2025年 6月 29日 礼拝 聖書:ローマ16:1-7
今日は***の証を通して、信仰に導かれたり教会の中で育まれたときに、神の家族としての教会、また教会に属する個々の家族がどんな役割を果たしたか、聴くことができたと思います。
今日は神の家族である個人や家族がいかに私たちの信仰の歩みに大きな影響を与えているか思い巡らしたいと思います。そのために今日開いているのは、ローマ教会に宛てた手紙の最後の挨拶のところです。続きを読む →
2025年 6月 29日 礼拝 聖書:ローマ16:1-7
今日は***の証を通して、信仰に導かれたり教会の中で育まれたときに、神の家族としての教会、また教会に属する個々の家族がどんな役割を果たしたか、聴くことができたと思います。
今日は神の家族である個人や家族がいかに私たちの信仰の歩みに大きな影響を与えているか思い巡らしたいと思います。そのために今日開いているのは、ローマ教会に宛てた手紙の最後の挨拶のところです。続きを読む →
2025年 6月 22日 礼拝 聖書:ヨハネ5:39-47
救いを求めているのに、救われているか確信が持てない。クリスチャンになったのに、どうにも充実した人生を送れている気がしない。クリスチャンがそうした症状に襲われることがあります。いったいどこに原因があるのでしょうか。
人間はそんなに単純ではないので、今日扱うことがすべての答えということではありませんが、多くの場合に当てはまる重要な問題を取り扱っているように思います。
今日の箇所でイエス様は、ユダヤ人たちに対して、あなたがたは永遠のいのちを得ようと探しているが、得られないとおっしゃっています。永遠のいのちを得ようと聖書に答えを探していたのに、得ることができなかった人たちの問題は、ユダヤ人特有にも思えますが、実のところ、それは誰にとっても課題となり得るものです。
そこで今日は、イエス様の言葉によって、永遠のいのちとはいったい何なのか、そして、永遠のいのちを得る方法と、それを邪魔する問題について見ていきましょう。
まず、永遠のいのちとはいったい何なのでしょうか。39節でイエス様は言われました。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。」
これは、イエス様を批判しているユダヤ人たちに対して言われた言葉です。事の発端は、ユダヤ人が宗教的理由から労働を禁止している安息日に、イエス様が38年もの間病気で歩けなくなっていた人を癒やし、横になってた床を取り上げるよう言ったことでした。
5章の前半にその事件が描かれています。今日は、詳しい説明はしませんが、有名な話しなので、ご存じの方もいらっしゃると思います。38年ものあいだ病気で苦しみ、彼を手助けする人が誰もいなかった人を癒やしたのに、それが安息日だからということで難癖をつけ、イエス様を迫害しはじめたのです。
イエス様は彼の病気をいやした後で、14節で彼を宮で見つけます。恐らく、感謝を捧げるために神殿に向かったのでしょう。そこでイエス様は、「あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません」と告げます。彼の病気は罪が引き起こしたものであった可能性があります。
イエス様が彼をいやしたということは、その罪を赦し、罪が引き起こした病から解放し、新しい生き方をするようにと招いてくださったということです。
今日の私たちのテーマである「永遠のいのち」を理解する鍵がこれらのことの中にあります。永遠のいのちは永遠に病気にならないとか、不老長寿のようなことではありません。イエス様のいのちに触れていただくことで、罪が赦され、罪が引き起こした悪しき結果から私たちを回復され、新しい生き方をするようにさせることです。
ヨハネ17:3ではイエス様が祈りの中で、「永遠のいのいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」とおっしゃっています。永遠のいのちは神とイエス様を知り、イエス様とともに生きること、神様との愛の交わりの中に居続けることです。その愛の交わりが私たちに赦しと回復、新しい人生をもたらし、喜びと希望を生み出すのです。
イエス様は、ベテスダの池にいた病人に、いやしを与えただけでなく、罪を赦し、新しい生き方をするように招いてくださいました。まさに永遠のいのちへと招いてくださったのです。ところが、それを見ていたユダヤ人たちは、38年も苦しんで来た病人が今まさに永遠のいのちへと招かれている事よりも、安息日のルールを破ったことで非難し、イエス様が神様を父と呼んだことに腹を立てました。その時のユダヤ人たちの攻撃の理由が18節に記されています。「イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。」
その非難に対してイエス様が延々とお答えになっているのが19節からで、その最後の部分が今日開いている箇所なのです。
その中でイエス様は、父なる神様がイエス様について証言しても、バプテスマのヨハネがイエス様について証言しても彼らは耳を傾けなかったと非難します。そして彼らは聖書を一生懸命学んでいたのですが、聖書もイエス様について証言しています。それでも彼らはその聖書の証言にも耳を貸さなかったのです。
40節でイエス様はユダヤ人たちに言いました。「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」
彼らが一生賢明調べていた聖書そのものが、イエス様こそが待ち望んだキリストであり、永遠のいのちに至る道であることを指し示しているのに、彼らはそれにも耳を貸さず、イエス様に求めもしませんでした。永遠のいのちを得ようとするなら、イエス様のもとへ行く必要があるのです。
今は大抵のことはネットで調べられる時代です。体の調子が悪いのが続いたら、その症状をもとにネットでいろいろ調べるという人も結構いるのではないでしょうか。すると、いろいろな病気の可能性が結果として出てきますが、ほとんどの場合「早めに医師の診察を受けましょう」という勧めが出てきます。知り合いに相談してみると、案外似たような経験をしている人もいて、やっぱり「病院に行った方がいいよ」と行ってくれるかもしれません。あらゆる証言が「あなたは医者に行くべきだ」と示しているのに、それでも医者嫌いだったり、仕事を優先したかったり、あるいは単にプライドの問題で、医者に診てもらうことを避けていたら病状はますます深刻になり、治療が難しくなっていき、場合によっては取り返しつかないことになります。
あらゆることがイエス様こそが救い主で、永遠のいのちを得たいならイエス様のもとへ行くべきだということを指し示しているのに、ユダヤ人たちはイエス様のもとへ行こうとしませんでした。
それどころか、安息日に病気を治したとか、布団を上げて帰るよう指示したというようなことを取り上げてイエス様を非難し、イエス様が父なる神様を自分の父と呼んだということで、難癖をつけて来ました。彼らはルールを振りかざして、人間の本当の必要である永遠のいのち、神との交わり、イエス様とともに生きることをないがしろにしました。
もちろん、私たちの文化の中には安息日には一切の労働を禁じるというようなことはありません。しかし、神様との交わりやイエス様とともに生きることより、キリスト教の伝統や習慣を守ることに夢中になったり、聖書で教えられてもいないルールをまるで道徳的な基準であるかのように思い込んでそれを守ることこそクリスチャンの生き方だと勘違いしていることがあります。
あるいは、日々の仕事や忙しさにまさに忙殺されて、神様との交わりやイエス様とともに生きているということを確認し、味わうための時間をおろそかにしてしまうことが結構あります。今、やっている神学校のクラスで、自分に与えられたライフワークを実現するために一年の生活のリズムや一週間のリズムをどう造るかという課題が出ました。ある先生は、一週間のリズムの中に、毎日のこの時間に聖書を読んで祈る時間を入れる。これを犠牲にして仕事をするようになると、赤信号なんだと、自分の経験からおっしゃっているのがとても印象に残っています。
私たちはイエス様のもとに行かなければ、イエス様のいのちに触れ、イエス様のいのちに満たされて生きることはできないし、そこにある喜びも希望も言葉だけのものになってしまいます。それは愛していると言いながら一度も会いに行かない人のようです。
しかし、なぜユダヤ人たちはイエス様のもとへ行かなかったのでしょう。あるいは、私たちが日々の暮らしの中でイエス様のもとへ行くのをおろそかにしている時、何が原因なのでしょうか。
イエス様は41節と42節でずいぶん厳しい指摘をしています。
「わたしは人からの栄誉は受けません。しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。」
ユダヤ人たちは神の定めた律法について語り、それを守ることに一生懸命で、守らない人を見つければ寄ってたかって非難しまいした。しかし、イエス様は彼らの本質を見抜いておられました。彼らは本当には神を愛してはおらず、彼らが求めているのは人からの称賛だったのです。
律法を忠実に守ることで神に認められるというふうに思っていたけれど、実際のところ律法を守ることで「あの人は立派だ」と人から褒められることに喜びを感じていました。
クリスチャンホームに育った子供が時々陥る問題にも重なる部分があります。聖書の教えや教会の伝統によって生きることを神様に対する愛のゆえに喜んでやっているというより、そうすることが親や教会の人たちを喜ばせるからやっていたり、そうすることで自分が安心できるからやっている、ということがあります。私も経験がありますが、そういうクリスチャンっぽい生活はほんの小さなほころびで簡単に壊れてしまいます。
しかしユダヤ人たちの問題は、神を愛すると言いながら実のところ人からの称賛を求めて生きていたので、神の名によってこられたイエス様を受け入れることができなかったことにあります。
他の誰かだったら、「誰々の使いで来ました」とか「○○の代理で来ました」と言えば、その人自身を迎えるかのような態度で迎えるはずです。しかし、本当には神様を愛していなかったから、神様がご自身の名によって遣わしたイエス様を受けれませんでした。それが彼らの問題の本質でした。永遠のいのちを求めていると言いながら、本当は別のものを求めていたのです。神を愛すると言いながら、彼らが愛しているのは誰かから褒められている自分でした。
もし、私たちが神様とともにあること、イエス様と共に歩むことの喜びや楽しさ、充実感を味わえていないとすれば、イエス様の方に問題があるとか、教会や聖書の教えに問題があるのではなく、自分が本当に求めているのが違うものだからなのかも知れません。
しかしイエス様のもとに行かずして、ただ欲しいものだけを訴え、追い求めて生きているなら、イエス様のいのちにあずかる喜びも希望も、充実感も得られません。ひょっとしたら頑張って欲しいものを手に入れるかもしれませんが、それは永遠のものではなく、やがて失われます。
イエス様を求めることは、健康のために食生活を改善し運動の習慣をつけなさいと言われるのに少し似ています。初めは必要だからと続けているうちに、健康が回復するにつれ、野菜そのものの美味しさに気付き、体を動かすことが喜びとなるようなものです。
私たちの心と魂が健康で、健全な生き方ができるためには、イエス様のもとに行く必要があります。しかし、だんんだんそれは必要だからという以上に、私たちの楽しみ、また喜びになるのです。
最初の問いに戻りましょう。救いを求めているのに、救われているか確信が持てない。クリスチャンになったのに、どうにも充実した人生を送れている気がしない。クリスチャンがそうした症状に襲われることがあります。いったいどこに原因があるのでしょうか。
今日の箇所でイエス様は、イエス様のところへ行こうとしないユダヤ人たちの問題を指摘しました。そして根本的には口では愛していると言いながら、実際には神を愛するより大事なことがあって、本当には神とともにある人生も喜びも求めてはいないということを明らかにしてしまいました。
これがすべてのケースの原因であるとまでは言えませんが、一度よく考えてみる必要のあることです。そして、イエス様のもとに行こうとしなければ永遠のいのちも、その喜びも受け取れないのはどんな場合でも当てはまる真理です。永遠のいのちはイエス様のうちにあるのですから、当たり前です。
そして神を愛することなしに、神の愛の素晴らしさを味わうことはできません。もちろん神様は私たちを一方的に愛し、私たちがどんなに神様に背を向けていたとしても、私たちのためにひとり子イエス様を犠牲にして備えてくださった救いを誰にでも無償で与えてくださいます。それはそうですが、もう一つの面として、神様のその愛の素晴らしさは、私たちも神様を愛してこそ分かるものです。愛とは本来そのようなものなのです。愛を知らなかった私たちが愛されることで初めて愛を知るのですが、他方で、愛することなしに愛されることの本当の素晴らしさを知ることはできないのです。
イエス様のもとに行って、神の愛の交わりの中に自分を置くことで、私たちははじめて永遠のいのちを味わい、喜びを知ります。
であるなら、いつの日にかの復活の望みだけを希望とするのではなく、今日、この日にイエス様のいのちによって生き生きとした歩みができるために、イエス様のもとに行かなければなりません。また反対に、イエス様のもとに行くことを妨げるような願い、求めのほうが優先されていないかどうか、自分自身の心の中や生活の仕方を省みてみる必要があります。
聖書的にはイエス様は私たちのところに来てくださったり、聖霊を通して私たちのうちにいてくださるのだけれど、私たちの心持ちとして、姿勢として、イエス様のもとに行くということを表す必要があるのです。
私たちに必要なのは、礼拝の時に、ここにおられる方としてイエス様を意識して礼拝を捧げ、賛美し、祈り、みことばに聴くことかもしれないし、日々の生活の中でイエス様のもとへ行くことを意識しながら聖書を開いたり祈ることかも知れません。
あるいはタラントのたとえに出てくる忠実なしもべのように、いつの日か帰って来られるイエス様を覚えて、与えられたものを賢く管理して生活を築くことかもしれません。
いずれにしても、それらを神様から受けた愛への応答としてやり続けるなら、イエス様との交わり、神様との交わりが生まれ、イエス様のいのちによって生きているという感覚を掴むことができるようになります。
ぜひ、せっかくイエス様が与えてくださった永遠のいのちですから、日々、味わい楽しめるまでにさせていただきましょう。
「天の父なる神様。
あなたは私たちを愛し、罪の赦しと、罪がもたらすあらゆる傷からの癒やしを与え、イエス様とともに歩む新しい人生へと招いてくださってありがとうございます。
どうぞ、私たちがそのような素晴らしい恵みを味わって、日々、イエス様のいのちによって生き生きと歩めるように導いてください。いつもイエス様のもとへと行く者としてください。
イエス様のお名前によって祈ります。」
2025年 6月 15日 礼拝 聖書:コリント第二 13:11-13
皆さんは、喧嘩別れしたままの友だちや仲間はいるでしょうか。次に会ったときにどんな顔をしたら良いか分からず、つい避けてしまったり、後味の悪さを引きずってしまうことがあります。
今日開いているコリント書は、第一と第二の手紙がありますが、それ以外にもパウロは手紙を書いたり、実際に訪問したりして、コリント教会にあった様々な問題に対処し、解決のための原則を教え、あるいは自分に向けられた非難について弁明したり、厳しく叱責したりしています。
そのようなやりとりは、真の和解や悔い改めがなされないととても後味の悪いものとなり、関係は遠くなってしまいがちです。そうしたことは、この世の人間関係では良くある事で、しかたがないと諦めがちなことかもしれませんが、パウロはそんなふうに簡単に諦めてはいないし、最後の最後まで、教会が一つであること、愛と平和に満たされていることを願って、手紙を締めくくっています。京はその最後の挨拶のところを見ていきましょう。続きを読む →
2025年 6月 8日 礼拝 聖書:ヨハネ14:15-19
今日はキリスト教のカレンダーによれば「ペンテコステ」です。ユダヤ教で「五旬節」と呼ばれている祭にあたりますが、イエス様が十字架で死なれ、復活された過越の祭から50日目にあたるこの日、イエス様が約束された聖霊がくだり、聖霊に満たされた弟子たちによって福音が世界に向かって語られ始め、教会が誕生したことを記念する日です。
ペンテコステは教会が誕生した日、と言われますが、その意味するところは会議を開いて教会を設立しようと決めたとか、ローマ帝国の承認を得られたとか、そういう組織としてのかたちの話しではなく、聖霊に力をいただいた弟子たちが福音を語り始めたということです。置かれた場所にあって福音を語り続けるのが教会のいのちです。その力を与えるのが聖霊なのですが、今日の箇所でイエス様は聖霊のもう一つの役割について語っておられるようです。
どういうことでしょうか。一緒に見ていきましょう。続きを読む →
2025年 6月 1日 礼拝 聖書:サムエル第一16:1-5
ダビデとヨナタンの友情の物語を読むと、ここまでの強い友情はなかなか得がたいなあと思わされます。
私自身の歩みを振り返ると、わりと自分から壁をつくってしまいやすいところがありましたので、こどもの頃から「友だち」と言える人たちはいても、あまり深い関わりは作らないでしまいました。今にして思えばもったいないことだなあとは思います。
それにしてもヨナタンの友情は、聖書の中でも飛び抜けているように思えます。いったいどういう意図でダビデとヨナタンの友情の物語は聖書の中に記されているのでしょうか。
今日は月一度の、年間主題にちなんだ箇所を取り上げる日ですので、友人となることによってどのような恵みの器になり得るのか、ヨナタンがダビデに示した友情からご一緒に考えてみたいと思います。今日お話することは、一般的な意味で友情とは何かとか、友だちとは何かではなく、友となることで神の恵みの器となることができること、その素晴らしさについてです。
聖書全体の流れを考えると、明らかに主役はダビデです。ヨナタンとダビデの友情関係は、ダビデが歴史の表舞台に登場してから、ヨナタンが父であるサウル王と共に戦死し、生き残ったヨナタンの息子をダビデが優しく迎え入れるあたりまでのことで、ダビデの物語の初期の数ページのことと言えます。
一人ひとりの人間の価値に違いはなくても、役割の違いはあります。そういう意味で、ダビデは神の救いのご計画が歴史の中で進められていく中で、間違いなく重要な役割を果たした人物です。アブラハムに対する祝福の契約はイサク、ヤコブへと受け継がれ、出エジプトの時代のモーセ、そして王国時代のダビデへと受け継がれていきます。約束の救い主はダビデの子孫として生まれることが預言者達によって明らかにされ、約束のメシヤ、キリストはダビデ王のように神の国を統治する王として来られることが告げられていきます。ですから、ダビデの時代から1000年くらい経って人の子としてお生まれになったイエス様の時代、人々は約束のメシアを「ダビデの子」と呼ぶほどでした。
そのようなわけで、主役のダビデに対して、ヨナタンは物語の途中で退場する脇役のような役割と言えます。繰り返しますが、脇役であることがその人の価値が低いという意味ではありません。ヨナタンは、彼の人生においては主役であり、彼もまた自分の人生を精一杯生きた人です。
そんなダビデとヨナタンが出会ったのは、ある有名な戦いの直後でした。サムエル記17章に描かれている、巨人ゴリヤテとの戦いにダビデがその辺で拾った小石で倒してしまうという出来事です。牛若丸が弁慶をやっつけたみたいな、痛快な出来事です。
ダビデは、神に対する信頼と恐れを欠いたサウル王の代わりに立てられる王として、すでに預言者サムエルから油を注がれるということはありましたが、まだ歴史の表舞台には出ていませんでした。
イスラエルはペリシテ人との戦いで苦戦していました。とくにゴリヤテという身長3m近くある巨人の兵士はやっかいでした。一騎打ちを求めるゴリヤテに誰もいどむ者がいないのを嘆いたダビデは、主を侮辱するゴリヤテは私が倒しますと言って、挑戦を受けます。戦場に出たこともない少年ダビデは兵士たちが身につける鎧兜がぶかぶかで体に合わず、いつも羊の群を連れて野に出る時と同じ格好でゴリヤテの前に現れ、狼やライオンから羊を守るために使う、投石器を使って、小石ひとつで見事にゴリヤテを倒してしまうのです。
ゴリヤテを倒したのは誰かと気になったサウルが調べさせたら、それがダビデでした。ダビデはすでに王の下で仕えた経験がありましたが、サウルはダビデのことを全然覚えていなかったのです。
将軍に連れられてダビデがサウル王のもとに来た時、そこにサウル王の息子ヨナタンもいました。
王とダビデの会話を聞いていたヨナタンですが、18:1にあるように、ヨナタンの心はダビデの心と結びつきました。ヨナタンは「自分自身のようにダビデを愛した」という表現は何度も繰り返し登場します。近年、ある人たちはこの言葉に同性愛的なニュアンスを読み込もうとしますが、まったくそういう意味ではなく、ヨナタンの自己犠牲的な愛として表れる友情を表現しています。
さて、ダビデを気に入ったサウル王はその日、自分のもとに置くことにし、家に帰しませんでした。
一方ヨナタンは、ダビデへの友情を3節にあるように「契約」という形で表しました。そして、自分の上着、鎧兜、剣、弓、帯といった武具までもダビデにプレゼントしました。着ている上着をプレゼントするなんて、現代人の感覚からするとピンと着ませんが、一国の王の息子、つまり王子が着ていた最上級の上着をつい昨日まで羊飼いとして生活していた若者にプレゼントするなんて、あり得ないことですから、どれほどヨナタンがダビデに心を許し、また友情を示したいと思っていたかが表れています。
ところで、私たちには友だちになるのに契約という言葉が出て来るのに違和感を覚えるかも知れません。最近では結婚する時、夫婦間で契約を交わしておくというカップルがいるそうですが、そういうのでしょうか。現代の契約はほとんどがリスク回避です。離婚した場合の財産分与や親権の問題で無用なトラブルにならないようにとか、将来訴訟になりかねないことを最初から決めておくという、いかにも現代的な感覚です。
しかしヨナタンがダビデと結んだ契約は、契約文書があったわけではなくても、昔ながらの、相手に対して誠実を尽くすという約束です。子どもたちが「今日から友だちになろう」という素朴な約束の延長線にある、シンプルで、利己的な思いのない約束です。
ここでは具体的に約束の内容は書かれていませんが、ヨナタンが実際にダビデに対してした行動を見ていくと、その内容は、ダビデがいかなる状況にあっても味方でいること、また危機に陥った時はいのちをかけてでも支え、助けるという約束であったようです。
ヨナタンは意識していなかったと思いますが、このような約束を伴った友情が、実際に神のご計画で大きな役割を果たすダビデを支えることになり、神のご計画の前進にヨナタンは重要な役割を果たすことになるのです。しかし、彼の心にはダビデに対する友情しかありませんでした。
国民や兵士たちの間でダビデの人気が高まっていくについれ、サウル王の嫉妬が最高潮に達し、自分の立場が危うくなるのではないかと恐れるようになりました。19:1ではサウルがダビデを殺すと王宮で宣言までしています。それでヨナタンはダビデに忠告し、またサウル王に思いとどまるよう説得し、危機を回避します。
ダビデはサウルの王宮では近親者もいませんし、信頼できる人もいませんでしたからヨナタンが友でいてくれることは大きな励ましであったに違いありません。そして、実際ヨナタンは何度もダビデを助けます。
20章では、いよいよサウルの疑いと恐れが強くなり、ダビデのいのちを狙い、それが本気であることを確かめ、逃がすためにヨナタンは一芝居打ちます。20:41~42では二人の別れの場面ですが、どれほど互いを大切にしていたかが分かります。そして二人の友情の柱となっていたのが、主に対する信仰であり、主の前での誠実さであることが分かります。ヨナタンは、王宮内で頼る者のいなかったダビデの友となり、ダビデが危機に陥った時には我が身を省みずに助けの手を差し伸べました。そうして、意図せずして、神のご計画が果たされていくために大きな役割を果たすのです。
ヨナタンとダビデの友情に見られるもう一つの特徴は、どちらかというとヨナタンにとってメリットの少ない関係だったということです。というのは、ダビデはすでに預言者サムエルを通してサウル王に代わる次の王として神様に指名され、そのことを表す油注ぎという儀式を受けていました。普通だったらサウル王の後を継ぐのはヨナタンですから、言ってみればダビデはサウル王の跡目を争うライバルであったのです。
20:30~31を見てみましょう。サウルがダビデに対する疑い、恐れ、怒りが頂点に達し、それでもダビデをかばおうとする息子ヨナタンにも怒りをぶつける場面です。
この中で、サウルはひどい妄想にも捕らわれていることも見て取れますが、ヨナタンがダビデと友人であることは認識していて、それにも腹を立てています。そして、31節で、「エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も確立されないのだ」と指摘します。主がヨナタンではなく、ダビデを新たに王に立てようとしていることをサウルは知っていましたが、それでも息子に王位を譲ることを諦めていませんでした。もしかしたら、ヨナタンにはもっと王位を継ぐという意思を強く持って貰いたかったのかも知れません。自分の王位より、友情を優先するヨナタンに、そしてそこまで肩入れさせるだけの魅力があるダビデに腹が立って仕方がなかったのかもしれません。
ダビデとの友情を優先し、ダビデの味方になればなるほど、父との関係は悪化し、自分の王位継承の可能性はどんどん小さくなっていくとしても、ヨナタンはダビデを守ろうとしました。
少し戻りますが、20:13を見てみましょう。「主が父とともにおられたように、あなたとともにおられますように」と言っています。ヨナタンは、ダビデが次の王になることが主のみこころであることを理解していました。そして、このままサウルが抵抗を続ければ、血が流れる争いになってしまう展開も予想されます。父との交渉がうまくいかなければ自分の命も危ういことを覚悟していたことが14節から読み取ることができます。それで、ダビデには自分が死んだ後、ダビデに敵対する者が皆滅ぼされるような事態になっても、自分の家族を守って欲しいとダビデに頼み、このことについて改めて約束を交わすのでした。
しかし父サウルにつくより、ダビデについたほうが、自分の家族にとって得策だと、そういう打算的な思いからダビデと友人になったわけではないし、父サウルを見捨てたわけでもありません。事実、ダビデがサウルの手を逃れた後も、ヨナタンは息子として父を助け、宿敵ペリシテ人との戦いで戦死するまで一緒に戦うことで、誠実を尽くしました。
ヨナタンにとってはダビデと友だちになったからといって何か特別に得したことはありませんでしたが、そんなことのために友だちになったのではなかったのです。もちろん、聖書には書かれていないので分からない部分はありますが、主がダビデを王にしようとされていることを知り、彼のうちにある主に対する信仰に引き寄せられ、共感し、たとえ自分が王になれなくても、主が選ばれたダビデならば国を良くしてくれるに違いないと信じたのではないでしょうか。
さて、今日はヨナタンがダビデの友としてどのように振る舞い、生きたかをざっと見て来ました。
ヨナタンが戦士したことを聞いた時、ダビデはヨナタンのために歌を歌い、それからしばらく戦いが続きますが、王位が確立した時に、ヨナタンとの約束を果たすための生き残っているヨナタンの家族を探します。そして、彼の息子でメフィボシェテという足の悪い人が生き残っていることを知ります。ダビデはヨナタンのゆえにメフィボシェテを王宮に招き、彼にサウルの土地をすべて返し、家族のようにいつも食卓をともに囲むようにさせるのです。
これらの出来事は美しい友情物語として、あるいは伝説的な王となったダビデの若き日の青春の一ページのエピソードとして、話しを盛り上げるために書かれたわけではありません。
本来なら王位継承者として、次の王となるべく自分の地位を固め、王として民を治める能力や兵を率いることに邁進していたはずのヨナタンが、主のみこころを知った時に、父サウルのようにダビデの行く道を邪魔しようとするよりも、むしろ友となって支え、助けようとしました。その忠実さ、誠実さに対して、ダビデはあの約束を覚えていて、ちゃんと応えようとしました。
ヨナタンもダビデも互いに自ら相手の友となり、いのちがかかっても、あるいは友が亡くなった後も、その友情に、友との約束に忠実であろうとしました。そうした友情が、神様の救いのご計画のために大いに用いられました。ダビデは王とされ、その子孫の中から救い主が誕生する先祖として、神の恵みの器として用いられたのですが、そのような人の友となることもまた、神の器として用いられる道であったのです。
今月のみことばにあげた箴言にはこう書かれています。「香油も香も心を喜ばせる。友の慰めは自分の考えにまさる」。
香料のようなものでなくても、花の香り、太陽の匂い、珈琲やお茶の香り、人によっては柔軟剤の香りとか、気分をリフレッシュさせてくれるものは様々ありますが、友の言葉、友の存在は、魂の深いところから、単に元気づけるというより、私たちの思いや考えを新たにする力を持っています。
もちろん、私たちは誰かからそういう言葉をかけて欲しい時があり、そういう存在がそばにいてくれたらと願うことがあります。しかし、律法の専門家がイエス様に「私の隣人とは誰ですか」と尋ねたとき、良きサマリヤ人のたとえをお話になってから、「あなたも…同じようにしなさい」つまり、あなたが自分の方から誰かの隣人になりなさいと言われました。誰かが友だちになってくれないかと待っているのではなく、あなたが友を必要としている人の友になりなさいということです。
私たちの周りにいる人たちはだれもが、神の恵みの器としてそれぞれ役割があります。もしかしたら、私たちは、その友となることによって私の役割を果たせるのかも知れません。
だれかが友になってくれないかと待っているより、自分から誰かの友になろうということは、勇気も必要かもしれませんが、きっと神様はそのような信仰と勇気を喜び、豊かな祝福を与え、思いもかけないようなみわざをなしてくださることでしょう。
「天の父なる神様。
ヨナタンのダビデに対する真実で誠実な友情が、神の器として召されたダビデを支え、助けた姿から、ヨナタンもまた、神の器として用いられたことを見ることができました。
私たちの周りにも、友の助けを必要としている人がいるかもしれません。もしかしたら、そうした人の友となることで、私も主の恵みの器として用いられる道があるのかも知れません。神様がそのように私たちの心を動かし、導いてくださるとき、主を信頼して、勇気を出して自分から友人になっていくことができますように。そうして主の恵み、御わざが豊かに拡がっていきますように。
私たちの友となってくださった、イエス様のお名前によって祈ります。」
2025年 6月 25日 礼拝 聖書:ヨハネ16:23-28
イエス様を信じれば、喜びと平安が与えられると聞いていたのに、なぜ自分の生活には喜びも平安もないのかと嘆く人がいます。状況は様々なので十把一絡げには出来ませんが、一つの大きな理由として考えられるが、イエス様が見ておられ考えておられることと、自分が見ていることや願っていることとの間にズレがあるとき、「あれ?おかしいなあ」「平安がない」「しっくりこない」「嬉しくない」ということになりやすいように思います。
今日開いている箇所は、イエス様が十字架につけられる前の夜、最後の晩餐の席でイエス様が弟子たちに語ったものの一部です。イエス様が約束のメシヤとしておいでになったことを信じている弟子たちですが、彼らの先行きには暗雲が立ちこめていました。イエス様の口からは不安をかき立てるような予告が語られ、あなたがたはきっと悲しみ嘆きに打ちのめされるだろうとさえ言われます。この方に救いがあると信じてついてきたのに、これからどうなるだろうと、弟子たちは恐れ迷っていました。続きを読む →
2025年 5月 18日 礼拝 聖書:使徒の働き16:23-34
先週は「母の日」でした。ご存じの方もおられると思いますが、「母の日」の由来は、一人のアメリカ人クリスチャンが、お母さんが亡くなった時に、教会で聞いた「あなたの父と母を敬え」という教えを思い出し、お母さんへの感謝の気持ちを表す方法はないかと考え、追悼会を開き、来られた方々にお母さんが好きだった白いカーネーションを配ったという出来事が始まりです。
聖書においては、家族は非常に大切なものとして扱われています。そして聖書は、救いの恵みというものを、個人のものとしてというより、家族にまで及んでいくものとして描いています。
今日開いている聖書箇所には、有名なピリピの看守が登場し、看守に対するパウロの言葉として「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という有名な聖句が出てきます。ある人はこの言葉を神の約束だと信じますが、また一方でなかなか変わらない状況に失望する人もいます。聖書はいったいどういう意味でこの言葉を記しているのでしょうか。続きを読む →
2025年 5月 4日 礼拝 聖書:ヨシュア記2:1-24
今年度は月初めの礼拝で、年間主題に沿って、聖書の中で様々な形で用いられた人物に焦点を当てて、「一人ひとりが恵みの器」だということについて学んでいきたいと思います。
今日は「遊女ラハブ」として知られている、古代の城塞都市、エリコに暮らしていた女性に注目します。ラハブは自分が選ぶべき道を知った時、それが同胞への裏切り、王への不忠義と見られると分かっていても、その道を進みました。
私たちは、それぞれの歩みの中で、この道に進むべきだなと分かっていても、恐れることがあります。何が正しい選択か分かっていても、迷いが生じることがあります。
ラハブはいかにして進むべき道を知り、そして進むことができたのでしょうか。そして、選んだ道の先に何があったのでしょうか。私たちが神を信頼して、進む時にどんなことが起こり得るのか、どのような恵みの器として用いられ得るのか、今日はご一緒に考えてみましょう。続きを読む →
2025年 4月 27日 礼拝 聖書:ペテロ第一1:3-9
先週はイースターでしたが、イエス様の復活はどのようにして私たちの希望となるのでしょうか。
先日、知り合いから昨年9月に行われた星野富弘さんのメモリアルコンサートの録画が限定公開されるという知らせをいただき、見させてもらいました。富弘さんは体育教師だった時代に事故で首から下の自由を失い、筆を口でくわえて草花と詩を描き続け、去年の4月28日に召されるまで多くの人々を励まし、慰めて来ました。
もちろん事故直後は絶望し、何のために生きなければならないのか分からない苦しみがあったそうです。そんな富弘さんが、あるとき「患難が希望に至る」という聖書の言葉に触れ、今の苦しみは希望につながっていると信じたいと思うようになました。最初は線一本描くのも難しかったのに、地道に練習を重ねて、素晴らしい絵と詩を書けるようにまでになりました。よみがえられたイエス様を知るとき、苦難の中での希望が、これほどまでに本当に人を活かす力になるのだと驚かされます。私たちもそうなれるでしょうか。続きを読む →
2025年 4月 20日 礼拝 聖書:ヨハネ20:11-18
今日はイースターということで、主イエス・キリストが十字架による死から三日目によみがえられたことを覚え、お祝いする日です。今年も、お祝いのためにイースタークッキーを用意しましたので、ぜひ家族やお友だちへのプレゼントとして利用し、あかしの機会としてください。またイースターエッグにちなんで「かもめのたまご」を頂きましたので、こちらも楽しんでください。
しかし聖書を読んでみると、イエス様がよみがった朝は決して楽しく喜ばしい雰囲気ではありませんでした。むしろ何が起こっているのか理解できず、当惑した弟子たちの様子が目に付きます。直接、復活されたイエス様と会った時も、喜んでいる様子もありますが、どうも理解しきれず、信じ切れずに戸惑う姿が印象的です。少しずつ、確信を得ていったようです。そして、今日登場するマグダラのマリアなどは、涙に暮れています。
喜びとはほど遠い、復活の朝の嘆きはどのようにして喜びへと変わっていったのでしょうか。