2024-06-30 私が弱いときにこそ

2024年 6月 30日 礼拝 聖書:コリント第二 12:1-10

 すごい経験というのは、それ自体は素晴らしいことであっても、本来の自分の器の大きさを見失わせてしまうことがあります。自分まで凄くなったような錯覚をしたり、力が増したような気がしたりすることがあるのです。

昨年、私が倒れてある意味復活したとき、ある人は「先生、めっちゃ強い武器を手に入れましたね」というようなことを言いました。どうやら、すごい経験をしたから、伝道や証しの時に有利なんじゃないかという意味合いだったようです。「そんなふうに思うんだ」と驚きつつ、違和感も感じました。続きを読む →

2024-06-23 誠実であること

2024年 6月 23日 礼拝 聖書:第一サムエル24:1-22

 この世に生きている間は、よほど幸運な人でない限り「どうしてそんな目に遭わなければならないのか」と思うような理不尽をがまんしなければならないことがあります。

クリスチャンにとっては、イエス様の教えがさらに輪をかけます。有名なところでは「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」とか、悪に対して悪をもって報いてはならない、かえって善を行いなさいとか。

もっと具体的には、クリスチャンではない主人や夫に対しても反抗したり、軽く見たりしないで敬い、主に仕えるような気持ちで仕えなさいとまで言われています。いったいなぜそこまで誠実さを求められるのでしょうか。続きを読む →

2023-06-19 神の愛を知らずに

2024年 6月 16日 礼拝 聖書:ルカ15:11-32

 病人を癒したり、抑圧されている人々の友となるイエス様には、いつも大勢の人々がつきまとうと言っていいほどに、人が集まっていました。

そのようなイエス様の行動は、貧しく助けを求めるあてのない庶民にとっては人気で、好意的に受け止められますが、ある人たちにとっては面白くない話でした。

現代なら教会がいやしの賜物を活用して無償で病人を救う活動をしたらたちまち医療関係や行政からはもちろん、社会的に非難を浴びそうですし、社会的弱者に寄り添う活動は称賛される一方で、社会的にはうさんくさく見られることが少なくないように思います。

イエス様の時代、事情はだいぶ違っていましたが、批判する人たちの心理的なメカニズムはほとんど変わりなかったと言えます。続きを読む →

2024-06-02 聞くことは力

2024年 6月 2日 礼拝 聖書:エレミヤ23:16-29

 皆さんは、「主との交わり」や「神様との交わり」と聞くとどのようなことだと考えるでしょうか。また「主との交わりの時間を持っていますか」と聞かれたら何と答えるでしょうか。

若い頃、クリスチャンキャンプに参加したりすると、「神様との交わりの時間を大事にしなさい」「習慣にしなさい」とよく言われました。聖書を読んで祈る時間を持つように、ということだと思いました。良い雰囲気の中にあれば、何となく神様を近くに感じるのですが、家に帰って日常に戻ると、ただ聖書のことばを目で追って、簡単に祈って終わりで、神様との交わりを持っているという実感は沸いてきません。続きを読む →

2024-05-26 約束の証印

2024年 5月 26日 礼拝 聖書:エペソ1:3-14

 「ハンコレス」ということが言われるようになったのは2000年頃からだそうです。最近ではとくにコロナ禍でテレワークが増えたり、感染症対策の観点からハンコレスが拡がったと言われます。確かに、かつてはいろいろな場面で「認印」を忘れたりする手続きが出来ずに慌てたり、ハンコを取りに戻ったりなんてことがありましたが、最近はハンコなしで済むことが多くなり、「あれ?こんなに簡単なんだっけ」と思うこともしばしばです。。

しかしながら契約を結ぶ場合にはやはりハンコが必要です。しかもちゃんと役所に登録した実印が必要です。日本では戦国時代くらいから今のような使い方で個人が印章を持つようになり、江戸時代に商人や町人が持つようになったそうです。ただ、ハンコ自体はもっと古い時代に遡り、有名なのでは国宝に指定された金印ですが、昔の印章は個人が「売ります、買います」の意思表示を保証する意味ではなく、王や権力者の地位を象徴するものとして持つものであったそうです。続きを読む →

2024-05-19 私たちを生かす聖霊

2024年 5月 19日 礼拝 聖書:エゼキエル37:1-14

 今日は教会暦で「ペンテコステ」と呼ばれる記念日です。ユダヤ教では過越の祭から七週が過ぎた時に行われる「シャブオット=七週の祭」という祭の日です。シナイ山で律法が与えられたことを記念します。しかしキリスト教においては、その過越の祭の時にイエス様が十字架につけられ死んでよみがえり、それから50日、ちょうど七週の祭の時にイエス様が約束された聖霊がくだり教会が誕生した日として新しい意味でペンテコステを祝います。続きを読む →

2024-05-05 失敗した者のために

2024年 5月 5日 礼拝 聖書:出エジプト32:7-14

 みなさんは誰かのために「とりなしの祈り」をしたことがあるでしょうか。ご病気の方の回復を祈ったり、困難の中にある方の解決のために祈ったりすることも含まれるかもしれませんが、「とりなしの祈り」でもっとも重要なのは、失敗してしまった人、過ちを犯した家族や兄弟姉妹のための祈りです。

それはどういう祈りであるべきでしょうか。どういうつもりで祈ったらいいのでしょうか。続きを読む →

2024-04-28 天国で歌う歌

2024年 4月28 日 礼拝 聖書:黙示録15:2-4

 皆さんは未来に希望を持っているでしょうか。未来に希望を持てるかどうかは、今を生きる力に大きな影響を及ぼします。

先日、将来消えてしまうかもしれない市町村についての調査結果が公表され、ちょっとざわざわしたようです。人口減少が続く日本については、労働力の低下や経済力の低下など、あまり明るい未来は描けないような様々なデータや将来予測が出されています。中には自分の町が消滅する可能性のある自治体として名前が挙げられたことに文句を言う首長もいたそうです。そんなことで腹を立てている場合ではないとも思いますが、あなたの町に未来はないみたいに名指しされたら、プライドが傷付いたり、企業や住民が町から逃げ出すんじゃないかと恐れるのかもしれません。

私たちの人生についてはどうでしょうか。今日開いている黙示録は、迫害の中にあった教会を励ますために使徒ヨハネが書いたものです。ヨハネ自身もパトモス島という小さな島にいわゆる島流しになっている時に神様が見せた幻を書き記したものです。続きを読む →

2024-04-21 日々新たにされて

2024年 4月 21日 礼拝 聖書:コリント第二4:13-18

 皆さんは今幸せですか。幸せだと思えていますか。もしそうだとするなら、何に幸せを感じているでしょうか。

反対に不幸だと思う理由は何でしょうか。

こんな質問をするのは、クリスチャンは、特に長くクリスチャンとして生きていると、自分を騙すことがうまくなる場合があるからです。様々な苦難に出会って、それでも「神様に感謝しなくちゃ」と口では言うし、心でもそう思っていると自分では考えているのですが、「では幸せなんですね」と訊ねられたら「とんでもない!」とか「たぶん」といった反応になることがあります。

今日の聖書箇所には「感謝が満ちあふれ」という言葉が出てきますが、この言い方は私たちの感謝や喜びが頭で「これは感謝なことだ」「喜ぶべきことだ」と納得するだけでなく、心から沸き起こって来るような感謝、心から幸せだと思えるようになれるということが示されています。続きを読む →

2024-04-14 私を見てくださる神

2024年 4月 14日 礼拝 聖書:創世記 16:1-16

 子どもが小さい頃、他の子と仲良くなってずいぶん長い時間遊んだあとで、「誰と遊んだの?お名前なんていってた?」と聞いたら「知らない」と返事することが度々ありました。

旧約聖書には神様のお名前が記されていますが、ユダヤ人が長い間、神の名を口にすることを禁じていたために正確な発音が分からなくなってしまったという話しを前にしました。「主よ」とか「神様」と呼びかけることはありますが、それは称号であって名前ではありません。

しかし、今日の箇所にも出て来ますが、神様に対する呼び名はいくつもあります。いずれの呼び名にも、そのように呼ぶことになった印象深い物語があるものです。

今日は「エル・ロイ(私を見てくださる神)」という呼び名ですが。神様が私を見ていてくださる。そのことに大いに慰められ、励まされたハガルの物語をご一緒に見ていきましょう。続きを読む →