2020-12-27 主を愛しなさい

2020年 12月 27日 礼拝 聖書:申命記 6:4-12

 同じことを何度もくり返し言われて「しつこいなあ」「うるさいなあ」と思ったことはないでしょうか。「それさっきも言ったよね」「分かってるから」。よくある光景です。言われる方はちょっとくどいなと思うのですが、言う方は、すごく大事なことだから念を押してくり返すわけです。

モーセ五書とか、トーラー、律法と呼ばれる聖書の最初の5つのかたまりはこの申命記でお終いです。

申命記という書物の名前は、「再び命じる」という意味から来ています。申命記は、エジプトから約束の地までの40年の荒野の旅を終え、もう間もなくヨルダン川を渡って約束の地へ入るという時にモーセによって語られた、いわば説教集です。モーセ自身、すでに120歳になっていましたし、神様からは「お前も約束の地には入れない」と言われていましたので、これはの最後の説教だという意識をはっきりもって語られたものです。そのようなわけで、出エジプト記で神様から与えられた律法をもう一度民にくり返して語り聞かせ、このことばに誠実に応えるようにと戒め、励まし、警告を与え、また祝福を願っているのです。

申命記全体は、3つに分けられ、最初は荒野の旅を振り返って、新しい世代への説教、中程に律法の教え、最後に別れの説教というような構成になっています。

1.旅を振り返って

今日開いている箇所は、最初の説教の部分の中心にある箇所で、申命記全体のテーマであると言えます。

イスラエルの人々は最初の「聞け」という言葉のヘブル語から、この箇所を「シェマー」と呼んで、イスラエルの民であるなら必ず暗記すべき箇所としていました。

ユダヤ人の間では、両親が子どもを寝かせる時にこのシェマーを聞かせる習慣があったそうです。イエス様も、この箇所をよくご存じで、この箇所が聖書全体の要であると教えています。

モーセとイスラエルの民は、モアブの平原にいました。そこからはヨルダン川を挟んで、向こう岸に城壁に囲まれたエリコの町があります。しかし、今モーセの目の前にいる民は、40年前にエジプトを脱出したときの顔ぶれとはほとんど入れ替わっています。当時の事を知っているのは自分とヨシュアとカレブだけです。モーセは、その顔ぶれの変化の意味を痛いほどよく理解していました。

それで申命記の最初の部分は、イスラエルの民の荒野の旅を振り返って、世代交代した民に向けて、神の恵みと真実に誠実に応えなければならないと教え、激励している箇所になります。

神様は、先祖アブラハムとの契約に基づいて、エジプトの奴隷であったイスラエルの民を救い出し、神の民としてくださいました。そしてイスラエルを全世界に神の祝福をもたらす「祭司の王国」するという契約を結び、律法を与えました。しかし、エジプトから救い出された人々の心は頑なで、反抗的。何度も何度も神様に逆らい、約束の地なんか行きたくない、エジプトのほうが良かったとモーセに文句を言い続けました。そのため、最初の世代は約束の地に入ることが許されず、すっかり世代交代した新しい世代の民だけが生き残り、モアブの平原に集まっていたのです。

モーセは自分の命が間もなく終わりを迎えることを分かっていましたので、自分が死んでからも、神様を愛し、そのみことばに聞き従うように。そうでないと荒野で滅んだ前の世代と同じ轍を踏むことになると警告しします。

同じことを何度も言われるのは誰でもあまり好きではないかもしれませんが、同じ失敗を何度もくり返してしまうのもまた事実。そして、大事なことを度々忘れてしまいます。大事なことというのは、携帯をどこに置いたかとか、鍵をどこにやったかということではなく、私たちは何者なのかということです。私たちは神様の恵みによってイエス様の故に救われた神の民です。

ですから、この言葉は6節から9節に記されているように、あらゆる仕方で心に留めることを求めました。それは子どもたちに教えるべきことであり、座っている時も、歩いているときも、ベッドに入る時も朝目ざた時にも思い起こすべきものでした。

最近の日本の教会では暗唱聖句の習慣が殆どみられなくなりました。すぐ検索できるし、覚えていなくても困らないと思っているかも知れませんが、記憶することは心に留めることの第一歩です。

モーセは前の世代と同じ運命をたどることがないように、このことをしっかり心に刻むようにという意味で印象的な言い方で強調しています10:16です。イスラエルの人が神の民であることを証しするための目に見える割礼ではなく、心に刻みつけなさいということです。この表現は後の方で出てきますので、覚えておきましょう。

2.主を愛せよ

何としてでも心に留め、子どもたちにも教え込むよう命じられた教えの内容とは、「主を愛せよ」ということです。

この主を愛する、という中心的な教えですが、これには重要なポイントが3つ込められています。

まず「聞け」という言葉で始まります。先ほども言いましたように、もとの言葉がシェマーで、この箇所の呼び方になっています。この「聞きなさい」という言葉は、ただ耳で聞くという受け身のことではなく、聞いて応答するという意味があります。

私たちも「言うことを聞きなさい」という時は、ただ話しを聞いているだけでなく、応答を求めますが、それと同じです。神様は、この命令をただ聞いて、記憶するのではなく、実際に応答すること、言い換えるなら「聞き従うこと」を求めています。

二つ目に、私たちの神は主ただお一人だということです。イスラエルの民がそうであったように、私たちの周りの世界は、多神教の世界です。様々な神々があります。だから日本は多様性のある社会だなんてきれい事を平気で言う人が居ますが、とんでもない嘘です。もちろん、私たちの周りの人たちが、いろんな神様を信じていることは受け止めなければなりません。そういう世界なのですから。しかし私たちは、聖書の神様だけを神として認め、この方だけを神として礼拝します。他のものは文化としては尊重しますが、それを神として崇めるよう求められたらきっぱり断らなければなりません。一生添い遂げると結婚式の時に約束したら、どんな理由があっても、自分に都合良く浮気を正当化できないし、そうすべきでないのと同じです。

三つ目に、「愛する」というのは、気持ち、感情として好きだとか、大切だ、というだけでなく、5節に「心を尽くし、いのちをつくし、力を尽くして」とあるように、神様を大切にして自分を捧げる、言い換えるなら献身することを求めています。

ただ言葉として、教えとして聞くだけでなく、ただお一人の神、主を愛し、献身するよう応答を求めているのがシェマーの中心です。そして、イエス様の言葉によるなら、これが隣人を愛する事と同じく、聖書全体の要であり、もっとも大切な戒めです。

宗教はこれだから面倒だ、そこまで従え要求されると困る、という人がいるかも知れませんが、愛というものをいくらかでも知ったなら、それは決して不当な要求ではないということが分かるはずです。

私たちは夫婦であれ親子であれ、大切にして欲しいですし、口先だけでなくその愛を行動で表して欲しいと思います。自分がやっていることは棚に上げてでも、それは求めます。人間ですから、けっこう自分に都合良くて、相手からしたら「なんだそりゃ」って思うような幼稚な形かもしれませんが、愛は気持ちだけでなく、自分を捧げることだと私たちは知っているのです。

神様はこの世界をお造りになり、私たちに命を与えた方、私たちを愛する故に、独り子の命の代価で罪の赦しと神様の子どもとする特権を与えた方です。そのように私たちは信じたのですから、神様が愛を求めるのは当たり前の事です。

3.新しい心で

ところで、申命記の真ん中の部分には、主を愛し、聞き従うということの具体的な現れとして、律法が記されています。だいたいが出エジプト記に書かれているものと同じですが、少し追加されているものもあります。

神様は律法を通して、神を愛するとは、まず神を礼拝することである、それと共に貧しい者や弱いものを顧み、助けることでもあると教えました。また、権力者は決して自分が一番偉くなったなどとは勘違いしないで、聖書の教えに聞き従わなければならないと教えます。また民の生活が、周りの国々や民族よりもずっと高い倫理性、道徳性を持っていなければならないことを教えました。なぜなら、イスラエルの民は祭司の王国として、神様の素晴らしさ、栄光を現し、祝福をもたらす者でなければならないからです。その最大の特徴が、孤児や未亡人、在留している外国人、身体障害者などへの配慮、社会正義が強調されていたところです。

これらの律法は3千年以上も前のものですから、今の私たちから見ると厳しすぎたり、ちょっと意味が分からないようなものもありますが、当時の周囲の国々の法律と比較すれば、神の民として求められた聖さ、社会の正義がとても高いものであったことが分かります。

しかし、私たちも経験することですが、神様を愛し、みことばに従って正しく生きようと願っても、なかなか実行できなかったり、長続きしなかったりします。その上、私たちの心の中には神様の願うのとは反対のものを求める性質があって、道を外れがちです。

モーセはそのことをよく知っていました。自分の死後、荒野で滅んだ民の頑なさは新しい世代に入れ替わっても簡単には消えず、きっと堕落して道から外れるだろう。それによって再び災いを招くことになるだろうと不吉な予告をします。

しかし同時に彼は、神様の哀れみと赦し、そして心を新しくしてくださるという約束を告げます。これは申命記のもう一つの要となる箇所です。30:1~6を開きましょう。

神様とイスラエルの民は、契約関係にありました。民が契約を破るなら災いを招きます。しかし、人間の頑なさにまさる神様の恵みが常にあり、人々が我に返って主に立ち返るなら、回復を与えると約束なさるのです。

その約束の中にさりげなく6節でこう告げているのです。「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。」

この表現は前に出てきた10:16と対になっています。10章では「あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい」という命令になっていましたが、ここでは「あなたがの神、主」が「心に割礼を施」すという宣言、約束になっているのです。それによって人々が「主を愛し、そうしてあなたがたが生きるように」変えられる。つまり、神様が私たちの心を新しく造りかえ、新しい歩みができるようにされるということなのです。

新しい心で生きるということが、神の祝福を受け取るために守り従うべき命令から、神様からの贈り物となったのです。

適用 誠実であるように

申命記はボリュームもあり、奥深いもの、イエス様も愛読したと言われている書物で、とても一度では語り尽くせないのですが、とにかくざっと中心的なことだけを見て来ました。

申命記を通して神様は、救い出して神の民としてくださった神様を愛し、その神様に対して誠実であるようにと語りかけています。

そのためには、今までとは違う生き方、新しい心で新しく生きることが必要なのです。申命記30:6で「新しい心を与えると」約束されたことは、申命記の中ではまだ明らかにされていませんが、私たちはその約束がイエス様を通してすでに果たされたことを知っています。

有名なコリント第二5:17にはこうあります。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

「イエス様によってすべてが新しくされている」すごく魅力的な言葉ですが、実感するのが難しいものでもあります。ある瞬間、たとえばイエス様を信じます!と告白したときとか、バプテスマを受けた時は「新しくされた」という感覚でいっぱいになるかも知れませんが、大抵の人は三日と持たず「ほんとうにそうかな」と感じるようになります。

これにはわけがあって、私たちが新しくされるというのは、生涯を通して続けられるものだからです。

エペソ4:22~24を開いて見ましょう。ここには、イエス様について私たちが学んだはずの真理として、古い生き方を捨て、新しい生き方を身につけて行くことについて書かれています。

注意して読むと、古い生き方を捨て、新しい人を着るというのは私たちのすべきことですが、23節にあるように「霊と心」は新しくされるとあります。私たちの霊と心は神様によって新しくされます。すべての罪が赦され、神様の子どもという新しい身分、神の民としてイスラエルがになっていた務めを果たす新しい役割、永遠のいのち、神のものとされたしるしとして聖霊が心の中に住んで下さることなど、イエス様を信じた時にすっかり新しくされるのです。しかし具体的な生き方として、その新しさを表していくのは私たちの行動ということになります。

つまり、私たちは、既に自分が新しくされていることをいつでも思い出し、確信し、その内なる新しさに相応しい生き方を選び続けていかないといけないということです。せっかく心を新しくされても、生き方が以前のままなら、ちょうど着古したぼろい服ばっかり選んで着るようなもので、自分が新しくなったことを忘れ、実感できなくなってしまうのです。

着慣れない新しい服より、くたびれていても着慣れた古い服のほうが馴染んでいる感じがします。同じように、神様の子とされた新しい生き方より、罪や悪い習慣だとしても古い生き方のほうがたぶん慣れていて、馴染んでいるはずです。けれど、そこに留まり続けるなら、エジプトのほうが良かったといって文句ばかり言って荒野で滅んだ民と同じです。神様は、申命記を通して、神の民とされた私たちに、受け取った救いの恵みに誠実に応答するようにと呼びかけています。神様のみことばに聞き、新しい心で応答し、ただお一人の主なる神様を愛する者として歩んで行きましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今年一年の歩みを導いてくださりありがとうございます。

イスラエルの民が荒野の旅路を歩んだように、私たちは今年一年、新型コロナによってもたらされた全く新しく、そして困難な旅路を歩んでまいりました。

その中で、前は良かったという思いもありましたが、神様がいつも伴ってくださり、真実と恵み深さをもって支えてくださいましたからありがとうございます。

今日は申命記を通して、新しい心で、ただお一人の主を愛するようにと教えてくださりありがとうございます。

私たちは自分の力では新しい心、新しい生き方ができずに、すぐに古い生き方に戻ってしまう者ですが、イエス様によってすべてが新しくされたことを信じます。どうか、その新しい心にふさわしい、新しい歩み、神様を愛し、誠実に応答していく歩みができるように助けてください。

新しく始まる一年のうえにも豊かな祝福を注いでください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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