを分かち合って来ましたが、実は初日のお話のときに、もう一つゲームをしました。はじめのゲームは二人一組でしたが、二つ目は前を向いて目をつぶり、自分の前にイエス様がいることを想像し、そのイエス様が僕たち、私たちのことをどう思っているか考えてみましょう、というものでした。分かる人はいますか?と聞きましたが、ほとんどの子どもたちは答えられませんでした。しかし、キャンプの最終日、それぞれがキャンプの感想を書いて発表する時間があったのですが、その中で聖書のお話で心に残ったことも話してくれました。そして、多くの子どもたちが、イエス様が永遠の愛で愛してくれること、遠くからかけよって愛してくださること、イエス様がぼくたちを喜んでくださっていることを挙げてくれていました。遊び疲れて眠そうにしている子たちもいたのですが、ちゃんと聞くべきところは聞いていてくれたんだなと、とても嬉しくなりました。

主は私たちの存在を喜んでおられます。まるで生まれたばかりの赤ん坊を存在自体をただ喜ぶように、そしてその子を一生掛けて育て上げ、幸せにすると誓うように、神様は私たちのために文字通りいのちをかけて愛してくださり、私たちを成長させ、一人ひとりを結び合わせて神の家族とし、神の御国として建て上げてくださいます。神様はそのようなお方なのです。

しかし、イエス様が私たちをそんなふうに喜んでくださる、ということを教えとして理解することと、私たち自身の経験として感じ取ることは別のことです。

ある人にとっては、主がそんなふうに私を愛して下さる、喜んでくださる、ということを、聞いただけ、ああそうなんだとすぐに感覚的に分かりますが、ある人は、イエス様がそんなふうに思ってくださるということを頭では分かっても実感としてはなかなか感じ取れないという人もいます。それは信仰の深さや理解度の問題ではありません。

おそらく私たちがイエス様の愛や、神様が私たちの存在を喜んでくださるということを最初に感覚的に知るのは、イエス様を信じている人たちを通してです。先にクリスチャンになった人が私たちを喜んで迎え入れてくれたり、愛を表して下さることを通して神の愛を知るようになりました。それはこれからも同じです。

昨日、古い知り合いの証を読ませていただきました。自暴自棄になって大やけどを負ったり、無茶な生活をしていたときにも、根気よく関わってくれた宣教師や牧師夫妻を通して神様の愛と忍耐を深く知るようになっていったことが書かれていました。

存在自体を喜ぶとか真実に愛するというのは、人格的な関わりを通してしか伝わらないものです。人間ですから、好きになれない人、どうしてもソリの合わない人はいます。もちろんイエス様がしてくださったように、などとはとてもじゃないけどできませんし、そのことで思い悩んだり、不満を感じたりもします。私たちの愛は不完全で、もしかしたら人を選んでしまうところがあるかもしれませんが、それでも、諦めずに、互いを喜び、愛することを求めていきたいと思います。不完全でも主の助けをいただきながら、お互いの存在を喜ぶことで、神の愛や喜びがただの教えではなく、手触りのあるものとして感じられるものになっていきます。

祈り

「天の父なる神様。

あなたと、御子イエス様が私たちの存在を喜び、永遠の真実な愛で愛してくださる方であることを感謝します。またあなたが私たちを育み、結び合わせ、建て上げてくださることを感謝します。

私たちは時として心が狭く、頑なで、イエス様の愛や私たちへの喜びが感じ取れなくなる者です。そのような時に、主にある兄弟姉妹の愛の交わりを通して互いを喜ぶことで、神様の愛を思い起こすことができますように。イエス様のような愛がないことに失望したり、諦めたりすることもあります。忍耐強く愛してくださるあなたの愛を思い起こすことができますように。

不完全ですが、あなたの助けによってお互いを喜び、愛する者としてください。

イエス様のお名前によって祈ります」

2025-07-27 本当の自分になる

2025年 7月27 日 礼拝 聖書:得てろ第一2:2-10

 10代の半ば頃から青年時代にかけて、よくあることではありますが、自分が何者か、本当の自分が何なのか良く分からなくてずいぶん悩みました。

成長の段階で誰もが通る道ですが、それに加えて信仰と生活の問題が悩みを複雑にしました。教会にいるときの自分の姿とそれ以外の場所での自分の姿に一貫性がないことをいつも感じていて、どっちが自分の本当の姿なのか、本当の気持ちは何なのか、考えても分かりませんでした。状況に応じて自分は動物だと言ったり鳥だと言ったりして結局どっちからも仲間はずれにされるコウモリの童話が自分のことのように思えて仕方がありませんでした。

同じような悩みを持ったことがあるでしょうか。悩みとして感じていなくても、自分の生き方と信じていることがちぐはぐだなと感じることはあるかもしれません。今日は迫害の中にあったクリスチャンたちに宛てたペテロの手紙から本当の自分になることにるいて学んでいきましょう。続きを読む →

2025-07-20 収穫のための働き手

2025年 7月 20日 礼拝 聖書:マタイ9:35-10:1

 今日の箇所では「働き手を送ってくださるように祈りなさい」というイエス様の有名な勧めがありますが、「働き手」とは誰のことでしょうか。牧師が高齢化したり突然亡くなったり、どこか他の働きへと向かったために新しい牧師が必要になった、そんな時にこの箇所が読まれ、「祈りましょう」というふうに用いられることが多いのかなと想像します。

しかし、神学校の校長という役割を与えられ、日本や世界の神学校の置かれた状況を知るにつけ、このみことばを単に次の牧師や宣教師を与えてくださいという意味に捉えたのでは、おそらく失望する教会やクリスチャンが少なからずあることを痛感させられます。必要に対して牧師を目指す神学生は圧倒的に足りていません。

「働き手」を牧師や宣教師のような人たちに限定することはイエス様の本来の意図だったのでしょうか。確かに、この祈りの教えの後で12使徒が選ばれた話しが出て来ますが、どういうことなのでしょうか。続きを読む →

2025-07-13 あわれみ深く

2025年 7月 13日 礼拝 聖書:ルカ6:36-42

 イエス様の教えは一見すると普通の道徳的な教えとあまり変わりないように思えることがあります。慈悲深いこと、気前良く与えること、人のことをあれこれ言う前に自分のことをちゃんとすべきこと。今日の箇所の教えは表面的に読めば、そういう道徳的な教えとして読めなくもありません。

他にも、聖書では夫婦、親子、教会の兄弟姉妹同士、隣人との関係など人間関係に関する教えが割合多くあります。しかし人には優しくしなさいとか、夫婦は仲良く、ケチケチしないで、隣近所とは良い関係を保ちなさいなど、わざわざイエス様が教えなくたって、半ば常識のように語られています。時には「キリスト教も同じように教えるんだね」と驚かれたりするとちょっと拍子抜けすることがあります。どうしてイエス様はそのような教えを残したのでしょうか。今日の箇所は「平地の教え」と呼ばれている一連のメッセージの一部ですが、まずは語られた状況からイエス様の意図を探っていきたいと思います。

1.イエス様の弟子として

今日の箇所を含む一連の教えは6:17から6章の終わりまで続きますが、内容がマタイの福音書の「山上の説教」と似ていて、よく比較されます。それで、17節に「山を下り、平らなところにお立ちになった」という記述から「平地の説教」と呼ばれています。

このお話がどういう状況で語られたかを見ていくと、直前の12~16節で「十二使徒」を選ぶ場面が描かれています。イエス様が一晩中山の上で祈り、夜明けに弟子たちの中から12人を選んで「使徒」と呼び始めたのです。それから山を下りて、待ちわびていた群衆がいる中で、弟子たちに語り始めたのが今日の箇所です。

さらにもう少し視野を広げて、十二使徒を選ぶ前の箇所、6:1~11を見てみましょう。ここでは安息日に麦の穂を摘んで食べ始めた弟子たちや、イエス様が右手の悪い人を癒したことを「律法違反だ」と咎める律法学者たちやパリサイ人の批判と、それに対するイエス様のやりとりが描かれています。

律法学者は聖書の専門家で、人々を教える立場にありましたし、パリサイ人はその律法を厳格に守ることで神の国の到来を早めようと、人々を教え導くことが使命だと燃えていました。しかし、彼らのやっていることは律法を規則として捉えることで人間への優しさも神への畏れも、神が持っておられる憐れみも見失っていました。

そこでイエス様は、神様の教えの本来の意味をしっかりと捕らえ、人々を教え導く新しい指導者として使徒たちをお立てになったのです。彼らの周りにいる救いや癒やしを求める大勢の人々は、これから彼らが教え導く必要のある人たちです。その人たちが見守る中で、イエス様は弟子たちに、「あなたがたはわたしの弟子として、他の人々を導く役割があるから、こう考えなければならないよ。こういう生き方をしなければならないよ」と教えたのが、この平地の教えなのです。

では、使徒ではない私たちは、イエス様のこれらの教えをどう読んだら良いのでしょうか。関係ないと無視していいのでしょうか。もちろんそんなことはありません。

イエス様を信じてクリスチャンとなった私たちは、その存在がすでに福音を現す存在になっています。

クリスマスにやるキャンドルサービスを思い起こしてください。隣りの人からロウソクの火をうつしてもらって自分のロウソクに火がついたら、それがどんなに小さな火であろうと、周りを照らし始めます。積極的に別な人に火を渡そうとすればどんどん明かりは拡がっていきます。しかし、たとえ誰にも火を渡さなかったとしても、その小さな火は、確実に周りの闇に光をもたらし、影響を与えます。

私たちの存在が、私たちの子供、家族、友人、隣人に意図せずとも影響を与えます。良い影響である可能性もありますが、律法学者やパリサイ人たちのように悪い影響を与える可能性もあります。

教会の中では、自分の次の世代のクリスチャンたちがおり、私たちの姿を見ていろいろなことを学びます。私たちの振る舞い方、考え方、祈る言葉、良くも悪くも影響を与えます。家庭の中で子供や孫には何を遺せるでしょうか。委ねられている役割の重さ、与えられた責任の大きさを考え、良いものを次の世代に残すためには、イエス様が弟子たちに語ったことに耳を傾ける必要があります。

2.寛容であること

さて、今日の箇所でイエス様は最初に言われました。「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。」

あなたがたの父とは、父なる神様のことです。イエス様は私たちの行動を通して、神様の憐れみ深い性質を表すようにとおっしゃっています。そしてこの憐れみ深さは、同情心が強いとか、共感能力が高いといった、内面的なことではなく、人々の罪や必要に対して広い心で接すること、寛容であることを指しています。

37~38節では、さばいてはいけない、人を不義に定めてはいけない、気前良く与えなさい、と命じられています。

これらの教えは何を言わんとしているのでしょうか。今、山の麓でイエス様と弟子たちの周りにいる大勢の群衆のように、これから弟子たちが実際に関わり、福音を伝え、みことばによって導かなければならない多くの人たちは、たくさんの問題を抱え、間違いを犯しているはずです。そういう人たちに対して、律法学者やパリサイ人たちのように、「それは罪だ」「それは間違っている」と指摘するのは簡単だし、それを直さないと仲間に入れないとか、そんなことをしたら仲間から追い出すと言ったら、強い指導者のように見てもらえるかもしれません。けれども人の罪を指摘し、時には軽蔑すらすることで、その人が良くなることは滅多にありません。

もちろん、罪の問題は放って良いことではなく、扱わなければならなりませんが、キリストの弟子としてまずすべきは、父なる神様がそうしてくださったように、まず赦し受け入れることです。

またイエス様と弟子たちの周りには貧しい人たち、癒やしが必要な人たちがたくさんいました。毎日毎日、助けをもとめてひっきりなしにイエス様のところにやって来ました。弟子たちは時々苛立って、小さい子どもたちが集まって来たりすると「子供はあっち行ってなさい」と追い払おうとしましたが、イエス様は誰でも受け入れ、休む間もなく力を分け与えました。

しかし律法学者やパリサイ人たちはどうだったでしょう。人が見ている前では高額な献金をしましたが、一方で年老いた両親への経済的支援は、「ささげ物になりました」と宣言することで回避できる抜け道を作りました。譬え話の中に出てくる祭司やレビ人のように、強盗に襲われ死にかけている人を見かけても、汚れを移されたくないという宗教的理由から自分の手を汚さない、そんな貧しい発想しか持てませんでした。しかし、キリストの弟子であるあなたがは、惜しみなく与える者でありなさいと教えておられます。

もちろん、私たちは無限の力を持っている者ではないので、際限なく求めに応え続けることは出来ません。肉体的にも精神的にも自分を守る必要があります。家族に犠牲を強いるやり方も良くありません。そうした注意は必要ですが、しかし、基本的なあり方として、自分に出来ることは喜んで与える、そういう者であるようにとイエス様は弟子たちに語っておられるのです。

人をさばかなければ、あなたがたも裁かれない。人を不義に定めなければ、あなたがたも不義に定められない。赦せば赦される。与えれば与えられる。気前よく与えれば気前よく与えられる。

自分が得をするためにそうしなさいということではなく、人を測る測りで自分も測られるものだという教訓です。

3.人のことを言う前に

次に今日の箇所の後半部分を見ていきましょう。39~42節です。イエス様が「一つのたとえを話された」とありますが、その譬えとは41~42節です。39節と40節はこの譬えで取り扱う問題について考えさせるための導入になっています。

イエス様の弟子たちはこれから人を導く立場になります。何も見えてない、分かっていない状態では人を正しく導くことが出来ないばかりか一緒に穴に落ちてしまいます。また、自分の先生のように教えることができるようになるためには、十分に学び、訓練を受ける必要があります。そこで求められるのが、謙虚に学ぶ姿勢です。

41~42節のたとえはまず身につけなければならない謙虚さであることをはっきり伝えています。人のことを言う前に自分のことを顧みて、謙虚に聞きなさいということです。

みことばによって人々を教えたり、罪を取り扱ったりするのは、他人の目のちりを取り除くようなものです。律法学者たちやパリサイ人たちが他人の目のちりを取り除こうとすること、つまり聖書に基づいて生活の指導をしたり、具体的に教えようとしたこと自体は間違ったことではありません。彼らの間違いは、自分の目の中にある梁を取り除かないままで他人の目のちりを取り除こうとしたことです。

イエス様のもとに病気を治して欲しいと集まって来た人たちに対して、できる限りのことをしてあげつつも、本当に救いを得たいなら、自分の罪と向き合い、神の前に悔い改める必要があるよと言わなければなりません。それはまさに他人の目の中のちりを取り除くことです。その生きずらさ、その見えにくさの原因は貧しさよりも、あなたのうちにある罪なんだと言わなければならないとき、それを律法学者たちのように、上から目線で「あなたは罪人だ」と指摘するだけだったり、助ける力があるのにあれこれ理由をつけて助けの手を差し伸べないなら、自分自身の目の中の大きな梁があるのです。それでは相手の目の中のチリを取り除くことができないばかりか、かえって目を傷つけてしまうことになりかねません。

だからキリストの弟子である使徒たちには、まず自分の中にある問題、欠点、間違い、罪に気付き認める謙虚さと、それを取り除いてくださいと助けを求め、教えてくださいと学ぶ姿勢を持ち続ける必要があります。

最近どこぞの知事が学歴を詐称していたのではないかと疑われていますが、その釈明というか弁明というのは本当に無意味で見ていて痛々しいというか、呆れるようなものでした。社会を良くしようという志で政治家を目指したのだと思いますが、そうであるなら自らの間違いにも正直であって欲しいわけです。素直に見栄を張りました、ご免なさいと言えば、それですべてが赦されるわけではないとしても、その人自身に対する印象はそこまで酷くならずに済んだのではないでしょうか。

他人の罪を指摘してばかりいる律法学者やパリサイ人たちも、イエス様の教えを聞いて自分の過ちに気付いて謙虚になっていれば、多くの人を惑わすこともなかったでしょう。けれどもこれは他人ごとではないというのがイエス様の教えです。あなたがたもまず自分の目の中の梁を取り除きなさい。自分の間違い、欠点、弱さに正直であること。それを認め、取り扱っていただく謙虚さが必要です。

適用:神のあわれみを証しする

ここまで見てきたように、イエス様が教えるクリスチャンの生き方には明確な目的があります。私たちの生き方、行動を通して私たちが何を信じ、何を希望としているかを表すということです。「それが正しいことだからしなければならない」という理屈はまさに律法学者たちの論理です。イエス様は弟子たちに、本当の救いがもたらす新しい生き方はそのようなものではないことを分からせる必要がありました。

今日の箇所で教えられている、寛容の教えには、神の哀れみ深さを表すという目的があります。私たちの振る舞いを通して、神様があわれみ深い方であることを証するためです。

神様が弱さや貧しさの中にある時、私たちに心を傾けてくださる方であること。悲しみに沈む時に慰めてくださる方であること。恐れたり心がざわつくときに平安を取り戻させてくださる方であること。罪ある私たちを赦し受け入れてくださる方であること。助けを求めるときに豊かに答えてくださる方であること。そうしたことを私たちは何度も経験してきました。そんな神様の憐れみ深さを、イエス様の弟子である私たちを通して表すのです。そうすることによって、私たちに託された福音は証され、また私たちの後に続く次の世代のクリスチャンや、私たちが教えることになる子どもたちや他の誰かに対しても、そのような信仰と生き方が受け継がれ、さらに次の世代へと受け継がれていくことが期待できるのです。

そうした点で、私は反省しなければならないことに心当たりがあり、後悔していることが幾つか示されています。

2年前に入院中に見た幻覚だか夢だか区別の付かない幻を見た中で、私の窮地を助けるために立ちあがってくれた若い人たちの中に、今は教会から離れている人たちが何人かいた、という話しをしたかもしれません。

もちろん幻の中での事ですから、彼らが本当にそう思っているかは分かりません。ですが、彼らが話してくれた教会に失望した理由の一つが、寛容さにかけた教会の態度にありました。本人たちの気持ちや事情に理解を示すより、罪だと指摘してしまう態度に失望したというのです。

そして現実世界の話しとして、確かにそういう態度を取ってしまったことがあることを思い出します。何かの罪の問題がたまたま明るみに出てしまっただけで、急にこちら側の態度がぎこちなくなり、よそよそしくなったり、端から「悔い改めるべきだ」という態度ばかりが強く出たり、場合によっては怒りのほうが先に出てしまって背後にある本人が抱えている苦悩にまるで思いが及ばず、神様の憐れみ深さはいったいどこに表れていただろうかと反省させられ、あの時この時の態度について後悔させられているのです。

旧約の知恵の書に「あなたは正しすぎてはならない。」という言葉があります(伝道者の書7:16)。自分が正しい側にあるかのようにして相手を非難したり、罪を指摘するのは相手を追い詰めるだけでなく、自分に返ってくるものです。誰もが多くの間違いを犯し、簡単には離れられない罪や悪い習慣があるものです。そんなの気にする必要は無い、皆同じだ、ということではないけれど、主があわれみ深く私たちを見て取り扱ってくださるように、私たちもまた人に対して寛容で、あわれみ深くありましょう。

祈り

「天の父なる神様。

いつも私たちに惜しみなく赦しと恵みを与えてくださり、ありがとうございます。

イエス様が言われたように、父があわれみ深いように、私たちもあわれみ深くあることができますように。他の人に対して寛容で、自分にできることについては出し惜しみせず、与える者であることができるように助けてください。

人の罪や問題について語る前に、自分自身の課題に気付き、へりくだらせてください。

私たちが寛容で気前よく与える者であることで父なる神様のあわれみ深さを表すことができますように。

イエス様のお名前によって祈ります。」

2025-07-06 自分なりの務め

2025年 7月 6日 礼拝 聖書:エステル記4:12-17

 私たちは誰もがユニークな存在です。日本の社会でユニークというと、変わっているとか、皆と違うというマイナスなイメージで使われることがしばしばあります。しかし、聖書の視点から人間を見ると、私たちは、神のかたちに似た者として造られた人間としての共通点を持ちながらも、一人ひとりは特別な存在としてこの世に生を受けました。

戦前から戦後への社会の激変を経験した人もいくらかおられますが、ほとんどが、戦後の民主主義、自由経済という価値観の中で生き、日本という世界でも珍しい文化の中で成長して来ました。しかし、私たちを形作ってきたものは皆独特です。生まれた家、親、受けた教育、経験して来たことはそれぞれ実に多様です。

そして一人ひとりがそうした異なった人生を送り、それぞれ独自のものを身につけて来たのは、神様が、それぞれの人に、その人なりに託したい務めがあるからです。今日はエステルを通して、自分なりの務め、ということについて学んでいきましょう。続きを読む →

2025-06-29 神の家族として

2025年 6月 29日 礼拝 聖書:ローマ16:1-7

 今日は***の証を通して、信仰に導かれたり教会の中で育まれたときに、神の家族としての教会、また教会に属する個々の家族がどんな役割を果たしたか、聴くことができたと思います。

今日は神の家族である個人や家族がいかに私たちの信仰の歩みに大きな影響を与えているか思い巡らしたいと思います。そのために今日開いているのは、ローマ教会に宛てた手紙の最後の挨拶のところです。続きを読む →

2025-06-22 いのちを得るために

2025年 6月 22日 礼拝 聖書:ヨハネ5:39-47

 救いを求めているのに、救われているか確信が持てない。クリスチャンになったのに、どうにも充実した人生を送れている気がしない。クリスチャンがそうした症状に襲われることがあります。いったいどこに原因があるのでしょうか。

人間はそんなに単純ではないので、今日扱うことがすべての答えということではありませんが、多くの場合に当てはまる重要な問題を取り扱っているように思います。

今日の箇所でイエス様は、ユダヤ人たちに対して、あなたがたは永遠のいのちを得ようと探しているが、得られないとおっしゃっています。永遠のいのちを得ようと聖書に答えを探していたのに、得ることができなかった人たちの問題は、ユダヤ人特有にも思えますが、実のところ、それは誰にとっても課題となり得るものです。

そこで今日は、イエス様の言葉によって、永遠のいのちとはいったい何なのか、そして、永遠のいのちを得る方法と、それを邪魔する問題について見ていきましょう。

1.いのちに満ちた歩みとは

まず、永遠のいのちとはいったい何なのでしょうか。39節でイエス様は言われました。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。」

これは、イエス様を批判しているユダヤ人たちに対して言われた言葉です。事の発端は、ユダヤ人が宗教的理由から労働を禁止している安息日に、イエス様が38年もの間病気で歩けなくなっていた人を癒やし、横になってた床を取り上げるよう言ったことでした。

5章の前半にその事件が描かれています。今日は、詳しい説明はしませんが、有名な話しなので、ご存じの方もいらっしゃると思います。38年ものあいだ病気で苦しみ、彼を手助けする人が誰もいなかった人を癒やしたのに、それが安息日だからということで難癖をつけ、イエス様を迫害しはじめたのです。

イエス様は彼の病気をいやした後で、14節で彼を宮で見つけます。恐らく、感謝を捧げるために神殿に向かったのでしょう。そこでイエス様は、「あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません」と告げます。彼の病気は罪が引き起こしたものであった可能性があります。

イエス様が彼をいやしたということは、その罪を赦し、罪が引き起こした病から解放し、新しい生き方をするようにと招いてくださったということです。

今日の私たちのテーマである「永遠のいのち」を理解する鍵がこれらのことの中にあります。永遠のいのちは永遠に病気にならないとか、不老長寿のようなことではありません。イエス様のいのちに触れていただくことで、罪が赦され、罪が引き起こした悪しき結果から私たちを回復され、新しい生き方をするようにさせることです。

ヨハネ17:3ではイエス様が祈りの中で、「永遠のいのいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」とおっしゃっています。永遠のいのちは神とイエス様を知り、イエス様とともに生きること、神様との愛の交わりの中に居続けることです。その愛の交わりが私たちに赦しと回復、新しい人生をもたらし、喜びと希望を生み出すのです。

イエス様は、ベテスダの池にいた病人に、いやしを与えただけでなく、罪を赦し、新しい生き方をするように招いてくださいました。まさに永遠のいのちへと招いてくださったのです。ところが、それを見ていたユダヤ人たちは、38年も苦しんで来た病人が今まさに永遠のいのちへと招かれている事よりも、安息日のルールを破ったことで非難し、イエス様が神様を父と呼んだことに腹を立てました。その時のユダヤ人たちの攻撃の理由が18節に記されています。「イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。」

その非難に対してイエス様が延々とお答えになっているのが19節からで、その最後の部分が今日開いている箇所なのです。

その中でイエス様は、父なる神様がイエス様について証言しても、バプテスマのヨハネがイエス様について証言しても彼らは耳を傾けなかったと非難します。そして彼らは聖書を一生懸命学んでいたのですが、聖書もイエス様について証言しています。それでも彼らはその聖書の証言にも耳を貸さなかったのです。

2.イエスのもとへ

40節でイエス様はユダヤ人たちに言いました。「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」

彼らが一生賢明調べていた聖書そのものが、イエス様こそが待ち望んだキリストであり、永遠のいのちに至る道であることを指し示しているのに、彼らはそれにも耳を貸さず、イエス様に求めもしませんでした。永遠のいのちを得ようとするなら、イエス様のもとへ行く必要があるのです。

今は大抵のことはネットで調べられる時代です。体の調子が悪いのが続いたら、その症状をもとにネットでいろいろ調べるという人も結構いるのではないでしょうか。すると、いろいろな病気の可能性が結果として出てきますが、ほとんどの場合「早めに医師の診察を受けましょう」という勧めが出てきます。知り合いに相談してみると、案外似たような経験をしている人もいて、やっぱり「病院に行った方がいいよ」と行ってくれるかもしれません。あらゆる証言が「あなたは医者に行くべきだ」と示しているのに、それでも医者嫌いだったり、仕事を優先したかったり、あるいは単にプライドの問題で、医者に診てもらうことを避けていたら病状はますます深刻になり、治療が難しくなっていき、場合によっては取り返しつかないことになります。

あらゆることがイエス様こそが救い主で、永遠のいのちを得たいならイエス様のもとへ行くべきだということを指し示しているのに、ユダヤ人たちはイエス様のもとへ行こうとしませんでした。

それどころか、安息日に病気を治したとか、布団を上げて帰るよう指示したというようなことを取り上げてイエス様を非難し、イエス様が父なる神様を自分の父と呼んだということで、難癖をつけて来ました。彼らはルールを振りかざして、人間の本当の必要である永遠のいのち、神との交わり、イエス様とともに生きることをないがしろにしました。

もちろん、私たちの文化の中には安息日には一切の労働を禁じるというようなことはありません。しかし、神様との交わりやイエス様とともに生きることより、キリスト教の伝統や習慣を守ることに夢中になったり、聖書で教えられてもいないルールをまるで道徳的な基準であるかのように思い込んでそれを守ることこそクリスチャンの生き方だと勘違いしていることがあります。

あるいは、日々の仕事や忙しさにまさに忙殺されて、神様との交わりやイエス様とともに生きているということを確認し、味わうための時間をおろそかにしてしまうことが結構あります。今、やっている神学校のクラスで、自分に与えられたライフワークを実現するために一年の生活のリズムや一週間のリズムをどう造るかという課題が出ました。ある先生は、一週間のリズムの中に、毎日のこの時間に聖書を読んで祈る時間を入れる。これを犠牲にして仕事をするようになると、赤信号なんだと、自分の経験からおっしゃっているのがとても印象に残っています。

私たちはイエス様のもとに行かなければ、イエス様のいのちに触れ、イエス様のいのちに満たされて生きることはできないし、そこにある喜びも希望も言葉だけのものになってしまいます。それは愛していると言いながら一度も会いに行かない人のようです。

3.本当の求め

しかし、なぜユダヤ人たちはイエス様のもとへ行かなかったのでしょう。あるいは、私たちが日々の暮らしの中でイエス様のもとへ行くのをおろそかにしている時、何が原因なのでしょうか。

イエス様は41節と42節でずいぶん厳しい指摘をしています。

「わたしは人からの栄誉は受けません。しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。」

ユダヤ人たちは神の定めた律法について語り、それを守ることに一生懸命で、守らない人を見つければ寄ってたかって非難しまいした。しかし、イエス様は彼らの本質を見抜いておられました。彼らは本当には神を愛してはおらず、彼らが求めているのは人からの称賛だったのです。

律法を忠実に守ることで神に認められるというふうに思っていたけれど、実際のところ律法を守ることで「あの人は立派だ」と人から褒められることに喜びを感じていました。

クリスチャンホームに育った子供が時々陥る問題にも重なる部分があります。聖書の教えや教会の伝統によって生きることを神様に対する愛のゆえに喜んでやっているというより、そうすることが親や教会の人たちを喜ばせるからやっていたり、そうすることで自分が安心できるからやっている、ということがあります。私も経験がありますが、そういうクリスチャンっぽい生活はほんの小さなほころびで簡単に壊れてしまいます。

しかしユダヤ人たちの問題は、神を愛すると言いながら実のところ人からの称賛を求めて生きていたので、神の名によってこられたイエス様を受け入れることができなかったことにあります。

他の誰かだったら、「誰々の使いで来ました」とか「○○の代理で来ました」と言えば、その人自身を迎えるかのような態度で迎えるはずです。しかし、本当には神様を愛していなかったから、神様がご自身の名によって遣わしたイエス様を受けれませんでした。それが彼らの問題の本質でした。永遠のいのちを求めていると言いながら、本当は別のものを求めていたのです。神を愛すると言いながら、彼らが愛しているのは誰かから褒められている自分でした。

もし、私たちが神様とともにあること、イエス様と共に歩むことの喜びや楽しさ、充実感を味わえていないとすれば、イエス様の方に問題があるとか、教会や聖書の教えに問題があるのではなく、自分が本当に求めているのが違うものだからなのかも知れません。

しかしイエス様のもとに行かずして、ただ欲しいものだけを訴え、追い求めて生きているなら、イエス様のいのちにあずかる喜びも希望も、充実感も得られません。ひょっとしたら頑張って欲しいものを手に入れるかもしれませんが、それは永遠のものではなく、やがて失われます。

イエス様を求めることは、健康のために食生活を改善し運動の習慣をつけなさいと言われるのに少し似ています。初めは必要だからと続けているうちに、健康が回復するにつれ、野菜そのものの美味しさに気付き、体を動かすことが喜びとなるようなものです。

私たちの心と魂が健康で、健全な生き方ができるためには、イエス様のもとに行く必要があります。しかし、だんんだんそれは必要だからという以上に、私たちの楽しみ、また喜びになるのです。

適用:いのちを得るために

最初の問いに戻りましょう。救いを求めているのに、救われているか確信が持てない。クリスチャンになったのに、どうにも充実した人生を送れている気がしない。クリスチャンがそうした症状に襲われることがあります。いったいどこに原因があるのでしょうか。

今日の箇所でイエス様は、イエス様のところへ行こうとしないユダヤ人たちの問題を指摘しました。そして根本的には口では愛していると言いながら、実際には神を愛するより大事なことがあって、本当には神とともにある人生も喜びも求めてはいないということを明らかにしてしまいました。

これがすべてのケースの原因であるとまでは言えませんが、一度よく考えてみる必要のあることです。そして、イエス様のもとに行こうとしなければ永遠のいのちも、その喜びも受け取れないのはどんな場合でも当てはまる真理です。永遠のいのちはイエス様のうちにあるのですから、当たり前です。

そして神を愛することなしに、神の愛の素晴らしさを味わうことはできません。もちろん神様は私たちを一方的に愛し、私たちがどんなに神様に背を向けていたとしても、私たちのためにひとり子イエス様を犠牲にして備えてくださった救いを誰にでも無償で与えてくださいます。それはそうですが、もう一つの面として、神様のその愛の素晴らしさは、私たちも神様を愛してこそ分かるものです。愛とは本来そのようなものなのです。愛を知らなかった私たちが愛されることで初めて愛を知るのですが、他方で、愛することなしに愛されることの本当の素晴らしさを知ることはできないのです。

イエス様のもとに行って、神の愛の交わりの中に自分を置くことで、私たちははじめて永遠のいのちを味わい、喜びを知ります。

であるなら、いつの日にかの復活の望みだけを希望とするのではなく、今日、この日にイエス様のいのちによって生き生きとした歩みができるために、イエス様のもとに行かなければなりません。また反対に、イエス様のもとに行くことを妨げるような願い、求めのほうが優先されていないかどうか、自分自身の心の中や生活の仕方を省みてみる必要があります。

聖書的にはイエス様は私たちのところに来てくださったり、聖霊を通して私たちのうちにいてくださるのだけれど、私たちの心持ちとして、姿勢として、イエス様のもとに行くということを表す必要があるのです。

私たちに必要なのは、礼拝の時に、ここにおられる方としてイエス様を意識して礼拝を捧げ、賛美し、祈り、みことばに聴くことかもしれないし、日々の生活の中でイエス様のもとへ行くことを意識しながら聖書を開いたり祈ることかも知れません。

あるいはタラントのたとえに出てくる忠実なしもべのように、いつの日か帰って来られるイエス様を覚えて、与えられたものを賢く管理して生活を築くことかもしれません。

いずれにしても、それらを神様から受けた愛への応答としてやり続けるなら、イエス様との交わり、神様との交わりが生まれ、イエス様のいのちによって生きているという感覚を掴むことができるようになります。

ぜひ、せっかくイエス様が与えてくださった永遠のいのちですから、日々、味わい楽しめるまでにさせていただきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

あなたは私たちを愛し、罪の赦しと、罪がもたらすあらゆる傷からの癒やしを与え、イエス様とともに歩む新しい人生へと招いてくださってありがとうございます。

どうぞ、私たちがそのような素晴らしい恵みを味わって、日々、イエス様のいのちによって生き生きと歩めるように導いてください。いつもイエス様のもとへと行く者としてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

2025-06-15 愛と平和がいつまでも

2025年 6月 15日 礼拝 聖書:コリント第二 13:11-13

 皆さんは、喧嘩別れしたままの友だちや仲間はいるでしょうか。次に会ったときにどんな顔をしたら良いか分からず、つい避けてしまったり、後味の悪さを引きずってしまうことがあります。

今日開いているコリント書は、第一と第二の手紙がありますが、それ以外にもパウロは手紙を書いたり、実際に訪問したりして、コリント教会にあった様々な問題に対処し、解決のための原則を教え、あるいは自分に向けられた非難について弁明したり、厳しく叱責したりしています。

そのようなやりとりは、真の和解や悔い改めがなされないととても後味の悪いものとなり、関係は遠くなってしまいがちです。そうしたことは、この世の人間関係では良くある事で、しかたがないと諦めがちなことかもしれませんが、パウロはそんなふうに簡単に諦めてはいないし、最後の最後まで、教会が一つであること、愛と平和に満たされていることを願って、手紙を締めくくっています。京はその最後の挨拶のところを見ていきましょう。続きを読む →

2025-06-08 助け主なる方

2025年 6月 8日 礼拝 聖書:ヨハネ14:15-19

 今日はキリスト教のカレンダーによれば「ペンテコステ」です。ユダヤ教で「五旬節」と呼ばれている祭にあたりますが、イエス様が十字架で死なれ、復活された過越の祭から50日目にあたるこの日、イエス様が約束された聖霊がくだり、聖霊に満たされた弟子たちによって福音が世界に向かって語られ始め、教会が誕生したことを記念する日です。

ペンテコステは教会が誕生した日、と言われますが、その意味するところは会議を開いて教会を設立しようと決めたとか、ローマ帝国の承認を得られたとか、そういう組織としてのかたちの話しではなく、聖霊に力をいただいた弟子たちが福音を語り始めたということです。置かれた場所にあって福音を語り続けるのが教会のいのちです。その力を与えるのが聖霊なのですが、今日の箇所でイエス様は聖霊のもう一つの役割について語っておられるようです。

どういうことでしょうか。一緒に見ていきましょう。続きを読む →