2025-09-14 あなたのおことばどおりに

2025年 9月 14日 礼拝 聖書:ルカ1:5-25(38)

 だいぶ涼しくなりましたが、ちょっと気を抜けば暑さが戻ってくるような時期に、今日のような箇所を開くのはちょっと季節外れのような気もします。いつもならクリスマス近くに開かれるような箇所ですが、今日は二つの「受胎告知」と言えるような出来事を取り上げます。読んでいただいたのは25節までですが、38節まで見ていきます。

クリスマスを祝う習慣はずっと後になってから出来たので、ルカはクリスマスや季節の行事とは全く別の意図でこの場面を最初のエピソードとして取り上げました。4つある福音書の中でルカだけが取り上げたのは、バプテスマのヨハネとイエス様がどのようにして誕生にいたったのか、二人の親となる人たちはその出来事にどのように反応したのかを描くことで、福音書を受け取ったテオフィロや今日の私たちに考えて欲しいことがあったからです。

今日はご一緒に、赤ちゃんを身籠もるというお告げを受け取ったゼカリヤとマリアに注目していきましょう。続きを読む →

2025-09-07 医者ルカの仕事

2025年 9月 7日 礼拝 聖書:ルカ1:1-4

 クリスチャンとしての生活、また教会の働きや活動について迷いが生じるときがあります。その迷いには真理そのものに対する確信の揺らぎ、たとえばイエス様による赦しは本当に確かなのかとか、イエス様は本当に復活して生きているのか、といった信仰の根本部分に対する確信が揺らいでしまう場合があります。また、自分たちの生き方、やり方が聖書の教えにちゃんと乗っ取っているのかどうか迷いを感じる場合もあります。

私たちの教会について言うならば、会堂の整備をどうしていくかというある種の迷いの中で話し合い、見逃してはいけない事柄があることを確認したと思います。教会とは何なのか、何のためにあり、何をするものなのか、ということを共有できないと、お金を掛けて会堂を直したり、あるいは建て上げたとしても無意味になったりちぐはぐになってしまうということになります。

そこでしばらく、ルカの福音書と使徒の働きを通して、信仰や教会の確信とは何であるのかをじっくり学び直したいと思います。

1.医者ルカ

今日は9月の第一週でもあり、今年度の主題「恵みの器」とも重なる、医者ルカの仕事に注目したいと思います。

実のところ、どの福音書も本文の中に著者の名前を書いていません。マタイもマルコもヨハネもです。そしてルカの福音書の中にはルカという名前すら出てきません。それでも教会のごく初期の時代から、この福音書と使徒の働きは、医者ルカによって記されたと言い伝えられ、そのように認められて来ました。

しかし、単にそういう伝承があるからというだけでなく、聖書のいくつかの手がかりから、医者ルカが二つの書物の著者であることはほぼ確かだろうと言えます。「ほぼ」と言わざるを得ないのは、やはり本人が名乗っていないからですね。

ルカの福音書と使徒の働きは文章がとても良く似ています。使っている言葉の傾向や文体、両方に流れている考え方、関心といったことが共通しており、両方とも「テオフィロ」という人に宛てられている、ということから、二つの書簡が、上下巻セットで一つになるものとしてはじめから意図されて書かれたと言えます。

そして、なぜそれがルカだと言えるかというと、使徒の働きの途中、16:11から主語が「私たち」に変わっていること。つまり、それ以前のことは調査や聞き取りをまとめたもので、16:11以降は著者自身が実際に見たり聞いたりしたことだということです。それはちょうどパウロの宣教がアジアからヨーロッパへ移って行く時期で、ローマに着いたところまでなのですが、その時期にパウロに同行した人物を調べていくと、医者ルカが浮かび上がって来るというわけです。

ルカの名前はコロサイ書とピレモンへの手紙に愛する医者、同労者として出てきます。この二つの手紙はパウロがローマで軟禁生活を強いられている中で書かれました。68年春に処刑される約半年前に記された第2テモテでは最後までパウロと行動を共にしていた仲間としてルカの名前が挙がっています。

こうしたことから3番目の福音書と使徒の働きは、同一人物、医者ルカによって書かれたと考えられており、それで間違いないと私も考えています。しかしながら、ルカは自分のことについては何も書いていません。

ルカがどのようにして医者を志したのか、どんな医者だったのか。またどういう経緯で福音を聞き、パウロと行動を共にするようになったのか、何も分かりません。ルカがパウロと行動を共にするようになったのは使徒の働き16章で、アジアでの宣教の扉が閉じられ、幻の中でマケドニア人の助けを求める声を聴いて、聖霊の導きを確信してギリシャのマケドニアに渡るときです。16:10で「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした」とあるので、ヨーロッパに宣教のエリアを拡げる決断をしたその場面にルカもいたことが分かります。

ルカ1:3には、ルカが当時教会を通して宣べ伝えられ、教えられていることを綿密に調べ、順序立てて書こうとしていたことが伝えられています。使徒の働きを読んでいくとルカが医者らしい仕事をした形跡はありません。実際にはしていたのかもしれませんが、それよりも彼は宣教の働きを記録し、イエス様の教えと働きについて調査しまとめることを自分の務めと考えていたのです。

2.テオフィロの迷い

さて、ルカの福音書と使徒の働きは、同じ一人の人物に宛てて書かれています。昔の文学の作法では、献呈といって、個人や組織に敬意を表して贈呈する際、こうした序文の中に名前を記すことがありました。

ルカはその作法に則って書いていますが、しかしこれは決して形式的なものではありません。テオフィロがどういう人物であったかはほとんど分かりませんが、ローマの碑文や文献にたびたび出て来るような、よくある名前の一つですし、「尊敬するテオフィロ様」という書き方から、ある程度社会的に地位のある人であろうことは分かります。4節に「すでにお受けになった教え」とあるように、テオフィロもまた、福音を聞いてイエス様に従うクリスチャンになった人であることが分かります。

ルカはこのテオフィロに対して「すでにお受けになった教えが確かであることを、あなたに良く分かっていただきたいと思います」と執筆の目的を書いています。

テオフィロに敬意を払って書かれたものであり、形式的にはよくある献呈の書き方にはなっていても、彼の信仰に触れ、すでに信じているはずの福音と教えについて「確かであることを、あなたに良く分かっていただきたい」と、テオフィロを強め励まし、教える意図を持って書いたことが分かります。もちろん、テオフィロ一人のために書いたのではなく、これが広く諸教会で読まれることを意図していたことは内容を読んでいくと分かるのですが、それでも、テオフィロが抱えている疑問なり迷い、あるいは曖昧な理解にとどまっていることをクリアにして、はっきりした理解と確信を持って信仰の歩みをしてほしい、教会の建て上げのために貢献して欲しい、そんなルカの強い願いが込められているのです。

ルカの福音書と使徒の働きがいつ書かれたかははっきりした年代が分かりません。ただ、使徒の働きの最後は裁判のためにローマに到着し、自費で借りた家に住み、軟禁状態になっているところで終わっていますから、少なくともそれ以降に書き終えたことになります。そしてパウロはローマ滞在時にエペソ、コロサイ、ピレモン、ピリピの各書を書き、その前には第一次伝道旅行を終えた後にガラテヤ書、第二次伝道旅行中にテサロニケ第一・第二、第三次伝道旅行中にコリント第一・第二、ローマ書を書いています。伝統的にはエルサレムが崩壊した70年頃にルカの福音書と使徒の働きは書かれたと考えられていますが、その頃までにはテモテやテトスへの手紙も書かれました。

つまり、ルカの福音書と使徒の働きは、諸教会で福音が伝えられ使徒パウロがキリストから受けた教えとして書き送った手紙がどういう歴史的な経緯の中で記されたかが明らかにされているのです。

それらの手紙を見ていくと、当時のクリスチャンたちが直面した問題や陥りやすい間違いなどが少し分かって来ます。

私たちはイエス様について何を信じるのか、そしてこの世界に対する神のご計画は何であり、教会はどのようなもので、どんな役割があるのか、ということがテーマになっています。

パウロはそうした問題に教えることで対処し、ルカはイエス様と教会の歴史に表れた神の御心を明らかにすることで解決しようとしたのです。

3.確信を持つように

テオフィロ以外のクリスチャン、諸教会に読んでもらうことを想定していたとしても、まずはテオフィロという個人に、福音の教えが確かであることを確信してもらうために、これだけの文書のために何倍もの調査、聞き取り、研究を重ね、構想を練り、下書きをし、聖書をするのにいったいどれほどの時間をかけたのでしょうか。普段、パウロや仲間たちと共に旅をし、働きをしながらこれらのことをやり遂げたというのは、いくら聖霊の助けがあったとはいえ、大変な労力です。そこまでしてでも、確かな確信を持って欲しいし、持ってもらわなければ困るとルカは考え、断固とした決意をもって取り組みました。

なぜそうする必要があるかというなら、信仰の確信を揺るがすような状況があり、実際信仰から離れたり、教会の交わりから遠ざかったり、道から外れる生き方をする人たちが現実にいたからです。

手紙を見ていけば、当時の迫害やユダヤの伝統的な理解に基づいた間違った教え、ギリシャやローマの哲学や宗教の影響を受けた間違った教え、道徳観、価値観などによって惑わされ、使徒たちや他のクリスチャンたちから聞いた教えから外れたり、歪んで解釈すると、それは個人の信仰の問題に留まりません。

私たちの心の中で迷いや疑い、間違った理解が支配的になると、私たちの言葉、態度、行動が悪い方に変わったり、行き当たりばったりになります。それはすぐに個人の問題から身近な家族との関係に影響を及ぼし、教会の兄弟姉妹や地域、社会の人間関係にも影響を及ぼすようになります。

神の恵みと救いについて間違った教えに影響されたガラテヤのクリスチャンたちはとても律法的でぎすぎすした教会の交わりを作ってしまったし、キリストの再臨について間違った理解をしたテサロニケのクリスチャンたちは不安にさいなまれる者や仕事なんかしててもしょうがないとフラフラした生き方をしました。愛と自由について誤解したコリントのクリスチャンたちは、未信者の間にも見られないほど不道徳な行動をしたり、たえず交わりの中に分裂や争いを起こし、仕えるべき主人を軽んじる者も出てきました。

もちろん私たちは人間ですから、福音を正しく理解し、教えについて確信を持っていたとしても、それでも間違うこと、道を踏み外す可能性はあります。私たちは自分の中にある罪の力や外から来る誘惑の力をあなどるべきではありません。なおさら、私たちが信仰の確信を持っていなかったら、そうした罪の力や誘惑の力にどのように対抗できるでしょうか。未完成の船を絶えず波風にさらされる外海に出すようなものです。見かけは立派にできたとしても、骨組みがちゃんとできておらず、各部品もしっかりとつなぎ合わされないままなら、ちょっと波が来ただけでひとたまりもありません。

なぜ同じように人生に試練や困難があっても、信仰によって勇敢に乗り越える人と状況に流され信仰を失ってしまうような差が生じてしまうのでしょうか。イエス様は喩え話しを通して、イエス様のことばを聞いても、聞き流す人は砂の上に家を建てるようなものだと言われました。川の水が押し寄せると押し流されるように、土台がしっかりしていないから酷い壊れ方をするのです。厳しい指摘ですが、本質的な問題をついているのではないでしょうか。

適用:注意深く聖書を読む

さて、今日の箇所から私たちは何を学べるでしょうか。恵みの器という大きなテーマの中で考えるなら、医者であったルカが、おそらく医者としての知識と技術を使って働きながらも、福音宣教のために自分にできることを通して献身した姿は大いに考えさせられます。

だれもがルカが誓書の一部を書き上げるような大きな仕事をするよう召されているわけではありませんが、誰もがその人なりの仕方で福音宣教に貢献するよう召されています。私たちは自分のうちにある志や関心、能力などを手がかりに見つけ、献げていくよう励まされ、促されています。

一方、この箇所自体が語っていることから私たちが考えるべきことは、注意深く聖書を読んで、私たちの信仰、生活、教会の交わりや働きが、聖書の教えにしっかり立っているかよくよく吟味する必要があるということではないでしょうか。

テオフィロは、恐らく聞いて学んだことに留まっていましたが、他の何かに惑わされて迷うか疑いはじめるかしていたのでしょう。それからおよそ2000年経って、様々な歴史や文化を越えて福音を受け取った私たちは、正しくイエス様の教え、使徒たちの教えを受け取っているかも吟味する必要があります。

以前、エペソ書を学んだ時にも気付かされたことですが、初代教会において関心が払われ、熱心に教えられている内容と、今日私たちが話し合いの場で議論する内容にはずいぶん大きな開きがありました。何か大きなずれがあるのかもしれません。

私たちは自分たちがやっていることが本当に聖書が教えていることなのか、それとも文化として受け継いでいることなのかを区別しなければなりません。

先日、講壇交換で花巻めぐみのマーク先生がおいでくださいましたが、その打合せをしているとき、マーク先生は「祝祷が苦手です」と言う話しを聞きました。どういうことかとよく聞いたら、イギリスでは礼拝で祝祷をすることがないというのです。しかも、大げさに両手を挙げて儀式っぽく祈ることは、とても抵抗があるというのです。日本のクリスチャンたちはそれを期待するのでやっていますが、慣れませんということでした。案外「聖書的だ」と思っていることが、実はあまり根拠がなかったり、文化的な遺産でしかないことは多いのかもしれません。

私がルカの福音書と使徒の働きを学び直してみようと考えさせられた大きなきっかけは、47年前に建てられた会堂をどうしたらいいかという関心からでしたが、建物がどうあるべきかについての聖書の原則というものはありません。しかし教会はどうあるべきか、信仰とは何かということなら、聖書の中に記されており、それはルカにとって重要な関心事でした。神様はルカを通して、どんな時代、文化にある教会であっても、そのあり方、働き方の根本の部分が、イエス様が教え始め、行いはじめ、使徒たちによってその意味が明らかにされたものと同じ道を辿ることを願っておられます。

ルカの福音書は新約聖書の中でも最も長い書物ですし、それに加え使徒の働きもあるとなると、ずいぶん長い道のりになりますが、注意深く学び、自分たちのあり方を見つめ直し、新たな光を当てていただくことを期待しましょう。

祈り

「天の父なる神様。

医者であったルカが福音宣教のためにパウロとともに旅を始め、聖霊の導きのなかで一人の人が信仰の確信を持てるようにと、福音書と使徒の働きを書いたことを学びました。

単にその事実でなく、大きな犠牲を払ってでもそのために労苦したルカの働きを覚えるとき、私たちもまた自分たちの歩みの土台がどこにあるのか、しっかりイエス様と使徒たちに結びついているのか、よく学び、吟味すべきことだと教えられます。

教会の将来について考えるべき時が来ている今、どうぞ、状況に振り回されて焦ることなく、良いお方であるあなたに信頼しつつ、しっかりと学び吟味することができるように助けていてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

2025-08-31 あなたの行く道すべてで

2025年 8月 31日 ファミリー礼拝 聖書:箴言3:5-6

 今日は、人生の変わり目にどう生きるか、ということを箴言のことばを通してご一緒に考えていきたいと思います。

箴言3:5-6のみことばを知ったのは、高校生くらいのことだったと思うのですが、それ以来、「座右の銘」のようにことあるごとに思い出し、特に、いろいろと迷うことの多かった青年時代は心の支えというか道を照らす光になっていたなあと振り返ることができます。

私たちは人生の道のりの中で、思いがけない分かれ道や曲がり角につきあたり、どの道を選ぶのが良いのか、選んだ道が正しかったのか迷ったり、分からなかったり、選べずに立ち止まってしまったりすることがあります。また選んだ道が正しいと信じていても実際に歩み出したら非常に歩きにくい、躓いてばっかりということもあります。

そこで今日は、箴言のみことばを通して、どんな道を歩むことになっても確信を持って歩めるための知恵を学びたいと思います。

1.主に頼る

まず5節に注目しましょう。まずは主に拠り頼むことが教えられています。

「心を尽くして主に拠り頼め。/自分の悟りに頼るな。」と戒めとともに教えられているように、私たちは人生の道のり、日々の生活の中で、主に頼らず、自分の悟りに頼ることの多いものです。

しかし、自分に悟りに頼ることと、主に拠り頼むことの正確な意味は何でしょうか。何事も自分で判断せず神の導きに頼ることだと単純化した言い方をしてしまうと、神に信頼するという信仰と、日々の暮らしの中で良く考えたり、深く洞察して判断したり、決断するといったことがかえって分断されてしまいます。

やっぱり、私たちは生きて行くため、行動するために、自分で考え、判断し、決断しなければなりません。問題は、そうした考えや判断の土台を何に置くかです。「自分の悟りに頼るな」は「自分の理解に寄りかかるな」と訳すことができますし、いくつかの翻訳ではそのように訳されています。

「悟り」というとずいぶん高尚な感じがしますが、「自分の理解」となれば、確かに常識だったり、思い込みだったり、誰かの影響を受けた考え方やその時の気分、あるいはそれまでの経験や実績、または自分の願望などに基づいて考えたり、判断したりすることがあるのではないでしょうか。

例えば、最近教会で大きな課題になったのは屋根や外壁の修繕をどこまでやるのか、ということでした。最初、屋根はやろうということで見積を始めたら思った以上に費用がかかりそうで、それなら長く考えたら外壁までやってしまうほうが良いんじゃないかと、私の考え方が変わりました。そこから新たな見積を取って、そこでもう一度考えた時、お金の問題もありましたが、役員の皆さんと話している中で気付かされたことは、教会にとってもっと重要な一致や次世代に何を遺すのか、という視点で考えることでした。それで今回のような結論になったのですが、こうした考えの変化を辿って見ると、常識や計算、野心といったものに基づいて考えていたことから、主が大事にしておられることに基づいて考えるように変えられたと見ることができます。

主に拠り頼むということは、何も考えずにお任せするということではなく、主が大切にしていることや主が教えていることを頼りにして考えたり判断することだ、というふうに言えます。

2.行く道すべてで

次に「あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ」と聖書は語りかけます。

主を知れとは、単に知識として主の存在を知るとか、神についての知識を増やすということではありません。主との交わりの中に生きることです。私たちの日々の歩みが神とともにあるような生き方であること、神様が私に願っていることをいつも覚えながら生きることです。

そして私たちの人生は決して一本道ではありません。様々な分かれ道があり、どの道を辿るかはその時々の判断です。しかし、私たちの人生は道の先になにがあるか運任せでどこへ行き着くか分からないものではありません。むしろ、帰るべき家に帰る道のりのようです。時には工事中で別の道を行かなければならないとか、高速道路が閉鎖になって下道を通らないといけなくなるように、望んではいないけれどこの道を行くしかない、という時も人生にはあります。予定外の道だから家に帰るのをやめるなんてことはしません。だから人生も、選んだ道であれ、望んでいなかった道であれ、今歩んでいる道のりの中で、主に信頼して歩むことに集中しなさいということです。

退職後はこういう生活をしたいと、そのための準備もある程度して来た。でもいざその時が来たら、自分に思いがけない病気が見つかってしまった、家族に大きな変化があった、親の介護が必要になった、案外よくあることかもしれません。

また自分で選んだはずなのに、後悔したり、思っていたのと違ってがっかりしてしまうことがあるかもしれません。

私たちの予測や選択には限界があり、すべてを見通すことはできませんし、世の中にはコントロールできないことの方が多いです。ですから大事なのは、予測能力を上げることではなく、何にでも対応できる能力を身につけることでもなく、どんな道のりを歩くことになったとしても主に信頼することです。歩むその道々で、主が共におられることを信じ、その道のりの中で主に拠り頼んで暮らしなさい、ということです。

それは、どんな道を歩むことになったとしても、その道の先は主の恵みあふれるご計画の目的にちゃんと結びついていると信じることでもあります。どんな道のりを歩んでいるとしても、主がともにい続けてくださるなら、この道は主のみこころの実現に必ずつながっていると信じて生きるのです。

3.主の支えと導き

最後に、どんな道を歩むとしても主に拠り頼んで生きるなら、主の支えと導きが与えられ、結果的に真っ直ぐ歩むことができます。

多くの人たちというか、ほとんどの人たちが自分の人生を振り返った時、その道のりは決して真っ直ぐではなかったと感じるのではないでしょうか。それこそ山在り谷在りであり、デコボコした道に何度躓いたことでしょうか。分かれ道も多く、時に道を迷ってしまったりもした。そんな感想を抱く人が多いかもしれません。しかも、曲がりなりにもイエス様を信じ、信頼して生きて来たつもりなのに、それでもこんな歩みだった、ということに、自分の信仰の足りなさ、神への信頼の不十分さを思い知らされているかもしれません。

主が私たちの道を真っ直ぐにしてくださるとはどういう意味なのでしょうか。

道案内を頼まれたとき、「この道をまっすぐ行って」と言うことがありますが、実際にはカーブがあったり、途中で信号があったりしますが、道なりに進んでいけば目的地に着きます。

箴言というのは、知恵文学と呼ばれていて、覚えやすさを優先して様々な比喩的な表現が用いられます。この道に関する比喩も同じで、道がまっすぐになるというのが、曲がりくねった山間部の山道を、山を削ったり、トンネルを掘ったり橋を架けたりすることで物理的に真っ直ぐにするみたいに、私たちの人生が一切の曲がりも角も谷間もなくなり、平坦で歩きやすい人生になるとまで言ってしまうと非現実的です。

それよりも、たとえ曲がりくねったり深い谷間に下ったり高い山の急坂を上るような道を辿ることになるとしても、その道はまっすぐ天の御国につながっています。神様の祝福と恵み、栄光に満ちた素晴らしいご計画の実現につながっている、と確信できるということではないでしょうか。ジェットコースターはあまり好きじゃないですが、ジェットコースターのようでもあります。急激に曲がったり上がったり下がったりハラハラドキドキですが、必ずゴールに着くと信じているので、人はお金を払ってでもそのスリルを楽しみます。この人生も確かに栄光と祝福に富んだゴールに必ず到着すると信じられるなら、私たちの歩みは真っ直ぐになります。主が信頼する者をそのように支え、導いてくださいます。

適用:主と共にある生き方

私もこれまで小さなことから大きなことまで、人生の道のりが思ったようにいかないこと、これで良いのだろうかと迷うことがありました。しかし、振り返ってみたときに、無駄に思えたり、がっかりするような経験であっても、それらも含めて、ちゃんと今なすべきことに結びつき、ここに導かれて来たなと実感しています。そして、それはこれからも続くのだろうと信じることができています。

人生に起こってくる様々な問題において、自分だけの小さな基準で何とかしようとするのではなく、心を開いて主のみことばを受け止め、心から主に信頼して歩む時、乗り越える知恵が与えられます。それだけでなく、主がともにいてくださるという安心感をもって生きることができます。どんな道のりの中にあっても、主と共にある生き方ができるのです。

先週は二人一組になってもらい分かち合いをしましたが、今日は私と皆さんとで対話をして皆さんで分かち合いたいと思います。

さきほどの証、そしてみことばを味わいながら、自分自身の人生の分かれ道、変わり目の経験を思い出したという方はどれくらいいらっしゃいますか。その時、どのようにして歩むべき道を選んだか、うまく行った人でも、少し後悔しているという人でもお話していただける方はいらっしゃいませんか。

祈り

「天の父なる神様。

今日は、二回目のファミリー礼拝を開き、このような形で礼拝を捧げることができ、またみことばを共に味わうことができて、心から感謝いたします。

どうぞ、私たちがどのような道を歩むとも、行く道すべてに主が共にいてくださり、私たちもまた主に信頼し、主が共にいて下さるものとして生きてゆくことができますように。主が私たちの道をまっすぐにしてくださいますように。人生の変わり目、岐路に立つときもみことばを土台に判断する知恵深さを与えてくださいますように。

イエス様のお名前によって祈ります。」

2025-08-17 一人ひとりを特別に

2025年 8月 17日 礼拝 聖書:詩篇139:13-16

 3週にわたって、子どもキャンプでお話しした内容を分かち合わせていただいておりますが、今日はその3回目、最終回ということになります。

キャンプ2日目のことでした。2回目のお話しが終わって、それぞれのお部屋ごとに、聖書のお話を聞いて分かったことや考えた事を子どもたちが話し合う時間がありました。その様子をぼんやり眺めていたら、ある部屋の先生が来て、子どもから質問があったので来て欲しいと言われました。行ってみると、低学年の男の子の部屋のグループでした。質問というのはこうでした。「神様はどうしてぼくたちのことを造ったの?」。

なかなか難しい質問ですが、それは3回目のお話につながるとても良い質問でした。神様のお考えのすべて、お気持ちのすべてを理解することはできませんが、聖書を通して知りうることがあります。今日はダビデの詩篇を通して、主が私たち一人ひとりを特別に造られことを学んでいきましょう。続きを読む →

2025-08-10 悲しみながらも愛する神

2025年 8月 10日 礼拝 聖書:イザヤ54:7-8

 先週に引き続き、子どもキャンプのときに「イエス様はぼくのことをどう思っているの?」というシリーズでお話した3回のメッセージをもとに、今日も聖書を味わっていきたいと思います。

さて、前回の箇所では神様が「遠くから」私たちに近づいて来て語りかけ、「永遠の真実の愛で愛している」と伝えてくださったことを見ました。今日は神様が「遠くから」語りかけてくださったということの意味合いを考えたいと思います。

「遠くから」という言葉でいつも思い出す場面は、13年前の震災の後、ちょうど東京に旅行中だった娘がなかなか帰ってこられず、二週間後にぎりぎり予約できた臨時の飛行機で帰って来られることになり、空港で出迎えたときのことです。こちらから近づいていくことはできませんが、到着ゲートの向こう側に姿を見つけ、荷物を受け取ってロビーで再会したときは本当に嬉しかったです。私たち親子を遠ざけたのは震災でしたが、神様と私たちを遠ざけるものはなんでしょうか。続きを読む →

2025-08-03 私たちを喜ばれる神

2025年 8月 3日 礼拝 聖書:エレミヤ31:1-4

 先週の日曜日から火曜日にかけて、岩手と秋田の合同の子どもキャンプがありました。久しぶりに子どもたちのための聖書のお話をする機会を与えていただきました。それ以外の時間はひたすら一緒に遊び、とても楽しい時間を過ごすことができました。

今回のキャンプでは3回のお話をしましたが、その内容を3週にわたって礼拝でも分かち合いたいと思います。キャンプではゲームを入れたり、スキットといって短い劇を入れたりしましたが、礼拝の中では再現しにくいので省きますが、内容は同じです。

今回の3回のお話の共通テーマは「イエス様はぼくのことをどう思っているの?」というものでした。神はどのようなお方か、どんなご計画をもっておられるのか、神の力とはどのようなものか。そうしたことを理解することは大事なことではありますが、神はなんといっても人格的な存在です。神様が私たちのことをどんなふうに感じ、思っておられるかを知ることは、私たちの心にとってとても重要なことです。

1.苦難の時でさえ

第一に私たちが苦難に直面するときでさえ、そこに神の恵みを見出すことができます。

エレミヤ書が書かれた時代、イスラエルの王国はまさに崩壊し、アッシリア帝国に捕囚として連れ去られるという事態に直面していました。それはもう警告ではありません。

しかし神はエレミヤを通して、そうした厳しい時代に生きる民に、やがてもたらされる回復を告げ慰めを与えようとしています。31:1でその回復の時には「わたしはイスラエルおすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる」と、神と民とは全く一つとなり、その絆が揺るぎないものとなることを約束されました。

しかし、回復までの間、アッシリアのとの戦争を生き延びたイスラエルの民は荒野に行かなければなりません。それは、文字通りの砂漠に放り出されるということではなく、アッシリアに捕囚となることを指しています。それは厳しく、希望のない状況であり、飢え渇きが待ってる状況です。

しかし主はそんな捕囚の時代を単に罰や苦しみとしてではなく、神の恵みを見出すとき、休みを得るときだと語りかけます。

なぜそんなことが言えるのでしょうか。戦争に敗れ、国が滅び、住み慣れた家や街を追われて、奴隷ではないとしても知らない土地に連れて行かれます。そこまでの数ヶ月の徒歩での移動は命がけです。生き延びられたらラッキーです。たどり着けたとしても、言葉も文化も違う土地でゼロから生活を立て直さなければならない。なぜそれを神は、恵みを見出し、休息を得る時だと言われるのでしょうか。

それは、荒野に放り出されるような経験こそが、イスラエルの民がそれまでの歩みの中で見失っていたものを取り戻す時だからです。

「情緒的に健康な教会を目指して」という書籍を書いたスキャロゼというアメリカ人牧師がいます。彼はニューヨークで急成長している教会を牧会し、注目を集めていました。しかし、教会の分裂や夫婦の危機を経験します。その経験の中で自分自身の心の奥底にあった情緒的な未熟さと向き合うことになり、本当の意味でイエス様の弟子となる道のりを歩み始めました。まさに荒野の経験が神の恵みと真の安息を得る時となったのです。

私たちの人生にも時々、そうした荒野の経験を通らされます。その時、気付かされる自分の弱さ、未熟さ、心の傷といったものを見なかったことにして誤魔化したりしないで、神様の前で正直に、きちんと向き合うなら、神様の大きな恵みに気付き、知らず知らずに自分を縛っていたものに気付かされ、何より自分で自分を縛っていたことに気付かされ、解放され、本当の意味での安息を得ることができるようになります。

間もなく、私も倒れて2年になります。昨年、カウンセリングでお世話になった先生とせん妄の中で見た夢や幻の内容について話しをして、非常に短時間のうちに、自分の過去や抱えて来た傷、コンプレックス、それらゆえに身につけてしまった考え方や行動の良くないパターンなんかを見せつけられ、直面する経験だったのだなと思わされました。私にとっての荒野の経験でしたが、確かに恵みを見出し、真の安息に結びつく経験になったと実感しています。

2.遠くから呼びかけ

第二に、イエス様は遠くから私たちに愛していると呼びかけてくださいます。

「イエス様は僕たちのことをどう思っているの」というテーマを考えるために、子どもたちとこんなゲームをしました。皆さんも想像の中でやってみてください。

二人一組になって向かい合います。15秒間、相手について何か考えます。何でもいいです。時間になったら、それぞれ相手が自分について考えたことについて3回以内で当てるというゲームです。40人くらいの子どもと大人がいましたが、1回で当てられた人はいませんでした。2回目、3回目で当てられたという人が数名いましたが、ほとんどは相手が何を考えたか当てられませんでした。

イエス様が私たちのことをどう考えているか、どう思っているかは、当てずっぽうでは分かるものではありません。イエス様が語ってくださることに耳を傾ける必要があります。

もう20年以上前に「世界の中心で愛を叫ぶ」という恋愛小説とそれもとにした映画やドラマが大ヒットして「セカチュー」という言葉が世の中を駆け巡りました。

しかし主は、世界の中心ではなく、遠くから呼びかけ語りかけてくださいました。その言葉に耳を傾ける必要があります。主は「あなたがたを永遠の愛をもって愛し、真実の愛を尽くし続けている」と語りかけてくださいます。

なぜ遠くからなのか、という話しは次週のテーマなので今日は省きますが、こんな場面を想像してみてください。幅の広い道路の向こう側に友だちがいます。一生懸命手を振り、名前を呼びます。一瞬こちらに気付いたように見えましたが、ふっと視線を外します。どんな気持ちになりますか。どんなことを考えますか。たぶん、心が傷付き、あれ友だちじゃなかったのかな。嫌われているのかな、なんて不安になったり悲しくなったりするのではないでしょうか。

一方、同じような状況で、逆にこちらが友だちの存在に気付いていないときに、相手のほうが先に気付いて遠くから名前を呼んで走り寄って「いやあ久しぶり、元気だった?」と声を掛けてくれたら、とても嬉しいのではないでしょうか。

子どもキャンプの時、スポーツミニストリーをしている金さん、まどかさんと7年ぶりに再会しました。目が合った瞬間、笑顔になって「お会いしたかったです~」「あのときはめっちゃ祈ってました」なんて言って貰えて本当に嬉しかったです。

遠くから主が私たちのほうに近づいて来て主が伝えたかったこと。それは、永遠の愛、真実の愛で私たちを愛しているということです。神様にとって、私たちの存在は、遠くから近寄って「愛している」と伝えるほどに大切な存在なのだということです。子どもキャンプの子どもたちにお話ししたことは、イエス様にとって私たちはとても嬉しい存在なのだということです。

待ち望んでいた赤ちゃんが生まれたときの喜び、家に帰ったときにそこに居てくれるだけで嬉しい気持ち。成長の段階ではいろいろありますし、大人になれば生活の場所が離れることもありますが、それでも「ただいま」と言って帰ってきてくれることの嬉しさ。主は私たちの存在を喜び、愛してくださっています。エレミヤを通してそれを伝えたかったのです。

3.御国の建設

第三に、ここは子どもキャンプでは話さなかった部分ですが、私たちの存在を喜び、永遠の愛、真実の愛で愛してくださる主は、私たちを神の御国として建て上げてくださいます。

小さい赤ちゃんは存在自体が私たちの喜びであり、その仕草一つ一つが愛おしいものです。時には、この可愛らしい姿のままでいてくれたらいいのにと思うほどです。しかし、実際に愛情をもって子育てをしている親が願うのは、すくすく成長して幸せになってくれることです。

神様も、遠くから私たちのほうに近づいて、永遠と真実の愛で愛するとおっしゃってくださいますが、言葉をかけるだけではありません。

主はエレミヤを通して約束されました。「おとめイスラエルよ。再びわたしはあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び踊る者たちの輪に入る。」

直接は、これから捕囚となって荒野の経験をすることになるイスラエルの民が、再び集められ、祖国を取り戻す約束のように読めるのですが、少し違和感もあります。「おとめイスラエル」という呼び方に違和感を感じるのです。

「おとめ」とは未婚の女性という意味なのですが、預言者たちはむしろ、イスラエルを夫を裏切った妻に喩えて非難してきました。例えば、預言者ホセアは、何度も夫を裏切り浮気を繰り返す妻としてイスラエルを描きました。それなのに、今まさに捕囚の民となっていくイスラエルをまるでシミも汚れもない者であるかのように「おとめイスラエルよ」と語りかけるのです。

それは、捕囚という荒野の経験を通して神の恵みを見出し、真の安息を経験した民を主ご自身がキリストによって贖い、罪を赦し、汚れのない者として受け入れてくださることを予感させます。

そのようにして生まれ変わった民を、建て直し、喜びの踊りの輪に加えてくださいます。その実現はいつのことなのでしょうか。この約束が部分的に成就したように見えるときは何度かありました。ゼルバベルに率いられて捕囚からエルサレムに帰り神殿を再建しました。ネヘミヤに率いられてエルサレムの城壁を再建しました。エズラによって再び聖書が読まれ祭が祝われたこともありました。

それらは神の約束が確かであることを指し示してはいましたが、約束の成就は、やがておいでになるキリストを待たなければなりませんでした。彼らは再び国を失い、ギリシャやローマの支配下に置かれ、独立を果たすことなく、ローマ帝国によってエルサレムは再び破壊されます。

その代わり、キリストによって始まった神の御国がローマ帝国中に拡がり、全世界へと拡大していきました。主がエレミヤを通して約束されたイスラエルの民の再建というのは、国家としての再建ではなく、約束のキリストによって建てられる神の御国なのです。民族としてのイスラエルの民、ユダヤ人だけでなく、イエス様を信じる全ての人たちがイエス様によって結ばれ、神の家族として世界中のあちこちに建て上げられることを通して神の御国は建て直されていったのです。私たちの存在を喜び、永遠の真実な愛で愛してくださる主は、私たちを教会の交わりと働きの中で、新しい神の民として育み、建て上げてくださるのです。

適用:私たちを喜ぶ方

今日は子どもキャンプでお話ししたことを分かち合って来ましたが、実は初日のお話のときに、もう一つゲームをしました。はじめのゲームは二人一組でしたが、二つ目は前を向いて目をつぶり、自分の前にイエス様がいることを想像し、そのイエス様が僕たち、私たちのことをどう思っているか考えてみましょう、というものでした。分かる人はいますか?と聞きましたが、ほとんどの子どもたちは答えられませんでした。しかし、キャンプの最終日、それぞれがキャンプの感想を書いて発表する時間があったのですが、その中で聖書のお話で心に残ったことも話してくれました。そして、多くの子どもたちが、イエス様が永遠の愛で愛してくれること、遠くからかけよって愛してくださること、イエス様がぼくたちを喜んでくださっていることを挙げてくれていました。遊び疲れて眠そうにしている子たちもいたのですが、ちゃんと聞くべきところは聞いていてくれたんだなと、とても嬉しくなりました。

主は私たちの存在を喜んでおられます。まるで生まれたばかりの赤ん坊を存在自体をただ喜ぶように、そしてその子を一生掛けて育て上げ、幸せにすると誓うように、神様は私たちのために文字通りいのちをかけて愛してくださり、私たちを成長させ、一人ひとりを結び合わせて神の家族とし、神の御国として建て上げてくださいます。神様はそのようなお方なのです。

しかし、イエス様が私たちをそんなふうに喜んでくださる、ということを教えとして理解することと、私たち自身の経験として感じ取ることは別のことです。

ある人にとっては、主がそんなふうに私を愛して下さる、喜んでくださる、ということを、聞いただけ、ああそうなんだとすぐに感覚的に分かりますが、ある人は、イエス様がそんなふうに思ってくださるということを頭では分かっても実感としてはなかなか感じ取れないという人もいます。それは信仰の深さや理解度の問題ではありません。

おそらく私たちがイエス様の愛や、神様が私たちの存在を喜んでくださるということを最初に感覚的に知るのは、イエス様を信じている人たちを通してです。先にクリスチャンになった人が私たちを喜んで迎え入れてくれたり、愛を表して下さることを通して神の愛を知るようになりました。それはこれからも同じです。

昨日、古い知り合いの証を読ませていただきました。自暴自棄になって大やけどを負ったり、無茶な生活をしていたときにも、根気よく関わってくれた宣教師や牧師夫妻を通して神様の愛と忍耐を深く知るようになっていったことが書かれていました。

存在自体を喜ぶとか真実に愛するというのは、人格的な関わりを通してしか伝わらないものです。人間ですから、好きになれない人、どうしてもソリの合わない人はいます。もちろんイエス様がしてくださったように、などとはとてもじゃないけどできませんし、そのことで思い悩んだり、不満を感じたりもします。私たちの愛は不完全で、もしかしたら人を選んでしまうところがあるかもしれませんが、それでも、諦めずに、互いを喜び、愛することを求めていきたいと思います。不完全でも主の助けをいただきながら、お互いの存在を喜ぶことで、神の愛や喜びがただの教えではなく、手触りのあるものとして感じられるものになっていきます。

祈り

「天の父なる神様。

あなたと、御子イエス様が私たちの存在を喜び、永遠の真実な愛で愛してくださる方であることを感謝します。またあなたが私たちを育み、結び合わせ、建て上げてくださることを感謝します。

私たちは時として心が狭く、頑なで、イエス様の愛や私たちへの喜びが感じ取れなくなる者です。そのような時に、主にある兄弟姉妹の愛の交わりを通して互いを喜ぶことで、神様の愛を思い起こすことができますように。イエス様のような愛がないことに失望したり、諦めたりすることもあります。忍耐強く愛してくださるあなたの愛を思い起こすことができますように。

不完全ですが、あなたの助けによってお互いを喜び、愛する者としてください。

イエス様のお名前によって祈ります」

2025-07-27 本当の自分になる

2025年 7月27 日 礼拝 聖書:得てろ第一2:2-10

 10代の半ば頃から青年時代にかけて、よくあることではありますが、自分が何者か、本当の自分が何なのか良く分からなくてずいぶん悩みました。

成長の段階で誰もが通る道ですが、それに加えて信仰と生活の問題が悩みを複雑にしました。教会にいるときの自分の姿とそれ以外の場所での自分の姿に一貫性がないことをいつも感じていて、どっちが自分の本当の姿なのか、本当の気持ちは何なのか、考えても分かりませんでした。状況に応じて自分は動物だと言ったり鳥だと言ったりして結局どっちからも仲間はずれにされるコウモリの童話が自分のことのように思えて仕方がありませんでした。

同じような悩みを持ったことがあるでしょうか。悩みとして感じていなくても、自分の生き方と信じていることがちぐはぐだなと感じることはあるかもしれません。今日は迫害の中にあったクリスチャンたちに宛てたペテロの手紙から本当の自分になることにるいて学んでいきましょう。続きを読む →

2025-07-20 収穫のための働き手

2025年 7月 20日 礼拝 聖書:マタイ9:35-10:1

 今日の箇所では「働き手を送ってくださるように祈りなさい」というイエス様の有名な勧めがありますが、「働き手」とは誰のことでしょうか。牧師が高齢化したり突然亡くなったり、どこか他の働きへと向かったために新しい牧師が必要になった、そんな時にこの箇所が読まれ、「祈りましょう」というふうに用いられることが多いのかなと想像します。

しかし、神学校の校長という役割を与えられ、日本や世界の神学校の置かれた状況を知るにつけ、このみことばを単に次の牧師や宣教師を与えてくださいという意味に捉えたのでは、おそらく失望する教会やクリスチャンが少なからずあることを痛感させられます。必要に対して牧師を目指す神学生は圧倒的に足りていません。

「働き手」を牧師や宣教師のような人たちに限定することはイエス様の本来の意図だったのでしょうか。確かに、この祈りの教えの後で12使徒が選ばれた話しが出て来ますが、どういうことなのでしょうか。続きを読む →

2025-07-13 あわれみ深く

2025年 7月 13日 礼拝 聖書:ルカ6:36-42

 イエス様の教えは一見すると普通の道徳的な教えとあまり変わりないように思えることがあります。慈悲深いこと、気前良く与えること、人のことをあれこれ言う前に自分のことをちゃんとすべきこと。今日の箇所の教えは表面的に読めば、そういう道徳的な教えとして読めなくもありません。

他にも、聖書では夫婦、親子、教会の兄弟姉妹同士、隣人との関係など人間関係に関する教えが割合多くあります。しかし人には優しくしなさいとか、夫婦は仲良く、ケチケチしないで、隣近所とは良い関係を保ちなさいなど、わざわざイエス様が教えなくたって、半ば常識のように語られています。時には「キリスト教も同じように教えるんだね」と驚かれたりするとちょっと拍子抜けすることがあります。どうしてイエス様はそのような教えを残したのでしょうか。今日の箇所は「平地の教え」と呼ばれている一連のメッセージの一部ですが、まずは語られた状況からイエス様の意図を探っていきたいと思います。

1.イエス様の弟子として

今日の箇所を含む一連の教えは6:17から6章の終わりまで続きますが、内容がマタイの福音書の「山上の説教」と似ていて、よく比較されます。それで、17節に「山を下り、平らなところにお立ちになった」という記述から「平地の説教」と呼ばれています。

このお話がどういう状況で語られたかを見ていくと、直前の12~16節で「十二使徒」を選ぶ場面が描かれています。イエス様が一晩中山の上で祈り、夜明けに弟子たちの中から12人を選んで「使徒」と呼び始めたのです。それから山を下りて、待ちわびていた群衆がいる中で、弟子たちに語り始めたのが今日の箇所です。

さらにもう少し視野を広げて、十二使徒を選ぶ前の箇所、6:1~11を見てみましょう。ここでは安息日に麦の穂を摘んで食べ始めた弟子たちや、イエス様が右手の悪い人を癒したことを「律法違反だ」と咎める律法学者たちやパリサイ人の批判と、それに対するイエス様のやりとりが描かれています。

律法学者は聖書の専門家で、人々を教える立場にありましたし、パリサイ人はその律法を厳格に守ることで神の国の到来を早めようと、人々を教え導くことが使命だと燃えていました。しかし、彼らのやっていることは律法を規則として捉えることで人間への優しさも神への畏れも、神が持っておられる憐れみも見失っていました。

そこでイエス様は、神様の教えの本来の意味をしっかりと捕らえ、人々を教え導く新しい指導者として使徒たちをお立てになったのです。彼らの周りにいる救いや癒やしを求める大勢の人々は、これから彼らが教え導く必要のある人たちです。その人たちが見守る中で、イエス様は弟子たちに、「あなたがたはわたしの弟子として、他の人々を導く役割があるから、こう考えなければならないよ。こういう生き方をしなければならないよ」と教えたのが、この平地の教えなのです。

では、使徒ではない私たちは、イエス様のこれらの教えをどう読んだら良いのでしょうか。関係ないと無視していいのでしょうか。もちろんそんなことはありません。

イエス様を信じてクリスチャンとなった私たちは、その存在がすでに福音を現す存在になっています。

クリスマスにやるキャンドルサービスを思い起こしてください。隣りの人からロウソクの火をうつしてもらって自分のロウソクに火がついたら、それがどんなに小さな火であろうと、周りを照らし始めます。積極的に別な人に火を渡そうとすればどんどん明かりは拡がっていきます。しかし、たとえ誰にも火を渡さなかったとしても、その小さな火は、確実に周りの闇に光をもたらし、影響を与えます。

私たちの存在が、私たちの子供、家族、友人、隣人に意図せずとも影響を与えます。良い影響である可能性もありますが、律法学者やパリサイ人たちのように悪い影響を与える可能性もあります。

教会の中では、自分の次の世代のクリスチャンたちがおり、私たちの姿を見ていろいろなことを学びます。私たちの振る舞い方、考え方、祈る言葉、良くも悪くも影響を与えます。家庭の中で子供や孫には何を遺せるでしょうか。委ねられている役割の重さ、与えられた責任の大きさを考え、良いものを次の世代に残すためには、イエス様が弟子たちに語ったことに耳を傾ける必要があります。

2.寛容であること

さて、今日の箇所でイエス様は最初に言われました。「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。」

あなたがたの父とは、父なる神様のことです。イエス様は私たちの行動を通して、神様の憐れみ深い性質を表すようにとおっしゃっています。そしてこの憐れみ深さは、同情心が強いとか、共感能力が高いといった、内面的なことではなく、人々の罪や必要に対して広い心で接すること、寛容であることを指しています。

37~38節では、さばいてはいけない、人を不義に定めてはいけない、気前良く与えなさい、と命じられています。

これらの教えは何を言わんとしているのでしょうか。今、山の麓でイエス様と弟子たちの周りにいる大勢の群衆のように、これから弟子たちが実際に関わり、福音を伝え、みことばによって導かなければならない多くの人たちは、たくさんの問題を抱え、間違いを犯しているはずです。そういう人たちに対して、律法学者やパリサイ人たちのように、「それは罪だ」「それは間違っている」と指摘するのは簡単だし、それを直さないと仲間に入れないとか、そんなことをしたら仲間から追い出すと言ったら、強い指導者のように見てもらえるかもしれません。けれども人の罪を指摘し、時には軽蔑すらすることで、その人が良くなることは滅多にありません。

もちろん、罪の問題は放って良いことではなく、扱わなければならなりませんが、キリストの弟子としてまずすべきは、父なる神様がそうしてくださったように、まず赦し受け入れることです。

またイエス様と弟子たちの周りには貧しい人たち、癒やしが必要な人たちがたくさんいました。毎日毎日、助けをもとめてひっきりなしにイエス様のところにやって来ました。弟子たちは時々苛立って、小さい子どもたちが集まって来たりすると「子供はあっち行ってなさい」と追い払おうとしましたが、イエス様は誰でも受け入れ、休む間もなく力を分け与えました。

しかし律法学者やパリサイ人たちはどうだったでしょう。人が見ている前では高額な献金をしましたが、一方で年老いた両親への経済的支援は、「ささげ物になりました」と宣言することで回避できる抜け道を作りました。譬え話の中に出てくる祭司やレビ人のように、強盗に襲われ死にかけている人を見かけても、汚れを移されたくないという宗教的理由から自分の手を汚さない、そんな貧しい発想しか持てませんでした。しかし、キリストの弟子であるあなたがは、惜しみなく与える者でありなさいと教えておられます。

もちろん、私たちは無限の力を持っている者ではないので、際限なく求めに応え続けることは出来ません。肉体的にも精神的にも自分を守る必要があります。家族に犠牲を強いるやり方も良くありません。そうした注意は必要ですが、しかし、基本的なあり方として、自分に出来ることは喜んで与える、そういう者であるようにとイエス様は弟子たちに語っておられるのです。

人をさばかなければ、あなたがたも裁かれない。人を不義に定めなければ、あなたがたも不義に定められない。赦せば赦される。与えれば与えられる。気前よく与えれば気前よく与えられる。

自分が得をするためにそうしなさいということではなく、人を測る測りで自分も測られるものだという教訓です。

3.人のことを言う前に

次に今日の箇所の後半部分を見ていきましょう。39~42節です。イエス様が「一つのたとえを話された」とありますが、その譬えとは41~42節です。39節と40節はこの譬えで取り扱う問題について考えさせるための導入になっています。

イエス様の弟子たちはこれから人を導く立場になります。何も見えてない、分かっていない状態では人を正しく導くことが出来ないばかりか一緒に穴に落ちてしまいます。また、自分の先生のように教えることができるようになるためには、十分に学び、訓練を受ける必要があります。そこで求められるのが、謙虚に学ぶ姿勢です。

41~42節のたとえはまず身につけなければならない謙虚さであることをはっきり伝えています。人のことを言う前に自分のことを顧みて、謙虚に聞きなさいということです。

みことばによって人々を教えたり、罪を取り扱ったりするのは、他人の目のちりを取り除くようなものです。律法学者たちやパリサイ人たちが他人の目のちりを取り除こうとすること、つまり聖書に基づいて生活の指導をしたり、具体的に教えようとしたこと自体は間違ったことではありません。彼らの間違いは、自分の目の中にある梁を取り除かないままで他人の目のちりを取り除こうとしたことです。

イエス様のもとに病気を治して欲しいと集まって来た人たちに対して、できる限りのことをしてあげつつも、本当に救いを得たいなら、自分の罪と向き合い、神の前に悔い改める必要があるよと言わなければなりません。それはまさに他人の目の中のちりを取り除くことです。その生きずらさ、その見えにくさの原因は貧しさよりも、あなたのうちにある罪なんだと言わなければならないとき、それを律法学者たちのように、上から目線で「あなたは罪人だ」と指摘するだけだったり、助ける力があるのにあれこれ理由をつけて助けの手を差し伸べないなら、自分自身の目の中の大きな梁があるのです。それでは相手の目の中のチリを取り除くことができないばかりか、かえって目を傷つけてしまうことになりかねません。

だからキリストの弟子である使徒たちには、まず自分の中にある問題、欠点、間違い、罪に気付き認める謙虚さと、それを取り除いてくださいと助けを求め、教えてくださいと学ぶ姿勢を持ち続ける必要があります。

最近どこぞの知事が学歴を詐称していたのではないかと疑われていますが、その釈明というか弁明というのは本当に無意味で見ていて痛々しいというか、呆れるようなものでした。社会を良くしようという志で政治家を目指したのだと思いますが、そうであるなら自らの間違いにも正直であって欲しいわけです。素直に見栄を張りました、ご免なさいと言えば、それですべてが赦されるわけではないとしても、その人自身に対する印象はそこまで酷くならずに済んだのではないでしょうか。

他人の罪を指摘してばかりいる律法学者やパリサイ人たちも、イエス様の教えを聞いて自分の過ちに気付いて謙虚になっていれば、多くの人を惑わすこともなかったでしょう。けれどもこれは他人ごとではないというのがイエス様の教えです。あなたがたもまず自分の目の中の梁を取り除きなさい。自分の間違い、欠点、弱さに正直であること。それを認め、取り扱っていただく謙虚さが必要です。

適用:神のあわれみを証しする

ここまで見てきたように、イエス様が教えるクリスチャンの生き方には明確な目的があります。私たちの生き方、行動を通して私たちが何を信じ、何を希望としているかを表すということです。「それが正しいことだからしなければならない」という理屈はまさに律法学者たちの論理です。イエス様は弟子たちに、本当の救いがもたらす新しい生き方はそのようなものではないことを分からせる必要がありました。

今日の箇所で教えられている、寛容の教えには、神の哀れみ深さを表すという目的があります。私たちの振る舞いを通して、神様があわれみ深い方であることを証するためです。

神様が弱さや貧しさの中にある時、私たちに心を傾けてくださる方であること。悲しみに沈む時に慰めてくださる方であること。恐れたり心がざわつくときに平安を取り戻させてくださる方であること。罪ある私たちを赦し受け入れてくださる方であること。助けを求めるときに豊かに答えてくださる方であること。そうしたことを私たちは何度も経験してきました。そんな神様の憐れみ深さを、イエス様の弟子である私たちを通して表すのです。そうすることによって、私たちに託された福音は証され、また私たちの後に続く次の世代のクリスチャンや、私たちが教えることになる子どもたちや他の誰かに対しても、そのような信仰と生き方が受け継がれ、さらに次の世代へと受け継がれていくことが期待できるのです。

そうした点で、私は反省しなければならないことに心当たりがあり、後悔していることが幾つか示されています。

2年前に入院中に見た幻覚だか夢だか区別の付かない幻を見た中で、私の窮地を助けるために立ちあがってくれた若い人たちの中に、今は教会から離れている人たちが何人かいた、という話しをしたかもしれません。

もちろん幻の中での事ですから、彼らが本当にそう思っているかは分かりません。ですが、彼らが話してくれた教会に失望した理由の一つが、寛容さにかけた教会の態度にありました。本人たちの気持ちや事情に理解を示すより、罪だと指摘してしまう態度に失望したというのです。

そして現実世界の話しとして、確かにそういう態度を取ってしまったことがあることを思い出します。何かの罪の問題がたまたま明るみに出てしまっただけで、急にこちら側の態度がぎこちなくなり、よそよそしくなったり、端から「悔い改めるべきだ」という態度ばかりが強く出たり、場合によっては怒りのほうが先に出てしまって背後にある本人が抱えている苦悩にまるで思いが及ばず、神様の憐れみ深さはいったいどこに表れていただろうかと反省させられ、あの時この時の態度について後悔させられているのです。

旧約の知恵の書に「あなたは正しすぎてはならない。」という言葉があります(伝道者の書7:16)。自分が正しい側にあるかのようにして相手を非難したり、罪を指摘するのは相手を追い詰めるだけでなく、自分に返ってくるものです。誰もが多くの間違いを犯し、簡単には離れられない罪や悪い習慣があるものです。そんなの気にする必要は無い、皆同じだ、ということではないけれど、主があわれみ深く私たちを見て取り扱ってくださるように、私たちもまた人に対して寛容で、あわれみ深くありましょう。

祈り

「天の父なる神様。

いつも私たちに惜しみなく赦しと恵みを与えてくださり、ありがとうございます。

イエス様が言われたように、父があわれみ深いように、私たちもあわれみ深くあることができますように。他の人に対して寛容で、自分にできることについては出し惜しみせず、与える者であることができるように助けてください。

人の罪や問題について語る前に、自分自身の課題に気付き、へりくだらせてください。

私たちが寛容で気前よく与える者であることで父なる神様のあわれみ深さを表すことができますように。

イエス様のお名前によって祈ります。」

2025-07-06 自分なりの務め

2025年 7月 6日 礼拝 聖書:エステル記4:12-17

 私たちは誰もがユニークな存在です。日本の社会でユニークというと、変わっているとか、皆と違うというマイナスなイメージで使われることがしばしばあります。しかし、聖書の視点から人間を見ると、私たちは、神のかたちに似た者として造られた人間としての共通点を持ちながらも、一人ひとりは特別な存在としてこの世に生を受けました。

戦前から戦後への社会の激変を経験した人もいくらかおられますが、ほとんどが、戦後の民主主義、自由経済という価値観の中で生き、日本という世界でも珍しい文化の中で成長して来ました。しかし、私たちを形作ってきたものは皆独特です。生まれた家、親、受けた教育、経験して来たことはそれぞれ実に多様です。

そして一人ひとりがそうした異なった人生を送り、それぞれ独自のものを身につけて来たのは、神様が、それぞれの人に、その人なりに託したい務めがあるからです。今日はエステルを通して、自分なりの務め、ということについて学んでいきましょう。続きを読む →