2020-11-29 按手式奨励

2021年 11月 29日 礼拝 聖書:コリント第二 4:1-10

 あらためまして、デイビッド先生、そして宮古と盛岡の兄弟姉妹の皆様、おめでとうございます。岩手教会連合を代表して、心からお祝いを申し上げたいと思います。

今回、牧会従事者というあまり聞いたことのないタイトルの働きに立てられるということで、その意義についてしばらく前から考えていました。

宣教師という身分で、盛岡聖書バプテスト教会が主体となってなされている開拓伝道の働きのために派遣された現地責任者である方に、牧会の役割も担っていただく。しかし、牧師ではないという、不思議な立ち位置です。

けれども、これはあくまでこの地上での教会制度上の話しであって、神様がある人たちを教会の指導者として選ぶ場合に求めることは基本的に同じです。牧会の責任を担うというのは、単にバプテスマを授けたり、主の晩餐を授けることができる資格の話しではありません。

牧会従事者という肩書きであっても、福音を宣べ伝え、聖徒たちを整えるにあたって、牧師と同じ心で仕えていく必要があります。

牧会の働きを担って行くということは、3つの真理を発見をし続けることであると思います。

第一に、牧会の務めをする者は、人間の罪の闇の深さを知り続けることになります。

教会にいらっしゃる方々の多くは決してひどい悪人ではないかもしれません。それにも関わらず、その悩みや思い煩いの背後にある罪、家族の中に長く隠されていた深い闇に気づかされることがあります。また、深い悲しみや攻撃的な態度の中に、かつて誰かから受けた悪意やそのために残った傷の深さに気づかされることがあります。脅かすわけではないですが、意地悪な批判や悪意しか感じられないような言葉や態度を、兄弟姉妹であるはずのクリスチャンから受けることもあります。けれども牧会者はまるで素手で刀を受け止めるようにして向き合い、忍耐強く関わることが求められたりするのです。

しかし第二に、牧会の務めをする者は、救いの恵みの素晴らしさを発見し続けることになります。

人がイエス様を信じてクリスチャンになる時はもちろんですが、クリスチャンがみことばによって成長したり、人知れず忠実に歩んでいる姿を見ることができます。深い傷や悩みから回復したり、悔い改め、和解し、他の人のために汗や涙を流すようになるのを見る事ができます。牧会をすることで、救いというものが罪赦され天国行きの切符をもらうだけのことではない、生涯続く恵みの連続であることを知ることができます。

第三に、牧会の務めをする者は、その救いの素晴らしい恵みの器である自分が「土の器にすぎない」というみことばの意味をより深く知り続けることになります。

説教の準備をするとき、人と関わる時、自分の欠点や弱さに気付く時、可愛かった子どもたちが手に負えなくなったとき、肉体的な衰えにちょっと気づき始めた時…様々なときに、宝物ののようなキリストを入れる器である自分が高価な金銀の器ではなく、割れやすく、あまりふさわしくない土の器であることを気づかされます。しかも、それが年々より深く自覚するようになります。けれどもそのような経験こそが、神様の恵みの深さ豊かさを味わう素晴らしい機会になります。それはイエス様の恵みの豊かさが表されるためであり、私たちがますます謙遜になるためでもあります。

そうやって牧会の務めにあたる人は、へりくだり仕える、キリストに似た者とはどういう者かを指し示すモデルにもなるのです。牧師じゃなく、牧会従事者だから、と言うわけにはいきません。しかし、名前に関わらず、この素晴らしい恵みを味わう特権が与えられています。

牧会の働きはそのように、重い務めであり、そこに真実に取り組もうとしているのですから、デイビッド先生はよく祈り、みことばに学び、人々の魂によりそいながら、忍耐強くご奉仕していただきたいと思います。そして教会は神様が立てた者として敬い、支えていく責任があります。

宮古めぐみキリスト教会の祝福のために、今日はこの場においでになれない岩手教会連合の諸教会の兄弟姉妹、先生がたと共にお祈りしています。

 

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