2020年 9月 20日 礼拝 聖書:マタイ28:1-15
2016年の暮れ頃から読み始めたマタイの福音書も、いよいよ残すところ、今日を含め2回となりました。今日の箇所は、普段なら春のイースターの頃に取り上げられる箇所です。
よく読んでみれば分かることですが、マタイの福音書には、イエス様の復活の様子そのものは何も描いていません。マタイだけでなく、マルコ、ルカ、ヨハネの三つの福音書も同様です。
イエス様の復活の様子を直接目撃した人はいないのです。ただ、イエス様が復活したことで墓が空っぽになっていたことと、弟子たちがイエス様と再会したことが記されいます。
これは、直接の目撃者のいない事件を立証する裁判のやり方や、歴史上の出来事を証明するやり方に似ています。証拠を積み重ねて、復活が事実であったことを明かにしようというものです。最終的にそれを事実として受け入れるかかは信仰にかかってきます。
イエス様の復活が事実であったことをどう証明するかということ以上に大事なのは、それが私たちにとってどういう意味があるかということです。恐れて隠れていた弟子たちは、大胆にイエス様を宣べ伝える者に大きく変わって行きますが、何がその変化をもたらしたのでしょうか。それは、私たちを変える力があるのでしょうか。その鍵を握るイエス様の復活を今日はご一緒に学びましょう。
1.日曜の朝の出来事
まず最初に「安息日が終わって週の初めの日の明け方」という言葉が出てきます。マタイの福音書が書かれた時代、教会ではすでに週の初めの日である日曜日を主イエス様がよみがえった日として記念し、「主の日」と呼んでいました。そして「主の日」を特に礼拝を捧げる大切な日としていました。
ローマ社会において、7日で一週間が巡ることはすでに定着していましたが、週に一度休みを取る、という習慣はありませんでした。それでクリスチャンたちは、仕事に出かける前とか、仕事を終えた後に、中心的なメンバーの家に集まり、食事の交わりをし、主の晩餐を祝い、礼拝を捧げるというふうにしていました。ユダヤ人は金曜の夕方から土曜の夕方までの安息日を、労働しない日、礼拝を捧げる日として絶対厳守しましたが、教会は、安息日を守るかのように日曜日を守るというより、礼拝を捧げることを大切にし、社会の仕組みや文化の中で工夫しながら生活していました。
それはともかく、日曜の朝、埋葬を見守っていた女性たちが、イエス様の葬られた墓を見に行きました。4つの福音書を見ると、少なくとも3人、または4人で出かけたようですが、何のために行ったかはマタイは省略しています。埋葬に時間を十分にかけられなかったので、香料を持っていって遺体に塗ってあげようということだったそうです。
しかし、彼女たちが到着する前に、墓ではある事件が起こっていました。大きな地震が起こったのです。その揺れのために墓をふさいでいた大きな石がわきに転がってしまったのですが、それは自然に起こったことではなく、天使が石をどけてその上に座ったからだとマタイは記しています。しかも、それは自然に起こった地震をマタイが後から都合良く意味づけしたのではなく、番をしていた兵士たちも天使の姿を目撃しています。
天からやって来た御使いは、この世のものとは思えない姿をしていました。稲妻のような姿というのがどういうものなのかちょっと良く分かりません。これは、旧約聖書のダニエル書に出てくる御使いを描いた表現を用いて書かれています。
ダニエル10章で幻の中で見た御使いは顔が稲妻のように輝き、亜麻布の衣を纏い金の帯をつけていました。ほかにも細かな描写があります。ダニエルと一緒にいた人たちは直接はその姿を見てはいなかったのに、恐怖に襲われ逃げ出してしまいます。ダニエル自身も腰が砕けるように力が抜け、顔面蒼白となり、大勢が一度にしゃべるみたいな響きの声を聞きながら気を失ってしまいます。
同じように、イエス様の墓の前に表れた人物の姿を見た兵士たちが恐ろしさのあまり卒倒してしまったのですから、この地震がただの地震ではなかったことは明かです。見てはいけないものを見てしまったくらいの恐怖だったのだと思います。
兵士たちの報告を聞いた祭司長たちは彼らに金を握らせ13節にあるように『弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んで行った』と言わせています。これはおかしな話しで、普通に考えたら見張りをしていた兵士が眠ってしまったとか、その間に遺体を盗まれたなんて話しを自分たちからするわけはないのです。服務規程違反で厳罰に処せられる不名誉なことだからです。ともかく日曜の朝にそういう驚くべき出来事が起こりました。
2.空っぽの墓
第二に、墓は空っぽでした。
マリアたちが墓の前に到着すると、すでに石はわきに転がっていました。見張りをしているはずの兵士たちはいませんでした。11節からすると、すでに祭司長たちに報告するために立ち去っていたのでしょう、マリヤたちを咎める者はいませんでした。
墓に入って見ると、そこにイエス様の遺体はなく、代わりに御使いがおりました。マルコやほかの福音書によれば、兵士たちが恐ろしさの余り気を失ってしまったような恐ろしげな様子とは一変し、白い衣を着た青年のように見えたと言うことです。
彼女たちは、やっぱり誰かがイエス様の遺体を盗んだのではないかと考えたようでした。しかし、その青年の姿をした御使いは彼女たちに言います。
5~6節「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」
御使いの話しのポイントは二つ。一つは墓が空っぽな理由。もう一つは弟子たちへの伝言です。
墓が空っぽなのはイエス様がよみがえられたからだ、というのが一貫した聖書の主張です。祭司長たちが、兵士たちに金を与えてまで「弟子たちが盗んだ」という嘘の証言をさせたのは、ほかに説明のしようがなかったからです。それが本当ならさっさと弟子たちを捕まえて調べれば良いだけの話しですが、それが不可能なことは彼ら自身が良く知っています。
もちろん、イエス様は本当は死んでいなかったというのもあたりません。ローマの兵士たちは十字架の上で思いがけず早く死んでしまったイエス様が、本当に死んだかどうか確かめるためにわき腹を槍で突き刺しました。
万が一、死の一歩手前まで鞭で打たれ、釘で磔にされ、わき腹を槍でさされた人が実は死んでいなかったとしても、その状態で丸二日墓の中に手当もされずに放置され、三日目には元気に歩き回ることができるなんてあり得ません。そんなことを信じるくらいなら、復活だって信じるべきです。イエス様はよみがえられたのです。
弟子たちへの伝言の内容は、ガリラヤでまた会おう、ということです。復活が夢や幻ではないことはガリラヤで再会出来るという約束につながり、そこからまた、失意と恐れの中にあった弟子たちに希望と新しい人生の目的へと向かわせることになります。
救い主と信じていた方が死んでしまったら、希望もがんばっていく意味も、いのちをかける価値も失われてしまいます。実際、弟子たちはそんな失意の中にあり、自分たちも捕まるのではないかという恐れのために部屋に閉じこもっていたのです。しかし、その方がよみがえったなら、新たな希望になります。
ただし、それは受け止めるまで少し混乱があるでしょう。実際、マリヤたちも恐ろしさと喜びがいりまじった興奮の中、急いで弟子たちに知らせるために走り出しました。
3.主イエスとの再会
第三に、イエス様との再会が思いがけず早くやって来ました。
最初は弟子たちではなく、マリヤたちでした。彼女たちはこのとき、恐れと喜びのために相当混乱していたらしく、4人の福音書記者が、それぞれの視点で復活の日を描いていることも相まって、4つとも少しずつ違いがあるのですが、決して矛盾しているわけではありません。
今日はそのあたりの細かな説明は省いて、マタイの福音書が描いている場面にそって見ていきましょう。
天使の知らせを聞いたマリヤたちは弟子たちのもとに行こうとします。「ガリラヤに行けば会える」という弟子たちへの伝言は、彼女たちにとっても「ふるさとのガリラヤでまたイエス様に会えるかもしれない」という希望になっていたはずです。
しかし、その前になんとイエス様が彼女たちの前に現れたのですから驚きです。
イエス様は、まるで何事もなかったかのように、あまりに自然に、あまりにいつもどおりに「おはよう」と声を掛けました。
この「おはよう」と訳された言葉は、普通の挨拶の言葉で、朝だけでなく、いつでも使える言葉なのですが、もともとの意味は「喜びがあるように」というものです。いちばんピッタリくる日本語の挨拶としては「ごきげんよう」です。
しかし、この「ごきげんよう=喜びあれ」という言葉は単なる挨拶以上の意味合いがあるように感じます。
マタイの福音書の中で、イエス様の言葉として「喜びなさい」という励ましの言葉を用いられているのは2回だけです。最初はマタイ5章の山上の説教で、イエス様の名のゆえに迫害に会う人は「喜びなさい」というくだりで使われています。2回目がこの箇所で、マリアたちへの挨拶として使われています。
失意と悲しみ、迫害されるかもしれないという恐れの中にあった弟子たち、そしてマリヤたちに対して、よみがえられたイエス様が、もう嘆くことはない、恐れることはない、喜んでいいのだよとおっしゃってくださっているかのようです。
マリヤたちは思わずイエス様の足にすがりつきました。イエス様は天使が告げたのと同じ伝言を託します。
10節「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」
思い出して見れば、マタイの福音書のはじめのほうで、妻マリヤがイエス様をみごもったことを知って恐れにとらわれていたヨセフに天使は「恐れることはない」と言われました。マリヤ自身にもお告げに来た天使が「恐れることはありません」と言われました。
突然の出来事に驚く二人を安心させるためでもあり、神の救いを待ち望んでいた民に、約束の救い主が来られるのだからもう恐れることはないと語られたようにも感じられます。
イエス様がお生まれになる時と、復活の時に繰り返された「恐れるな」「喜びなさい」という二重の励ましは、決して偶然ではありません。私たちの救いのためにこの世にお生まれくださった神の御子、主イエス・キリストが、十字架で死んで葬られ、そして三日目によみがえったことは、すべての人の恐れを取り除き、喜びをもたらす大いなる知らせなのです。
適用 喜びがあるように
今日はご一緒にイエス様の復活の朝の出来事を見て来ました。4つの福音書を読み比べるとずいぶんいろいろな出来事があったっことがわかりまが、マタイはわりと簡潔にまとめています。
しかし、神様がそのマタイを通して私たちに注意を向けさせようとしていることは、「恐れることはない、喜びなさい、というメッセージではないでしょうか。イエス様の復活によって、恐れから喜びに変わることができる、変えることが出来るのです。
イエス様がおいでになる前にユダヤ人が感じていた恐れ、そしてイエス様が十字架で死なれた時に弟子たちが覚えた恐れと、現代の私たちが感じている恐れには違いがあります。しかし、根本に横たわっている問題は同じです。
ユダヤ人は救い主を待ち望んでいました。やがて救い主がおとずれ、先祖アブラハムに約束された神の国を回復し、自分たちを惨めで苦しい生活から救ってくれるはずだという希望がありました。そのユダヤ人たちが恐れていたことは、神の定めた律法によって罪に定められ、お前は神に受け入れられない、神の国にふさわしくないとさばかれることでした。だから彼らは一生懸命律法を守り、守らせようとし、事細かに規則を付け加えました。しかし、その行き着く先は、見せかけの聖さと人を裁く心、救いのない飢え渇きでした。人間の根っこにある罪はどうがんばっても消せないからです。
現代の人々は2000年前のユダヤ人のような恐れかたはしません。聖書が自分の人生に関係があるなんてまず思わないですし、神がいることすら分からない、あるいはどうでも良いと考える人も多いです。へたに宗教を持ち込んで、自分の人生や人間関係を壊して欲しくはないと思います。罪に関しても、神様の前で問われるような罪というより、犯罪として裁かれたり、他人から非難されることは恐れますが、そうでなければ人それぞれの考えで良いんじゃないかというのが大きな流れだと思います。
でも、そうやって神様と関係ない生活をし、それぞれが満足するように生きればいいはずだと考えて暮らしていて、皆が幸せなのかというと、どうなのでしょうか。なぜ争いや傷つけあうことがなくならないのでしょうか。なぜ、富む者と貧しい者、強い者と弱い者の溝は埋まらないのでしょうか。正直に生きる人が報われず、悪い事をした人たちがのさばっていられるのでしょうか。なぜ人々は自分が愛されているか、認められているかをそんなに気に病むのでしょうか。他人からは幸せそうに見え、順調に生きているように思えた人がなぜ絶望と孤独の中に沈んでしまうのでしょうか。
自由や豊かさは素晴らしい贈り物です。けれども、神様から離れて自由に生きられることや豊かであることは人を幸せにはしないし、むしろその人の内にある闇をどうしようもなく大きくふくらませてしまうのです。
それが罪の姿であり、罪の結果だと聖書は教えるのです。そしてもう一つの現実が、私たちは皆死に向かっているということです。それは老いや病によって肉体の死が差し迫った時だけでなく、若い時でも、自分が生きていていいのか、生きる目的が分からない、自分の居場所がないといった悩みとしても差し迫って来ます。もっと幼い時期なら、本人の問題というより大人や社会の問題になりますが、育児放棄や虐待、貧困などによって絶えずいのちの危機にさらされるような場合があります。
そうした全ての問題が、イエス様を信じるだけで綺麗さっぱりなくなるということではありませんが、そういう問題の中にある私たちのもとに、死なれよみがえられたイエス様がおいでくださって、「恐れるな」「大丈夫だ」「喜んでいいんだ」と励まし、慰め、赦しと生きる希望と力とを与えてくださるのです。
イエス様は、今も生きておられ、私たちの心に語りかけてくださいます。弟子たちに「ガリラヤで会おう」と言ったように、私たちにも、恐れから喜びに変えられた新しい歩みが待っていると言ってくださっています。
祈り
「天の父なる神様。
イエス様がよみがえらた朝、空っぽの墓に慌てふためいた祭司長たちと対称的に、マリヤたちや弟子たちが、恐れから喜びへと変えられていったことを覚えます。人の力や理解は及びませんが、死からよみがえられたイエス様が彼らにもう一度出会ってくださり、恐れるな、喜びなさいと語りかけてくださったように、私たちにも語ってくださることを心から感謝します。
恐れや不安の中にあるとき、悲しみや痛みの中に沈んでいる時、イエス様が私たちの心に語りかける言葉に耳を傾け、もう一度、恐れから喜びへと変えてくださいますように。よみがえられた主イエス様がいつもともにいてくださいますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。」