2021-01-03 新しき地に

2021年 1月 3日 礼拝 聖書:ヨシュア1:1-9

 今年は正月三が日のうちに元旦礼拝と新年最初の主日礼拝があるということで、一昨日に続けて本日もお会いできたことを嬉しく思います。

はたして今年はどんな一年になるのでしょうか。先行きがあまり見通せない感じがしないでもありません。そろそろ新年度の計画を具体的に立てていかなければならない時期なのですが、先月の役員会でも「分からないなあ」というムードでした。

今月のみことばは、ちょうどヨシュア記の箇所ですので、創世記から続けている一書ずつ読んで行くというテーマと合わせて開いています。

ヨシュア記1:9は、私たちと同じように、あるいはそれ以上に、先の見通せない状況の中で語られたように思います。偉大な指導者であったモーセが死に、新しく指導者として立てられたヨシュア。彼は、出エジプトを経験し、40年の荒野の旅をカレブと共に生き残り、モーセでさえ成し得なかった、約束の地をその足で踏みしめることを許された、生ける伝説、今風に言うならレジェンドです。長くモーセの従者として仕えて来ましたし、信仰という面でも文句なし。しかし、モーセはいません。約束の地は目の前に広がっていますが、そこには敵がうじゃうじゃいます。そんな状況で語られたみことばがヨシュアの歩みにどう影響したのでしょうか。

1.恐れるな

ヨシュア記は大きく4つに区分されます。最初の5章ではヨシュアがイスラエルの民を導き、約束の地に踏み出して行きます。この中でヨシュアはモーセがかつて行ったのと同じようなことをくり返して、神がヨシュアをモーセに代わる指導者としたことを明らかにします。そしてヨシュアとイスラエルの民は、神によってせき止められたヨルダン川をわたって約束の地に侵入します。イスラエルの民は、その時初めて約束の地で採れた作物を食べます。その日、荒野の旅の間中食べて来たマナが降らなくなるという印象的な記事があります。

次の部分は6~12章で、ヨシュアに率いられたイスラエルの民がカナン人と戦い、町と土地を占領していく場面。ちょっと血なまぐさいですし、神様が勝利を与える力と誠実さが表される一方、イスラエルの民がなかなか神様に信頼し、従順であり続けるのが難しかったことも明らかになります。これは後ほど取り上げます。

13~22章は約束の地を12部族に分割する話しです。ここはちょっと今の私たちにはピンと来ない話しですが、神様がアブラハムに「この地を与える」と約束されたことが実現したという大事な部分です。

そして最後の23~24章では老年になり、寿命が近づいていたヨシュアのイスラエルの民への最後の説教が記されています。

今月のみことばとして選んだ箇所は、最初の部分、ヨシュアがイスラエルの民を導く段落に含まれます。

ヨシュアがイスラエルの民を導く前に、ヨシュア自身が強められ、励まされる必要がありました。モーセという偉大な指導者が死んでしまった今、気づけば彼はイスラエルの民の中では最長老です。今までは何かあればモーセに聞けばよかったし、何かを決断するのもモーセでした。人々から非難される時も、ヨシュアではなくモーセが責められました。それらをこれからはヨシュアがすべて引き受けなければなりません。

しかも、ヨシュアはモーセがやって来たことを続ければ良いということではなく、これまでとは違うこと、約束の地の攻略という、今まで経験していないことに取り組まねばならないのです。

それで、主はまずヨシュアに語りかけるのです。2~9節がヨシュアへの語りかけの部分です。この中で主はヨシュアに、モーセに約束した事、遡ればアブラハムに約束したことをくり返します。注目すべきは3節にあることばです。「すでにあなたがたに与えている」。これから実際の戦いは始まるのですが、神様にとって約束したことはすでに実現したことと同じです。ですから、勝ち取るための戦いは必要ですが、恐れるなと語りかけるのです。

ちょうど私たちの救いの完成と同じです。罪と死への完全な勝利、からだのよみがえり、天の御国の祝福を受け継ぐことなどが約束されていることであり、すでに与えられているのと同じです。神様が約束されたものは、すでに用意されているのです。

指導者としてヨシュアに求められたことは勝つことではありません。共にいてくださる主に信頼し、そのみおしえに聞き従い、恐れず勇敢であることです。勝利は主が与えてくださるもの。私たちのなすべきは共におられ勝利を与える主に信頼することだと言われるのです。

2.約束の地

ヨシュアはその励ましのことばを握って、民のもとに向かいます。三日で準備を済ませ、ヨルダン川を渡る計画です。

ここから先、5章まではヨシュアが確かにモーセの後継者であることをいくつかの出来事を通して民に印象づけます。

まず、エリコに偵察部隊を派遣します。モーセがカデシュから約束の地に12人の偵察部隊を派遣したのと同じです。しかし、今回はエリコの町でラハブという遊女を協力者として得ます。彼女は後に結婚しイエス様の系図に名前を連ねる人となります。

それから契約の箱を担いだレビ人た先頭に立ってヨルダン川に足を踏み入れます。その時、それまでとうとうと流れていたヨルダン川がせき止められ、川底が見え、人々はヨルダン川を歩いて渡ります。これらはモーセがしたことをヨシュアがくり返したのです。

この出来事はヨシュアがイスラエルの指導者としての地歩を固めた瞬間でした。同時にイスラエルの民にとっては重要な教訓となります。4:24でこの出来事を振り返ってこう語られます。「それは、地のあらゆる民が主の手が強いことを知るためであり、あなたがたがいつも、自分たちの神、主を恐れるためである。」つまり、出エジプトと同じようにヨルダン川を越えさせた神様の御力をこれから闘うカナンの人々に示し、イスラエルの民自身が主を恐れ信頼し続けるためなのです。

6章から12章までは約束の地であるカナン人の土地での戦いが記されています。特に、大きく取り上げられているのがエリコとアイという二つの町の攻略の話しです。

この二つの戦いはとても対称的です。堅牢なエリコの町を攻略するとき、イスラエルの民はほとんど戦闘らしいことをしていません。兵士たちは契約の箱を先頭に立て、町を取り囲む城壁の周りを毎日歩いて一周し、7日目は7周回ります。そして最後に鬨の声を上げると城壁が崩れ落ち、難なく町を攻略してしまうのです。

勢いに乗ったヨシュアとイスラエルの民は次の町、アイの攻略に向かいます。エリコよりも小さい町で、3千人くらいの中規模の部隊で簡単に落とせると思いましたが、何と彼らは返り討ちに遭ってしまいます。イスラエルの民の心は急に萎んでしまいました。

ヨシュアは神様の前に祈り、なぜこのようなことになったのかと問いました。すると、エリコの町を攻略したときに、神様への捧げ者とするように命じられたものの一部をこっそり自分のものにした兵たちがいたことを告げられます。

アカンに対する厳しい処置があり、その後再び神様からアイに攻め上るよう命じられたヨシュアはアイを攻略することが出来ました。この二つの戦いは、主に信頼し従うことで主の御力がどのように表されるか、逆に背くことがどんな躓きをもたらすかをイスラエルの民にはっきりと教えることになりました。この戦いが普通の戦争ではなく、イスラエルの民が神に信頼し、神の言葉に聞き従うかどうかが問われるものであることの厳しい教訓となったのです。

このあとは12章まで、イスラエルに対抗して同盟を結んだカナン人との戦い、イスラエルが占領していった町々のことが記されて行きます。

そして大方の戦いを終えたヨシュアは13章以降で約束の地を各部族に分割していきます。

3.我が家と我は

さて、約束の地の攻略の記事に書かれている内容を見ると、織田信長の比叡山焼き討ちかそれ以上の徹底した戦い方に、どうしてそこまでの厳しさを神様は求めたのだろうかと思わされます。これにはカナン人の相当に酷い堕落に対する裁きであったということを抜きには考えられません。レビ記18章にはカナン人がどれほど道徳的に、特に性的に堕落していたかが記され、イスラエルの民に決してそれを真似してはいけない。主はそのような者たちに裁きをくださすと言っておられました。また申命記12章にはカナン人が子どもたちをいけにえにし、火で焼いてカナン人の神々に捧げる風習があったことが記され、そのような忌むべき行いは排除されなければならないことが明記されています。

神様がイスラエルの民に求めた第一のことは、民族そのものを根絶やしにしようという事ではなく、そうした道徳的に堕落した生活ぶりや文化、忌まわしい宗教的な影響を退けることにありました。

そのため、カナンの民に対しては、あらかじめ警告が与えられていたのです。さきほどみた4:24にはヨルダン川を渡った時に「地のあらゆる民が主の手が強いことを知るため」とありました。そしてその様子を聞いたカナンの人々は5:1で、神がヨルダン川の水を涸らしたという話しを聞いて「心が萎え、イスラエル人のゆえに気力を失ってしまった」のです。

ところがイスラエルの民がエリコとアイを攻略したあと、カナンの諸部族の王たちは連合してイスラエルに立ち向かおうとしました。しかしギブオン人だけは、イスラエルの側につくことにしました。ギブオン人たちは策略を巡らして和平条約を取り付けます。そこには、このことについて神のみこころを求めなかったイスラエルの族長たちの問題もあるのですが、主の名によって、この取り決めは有効なものとされました。ギブオン人はイスラエルの民の間で奴隷として扱われることも甘んじて受け入れました。

つまり、カナン人だから滅ぼせ、ということではなく、主を恐れてへりくだるなら滅びから救い出される道が備えられていたのです。しかし、ほとんどのカナン人は、彼らの不道徳と残虐な宗教に対する神の怒りと御力を見てもなお悔い改めることなく、反抗し続けたため、滅びを身に招くことになりました。残虐とさえ思えるカナン人討伐にこうした事情があったのでした。

長い戦いを終えて、約束の地を各部族に分割した時、ヨシュアはすでに老人になっていました。23章と24章はヨシュアの最後の説教と死を迎える場面です。

ここでヨシュアは今までの戦いを振り返って、勝利をもたらしたのは自分たちの力ではなく、私たちの神、主であること、民の間に残っているカナン人の影響を排除し続けなければならないこと、自分たちの神、主を愛する道を歩み続けるよう励まします。もしカナン人の風習を真似するようなことがあれば、いずれ手に入れた約束の地から追い出され、滅びることになると警告しました。

そのうえで24章で、異教の神に仕えていた先祖アブラハムを主が召し出し、約束された通りにこの地を与えてくださったことを思い出させます。そして14~15節で、自分の命はもう尽きるけれど、これから先も主を恐れ、誠実に仕えなさい。私と私の家族はそうする。お前たちは誰に仕えルのか、選びなさいと迫るのです。

適用 新しい一年も

かなり大雑把ですが、ヨシュア記全体を通してみました。モーセ亡きあとを任されたヨシュアが、強くあれ、雄々しくあれと神様から励まされて、民を導き、約束の地を手に入れて行きました。

長い戦いの果てに、神様がアブラハム約束された土地はイスラエルの民に与えられました。

しかしその戦いを振り返って、自分たちの戦いはカナン人との戦争である以上に、主を恐れ、従うかという霊的な戦い。むしろ、誘惑に満ちたこの世界での自分との戦いであることを意識させられたのです。

それで、自分の寿命も尽きかけていることを気づいたヨシュアは、あなたがたはどうするのか選べ、私と私の家族はこれからも主に仕えると決断を迫ったのです。

24:16~24では、民とヨシュアのやりとりが続きます。民は主を捨てるなんてあり得ない。他の神々に仕えたりはしません、と言いますが、ヨシュアはけっこうはっきりと「無理無理、おまえたちはきっと神様を捨てる」「いえいえ、とんでもありません」というようなやり取りを経て、主に仕え、主に聞き従うという契約を結び、そのしるしのための記念碑を立てます。

そしてヨシュアは100歳の寿命を全うして死に、埋葬されますが、31節でちょっと不吉な言葉が出て来ます。

「ヨシュアがいた間、また、主がイスラエルのために行われたすべてのわざを経験して、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、イスラエルは主に仕えた。」彼らの誠実さは長続きしなかったのです。しかし、続き32節にはそれに対する神様のご計画の深さと約束に対する誠実さが表れています。

500年近く前にヤコブの子ヨセフによってイスラエルの民はエジプトにくだり、ヨセフが死ぬとき、いつか子孫が約束の地に帰る時には、自分のミイラ化された遺体を運んで、葬って欲しいと遺言を残しました。人々はその遺言を守り、ヨセフの父ヤコブが買い取って祭壇を築いた場所を取り戻し、そこにヨセフを埋葬したのです。物語としては創世記から始まった神の民の歴史が一つの区切りを迎えたことになります。それはまた、エデンの園で失われた祝福を取り戻させるための神様のご計画が、イスラエルの民の不誠実さや不従順にも拘わらず、守り続けられたことの証しでもあり、32節にあるような不吉な言葉とともに、希望の光として残されているということができます。

私たちは、ひょっとしたら恐れるような敵には囲まれていないかもしれませんが、先の見えない不安は、自分の中にある不誠実さ、不忠実さのほうが心配かもしれません。去年はいまいちだったから、今年は挽回しようと思っても、毎年くり返される失敗を思い出して恐れるかもしれません。しかし、勝利してくださるのは主ご自身です。私たちは不誠実も、主は誠実な方です。

ですから、神様がヨシュアに最初に語りかけたように私たちにも、一年の初めにこう語りかけてくださいました。

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいるのだから。」

2021年という新しい地を、主に信頼して歩み出しましょう。

祈り

「天の父なる神様。

新しい年の始まりを迎えられましたことを心から感謝します。

この一年がどのような年であろうとも、主は私たちとともにいてくださり、御手のうちに守っていてくださることを信じます。

恐れるな、雄々しくあれと語りかけてくださり感謝します。いつにもまして先行き不透明な今年ですが、私たちが行くところどこででも、主がともにおられることを信じて勇敢であることができますように。我が家と我は主に仕えんと、告白しながら歩ませてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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