2020年 7月 26日 礼拝 聖書:マタイ27:15-26
今日は礼拝の中で使徒信条をお読みしまたが、その中に「ポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられ」という一文があったことを覚えておられるでしょう。
その出来事が今日の箇所です。使徒信条にピラトの名前が入れられた経緯は分かっていません。しかし、その一文があることではっきり強調されていることが分かります。
ピラトの名前は聖書以外の古代の文献にも登場します。紀元26年から36年の10年間、ローマ帝国のシリア州ユダヤの総督であったことが分かっています。つまりピラトの名前を挙げることで、イエス様の十字架が歴史的な事実であったことを強調しているのです。
さらに、イエス様は単にねたみにかられたユダヤ人によって密かに殺されたのではなく、ローマの法に基づいて正式に処刑されたということを意味します。これは、イエス様がユダヤ人だけでなく異邦人のためにも死なれたことを表します。
私たちはピラトという個人に興味、関心が向きます。いったい、彼はどうしてイエス様を十字架に付け、その名を歴史に残してしまったのか。今日はピラトによる裁判の場面をご一緒に読み、この出来事が私たちに問いかけていることを学びましょう。
1.二人のイエス
まず第一に、この箇所に二人のイエスが登場します。
一人はもちろん、イエス様です。そしてもう一人は「バラバ」という名前で知られている犯罪人です。
今までは単にバラバと書かれてきましたが、新改訳2017になって、「バラバ・イエス」というふうに訳されました。これは何も日本の翻訳者が勝手に付け加えたのではありません。実は、今から1800年くらい前からすでに、本来マタイが書いたのは「バラバ」なのか「バラバ・イエス」なのか、という論争がありました。
昔は聖書は手書きで書き写されていました。それを写本と言います。写本はいろいろな種類があり、それらの写本の中に、「バラバ・イエス」と書いてあるものと、単に「バラバ」と書いているものがあったのです。
ところが、聖書を書き写していた古代のあるクリスチャンたちは、バラバに救い主と同じ名前があるのはどうしても我慢ならず省略した、と解釈するのが最近の研究結果なのだそうです。
イエス、ユダヤ人風の発音なら「ヨシュア」ですが、それはごくありふれた名前でした。イエス様とほぼ同時代を生きたヨセフォスというユダヤ人の歴史家は、イエスという名前を持っている人を著書の中に記していますが、その人数はなんと12人で、その中には4人の大祭司が含まれています。それくらい、よくある名前だったのです。
さらに、バラバという名前は「アッバスの子」という意味で、「御父の子イエス」と、発音がよく似ているというのです。
どうやらマタイは、この場面がアッバスの子イエスと、神の御子イエス、二人のイエスのどちらを選ぶのか、という問いかけだったというふうに描いたようなのです。
総督ピラトは、ユダヤ人の祭りがあるときに、人気取りのために囚人を一人解放するということをしていました。これはローマの法律にはないことなので、ユダヤを治めるためにピラトが考え出した特例のようです。でも、世界中の権力者たちは時々、その権力を用いて恩赦をして、人気取りをしたり、自分に貢献してくれた人に報いたりしますから、まあよくあることなのでしょう。
バラバはよく知られた犯罪者でした。別の福音書には「暴動と人殺し」とあります。映画なんかではいかにも極悪な風貌の役者が凶暴な感じの演技をしますが、実際は人気者だったのではないかという説があります。ロビンフッドや鼠小僧みたいな義賊だったのではないか、ということです。金持ちから盗み、ローマに支配された社会の歪みや不平等に苦しむ人に施しをするとなれば、民衆には人気があり、権力者にしてみれば何とも扱いに困る泥棒です。
ピラトには祭司長たちの訴えが根も葉もないもので、単に彼らのねたみによる完全なでっち上げであることに気付いていました。しかし、ピラトは正義を追い求める裁判官である以前に政治家です。イエス様に対する公平な裁判しようという面もありますが、政治家としての考えが先に立ってしまいます。この状況を利用し、民衆の支持を取り付け、ユダヤ人指導者たちを手懐けるにはどうしたら良いかと考え、恩赦を利用して、人々に問いかけたのです。
あなたがたはどちらのイエスを選ぶのか。アッバスの子、バラバ・イエスか、御父の子、救い主イエスか。
2.妻の忠告
そんなピラトのもとに、ふだんはこんなところに顔を出さない妻が人を遣わして意見しました。おそれくこれは異例のことだったと思います。いくら総督の妻とはいえ、夫の仕事内容に口だしするとはちょっと考えられません。
しかし19節で彼女はこう伝えています。「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。」
マタイだけが記録しているこのエピソードは、確かにイエス様が無罪だった、罪のないお方が十字架に付けられたのだということを印象づけるものです。
具体的にどんな夢であったかは記されていませんが、ピラトの妻は無実の正しい人がねたみによるでっちあげ裁判で十字架に付けられていくという恐ろしいえん罪に、夫が関わっているということに苦しみ、うなされたのかも知れません。
しかし彼女がそのような夢を見たということはどういうことなのでしょうか。
私たちも時々、うなされるような悪い夢を見ることはあります。子どもの頃よく見た悪い夢は、何者かに追いかけられて、空を飛んで逃げる夢でした。ただし空高くは飛べず、ほんのちょっとだけ追っ手の手に届くか届かないかのギリギリの高さで、しかもやっとのスピードで飛べるだけなので、追いつかれはしないが遠く引き離すこともできず、ずっと逃げ続けるという夢でした。夢分析をする人がいたら、とても含蓄のあるアドバイスがもらえそうな夢です。
しかしピラトの妻が見た夢は、神様が見させたものでした。
まず、彼女はイエス様が「正しい人」だと入っています。これは「義人」とも訳される言葉で、ユダヤ教的な言葉です。そして、その夢に出て来た正しい人が、イエス様のことだと分かったということは、ローマ人でありながらも、彼女はひそかにユダヤ教に興味を抱いていたとも考えられます。実際、そのような異邦人でありながらユダヤ教に改宗するまではしないものの、まことの神様を信じ「神を恐れる人」「敬虔な人」と呼ばれていた人は、聖書の中にもしばしば登場します。
神様がどんな意図でそのような夢を見させたのかは記されていませんが、彼女にこの酷い裁判を止めさせるためではなかったはずです。だとするなら、彼女の言葉によって、この裁判が罪なき人が殺されたのだということをはっきり示すためであったのではないかと考えられます。
この異常な状況でイエス様の身に起こっていることが、ひどい悪であること、うなされるほどの闇がこの瞬間、エルサレムを覆っていたことをピラトの妻だけが理解していました。
異邦人である女性が、ただ一人、神様の語りかけに心を開き、神様が見させた夢の意味を理解していました。しかし、ユダヤ人のリーダーたちには神様の声が届いていません。
一方、ここでただ一人イエス様の生死の決定権を握っているピラトにとっては、ことの善悪や真実よりも、自分の手を汚さないでこの騒動を収め、これからの統治のしやすを計算することのほうが重要でした。ピラトにも、彼の妻を通して示された神の声は届かなかったのです。
3.群衆の叫び
妻の訴えにも拘わらず、形勢はどんどん悪化していきます。
第三に、群衆がイエス様を十字架につけるようにと叫びだし、止まらなくなってしまいました。
20節で、「しかし祭司長たちと長老たちは」と続きます。ピラトの妻の訴えは、彼らの耳にも入っていたのですが、それを無視して、群衆の説得にかかりました。ピラトの問いかけに、イエス様ではなく別のイエス、バラバを選ぶよう呼びかけたのです。
この群衆とはいったい何ものだったのでしょうか。マタイの福音書にはときどき「群衆」という言葉が出て来ます。ずっと同じ人たちだったわけではなく、その時々にイエス様の周りにいた大勢の人たちであったと思います。もちろん、ピラトの官邸の前に集まっていた群衆なんて、ユダヤ人全体から見たらほんの僅かな人数であったには違いありません。しかし、世論調査なんかでも、千人くらい調査すれば日本全体のだいたいの傾向が分かると言われています。
イエス様の周りにいた群衆はその都度、集まっている人たちが違ったとしても、その態度は、その時点でのイエス様に対する民全体の考え、受け止め方を表していたと言って良いと思います。
イエス様のもとに集まった群衆は、はじめはバプテスマのヨハネのもとに行き、彼の教えに驚きながらも罪のための悔い改めのバプテスマを受けました。そのあと、イエス様が公に働きを始めると、その教えと奇跡にすっかり魅了され、イエス様のおっかけのように、いつも誰かがイエス様の周りにいるというような状況になります。人々は、イエス様の権威ある教えと悪霊や波風さえ従える奇跡に、神の力を感じ取り、次第にイエス様が約束された救い主ではないかと信じ始めます。
その気運が最高潮に達するのがパンの奇跡です。ユダヤ人と異邦人の群衆の前でそれぞれ行われた奇跡に、人々の期待は盛り上がります。その期待の中、エルサレムへの最後の旅が始まるのです。
そんなわけで、エルサレムに入場するイエス様のために群衆は着ていた服や棕櫚の枝を道にしきつめてて絨毯のようにし、大歓声でイエス様を救い主として迎えます。わずか5日前の話しです。
ところが今、目の前にいるイエス様は、囚われの身。祭司長や長老たちに訴えられ、どんな訴えにも何も応えず、あの威厳も、あの力強さも、あのどうどうとしたたたずまいも消え去り、惨めで、どう見ても救い主や王様のようには見えません。イザヤ53章の預言の言葉を借りるなら、「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない」というわけです。
それに比べ、バラバは、暴動と人殺しの罪で捕らわれていたとはいえ、そもそもがユダヤを不当に支配しているローマへの反逆であり、ヒーローのように見ている人も少なくありませんでした。
祭司長や長老たちは、イエス様に対する固い信仰を持った人たちの心を変えようと説得する必要はありませんでした。群衆の中にあった移り気な心、どっちが魅力的に見えるかで簡単につく側を変えてしまう心をちょっと揺さぶるだけで十分でした。
ピラトは念を押すように「二人のうちどちらを釈放して欲しいか」「キリストと呼ばれるイエスを私はどのようにしようか」と問いかけると、彼らはどんどん声を大きくしながら「十字架につけろ」と叫ぶのでした。
適用 どちらを選ぶのか
ピラトは自分には責任がないということを強調するため水で手を洗い、「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」と言い放ち、群衆も「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」と言い返しました。
そこまでの群衆の反応に、ピラトは法の正義を貫くよりは、政治判断で処刑を許すことのほうを選びました。こうして、イエス様の十字架は決定的になったのです。
今日ご一緒に読んできたピラトの裁判で何が私たちに問われているのでしょうか。祭司長たちの執念深さやピラトの政治家らしい振る舞いど、群衆の心変わりなど、いろいろ目に付きますが、やはりピラトが人々に「おまえたちは二人のうちどちらを釈放してほしいのか。」問いかけたことです。それは、あなたは誰を選ぶのかという問いかけであり、群衆だけでなく、福音書を読む私たちへの問いかけでもあります。
聖霊の導きによって福音書を書いたマタイは、あえてバラバというだけでなく、バラバ・イエスというフルネームを記すことで、神の御子イエスと、別のイエスを並べ、どちらのを選ぶか問われているのだと私たちに語りかけているのではないでしょうか。
もちろん、ここにいる私たちの多くは、すでにイエス様を救い主として信じ、クリスチャンとして生活しています。そういう意味では、すでに神の御子イエスを選んだのです。
私たちは、イエス様を十字架につけろと叫んだ群衆のようではありません。そこまであからさまにイエス様を否定することはないでしょう。しかし、日々の生活、長い人生の中ではイエス様じゃない誰か、何かを選ぶほうがいい、そっちのほうが良さそうだと思う場面があります。しかも、祭司長や長老たちがそういう群衆の心理を巧みに利用して説得してしまったように、私たちの揺らぐ心につけ込み、イエス様から引き離してしまおうと悪魔が手ぐすね引いて待っています。
新型コロナのような思いがけない災難や、不安におそわれるとき、イエス様の愛と守りを信頼するのか、恐れに身を委ねてあたふたし続けるのか。イエス様か、ほかの何かを選ぶのか問われるのは、そういう形でもやって来ます。
人生の大きな選択だけでなく、日々の暮らしのちょっとした出来事の中で、神様の御心を考えた上で行動するのか、神様が喜ばないだろうなとわかりつつも自分のやりたいことを優先させるのか。そんなところでも、イエス様か、他の何かを選ぶのかと問われます。
あるいはペテロや弟子たちのように、プレッシャーや恐れの中で、イエス様の側についていると告白できるか、それとも黙り込んだり誤魔化したりするか、心の中でせめぎ合うかも知れません。
ヤコブ4:8では鋭く、こう戒められています。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。」
これは他でもないクリスチャンに語られた言葉です。私たちの心の中には、イエス様に従おうとする心と、他の何か、他の誰かを選ぼうとする心がせめぎ合い、悲しいことに、しばしば、あの群衆のように心変わりしてしまうのです。
このような罪深さ、弱さに、ちょちょっと付ければすぐ直る特効薬のようなものはありません。
大切なのは、神様に心を閉ざし、自分のせいじゃないと言い張った祭司長や長老たち、群衆、ピラトのようではなく、場面からはいっとき退場していても、嘆き悔い改めへりくだって主の招きに応えたペテロのようであることです。
ヤコブはこう続けます。「嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。」
祈り
「天の父なる神様。
今朝、信仰告白の中で申し上げたように、主イエス様はポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架に付けられました。
イエス様に対する十字架刑が言い渡されるまでの場面を今日はともに読んでまいりましたが、人間が見せるずるさ、頑なさ、腹黒さ、心変わりに悲しくなります。しかし、またそうした闇が私たちのうちにもあることを覚え、「あなたがたはどちらを選ぶのか」という問いかけがそのまま私たちへの問いかけであることを覚えます。
どんな時でも、主イエス様とともにあることを選ぶことができるように、私たちの心をきよめてください。そのために悔い改めとへりくだりをもって、あなたの前にいることができますように。
主イエス様のお名前によって祈ります。」