2021-01-17 王なき時代

2021年 1月 17日 礼拝 聖書:士師記2:11-23

 昨年からのコロナ禍の中で、世界各国のリーダーたちが批判されたり称賛されたりしています。こういう予想外の、簡単には解決策が見いだせない状況の中では、指導者に対するあたりが強くなりますので、政治家にとっては支持率を上る機会にもなりますが、猛烈な批判にさらされるリスクにもなります。

さて、今日とりあげるのは士師記です。士師記は、士師とか「さばきつかさ」と呼ばれる指導者たちを中心とする神の民の歩みを記したものです。さばきつかさたちは、ヨシュアの後の時代の各部族ごとの指導者で、危機の時に神様が起こし、遣わした人々です。

士師記の最大の特徴は、書かれている出来事の残虐さと道徳的な堕落ぶりです。もし士師記を映画化したら、R16指定、子どもには見せられない、ということになるに違いありません。しかも、物語は進めば進むほど内容が酷くなっていきます。最悪に向かっている民の様子を描いているのです。あまり、恵まれる感じがしないこの書物は、私たちへの警告、教訓ですが、慰めと希望もあります。

1.どんどん悪くなる民

まず、第一に士師記には、神の民であるイスラエルがどんどん悪くなって行き、追い出すように命じられたカナン人と大差ないほどに堕落してしまう様子が描かれています。せっかくクリスチャンになったのに、生き方が前より酷くなるようなものです。

1章から2章前半までは、ヨシュアの死後、まだまだ残っているカナン人の町を占領するために戦い続けた様子が描かれています。これらの記事でくり返されているのは、イスラエルの民がカナン人を追い出しきれなかったことです。道徳的に堕落し、子どもをいけにえにするような宗教を持つ人々が、イスラエルの民の間に生き残り、絶えず影響を与えることになりました。それでも、イスラエルの民は、ヨシュアと同時代を生きた長老たちが生きている間は主に仕え、律法を守り、神の民としてまあまあがんばって生きたのです。2:10はヨシュア記24:31と重なります。

再び、世代交代によって訪れた不穏な空気がこう描かれています。「そして彼らの後に、主を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない、別の世代が起こった。」

世代交代というのはいつの時代も、どの世界でもなかなか難しい問題です。世代交代によって、新しい血がはいり、組織が良くなることもあれば、大切な教訓や知恵を継承しそこなってしまうこともあります。出エジプトを経験した民はとても頑なで反抗的だったために、次の世代が約束の地を目指すことになったのはうまくいったケースですが、それからさらに年月が経ち、次の世代に入れ替わるころには、神様の御わざも、その教えもすっかり忘れられました。

もちろん、完全に忘れられたわけではなく、ある程度は伝えられていたはずです。そうでなければ、悔い改めることや主に助けを求めることもなかったはずです。しかし、普段の生活は、エジプトから導き出した神様からすっかり心が離れ、もともとカナン人たちが信じていた、そしてこれを退けなさい、絶対真似してはいけないと言われていたバアルの神々に心を寄せてしまいました。

そのために何が起こったか、今日読んで頂いた箇所になるわけです。11節から23節は、士師記全体にくり返される一定のパターンを記しています。

神を捨てたことで、主はイスラエルの民がカナン人によって苦しめられるのを放置しました。カナン人だって、やられたのですから、イスラエルが弱体化したと分かれば反撃に出ます。カナン人は約束の地のあちこちで反乱を起こし、略奪をくり返しました。

苦しみの中で民が苦しみ、助けを求めると神様は彼らを憐れみ、さばきつかさと呼ばれる、政治と軍事の指導者を起こし、救い出してくださいます。さばきつかさがいる間は主が敵の手から守って救い出してくださるので、主に従うのですが、さばきつかさが死ぬと、再び堕落の道をたどり、前より悪くなってしまい、また主の怒りを招き、主は再び敵がイスラエルを苦しめるがままにされるのです。こういうパターンが士師記の間中続きます。

なぜ、こんなことになってしまうのか。そのことを端的に表すフレーズが士師記の一番最後に記されています。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」導く者がなく、自分が好むままに生きることがここまでの堕落を引き起こしてしまうという、恐ろしい例です。

2.ひどい人たちを通して

第二に、士師たちがどういう人たちだったか見ていきましょう。士師記には、12人の士師、さばきつかさが登場します。ある人たちはとても短く紹介されていますが、8人の士師たちはけっこうボリュームを割いて、活躍を生き生きと描いています。

ヨシュアの死後から最初の王サウルが立てられるまでのおよそ180年の間、これらの士師たちがイスラエルの各地で、必要に応じて遣わされました。しかし、その働き方はかなり残酷で、後になればなるほど、人間的にもひどいものになっていきます。

彼らがイスラエルの民を救うときの目覚ましい働き、時には超人的とも言えるような力を発揮するのは、神の霊、つまり聖霊によって特別な力が与えられてのことですし、彼らの勝利は主によって与えられました。彼らの言葉からも神の名を聞くことができます。

しかし彼らの仕事は正規の軍隊による戦いというより、ゲリラ戦、暗殺、テロと呼ばれても不思議ではない、残虐ともいえる戦い方でした。

最初の頃はまあまあ普通の人たち。女預言者デボラとバラクというチームは、預言者らしく預言の歌を歌ったりさえしています。ところが、6章に登場するギデオンあたりから、だんだん、士師たちの信仰や人間性にはちょっとはてなマークがつくようになります。

ギデオンは農夫で臆病な人物でしたが、信仰によって勇気を得、士師として立ちあがり、民を救います。彼の活躍ぶりはなかなかのものでした。ところが、彼は民から集めた金や宝石を使って、エポデという大祭司が身につける装飾品の複製品を勝手に作り、それを街の真ん中において、偶像のように扱い始めました。すると人々はカナン人がしていたように、その偶像を拝み、その周りでカナン人が行っていたような淫らなことをし始めたのです。そのうえ、彼は多くの妻を持ち、70人も子どもをもうけました。彼は幸せな晩年を送ったと聖書には記されていますが、彼がもたらしたものはカナン人と何も変わらない偶像礼拝と道徳的な堕落だったのです。

11章にはエフタという遊女の子が士師として立てられます。彼は山賊のリーダーみたいな人でしたが、勇猛な戦士として快進撃を続けます。しかし彼は調子にのって、勝利を祝うために、自分の娘をいけにえとして神に捧げるというような、やはりカナン人と変わらないようなことをしてしまいます。

13章から登場するサムソンは最も有名な士師です。オペラや映画にもなっているほど、お話としては面白いのですが、彼の生活は暴力と酒と女にまみれ、傲慢な人間でした。

確かに士師たちは、カナン人に苦しめられたイスラエルの民が神に助けを求めた時に、神の民を救い出すために遣わされた人たちであり、神の霊によって力を与えられ、勝利をもたらしました。けれども、彼らのしたこと全てが許されることではありません。イスラエルの民さえ救えば、何をしようがお構いなし、という事ではないのです。聖書に出てくる出来事を全て神が良しとしているわけではないし、神に用いられた人物だからという理由だけでは、彼らを信仰のモデルにすることは出来ません。

しかし、堕落しきったイスラエルの民の中では、人間性に問題があったり、道徳的に、信仰的に問題があったとしても、彼らのような人たちを用いざるを得ませんでした。

3.悲劇と希望

第三に、士師記には悲劇とともに希望が残されています。

士師記の最後の部分、17~21章は士師の時代に起こった悲劇的な二つの事件が描かれています。

一つ目の事件は17~18章に記されています。ミカという人が勝手に作った神の宮に偶像を作って置き、自分の息子を勝手に祭司に仕立て上げていました。ところがダン部族の者たちが、ミカの偶像を自分たちのお守りのようにしようと奪い去り、さらにライシュという平穏な町に襲いかかり、火を掛け皆殺しにしてしまうのです。この一連の出来事には、「イスラエルに王がいなかった時代」とか「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」という注意書きが添えられています。

二つ目の事件は19~21章にありますが、一つ目よりもっと酷い話しです。ここにも「イスラエルに王がいなかった時代」と但し書きがついています。

エフライムの山地に暮らすあるレビ族の男が、喧嘩かなにかで実家に帰ってしまった側女を連れ戻し、家に帰る途中、ギブアという町で、恐ろしい事件が起こりました。ある老人の家に泊まった時、町の男たちが、旅の途中のレビ人の男の顔を貸せと迫ります。老人は彼には構わないで欲しい、代わりに自分の娘とそのレビ人の側女を好きにしていいからと差し出そうとします。しかし町の男たちはその言葉に納得ません。ついに、レビ人がせっかく連れ戻した側女を自分の身代わりに差し出します。町の男たちは彼女たちを一晩中レイプし、暴行し、夜が明ける頃に放り出しました。朝、旅人が玄関を開けると、息絶えた彼女がそこに倒れていました。

この衝撃的な事件はイスラエル全土にすぐさま伝えられ、ベニヤミン族と他の部族との内戦にまで発展します。

士師記に記された数々の戦い、悲劇は、信仰の戦いというようなものではありません。王のいない時代、導く者のない時代に、めいめいが自分で良いと思うことをしはじめたために、イスラエルがどれほど酷い状態になったかを記しています。

このようなことになったそもそもの原因は、イスラエルの民が神様との契約を破ってしまったからです。それが最初に読んだ箇所の前の所を振り返ってみましょう。2:1~5です。

イスラエルの民は、ヨシュアが死んだ後も、エジプトから救い出してくださった神との契約を守ると誓いました。ところが彼らはその誓いを破り、神の言葉に従いませんでした。そのため、神様はカナン人をあえてイスラエルの中に残し、イスラエルの民が苦しみ、堕落していくままにされました。士師記全体にくり返される暴力と悲劇は、彼らを愛し、救い出してくださった神様から離れてしまった結果だったのです。

士師記のまとめの言葉として、21:25でまた「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」と記されます。

ここに士師の時代の神の民の霊的な問題とともに、一筋に希望の光が残されています。「王がまだいなかった」ということは、やがて備えられる王の希望があるということです。それはルツ記へ続き、さらにダビデの子孫として来られるキリストへと続きます。

適用 王なるキリスト

さて今日は士師記をざっと見て来ました。これほど暴力に満ちた物語が、聖書の一部であることに驚きを感じます。ヨシュアが率いた時代の戦争の物語とは異なった、罪深い暴力が満ちています。

カナン人を追い出し、自分たちの領地にしていくという目標だけは生きていています。何しろ敵対する民族が近くにいますし、自分たちの生活の場を確保し守らなければならないのですから。しかし、神の民として神の言葉に聞き、正義を行い、神の栄光を現していくという契約は破ってしまっているので、もう彼らの行動を正しく導くものがないのです。

それで自分がよいと思うことをするようになった民は、勢いに任せて虐殺したり、気に入らないなら身内のものでも皆殺しにしたり、絶対真似してはいけないと言われたカナン人の生き方をそっくりそのままやるようにまで成り下がってしまいました。

カナン人の力が増して苦しめられると目が覚めたように神に助けを求めますが、遣わされた士師たちはこれまた一癖も二癖もある人々で、民を苦境から救うことはできても、神の民として正しく導くという点では限界がありました。彼ら自身が、神の御心が何であるかをちゃんと理解できていなかったからです。ですから、士師が死ぬとまた民は偶像を求めるようになり、同じパターンをくり返してしまいます。

士師記が記された目的は、神様との契約を捨てたときにに神の民といえどもいかに堕落してしまうかの、恥ずかしい教訓を残すこと、そしてだからこそ正しく導く王が必要なのだということを示すことにあります。ですから、私たちのために備えられた救い主には「王」としての役割があるのです。

王についての私たちのイメージは様々ですし、現実の生活にはあまり関係がありません。また国民のうえにあぐらをかいて威張り散らし、我が儘放題という愚かな王様のイメージを救い主に当てはめると、そんな救い主なら要らないという事になります。

聖書の中で明らかにされていく王としての救い主の役割は、王の民である私たちを愛し、救い出し、守り、養い、導く存在です。

私たちが、イエス様の王としての役割を認めず、自分の人生は自分で決める、神様にあれこれ言われたくない、となれば、私たちを愛し、救い出し、守り、養い、導く方との関係を失うということになります。

それでも生きてはいけます。ただし、士師記の時代の人たちのように、王がなく、めいめいが自分の良いと思うことを行う生活になります。人はそれを自由と呼び、自分の人生を生きるというようにかっこよく言うかも知れません。

しかし、そこには自分らしく生きられるという利点以上に、導く者がないゆえの混乱と堕落という大きな落とし穴のほうがリスクとなってくるのです。

それでも神様は私たちを見捨てず、見離さず、取り戻そうとしてくださるでしょう。士師の時代に、人間的には問題がありありだった人たちを用いてでも民を救おうとした神様です。

しかし、もう私たちは王のいない士師の時代の民のような生き方をしないようにしましょう。王はすでに来られ、私たちとともにいてくださいます。

私たちに与えられている教訓は、主のわざを知らない者のようではなく、主が私のために何をしてくださったかを絶えず思い出し、そこに帰ること。そして、王のいない民のようではなく、イエス様を従うべき王として信じ受け入れましょう。

祈り

「天の父なる神様。

士師記を通して厳しい教訓を与えてくださり、ありがとうございます。

どうぞ私たちが王のない民であるかのように、混乱し、堕落してしまうことがないように守っていてください。

私たちには、私たちを愛し、救ってくださったイエス様がおられます。イエス様を私が従うべき主、王として信頼し、聞き従うことができますように。

主イエス様の御名によって祈ります。」

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