2021-02-28 あなたがたのただ中に

2021年 2月 28日 礼拝 聖書:列王記第一 6:11-13

 人生も後半だなあ、終わりが近づいているなと感じるようになると、歩んで来た道のりを振り返り、自分の人生にどんな意味があったのだろうかと考えることが増えるかもしれません。寿命や高齢という場合だけでなく、若くても、人生の壁にぶつかって「今まで何やってきたのだろう」「これまで頑張って来たことに何の意味があったのだろう」と考えることはあると思います。

今日と一週おいて再来週の2回に分けて列王記を学んでいきます。ダビデによって確立した王国が、およそ400年の繁栄と衰退の後に滅びてしまった後、この列王記は記されました。先祖アブラハムへの神の約束に基づいて生まれ、世界に祝福をもたらすと言われた王国が滅亡してしまったときに、いったい自分たちは何をしてきたのか、いったいなぜこんなことになってしまったのかと振り返っている書物です。

列王記は第一と第二に分かれていますが、もともとは一つのもとです。主人公と言えるような人物はいません。代わりに列王記はその名前の通り、ダビデ以降の王様たちが次々と登場します。途中から南北に分かれた王国の王たちが交互に出て来るので、もうごちゃごちゃになりそうです。しかし、これらの王たちの物語をたくみに描き出すことで1枚の大きな絵になるように、なぜ王国は破滅に向かったのかを示すとともに、それにまさる神の恵みを表します。

1.神殿建築と主の約束

列王記第一は、ダビデからソロモンへと王位が継承される場面で始まります。

ダビデは年老いて、ひどい冷え性に悩まされました。しかしダビデを悩ませたのは、四男のアドニヤでした。ダビデと側室の一人ハギテの間に生まれたのがアドニヤでした。上の3人はすでに死んでいましたので、生きている子どもたちの中では最年長ということになります。父ダビデが高齢で衰えて行くのを見て、アドニヤの心に野心が芽ばえました。アドニヤは将軍ヨアブと祭司エブヤタルを味方につけて謀反を企みます。

その企みを知った預言者ナタンはバテシェバに助言し、その結果、ダビデはバテシェバとの間に生まれた二人目の子、ソロモンを王にすると宣言します。アドニヤの謀反は失敗に終わりました。

その後、死期が近づいたことを感じたダビデは2:1でソロモンに幾つかの命令を遺言を遺します。もっとも重要なものは3~4節です。主の教えに従って生きること。そうすれば、主が行く道を守り王朝はいつまでも続くだろうと語ります。

この「主の道を歩む」ということと、神が「ダビデ王家を永らえさせる」ということが列王記の重要なテーマになっています。それぞれの王たちがダビデのように主の道に歩んだかどうか。そして神はどのようにダビデの王家を永らえさせたか、そういう視点で列王記は記されています。それは、やがて救い主がダビデの王位を継ぐ者として生まれるという神様の救いのご計画が、一見めちゃくちゃに見える王たちの歴史を通してでも守られ、実現したこと、主の道に従わない王たちがいても、神様の恵み深さがまさっていたことを表しています。

とにかく、こうしてソロモンの治世が始まります。主が何を求めるかと問われた時に、富や力より王国を治めるために知恵を求めたので、神様は知恵とともに富も力も与えてくださいました。そのため、ソロモンが治めるイスラエル王国の豊かさと繁栄、ソロモン王の賢さは遠い国まで知られることになります。

6章に入って、ソロモンの治世の4年目に、ダビデが願って準備しはじめた神殿建設に、いよいよ取りかかります。

エルサレムの美しい丘の上に建てられた神殿は、非常に緻密に設計され、石と木材は離れた場所にある加工場で精密に加工され、建設作業はとても静かに行われました。神殿の内側の装飾も目を見張るようで、そこに描かれたのはエデンの園を思わせるものでした。

この神殿建設の時に神様がソロモンに語ったのが今日読んでいただいた箇所の12節と13節の言葉です。

ここで主は、ダビデがソロモンに語った言葉をくり返すように、主の道を守り歩むなら、ダビデに約束したことを成就しよう、そして「わたしはあなたがたのただ中に住もう」と約束してくださいました。約束とは、前回取り上げたダビデ契約のことです。ダビデの子孫によって永遠の王国が確立するという内容です。それはやがてキリストによってもたらされる救いと神の御国を表していましたが、ソロモン自身の王権の確立も約束しています。

こうして建設された神殿は、主なる神様が民の真ん中にいてくださる事の象徴であり、そこで日々捧げられる礼拝は、王と神の民が主の教えに従い、主の道に歩むことを表すものとなるはずでした。

2.王の堕落と王国の分裂

ソロモンは神殿建設に続いて自分が住む王宮の建設に取りかかりました。二つの建物を完成させるのに20年かかりましたが、完成のときに神殿を神に捧げる奉献の儀式を行いました。その時のソロモンの祈りが8:22以降に記されています。現代でも教会堂が完成した時の献堂式で朗読されたりする名文です。

そうやって盛大な奉献式が終わった後で、神様は夜、夢の中で再びソロモンに語りかけます。9:3~9で、これまで語って来たように、主の教えに従って歩むなら、主がダビデに約束した契約をあなたに果たし、王座がいつまでも続くだろうと約束してくださいました。しかし今回は厳しい長めの警告もついています。もしソロモンや後に続く王たちの心が神様から離れ、教えを投げ捨て、他の神々に仕えるなら、その王たちを断ち切り、ついこの前立派な奉献式をあげたばかりのあの荘厳な神殿を投げ捨て、イスラエルは周りの国々の笑いものになるだろう、廃墟になった神殿を見て神に捨てられたと罵るだろうと警告なさったのです。

主の警告は、まるでその後のソロモン王の転落を見越したかのようでした。9章の後半から11章はソロモンのその後の業績を描いています。そこには例えばシェバの女王がやってきてソロモンの知恵とイスラエルの豊かさに驚き、主をほめ讃えるという、けっこう肯定的な話しに思えるエピソードもありますが、全体としては、一見成功と繁栄に見えるソロモンの業績が、いかに主の教えに背くものであったかを描き出しているのです。

主の言葉をいただいた直後、ヒラムという父ダビデの時代から恩義のある人に対する不誠実な態度がことの始まりでした。ソロモンは国内に住んでいる外国人を奴隷として強制労働につかせました。外国との貿易を盛んにして富を蓄え、軍備を増強し、エジプトのファラオの娘を妻に迎えました。恐らく政治的な理由は大きかったでしょうが、どうも根っからの女好きだったようで、多くの外国から妻を迎えます。11:3には700人の王妃と300人の側室がいたそうです。いくら王家の血筋を絶やさないために第二夫人とか側室を迎えるのがその時代のならわしだとしても、ソロモンのしたことは常軌を逸しています。そして妻たちのためにソロモンは、彼女たちが信仰している様々な神々の神殿をつくってあげます。

11:6は列王記の著者によるソロモン王についての評価です。「主の目に悪であること行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった」実際、彼の行いはレビ記などに記された外国人の扱いや申命記に記された王に関する戒めをいくつも破っています。

11:9にあるように神様は二度もソロモンの前に現れ、直々に警告を与えていたのに、ソロモンの心が主から離れたことは神様の怒りを買いました。その結果、11節にあるように、ソロモンが契約を破ったので、神様もまた王国を引き裂くと宣言なさいます。

かつてダビデの戦いに敗れて亡命したり逃亡していた人たちが力を付け、ソロモンに敵対する者として次々立ちあがります。そして家来の一人ヤロブアムも王に反逆します。ソロモンの死後、息子のレハブアムが王になったときにヤロブアムはイスラエル一二部族のうち、10部族を引き連れて北に独立した王国を築きます。

こうしてアブラハムへの約束が実現し、王国として築かれたイスラエルは、わずか3代の王の後、南北に分裂してしまうのです。

3.預言者たちの役割

列王記第一12章からは王国の分裂とその後の南北に分かれた北イスラエル王国と南ユダ王国のそれぞれの王たちを中心とする物語に入って行きます。

ソロモンの息子レハブアムに反逆し、10の部族を率いて王となりましたが、このままでは民の心が離れ、ユダのレハブアム王のもとに戻ってしまうのではないかと恐れました。

そして金の子牛の像を造り、ダンとベテルという二つの町にそれぞれ祭壇を築いて安置しました。そして人々にこう言ったのです。12:28「もうエルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここにあなたをエジプトから連れ上った、あなたの神々がおられる」

みなさん、この台詞に聞き覚えがないでしょうか。エジプトを脱出した後、モーセが山で律法を受け取っている間、留守を任されたアロンが、民がばらばらになりそうなのに焦って、金の子牛をつくり「これがあなたがたをエジプトの地から導き上った、あなたがたの神々だ」と言いました。ほとんど同じです。ヤロブアムはせっかく王になったのに国に偶像礼拝を持ち込んでしまったのです。

その結果列王記第一と第二合わせて、南北それぞれに20人の王が登場しますが、北王国の20人の王は、誰一人として良い王と評価されることはありませんでした。ヤロブアムが持ち込んだ偶像礼拝はやがて異教の神々の礼拝につながり、主のことばはないがしろにされてしまいます。「ヤロブアムの罪」がお決まりの言葉です。

とはいっても南の王国が立派だったかというと、そういうわけでもありませんでした。まことの神だけを礼拝し、偶像礼拝を国から取り除こうと努力し、主の律法に帰ろうとした王たちは半分もいませんでした。それ以外の王たちもはやり、偶像礼拝を持ち込んだり、主の教えをないがしろにしたのです。

そういう時代に大きな役割を果たしたのが預言者(神の人)たちです。預言者というのは、不吉な未来を謎めいた言葉で予告したり、占いで未来を見通す占い師のようなものではありません。預言者は神の言葉を預かる者、という意味で、神に背を向けがちな王たちに、神のことばを告げ、王たちが神との契約を守るかどうかを監視し、偶像礼拝や王国の中の不正や悪について厳しく責める役割を担いました。そんなわけで多くの預言者は王様たちから一目置かれつつも、目の上のたんこぶのように邪魔者扱いされ、憎まれる役回りでもありました。

13章にそんな預言者についての不思議な話があります。一人の「神の人」がヤロブアム王のもとに遣わされました。金の子牛を作って偶像礼拝を始めた王に厳しい裁きを言い渡し、悔い改めを迫ります。その帰り道のことでした。この神の人には帰り道にはどこにも寄り道するなと命じられていたのですが、ある預言者が嘘をついて神様があなたをもてなすように告げたといって家に招き入れます。食事の最中、神の人に「あなたは主のことばに背いて、命令を守らなかった」という厳しい言葉がくだります。嘘をついて招いた預言者の家を出て旅を続ける途中、その警告通りに死んでしまい、だました預言者が後悔して遺体を引き取ります。そして32節で「主のことばは、必ず成就する」と語ります。一見無意味に見えるこの出来事は、預言者の務めの厳しさと、主のことばは必ず実現するからちゃんと耳を傾けるべきだという教訓を残しているのです。

適用 主とともに歩む

この不思議な出来事のあと、列王記の著者は13:33~34で今後の列王記の展開を指し示す解説を記しています。ヤロブアムはなおも神に背を向け、悔い改めませんでした。ついに34節にこう記されます。「このことは、ヤロブアムの家の罪となり、ついには大地の面から根絶やしにされることとなった。」

主の言葉をないがしろにし、自分たちの好む偶像を神とし、勝手に祭司職を作り出したヤロブアムのやり方を、この後の北王国のすべての王たちが真似をし、むしろどんどん酷くなっていきます。

列王記第一17章から最後までは、預言者エリヤと北王国のアハブ王の対決が描かれます。ヤロブアムの比ではない悪の道を進み、シドン人の妻イゼベルが持ち込んだバアルやアシェラといった偶像礼拝が公然と行われるようになりました。エリヤは何度も悔い改めを迫りますがアハブが頑なであったため、ついにバアルの預言者達と対決することにしました。バアルと聖書の神のどちらが本物か、祈りに応えて祭壇に炎をくだすことのできる神が本物だということで勝負します。一晩中祈っても祈りが聞かれないバアルに対し、エリヤの祈りに神は火を下して応え、見事に打ち負かします。

それでもアハブ王は悔い改めず、エリヤの警告通り夫婦そろって無残な最後を遂げることになるのです。

分裂した王国が滅亡に向かって行く歴史は、第二列王記に続いて行きます。

さて、私たちは今日、列王記第一の大まかな流れにそって見て来たわけですが、このような書物をどのように読み、どんな教訓を受け取ったら良いでしょうか。

様々な王たちに対する神様の取扱や出来事があり、一つ一つから学び取れる教訓や励ましがあるのですが、列王記第一全体から学び取れる大きな教訓があります。

列王記を通して表面的に見えることは、王や人々の不信仰、神様に対する不誠実と、それらに対する神様の厳しさです。しかし、その背後には最初にソロモンに語りかけられたように、むしろ祝福し、彼らの真ん中にいてくださろうとしておられた神様の思いがあり、なんとか彼らを立ち返らせ、約束を実現しようと忍耐強く、また憐れみ深くいてくださいました。だからこそ、厳しい言葉ではあっても預言者たちを遣わし、悔い改めを迫ったのです。

主がともにいよう、共に歩もうと語りかけてくださるのに、人間の方が背を向け、自分で好きな方に行ってしまい、結果として酷い目に合い、それにも関わらず神様に悔い改めるよりは、神様に文句を言ったり、ますます頑なになる。それでも、神様は見捨てず、見離さず、何とか取り戻そうと呼びかけ続け、語りかけ続け、未来へと希望を残していてくださる。

こういう姿が列王記だけでなく、聖書の最初からここまでずっとくり返されてきたパターンとして浮かび上がります。創世記のエデンの園でのアダムとエバも、ノアの後の世界も、エジプトを脱出した後のイスラエルの民もそうでした。約束の地を手に入れた後の王のいない時代のイスラエルもそう。そして、王をいただいた王国時代もこの通りです。そして本質的には今の私たちも同じとは言えないでしょうか。それでも神様は、私たちを見捨てず、忍耐強く、語りかけてくださるのです。

列王記が記された時代、これを読んだ人たちは「なぜあの時、私たちの先祖は主の語りかけに耳を傾けないでしまったのだろう」と思ったに違いありません。結果として国を失い、悲しみと恐怖の中、見ず知らずの土地に捕囚として連れ去られたのですから。

だから、今、私たちは「わたしとともに歩もう」という主の招きに喜んで応答しましょう。「わたしのもとに帰って来なさい」という悔い改めの招きにへりくだって応答しましょう。

祈り

「天の父なる神様。

神様が私たちとともにいてくださり、共に歩んでくださるということが、どれほどの素晴らしさか知らず、知ろうともせず、神様に背を向けた王たちの物語は、読んでいて気も滅入りますが、それは私たちの人間としての身に覚えのある姿かもしれません。

それでも投げ出してしまわずに、呼びかけ続けてくださった神様。今も私たちに、共に歩もうと呼びかけてくださりありがとうございます。帰って来なさいと悔い改めの道を備えてくださり、ありがとうございます。

ダビデの子孫として来られた救い主イエス様によって、今、主とともにある歩みが備えられ、救いに至る道がすでに用意されていることを感謝します。信仰とへりくだりを持ってその道を進み行かせてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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