2020-10-11 たいせつなきみ

2020年 10月 11日 礼拝 聖書:創世記1:26-31

みなさんのお宅には読みかけの本がどれほどあるでしょうか。最近はそもそも本を読まない、買わないという人も多いですが、せっかく買ったのに本棚の飾りになっていたり、図書館から借りてきたのに一頁も開かずに返却した、という話しはよくあります。

私も、自分の楽しみのために買った小説や漫画は割とすぐ読むのですが、勉強のために買った本はさっと目をとおしてちゃんと読まずに置いておくことがあります。キリスト教関係の本は出たときに買っておかないとすぐに絶版になり買えなくなることがあるから、と苦しい言い訳を自分にしたりしてますが、もったいないことですね。

先週、なぜ聖書を読むのか、というお話をしました。聖書は神のことばであって、私たちを救う力があります。みことばによって私たちは本来の人間らしい生き方を取り戻し、神様の素晴らしさを表し、人々によきものを与えることができるのかを指し示し、励ますことが出来ます。とはいえ、内容が理解しにくかったり、面白く読めるところとすぐに飽きてしまう箇所の落差が激しく、正直、読み物としては難しいものだとお思います。

そこで今日からしばらくの間、聖書全体をいっきに触れて行きたいと思います。通読気分も味わえるかも知れません。

1.創世記について

さて今日取り上げるのは創世記ですが、そのまえに聖書ってどんな本か、ということをおさらいしてみましょう。聖書は大きく二つに分けられます。旧約聖書と新約聖書で、旧約には39巻、新約には27巻、全体で66の「書巻」が含まれています。一番長いのは詩篇で、150篇の詩が約160ページ続きます。一番短いのはユダの手紙でわずか2ページです。

旧約聖書のうち、創世記から申命記までの最初の5つは「モーセ五書」と呼ばれています。その呼び方のとおり、イスラエルを率いてエジプトから脱出させたモーセが記ました。

創世記が扱っているのは、天地創造からイスラエルの民がエジプトに移住するところまでです。モーセが創世記を書いたタイミングは、そのエジプトからイスラエルの民を率いて脱出し、約束の地へ向かう旅の中ですから、創世記は、この世界のはじめを描くとともに、神の民の始まりについて書いていることになります。そういう意味でも、「はじめに」「創世記」という名前はぴったりということになります。

私たちがこの創世記を読むとき、「そうなんだ」と素直に読める人にとっては問題ないのですが、現代人の多くにとっては、科学や歴史、考古学が教えることと、どういうふうに関係しているか気になるところです。ある人たちにとっては、科学と聖書は矛盾していると考え、ある人たちは科学の方が間違っている、あるいは聖書の方が間違っていると考えます。神話の一種として読む人もいます。

たとえば天地創造の7日間の時間の問題もあるし、出来事の順番としてどうなのだろう、ということもあります。ノアの箱舟やバベルの塔の物語も、古代の神話に記録されている出来事と同じなのか違うのか、興味は尽きません。

しかし、一番大きな問題は人間の描き方でしょう。聖書はアダムとエバの二人を、歴史上に実在した人物として描き、この二人から人類が始まったとします。しかし、科学は人類はネアンデルタール人や他の人間に近い共通の祖先から進化して誕生したと考えます。

アブラハムの物語や出エジプトの頃の時代は、だいたいこの時代にことだろうというふうに分かっていますが、聖書以外の記録や文献、考古学的な証拠のようなものはほとんどありません。

しかし私たちはこれを真実を描いたものとして受け取ります。

そこに問題を感じることも悩むこともない人は気にせず読んでくださってかまわいのですが、そうでない人のために少しだけ補足しておきましょう。

科学的に何かを説明することと、聖書とではものごとの捉え方や描き方がずいぶん違います。一方だけで全てを知った気になるのは間違いで傲慢なことと言えます。科学では説明できないこともあれば、聖書が描いていないこともかなりあります。科学は霊的な意味とか目に見えない神の存在は無視して物事を捉えますが、聖書も現代人が期待するような科学的な説明をしようとしているわけではありません。しかし、どちらも物事を正しく捉えようとしてはいます。科学は、特に宇宙や生物、人間の起源についての科学的な説明は、証明された真理ではなく、仮設にすぎず、変わって行くものです。そして私たちの生き方について真理を指し示してくれるのは聖書なのです。そこを押さえておけば、とりあえずは大丈夫です。

2.すべてのはじまり

さて、前置きが長くなりましたが、実際に創世記を見ていきましょう。

創世記は大きく二つに分けることができます。1章から11章までの、すべての始まりについて書かれた部分と、12章から50章までの、アブラハムとその家族の物語です。

1章から11章までは、神様がこの世界をお造りになり、人間を特別な存在に造られ祝福されましたが、人間がそれを台無しにしてしまったことを描いています。

1:1は神がこの宇宙の創造者であることを宣言しています。私は宇宙の神秘に触れるようなドキュメンタリーとか好きで、特集番組があれば必ずといっていいほど見ますし、YouTubeに宇宙関連の動画を見つけるとついつい見入ってしまいます。

しかし、聖書の関心は140億年くらいまえに起こったビッグバンとか、膨張する宇宙とか、ブラックホールとかではありません。創世記1章が描く天地創造は、神が人間のための生きる場として、これから始まる長い物語の舞台として、この宇宙を、この世界をお造りになったということです。

もとから神がおられ、神がこの宇宙をお造りになったのです。そして人間のためにこの世界をよく考えて造ってくださいました。便利で役に立つというだけでなく、素晴らしいもの、美しいものとしてお造りになりました。

1:2「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた」とあります。茫漠なんて、使ったこともない日本語が出てきますが、以前は「地は形がなく」と訳されていました。もともとの言葉が、形がないという以上に、荒れ果てているとか、混とんとしているとか意味がないというような状態を表す言葉のため、茫漠という聞き馴染みのない日本語に訳されました。

しかし、そこに神の霊が動いていました。これはイメージとしては母鳥がはじめて飛び立とうとする雛の上を羽ばたいて励まし、待っているようなもので、意味も秩序もない世界に神が形と意味を与え、世界が誕生するのを待っているかのようです。

そこから創造の7日間がはじまります。「光をあれ」から人間の創造、そして神が安息をとられた7日目までです。これが宇宙誕生と生命誕生が実際に24時間かける7日間という意味なのかどうかは考え方が分かれるところです。

忘れてはならないことは、モーセはこの創世記を宇宙の起源や生命の起源を正確に描くために書いたのではなく、神の民として歩み始めた人々に、神がどういう方か、人間はどういうものか、そして私たちはなぜ6日間働いて7日目に安息日を取るべきなのか、その意味は何なのかを理解させるために書いているということです。

創世記1章の1日が24時間か、それとも数万年、数億年という時間のまとまりを一日と呼んでいるのか、という議論が熱心にされることがありますが、重要なポイントを見失わないと無意味なものになります。初めに神がおられ、神がこの世界をお造りになりました。そして31節にあるように、この世界は非常に素晴らしい、良いものとして造られたということです。もちろん、私たちはその素晴らしさ、美しさを今も味わうことができます。

3.神のかたちとして

そんな、素晴らしく良い世界を舞台として、人間が誕生します。それが今日お読みした1:26以下のところになります。

ここもまた、深く掘り下げれば、たくさん調べるべきことが出て来ますので、あまり深みに入らず、しかし、肝心なところはちゃんと目を留めたいと思います。

人間の創造について重要な3つのポイントがあります。

第一に、人間は「神のかたちとして」「神の似姿」に造られたということ。第二に、人間には神の代理としてこの世界で果たすべき務めが与えられたということ。第三に神は人間を祝福しておられることです。

まず第一に、人間は神のかたち、神に似せられて造られました。目に見えない神様のかたちとはどういうことか、どのあたりが似せて造られたのかというと、ごく簡単に言えば、神様の性質に似せて造られたということです。能力という点では比べようもないほど差がありすぎ、無限の存在でもありませんが、考え、感じ、思い、愛することができるというところは神様に似せられています。共通点があるということは、そこに親しさや交わりが生まれるということです。私たち人間の側では神様のことなんか関係ないと思っている人も多いですが、神様のほうでは、そうではないのです。ご自身に似た性質を持っている人類が、この世界で苦労したり悩んだりしている姿を心に痛みを覚えながらご覧になり、助けようとしておられます。それもこれも、そもそも神様が人間をご自分の性質に似せて造られたからです。

第二に、神のかたちとして造られた人間には、神様の代理として、この世界を管理し、より美しく、より豊かにしていく務めが与えられました。「支配せよ」という言い方が使われていますが、支配するというのは、横暴な王様が国民を虐げ、贅沢三昧するようなことを意図しているのではなく、良い王様が国民の幸せや安全を願っていろいろと努力するようなものです。どちらも支配ということですが、自分のためにそれをするのか、それとも神様の代理として神様のものを大切に管理するのかの違いです。

実際、人間の歴史は人が生きる世界をうまく管理し、資源を利用し発展もしましたが、強欲さがまさって生物を絶滅させたり、資源を取り尽くしたり、環境を破壊してしまうこともありました。

第三に、神のかたちとして造られた人間を、神様はおおいに祝福してくださいました。28節に「神は彼らを祝福された」とあります。「生めよ。増えよ。地に満ちよ」という言葉はこれほど人口増加して逆に人類の様々な不幸や争いを生み出している現代ではむしろ呪いではないかと思えなくもありませんが、それは人間の罪が生み出した不幸であって、もともと、神は人間を祝福しておられるのです。だから、神様は繰り返し聖書の中で祝福を約束し、恵みの上に恵みを注ぎ、癒やし、回復を与え、天の豊かさのすべてを受け継がせようと語りかけてくださいます。それは神に従った者へのご褒美というより、神が本来人間に与えようとしておられた祝福を、与えるということです。一度手放し、受け取る資格を失った私たちに、もう一度取り戻させようということなのです。

神様にとって人間は、現状ではかなり問題はあるけれど、それでもご自身のかたちに造られた、祝福されるべき存在なのです。

適用 神と隣人にふさわしく

創世記1章は聖書全体の入り口です。ここに書かれていることの最も大切なことは、この世界を創造された神がおられ、その神にとって人間は、ご自分と似た性質をもった、祝福されるべき存在であるということ。そして31節にあるように、神様にとって非常に良いもの、満足できるものだったということです。

このことが、なぜ私たちは神を怖れ敬うべきなのか、この世界を大切にしなければならないのか、そして人間を価値あるものとして認め、大切にすべきなのかの根拠になります。

ここで神様が私たちに語っている大事なメッセージは、「わたしにとってあなたは大切だ」ということです。

今日の説教題「たいせつなきみ」はマックス・ルケードというアメリカ人牧師が書いた絵本のタイトルをお借りしました。エリという彫刻家が生み出した人形たちの世界を舞台にしたその物語の中で、人形たちは互いに比べ合い、競争します。その中で何をやっても失敗ばかりの主人公パンチネロはみんなからダメだしばかりされ、すっかり自信を失っていました。そんなパンチネロはある時、彫刻家エリに会いに行きます。そこでエリはパンチネロに、「みんながどう思うかなんてたいしたことじゃない…もんだいは このわたしが どう思っているかということだ。そしてわたしは おまえのことを とても大切だと思っている」と語りかけます。とても素敵な物語ですし、教会図書にもありますからぜひ一度読んでみてください。

ルケードはこの物語を、競争社会の中で疲れたり、人と比べて自己嫌悪に陥りやすい現代人に、創造主である神が、私たち一人一人をどれほど大切に思い、愛してくださっているかを伝えたくて書きました。

確かに、私たちをとりまく世界は、神が愛してくださっていることをにわかに信じがたいことであふれています。天地創造の時は素晴らしかったかもしれない自然界は、時として私たちに牙をむき、得体の知れないウィルスで襲いかかり、巨大な地震や津波がふるさとを消し去るのを私たちは見て来ました。

神はあなたを愛しているといくら言い続け信じようとしても、私たちが生きて生きている世界や社会で自分が価値があるとは簡単には信じられません。人生に起こる様々な苦難に、神が居るならなぜこんなことを許すのかと腹を立てたくなるような時があります。愛される資格があるという確信を持ち続けるのはなかなか難しいです。そんなことを下手に口にしたら、周りからへんな目で見られ、自意識過剰じゃないかと敬遠されるかも知れません。

けれども、それが勝手に妄想をふくらまして、自分はすごい人間だと思い込むようなものとは全然違います。聖書の最初のメッセージに立ち返り、神がどう思っておられるかに聞くのです。

この世界をお造りになり、人間にいのちを与えた神は、私たち一人一人の中にご自分の姿に似た姿を見ておられ、祝福を受ける価値がある者として、大切に思っていてくださるのです。

その信仰が、創造主である神に対しては恐れと信頼を生み、隣人に対しては、神が大切にしておられる存在として、敬意を払い、大切にする態度を生み出します。神を愛し、人を愛するという、聖書の中心的な命令の出所がここにあります。

しかし、その前にまず、私たちは、神様が私を大切に思っていてくださるというメッセージを静かに思い巡らし、その愛に包まれていることを思いましょう。

祈り

「天の父なる神様。

天地をお造りになり、人間にいのちを与え、これを祝福し喜んでくださる神様。心から感謝します。

今なお、神様が私たちをそのように大切に思っていてくださること、愛し、祝福したいと思っておられることを信じられるようにしてください。

この世界の状況が、神の愛を疑わせたり、人生に起こる様々な出来事や、出会う人たちが私に何を言うと、神がどう思っておられるか、そのことばにこそ耳を傾けさせてください。

そうして神様を愛し、あなたが愛しておられる隣人たちを私たちも敬い、大切にしていけるようにしてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」