2020-10-18 ざんねんないきもの

2020年 10月 18日 礼拝 聖書:創世記3:1-13

 少し前に「ざんねんないきもの事典」という子ども向けの本がヒットしました。様々な生物の面白い生態をユーモラスに描いたものです。

人間の目から見たら、面白く、時には滑稽に見える行動や生態も何かしら意味があるはずで、神様がそのような特徴を与えてくださったり、置かれた環境の中で身につけて来たものだったりします。あるいは以前は意味があったのに、新しい環境の中で意味をなさなくなり、面白く見えるということなのかもしれません。

けれどもそれが面白く見えるのはあくまで人間にとって、ということで当の動物たち自身はきわめて真面目に、そして種の生存という使命のために必死で行っているに違いないのです。

本当の意味でまことに残念な生物は、この地上でたったの一種類だけです。それは私たち人間です。

前回、神様がこの世界をお造りになり、あらゆるものを備えた上で、人間を神様のご性質に似せて特別に造り、祝福し、この世界を託しました。この世界を造られた神がおられ、神様にとってあなたは特別に大切な存在なのだということが天地創造の箇所の最も重要なメッセージでした。そんな人間がまことに残念なことになってしまうのが今日の箇所です。

1.自由と選択

第一に、神様は人間に自由を与えておられます。

今日の箇所の舞台となったエデンの園は、人間が神様とともに歩み、その祝福をたっぷり受けながら、任された園をさらに美しく豊かにしていく務めを受けた場所でした。地上のパラダイスと言っても良いと思います。家内の実家の近くにパラディソというお店があります。スペイン語でパラダイス、天国、楽園という意味ですが、残念ながらそこはエデンの園のような場所ではなく、お金を吸い取るパチンコ屋です。

アダムとエバが暮らしたエデンは本物の地上の楽園でした。それどころか、共にこの場所をもっと素晴らしいところにしていくことが出来たはずです。

エデンの園のいたるところに実を結ぶ木が生えていて、どれでも取って食べて良いとされていました。園の中央には二本の特別な木がありました。2:9に「いのちの木」「善悪の知識の木」という二つの名前が出て来ます。この二つは、創造主である神様と人間の関係を表す象徴的な意味を持っています。

「いのちの木」についは、食べてはいけないとは言われていません。園にある他の木から食べ物を得て良かったように、これも食べて良かったのでしょう。黙示録の天国の場面で、もう一度この「いのちの木」が登場します。この木は神様との特別な交わりの中にあり、いやしと命をもたたらすものとして描かれています。

しかし「善悪の知識の木」は食べてはいけない木でした。

アダムとエバはものごとの善し悪しが全く分からなかったわけではありません。善悪の区別がなく、任された仕事をするだけならただのロボットです。人間は、最初から神に似たものとして造られましたので、自由に考え、判断し、決断する力が備わっていたのです。気に入ったものを選んで食べることができました。どうすれば園がもっと良くなるか自分で考え、判断することができました。

しかし、この「善悪の知識の木」が置かれ、「これは食べてはならない」と言われることで、神様が「これはだめ」とおっしゃったことについては「その言葉を信頼して食べない」という選択をし続けることを期待されたのです。

善悪の知識の木から取って食べたら死ぬ、と神様は警告されました。後で分かりますが、それは別に毒が入っていたわけではありません。アダムとエバは「死ぬ」と言われたことが何を意味しているかその時点では分からなかったでしょう。また、なぜ死ぬ事になるのか、どうしてそんな木を神様がわざわざ置いたのかも分からなかったかも知れません。そういう意味では、神様のことばを信頼するか、背を向けるかを試すものであったということができます。

今日に生きる私たちは、生まれながら罪の性質を持って生まれていますので、アダムやエバの本当の状態がどうであったかは分かりません。それでも、もしかしたら、子どもの頃に初めて自覚的に「これは悪いことだ」と分かっていてやってしまったという記憶があるかもしれません。初めて嘘をついてしまったとき、初めて意地悪をしたとき、初めてアイスを買いたくて親の財布から50円玉をくすねたとき。その時も私たちには自由が与えられており、善悪の知識の木はなくても、これはダメという声を信頼して従うか、それとも自分のしたいことを優先するか問われていたのです。

2.誘惑と罪

第二に、アダムとエバはその自由を、神様に背を向けるというしかたで使ってしまいました。この神のことばを信頼せず背を向けるということを聖書は罪と言います。決して犯罪や道徳的な悪だけを罪と言っているのではないのです。

蛇が何者であったか、特別な説明がありません。しかし異常事態が起こっていたことは確かです。神様がこの世界をお造りになったときには、非常に良いものだったからです。ところが今、良いものであった生き物の一つ、蛇が人間を惑わすものとして登場します。

創世記の時代には蛇が人間の言葉をしゃべれたというのは、ちょっと想像しすぎかと思います。それよりも、聖書の最後、黙示録にはこの蛇とおぼしき者のことが描かれています。

「こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。…。」

アダムとエバの時から、世の終わりの時にいたるまで、神様の造られた素晴らしい世界をダメにしようと惑わす悪魔が、蛇の姿を借りてエバに近づいていったと考えて良いかと思います。

蛇はエバに聞きました。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」

これは明かに間違った質問です。神様はまったく逆のことをおっしゃったのです。しかし、そこが彼のずる賢いところです。真逆の質問をされると、人間というのは一瞬「あれ?そうだっけか?」と考えます。そしてエバは蛇の質問を否定し、神様が言ってもいないことまで付け加えて答えてしまいました。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」

神様は「触ってもいけない」とはおっしゃいませんでした。エバは神のことばを大げさに厳しくしてしまいました。逆に、「必ず死ぬ」と言われたことは「死ぬといけないから」と、死ぬ可能性があるかのような言い方をしてしまいます。

こういうふうに、してはいけないことを強調しすぎることや、最悪のケースを直視しないように心が動くのは、今の私たちと何も変わりません。そこに隙が生じます。そして蛇はまさにそれを待っていました。すかさず「あなたがたは決して死にません」と大胆に神のことばを否定します。それはある種の譬えであって、神が本当に気にかけているのは、あなたがたが死ぬ事ではなく、あなたがた神のようになってしまうことだ。神は人間が神のようになることを望んでいない。だから死ぬなんて恐ろしげなことを言うけれど、大丈夫、食べたら賢くなって神のようになれるんだよ。けれど皮肉なことに、人間はもともと神のかたちに造られたものだったはずです。

しかしそんなふうに言われて、エバがあらためて木の実を見ると、それは良さそうに見えたのです。それで、食べてしまいます。

アダムはどうしていたのかというと、6節にあるように「ともにいた」つまり、そこに一緒にいたのです。妻が蛇の誘惑にふらふらしているところを見ながら黙って見ていたのです。そして勧められるがまま、自分も食べてしまいました。ほんとはは食べたかったのかもしれません。

3.罪の結果

第三に、罪には死という代価が伴います。

神様は、アダムとエバに「必ず死ぬ」と言われましたが、その意味は私たちが普段言葉にする「死」とはすこし意味合いが違っていました。

聖書全体が死をどのように描いているかをみれば、肉体の死はほんの一つの面にしかすぎません。死は、本来結び合わされているはずのものが引き裂かれ、引き離されることを差しています。

蛇は「決して死なない」と言いましたが、その視点で見ると、アダムとエバは神様のことばに背を向けた時に、ただちに死に始めたのです。死は大きく分けて5つの面があり、それらはアダムとエバ、そして続く子孫たちすべてを飲み込んで行きました。

第一に、死は自分自身の心が引き裂かれることです。彼らが神のことばに背をむけたときに最初に経験したことは自分を恥じるということです。7節に「裸であることを知った」とありますが、素のままの自分をそのまま晒すことを恥じるようになった、服を着ているかどうかというより、自分自身のありのままの姿を受け入れられなくなったということです。

第二に、死は造り主である神と離れることです。8節で神様がいつものようにエデンの園にいるアダムとエバに声を掛けると、彼らはすぐに「神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠し」ました。いいつけをやぶったときに親の目をまっすぐに見ていられない。やましい思いがある時には目をそらしがち。そんな経験はたいていの人が身に覚えのある事でしょう。罪の結果は、神との間に壁を作ります。最初は顔を隠すという薄いベールのようなものから、ほうっておけばその壁はどんどん厚く、高くなっていきます。

第三に、死は人間関係が引き裂かれた状態です。特に最も親しい者との関係に亀裂を生みます。11節で神様は問いかけます。「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」

それに対する12節と13節のやりとりは、私たちが普段の生活でもよく目にする光景です。責任を相手に負わせ自分のせいじゃないと言い張ります。「ふたりは一体となる」と言われ、これ以上なく親密な夫婦の絆がいとも簡単に引き裂かれてしまいました。

第4に、死は神の恵みから引き離された状態です。14節から19節には詩のかたちで、神のことばに背を向けさせた蛇と、神に背を向けたアダムとエバ、その子孫に課せられた報いが詩の形で記されています。蛇には呪いと最終的な滅びが宣告され、人間には、男も女も、人生全体が呪われたものとなることを宣告します。生活のすべてに苦しみ、悲しみ、労苦が入り込みます。油の切れた自転車がキイキイ不快な音を立てるように、オイルの切れたエンジンがへんな匂いや音を出すようになり、しだいにエンジンがダメージを受けついには壊れてしまうように、神の恵みを失った人生は、あちこちにきしみが生まれ、問題が次の問題を生み出してしまいます。

そして最後、第5に、死は肉体と魂が引き裂かれた状態です。肉体は土に還り、霊は神の前に立たされるのです。これが、普通に言う死です。創世記5章には系図がありますが、アダムの子孫たちがみな「こうして彼は死んだ」と記され、罪と死が人間を支配するようになった現実を淡々と描いています。

適用 それでも希望はある

神に背を向けた人間が罪と死に支配され、神の祝福から遠ざけられたことは、エデンの園からの追放、ということで目に見える形でも突き付けられました。

今日の箇所はとても重い話しです。先週見た天地創造の場面では、神様がこの世界をとても素晴らしいものとしてお造りになり、人間をご自分の性質に似せた、神のかたちとして造られ、祝福し、「わたしにとってあなたは大切だ」というメッセージを伝えてくれました。

しかし、今日の箇所に出てくる人間は、まさに「ざんねんないきもの」です。自由と喜びの中にあったのに、せっかく受けた愛と祝福を、神のことばに背を向けることで自ら手放してしまったのです。罪とその結果にしばりつけられ、やがて死ぬ者になってしまったその姿は、新約聖書が語る「罪の奴隷」そのものです。

しかし、ここには罪の呪い、報いとともに神の恵み、希望が刻まれています。

人生に様々な苦難を招いてはしまいましたが、肉体の死は引き延ばされました。やってしまったことを元には戻せませんが、しかし、その中でも人生をやり直すことはできるということです。実際、アダムとエバは、この後、あの有名なカインとアベルの兄弟殺しという悲惨な罪の姿に直面しますが、それを乗り越え、やがて神に祈ることを始めます。罪深い人間であっても、神と共に歩む道は残されているのです。

また、神様は21節で二人のために「皮の衣を作って彼らに着せ」てあげました。

二人が自分たちの恥を覆うためにこしらえた無花果の葉っぱで作ったものは数日でボロボロになってダメになるでしょう。人間は自分で自分を覆うことすらできないのです。そんな人間のために神様は皮の衣を作りました。そして、着せてあげるのです。人間の恥を覆うために動物が少なくとも一匹犠牲になりました。そうしてでも神様は罪と死に支配されたアダムとエバに、なおも寄り添い、癒やしを与えたいという思いを伝えています。

私たちは、自分の罪のために恥を覚え、神の目を避ける恐れ、罪の結果がもたらす様々な苦しみ、傷に悩みます。それを無花果の葉っぱで一時しのぎのようになんとか繕おうとしますが、それは簡単にほころびてしまいます。私たちは神様ご自身が備えてくださるものによってしか、安心を取り戻すことも、回復を得ることもできません。

この動物の犠牲による皮の衣の話しは、旧約時代の罪の赦しを得るために動物を犠牲にしなければならなかったこと、そして究極的には神のひとり子イエス様の犠牲によって私たちが赦され、新しい衣を着せられるという、救いへと繋がっていきます。最初に創世記を読むことになった人々は、なぜ自分たちが罪を犯すごとに神に羊やら牛やらを捧げて赦しを求めなければならないかを知ることになりました。そして、私たちは、何千年たとうが人間の罪は変わらず人間の中にあり、そして私たち自身の中にあり、罪がもたらす様々な死の姿を自分では何ともしようがないことを覚えさせられるのです。そして、そんな残念な人間たちを、それでもなお大事だと語ってくださり、救いを用意してくださった神様の愛と恵みに、ただただ希望を見出すのです。

正直に自分自身を見れば、罪は他人ごとではありません。アダムやエバとなんら変わることのない罪があり、神のことば、神様ご自身に背を向けてしまう罪の現実があることを再確認しつつ、それを覆い、救ってくださる神様の大きな恵みが差し出されていることを感謝を持って受け止めましょう。

祈り

「天の父なる神様。

アダムとエバの時以来、私たちは神様のことばに素直になれず、背を向けてしまう、そんな性質を生まれもって持つ者です。

そのために自分自身を受け入れられなかったり、人との関わりの中で傷つき傷つけ、また人生に様々な労苦を背負い込んでしまいます。しかも、造り主である神様の前に、なかなかへりくだることのできない者で、自分で覆い隠そうとし、神様の恵みの御手を払いのけるような者です。

それでもなお、あなたは私たちを愛して、忍耐強く手を差しのばしてくださいます。私たちの救いのために独り子イエス様を犠牲にまでされました。

どうぞ、私たちが自分の罪をはっきりと自覚し、なおも愛してくださるあなたの愛と、備えられたイエス様による救いを受け取ることができますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」