2024-11-17 私たちの生き方

2024年 11月 17日 礼拝 聖書:ローマ14:7-13

 今日、クリスチャンの生き方と一口に言っても、様々なスタイルがあり、いったい何が正しいのかよく分からなくなります。私が青年時代を過ごした頃は、自分たちの教会グループの人たちと知り合う機会が殆どなく、まさに井の中の蛙でした。様々な伝統や考え方があるのを知ったときは本当に驚きでした。自分たちが当たり前だと思っていたことが当たり前ではありませんでした。自分たちよりもずっと砕けた、自由な感じのクリスチャンの生き方もあれば、風呂から上がったらまたネクタイを締め直すようなお堅い生き方もありました。

それ以来、それぞれの考え方に従ってやればいいのだと思うようになりましたが、現代の教会が問われているのは、それぞれが確信しているライフスタイルはそもそも、本当に聖書に根ざしているのか、ということです。続きを読む →

2024-11-10 その道筋を進もう

2024年 11月 10日 礼拝 聖書:ミカ書4:1-5

 たまに都会に行くと、本当にたくさんの人がいるなあと感心します。北上での暮らしに特別不自由なことはないのですが、盛岡くらいの大きさの街に行っても、人が集まっているだけで相当な賑わいと活力があるのを感じます。

なぜ人は都会に集まるのでしょうか。大きな街には仕事があり、お金が生まれ、うまく行けば成功や名声を手に入れるチャンスがあります。あらゆる遊びと快楽があり、伝統的で古典的な文化からサブカルチャーまで何でもそろっています。音楽や芸術で成功を収めようと思ったら、地方に留まっていないで、とりあえず東京に出なければ話しになりません。

しかし預言者ミカは、やがて人々がまったく違う理由でエルサレムを目指してあらゆる国々から集まって来ると預言しています。続きを読む →

2024-11-03 良き市民であること

2024年 11月 3日 礼拝 聖書:ローマ13:1-7

 日本は二重国籍を認めていないので、他の国から来た人が日本で国籍を取ろうとしたら、今まで持っていた国籍を放棄しなければなりません。しかし、世界にはそれまで持っていた国籍を捨てることなく、国籍を取ること、つまり二重国籍を認めている国が、75%くらいにのぼるそうです。

イエス様を信じて御国の子とされたクリスチャンは、二重国籍を持って生活することに似ています。神の国、天の御国の民であるとともに、この世の国民であり市民です。「私たちの国籍は天にあります」と使徒パウロは有名な言葉をピリピ書に記していますが、天の御国の民である私たちは、同時に、この日本という国に国籍を持ち、また国籍は持っていなくとしても、この国で生活し、法律や義務を守ることが求められます。続きを読む →

2024-10-20 敵を愛するとは

2024年 10月 20日 礼拝 聖書:マタイ5:38-48

 今日は、イエス様の教えの中でも、理解という点でも、実践という点でもなかなか難しいなあと思わされる教えを共に考えていきたいと思います。「目には目を」とか「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」、また「あなたの敵を愛しなさい」といった言葉は、それだけが切り取られ、イエス様が言わんとしたことをあまりちゃんと考えず、勝手な意味づけをされながら広まってしまった感じがします。

特に昨今の世界各地の戦争や紛争の記事を読んだり、ニュースを見たりすると、「敵を愛せよ」とか「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」というイエス様の教えは非現実的な教えに感じられた、ということはないでしょうか。続きを読む →

2024-10-13 いのちをもたらす務め

2024年 10月 13日 礼拝 聖書:コリント第二 3:1-11

 キリスト教信仰は神様に対しては祈り、賛美、礼拝などで、また人に対しては夫婦関係、家族関係、社会、奉仕、福音の証、隣人への愛の奉仕などのかたちで具体的に表されます。それらが適切に行われるためには、みことばに聴くこと、つまり自分で聖書を読んだり、学んだり、教えを聴いたりすることが重要です。

しかし、このみことばを聴くということが、日曜日の礼拝で説教を聞くだけで終わらせたり、とりあえず聖書を通読するだけで終わらせず、自発的に、主体的にみことばを学んでいるかというと、なかなかそうはいっていないかも知れません。続きを読む →

2024-10-06 感謝していただく

2024年 10月 6日 礼拝 聖書:第一テモテ4:4-5

 娘が高校生の頃、高校の国際交流事業の一環で、イスラムの女子高生にホームステイしてもらったことがあります。出身国の中でもとくに厳格なイスラム教徒の多い地方から参加した学生でした。

ところが生憎その期間はラマダンというイスラムの断食の期間です。完全に絶食するというわけではなく、日出から日没までは水も飲まないのです。朝早くか日没後には、消化の良いものや果物などを少しだけ食べることができますが、食べるとなっても戒律に従った規制があり、我が家にある調味料などもいちいち調べて、食べられるものを確認してから食事を出すということをしなければなりませんでした。

彼らの信仰なので、それ自体をどうこういうつもりはありませんが、私たちはクリスチャンとして、飲み食いだけでなく、この世のものを味わったり楽しんだりする上で、何か制約があるのでしょうか。それはどのようなものでしょうか。続きを読む →

2024-09-29 愛し、もてなし、仕え合う

2024年 9月 29日 礼拝 聖書:第一ペテロ4:7-11

 私が高校生くらいの頃から、『北斗の拳』という漫画が流行り出しました。20世紀末に起こった世界的な核戦争によって文明が破壊され、社会の秩序も平和もない、暴力が支配する時代に救世主のように現れた北斗神拳の伝承者、ケンシロウが愛と正義に生きようと戦う物語です。暴力的な話しなので男子には人気でも女子には不人気でした。まあ、でも「お前はもう死んでいる」といった決め台詞は聞いたことがあるかも知れません。続きを読む →

2024-09-15 わたしの喜び

2024年 9月 15日 礼拝 聖書:詩篇16:1-11

 ちょうど一年前、1か月の入院を終えて退院することができました。入院の終わり頃になってようやく許可が下り届けてもらった手帳に、倒れてからの事をメモしていたので、改めてそれをながめるとき、どれほど奇跡的だったことかが、今さらになってよく分かり、驚き、また感動させられています。

今日は休暇中ということで、どなたか他の先生にメッセージをお願いする事も考えたのですが、感謝の気持ちもお伝えしたいと思い、事前収録した動画でお話しすることにしました。それならなおさら動画じゃないほうが良いのかも知れませんが、タイミング的には今日が一番ということでお許しください。

さて、今日の聖書箇所は詩篇16篇です。イエス様の復活に関する新約聖書の教えの中で引用されることの多い詩ですが、もともとは王であるダビデが何か助けを求めたい事情があり祈っているのですが、その困った状況がありながらも幸せと喜びを告白している、とても興味深い詩になっています。

1.私の幸いはどこに

ダビデはまず、主に憐れみを求めています。

詩篇に「ダビデのミクタム」という表題が6回出てくるのですが、「ミクタム」という言葉の意味はよく分かりません。「主よ、私をお守りください」「憐れんでください」という祈りと関連があるようですが、言葉自体の意味ははっきり分からないのです。

しかし、ダビデが詩の中で祈っている事は明確です。

「神よ 私をお守りください。 

私はあなたに身を避けています。

  私は主に申し上げます。 

「あなたこそ 私の主。 

私の幸いは あなたのほかにはありません。」

具体的な状況は分かりませんが、ダビデには、神様に守って欲しいという願いがありました。4節に「ほかの神に走った者」という表現が出てきますので、まことの神様に背を向けた人たちによる何らかの攻撃か策略があったのかも知れません。

しかし、2節ではすぐに「あなたこそ 私の主。/私の幸いは あなたのほかにはありません」と告白しています。神様の守り、助けが必要だと思うような難しい状況にはあっても、ダビデは自分が不幸だとは考えていませんでした。身を避けることのできる主がおられ、主がともにいてくださることこそが自分の幸せです、と告白しているのです。

ここにダビデの信仰の優れた点が表れていますし、ダビデの子孫としてお生まれになる救い主の特徴が重なってきます。

私たちはどうでしょう。

神様に助けて欲しい、守って欲しいという状況の時、神様に祈るは祈るでしょう。状況によっては必死に祈り、昨年皆さんがしてくださったように、他の人たちにも呼びかけ心を合わせて祈ることでしょう。

しかし、そんな状況な時、なかなか「私は幸いです」という言葉は出てきません。

ダビデがこのように告白できたのは、これまでの歩みの中で、神様に助けられ、慰められ、励まされ、戒められ、導かれて来た実体験の積み重ねがあったからに違いありません。

ダビデの時代、手にすることのできる聖書と言ったら、創世記から申命記までもモーセ五書と私たちが呼んでいる部分、ユダヤ人は単に「律法」と呼んでいたものだけです。そこにあるアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、イスラエルの十二部族の物語、エジプトを脱出し、神の民とされた先祖たちに与えられた契約と律法です。それらの物語を通して神様が創造主であり、助け主であり、民を導く方であることを知識として得ることは出来たでしょう。しかし、それだけでなく、彼の人生に突然預言者サムエルが登場し、あなたが次の王に選ばれたと宣言された時から始まった、冒険といえる人生の中で、何度も危うい目に合い、先の見えない状況に置かれ、裏切りに合い、友情を引き裂かれながらも、その都度、いつも変わらずにダビデの支えとなり、助けとなってくださった神様がいてくださったという実体験がこの告白を生み出したに違いないのです。

2.聖徒たちと主と

ダビデの祈りは、神様への信頼と幸いの告白から、目の前にあって、手で触れることのできる今まさにここにある幸いへと視点がうつります。それが3節から8節です。

ダビデがいつでも幸いだと感じている二つの存在があります。それは「聖徒たち」の存在と、主が共におられることです。

王として立てられ、その地位を確立したダビデにとって、「地にある聖徒たち」とは、イスラエルの国民のことです。しかし彼にとってその一人ひとりは、単に税金を払い、自分に仕える者たちではなく、何よりも、同じ神をあがめる「聖徒たち」なのです。

彼らの多くは農夫、羊飼い、商人、技術者、漁師などです。戦いがあれば兵士になる者もいたでしょうが、普段はそれぞれの場で生活している普通の人たちです。しかし、そんな彼らがダビデの目から見るなら「威厳があり」、彼らの存在はダビデにとって大きな喜びなのです。

私もダビデの気持ちが少し分かるような気がしています。

ともに歩ませていただいている方々の顔とその暮らしを思い巡らす時、職業も立場も様々です。工場務め、農業、パンを焼く人、厨房で働く人、建設現場、ホテルの客室、郵便局、福士や医療、介護、教育。家庭で名前のない様々な仕事をこなす人、引退して年金暮らしをする人、病気と付き合いながら静かに過ごして居る人。そのそれぞれが置かれた状況の中で神様に信頼し、従って歩もうと、その人なりに頑張っておられるのが分かります。皆さんの信仰の強さ、成長の度合い、聖書の理解、それぞれですし、自分で思ったように出来てないと感じている人もいるかもし、自分はダメなクリスチャンだと感じている人がいるかもれませんが、それでも、私はとても誇らしく思っています。他の誰かと比べることなしに、ただただ尊いなあと感じています。特に、昨年の今頃、教会に戻って来られた時からその気持ちは一層強くなりました。

そしてダビデは自分の「受ける分」「割り当ての地」について、ちょうど良い分を神様が与えてくださっていることを感謝しています。この「割り当ての地」というのは、神様から与えられ、永遠に保たれる祝福の取り分と言って良いと思います。ダビデにとっての「割り当て地」とは一体何でしょう。エルサレムの宮殿ではないし、私的に購入した別荘地でもありません。5節にあるように、「主」ご自身がともにいてくださるということが、ダビデにとっての割り当て地であり、祝福でした。

主はいつも彼とともにあり、助言をくださり、励まし支えてくれるので揺らぐことがありませんでした。

最初に言ったように、ダビデは神様の助けや守りが必要な状況でした。それでも、今の自分が不幸だとは全然思っていないし、むしろ、神様が自分に与えてくださっているものが全く不満なく、素晴らしいものを与えてくださっていると感謝しています。主にある聖徒たちたちが共におり、主がともにいてくださるからです。

いろいろ問題があると、現状に不満を言いたくなるのが人間ですが、神様は自分にとって最善のものをくださっていると確信できるなら、問題のあるなしに関わらず幸せでいられます。

3.神の御前にあること

さて、9節からはこの詩のまとめの部分です。歌でいうならサビにあたります。

主の助けを求めつつも、主の聖徒たちと主ご自身の存在が喜びであり、幸いであることを告白したダビデは、「それゆえ」と言って、心に喜びがあふれ、安心して過ごせると改めて告白します。

その信頼は10節にあるように、たとえ自分のたましいがよみに下るようなことがあっても、つまり、死ぬようなことがあっても、そのまま滅びしてまうようなことにはなさらないという確信に根ざしています。

この信頼と告白は、やがてダビデの子孫としてお生まれになるイエス・キリストの十字架と復活によって再現されます。新約時代の使徒ペテロは、使徒の働き2章で、ペンテコステの朝、周りに集まった人たちにこの箇所はダビデや約束のキリストについて語ったことだと説明し、その方こそイエス様だと証しています。

使徒の働き13章では、使徒パウロがもうちょっと詳しく説明しています。ダビデはこのように告白していますが、彼自身は地上での生涯を終えることになったけれども、神がよみがえらせたイエス・キリストは朽ちて滅びることはなかった。それによって、ダビデが告白し、希望として信じているように本当にいのちの道が知らされることになりました。パウロはいのちの道が単に肉体の復活のことを言っているだけでなく、罪が赦され、真の神の民とされることであって、アブラハムの子孫だけでなく、すべての人に開かれた救いであることを力強く宣べ伝えています。

つまり、ダビデがこのとき祈った確信は、ダビデ自身が死んだ時にはかないませんでしたが、イエス様によって成就され、信じる全ての人々の確かな希望としてもう一度示されたのです。

ですから、私たちは今これを読むとき、10節の言葉がイエス様の復活を指し示しているだけでなく、私たちに与えられた希望でもあり、それゆえに今この時私たちが心に喜びと平安を持ち続けられる理由になるのです。

素晴らしい聖徒たちと共に歩ませてくださる幸いと、主ご自身のともにいてくださる幸いの中にある私たちは、助けが必要な困難や問題の中にあっても、神様の御前で満ち足りた喜びと楽しみを味わえるのだと、ダビデとともに告白できるのです。

適用:平安と喜び

はじめに、ちょうど一年前の退院の頃の話しをして始めましたが、今日の詩篇を読むときに、この一年間感じて来た幸いの源がなんであったかが明かされるような思いがしています。

病院から家に戻って、まず最初に階段の上り下りができるか試してみました。病院ではそこまでのトレーニングが出来なかったからです。

そこから始まって、家の周りを歩き始め、少しずつ距離を伸ばしました。少しずつ教会の奉仕や神学校での奉仕も再開し、10月に説教を再開しましたが、最初の数回は座ったままでしたね。

車の運転再開に向けたリハビリも始まり、12月には運転ができるようになりました。近場から初めて、走る距離も少しずつ伸ばしていきました。

一歩一歩回復の道のりを安心して歩めたのは、間違いなく、教会の皆さんが祈りつつ支えて、待っていてくださったからです。そして、主がともにいてくださったからです。もっとも、通常、この病気から生還した人たちのリハビリのプロセスから考えたら、やっぱり奇跡的なスピードでの回復だったのだと、振り返って見ると良く分かります。

ですから「あなたは 私のたましいをよみに捨て置かず/あなたにある敬虔な者に/滅びをお見せにならないからです」という御言葉は「そうだったなあ」と思わせられます。しかし反面、「敬虔な者」と呼ばれるに相応しいと言えるんだろうかという疑いもありました。今もやはり同じように感じています。

また、同じような病気で倒れて召される人も入れば、いろいろな障害が残ったり、リハビリに長い時間がかかったり、薬の副作用で苦しんでいる人もいて、自分だけ順調なことにちょっと罪悪感を感じたりもしています。いろんな人が「神様からまだやることがあると言われているんだ」と言われていますが、「まだ足りない」と言われているような気もして、気持ちが晴れるわけではありません。

それでも、「私の喜びはすべて 彼らの中にあります」「主は私への割り当て分」という御言葉のとおりに、家族を含めて主にある皆さんの存在が、そして主が共にいてくださることとが、いつも平安と喜びを取り戻させてくれます。「たましいをよみに捨て置かず…滅びをお見せにならない…あなたは私に いのちの道を知らせてくださいます」というみことばを経験させてもらっているような気がします。

ですから、皆さんにもお願いしたいのです。教会家族の一人ひとりには様々な人がおります。それぞれに違いがあり、時にはお互いのことが良く分からないとか、ちょっと合わないなあということがあるかも知れませんが、キリストにあって聖徒とされた一人ひとりとしてその存在を喜び、どんな状況にあっても主がともにいてくださることを何よりの祝福として受け止めましょう。それが私たちの喜びです。助けや支えが必要なことの多い、歩みの中で、私たちの支えとなるのはその喜びです。

祈り

「天の父なる神様。

私たちはダビデと心を合わせて、あなたこそ私の主、私の幸いはあなたのほかにありませんと告白します。

あなたは私たちに主にある兄弟姉妹たちと共に歩ませてくださり、主ご自身がいつも私たちと共にいてくださいます。それが私たちの喜びです。そんな主の御前にあるとき、私たちは困難な時も平安と喜びを取り戻すことができます。

どうぞ、お互いの存在を喜び、共にいてくださる主を近くに感じながら歩ませてください。

イエス・キリストのお名前によって祈ります。」

2024-09-22 あなたがたはみな一つ

2024年 9月 22日 礼拝 聖書:ガラテヤ3:26-29

 現代は「キリストにあって私たちは一つである」という信仰の意味合いは何であるかが大きく問われている時代です。

今日世界は様々な課題に直面しています。課題の大きさを考えると、教会が意見の違いで対立したり反目している場合ではないと思うのですが、残念ながら現状は心が痛む事柄が見られます。

しかし、私たちは一つであるという意味が問われるのは社会的に大きな課題だけでなく、日常的な教会の交わりでも常に問われるものでもあります。事実、今日開いているガラテヤ書が最初に書き送られたガラテヤ地方の諸教会でもそうでした。続きを読む →