2021-03-07 いつまでも残るもの

2021年 3月 7日 礼拝 聖書:コリント第一 1:1-13

 今週は、あの震災から一〇年目となります。3月にはいって様々な追悼行事が行われ、様々な形で振り返りが行われています。

「震災を忘れない」というふうに言われたりもしますが、一方で「早く忘れたい」という被災者もおられます。ボランティアがたくさん集って友だちが出来たり、世界が広がったように思えた時を懐かしく思う面もありますが、果たして私たちが覚えておくべきことは何だろうかと思わされます。

もちろん、地震や津波が起こったときの避難行動や、災害に備えての非常用のキットを揃えておくとか、万が一の場合の連絡手段を確認しておくとか、ガソリンは半分になったら満タンにしておくとか、いろいろな教訓はあります。それは危機の時に生き延びるために大事なことです。では私たちがクリスチャンとして、また教会として覚えておくべきことは何でしょうか。肉体や生活を守るだけでなく、霊的に生き延びるために大切なことは何でしょうか。

今月のみことばとして覚えたいのはコリント第一13章13節です。他にも大切な信仰の原則、教会のあり方や働きについて教えられる聖句もありますが、今日は教会のホームページの表題にもなっているこのみことばを、震災から10年というこの時期に改めて思い巡らしたいと思います。

1.命と美を吹き込む愛

第一に、すべてのことに命と美しさを吹き込むのは愛です。

13章に筆を進める直前、パウロは12:31でこう記しています。「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。」

コリントへの手紙は、当時コリント教会の中にあった様々な問題について問合せに応える形でどうすべきかを教える内容になっています。コリント教会の中にはゆとりのある人、知識や教養、才能に溢れた人が多く、しばしばそのことがプライドのぶつかり合いや貧しい人や弱い人を無視しやすい傾向につながっていました。また、キリストにあって自由とされていることを勘違いして、かなり非常識で不道徳な行動をわざとする人たちもいて、パウロは一生懸命、イエス様が何のために十字架にかかってくださったのか、その救いを受け取った人のふさわしい生き方は何かと教えています。

12章では「賜物」と呼ばれる、イエス様を信じた人に与えられる特別な力について教えています。特別な力といってもスーパーヒーローのような超人的な能力ではなく、他の人を励ましたり助けになるようなものですが、中には癒し、奇跡、預言、異言といった、明らかに他とは違う特別なものがありました。本当はそれらも互いに助け合ったり、ほかの人に仕えるために与えられたもので、優劣の差はないのですが、コリントの人たちは、そういう華々しい賜物をことのほか喜び、自慢していたのです。

それに対して、パウロは華々しい賜物を追い求め、自慢しあったり、他の人を見下したりしてはいけないと教え、31節で、それよりもっと優れた賜物を求めるよう勧めています。それが愛するということです。

13:1~8には、愛がどういうものか、強く印象に残る文章で説明されています。ちょっと意味が分からない言葉も出て来るかもしれませんが、言わんとしていることは明らかです。どんなにすごい賜物を持っていたり、どんなにすごいことをやり遂げたり、自己犠牲やすごい信仰があっても、愛がなかったらそれは何の役にも立たないということです。

しかし愛があるならば、すべてのことが生き生きと命を持ち、また美しいものとなっていきます。

10年前から最近の新型コロナも含め、様々な場面で日本の教会は置かれた場所で、また被災した地域でどのようにお仕えするのかということを教えられて来ました。愛とは正反対の、競争心だったり、米と引き換えに教会に来てくださいみたいな下心のある支援や自己満足の働きが残念な結果を生み出す姿を度々見せられました。

災害支援に限ったことではありません。仕事はできるけれど思いやりがない、知識はあるけれど謙虚さがない、すごい信仰はあるようだが他人に押しつけがましい。自分を犠牲にしていろいろやっているけれどどうも目立ちたがりのようだ。もちろん、その人の人間性や動機は関係なく、役に立つからというったことで評価されるかも知れませんが、神様の前では役に立たないとみなされるのです。

むしろどんなに小さな事であっても、そこに寛容、親切、謙遜、礼儀正しさ、忍耐、希望といった愛のしるしが見られるとき、その小さなことが命をもち、美しいものとして、本当に人の助けになり、慰めや励ましとなることが出来るのです。

2.不完全な世界で確かなもの

第二に、この不完全な世界にあって確かなものは少ししかありません。

8節後半から12節には、コリント教会の人たちがことさら大事にしていた華やかな賜物がいかに不完全で一時的なもの、部分的なものかと教えています。

預言や異言、知識といった賜物を持つ人々には神様のことを人に教える役割がありました。預言は神様から直接言葉を受け取ってそれを人々に伝えるもの。異言は人には理解できない言葉で神様のみこころを告げるものですが、これは解き明かす人とセットでやはり人の徳をたてるために用いられました。知識というのは、神様の隠された真理を理解し人に教える役割といって良いでしょう。しかし、それらが教えるものはどうあっても部分的です。というのも、それらは完全なものが表れるまでの一時的な役割を担うものです。事実、聖書が完成したことで私たちが知るべきことは十分に聖書に記されています。今では、そうした賜物はすでに与えられている聖書を深く理解し、また解き明かし、伝える役割へと変わりました。

一般的にも、どんなに博学で知識豊富であってもそれは限られたものです。20年前にはすごい知識だったことも今では常識になっていたり、むしろ間違っていたと分かっていることを、自慢げにペラペラしゃべる人がいたら「あら、この人可哀想に」となることでしょう。私たちが学生時代に覚えた「良い国作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせで覚えた年号も、現代では違う説が有力になりました。間違っても受験生に教えてはいけません。

昨年の今頃、コロナ感染をふせぐために手洗い消毒をしましょうと神経質なほど言われましたが、その後の研究で、接触によって感染する例はほとんどないことが分かりました。マスクと換気、適切な距離が大事。そんなふうに知識は変わって行くものです。

いずれ廃れるものにいつまでもこだわり、持ち続けるのは、大人になっても子どもっぽいままでいるようなものだとパウロは11節で指摘します。パウロ自身、当時の最高の教育を受けたと言われていますが、そういったものに頼ることは愚かなこと、無価値なことと考えていました。ですから、知識の豊富さを誇りとするコリントの人々からちょっとバカにされるようなことすらありました。

しかしパウロは、もっと優れたものを知ったのだから、そっちを大切にしたいのです。いや大切にすると決意したのです。それが愛するということです。

神様のみこころや聖書の意味、世界や人生のなぞについて私たちは今は全部を知ることはできません。知ったつもりになっても鏡にぼんやり映るものを見ているだけです。けれど、私たちが天の御国が完全な姿で表れるとき、私たちはすべてを知る事になります。

だから、私たちは今すでに与えられている完全なものをこそ大切にすべきです。それが愛です。私たちの愛は不完全ですが、神様の愛はイエス様を通して完全に表されました。その愛こそが、この不完全で不確かな世界で変わらずに確かなことです。だからイエス様を救い主と信じた者として、その愛に生きることが大事なのです。

震災10年ということで、時々、災害支援を通して学んだことを分かち合うように求められることがあります。そのような時も経験や知識ではなく、隣人として愛することこそを大切にしています。

3.信仰、希望、愛

第三に、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。13節そのままですが、信仰と希望と愛が、いつまでも残るもの、価値が変わらず、もっとも大切にすべきことです。

しかし、私たちは経験上、信仰が揺らいだり失われることがあり、希望も潰えてしまうことがあるのを知っています。愛にいたっては、今日愛したかと思えば明日は憎んでいるということがあることを知っています。これはいったいどう理解すれば良いのでしょうか。まず、信仰、希望、愛について一つずつ考えてみましょう。

最初に「信仰」です。聖書の中には何度も信仰という言葉が出て来ます。たとえばガラテヤ2:20を開いてみましょう。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」信仰心があれば何を信じても良いということではなく、私たちの救いのために来てくださったイエス・キリストを信じること、イエス様を遣わして下さった愛と正義の神を信頼することです。信仰こそが、私たちに用意された救いと祝福を受け取るための唯一の手段です。

次に「希望」ですが、この言葉は時々、未来に対する明るいイメージ、楽観的な見方程度の意味で使われることがあります。不思議なことに人間は、極度の不安の中におかれると何の根拠もなく「きっと大丈夫だ」と思いたくなります。しかし、ローマ15:13を開いて見ましょう。「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。」

私たちの希望は、「希望の神」が私たちに与えてくれる望みです。永遠の愛なる神と結び合わされているがゆえに、どんな状況でも望みを持ち続けられるのです。

そして三つ目の「愛」これは三つの中で「一番すぐれている」とまで言われています。愛は「あの人が好きだ、大切だ」という愛情や好みのことではありません。それも愛ですが、ここで使われている言葉は「アガペー」という特別なギリシャ語です。私たち罪ある人間、神を知らず、神に背を向けて生きている私たちのために、十字架にかけられ、いのちを差し出したイエス様の愛、「神は愛なり」といわれる神様から一方的に流れ出る愛です。ヨハネの手紙第一4:8を開いて見ましょう。「愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。」この愛の神に愛されて、私たちは愛が何であるかを知り、神を愛し、隣人を愛することを知るのです。

こうやって見て来て分かることは、揺るがないのは私たちの信仰心でも、未来に対する期待でも、私たちの愛でもありません。揺るがないのは、私たちが信頼している神様、私たちが望みを置いている神様、私たちを愛してくださった神様です。この世の状況がどう変わろうと、時代が変わって古いものが意味をなさなくなったり、今までの知恵や経験が全く役に立たなくなっても、私たちの信頼に応え、私たちの希望を託すことができ、変わらずに愛してくださる神様がともにいてくださるという事実です。だから、信仰と希望と愛はどんなときでも無効になることはなく、有効です。すべてが失われても、信仰と希望と愛は留まるのです。

適用 大事にすべきこと

震災以来、特別な意味をもって受け止めるようになった讃美歌を今日もこの後賛美したいと思っています。残念ながら新聖歌には採用されなかったのですが、大正12年の関東大震災の時に、マーティン宣教師が避難所になっていた明治学院大学を訪ねた時に見た光景をもとに作られた賛美歌です。

あらゆるものが揺るがされ、火で焼かれ、朝鮮人が火をつけたというデマで多くの人が殺されるような異常な状況の中、キリスト教大学であった明治学院の校庭には多くの人が避難をしていたそうです。当時英語教師として日本に来ていたマーティン宣教師が大学を訪れたとき、支給された蚊帳の中で夜を過ごしていた被災者たちが灯していたろうそくの光が十字架に見えたのだそうです。それがマーティン宣教師の印象だったのか、涙でにじんだ目にそういうふうに映ったのかは分かりませんが、悲惨な光景の中で十字架のキリストに揺るがない慰めと希望を思い起こしたのでしょう。

建物としての教会は地震や津波でいくつも失われました。関東大震災の時だけではありません。東日本大震災でもそうでした。北海道の地震の後、ボランティアで訪ねたある教会でも屋根の上に掲げられていた大きな十字架が地面に落っこちていました。

しかし、キリストの十字架そのものは失われることも、流されることも、落っこちることもなく、この揺れ動く世界で変わらずに輝き続けます。それは、私たちにこんな時でも信じられる方がいること、この方には望みを置いて良いこと、こんな惨めで怯えている私たちを変わらずに愛して、慈しんで、共にいてくださることを私たちの心にありありと語っています。

私たちの世界を揺り動かすのは地震のような災害や新型コロナのような世界的な感染症だけではありません。私たちの身の回りの小さな世界はもっと日常的で、誰にでも降りかかるような不幸や問題で簡単に揺り動かされます。私たちは不安と悲しみに囚われ、恐れが心を支配します。私たち自身の罪、心に潜む怒りやねたみや劣等感や人を見下す心、抑えきれない欲望のようなものが私たちの人生を狂わせたり、人間関係や生活に暗い影を落とすことがあります。

けれども、どうか今、自分のこれまでの経験だけでなく、創世記から始めて学び続けている旧約聖書の歴史も思い出してみてください。人間の歴史、アブラハム以降の神の民の歴史、その中での人々の姿。どの時代を切り取っても、人間の信仰も愛も不確かで時には罪深い姿をさらしてしまいますが、揺るがないのは神様の真実、神様の憐れみ、神様の恵みです。

その揺るがない真実と愛がイエス様の十字架による救いとして実を結んだのです。旧約の物語はただの昔話ではありません。あのような罪の現実の中で示された神の怒りや厳しさをイエス様がすべて十字架の上で引き受けてくださったこと。罪に対する裁きのかわりに、赦しと祝福を与えるという、愛と恵みとをまるごと与えてくださる約束なのです。

あの大震災から10年。人の暮らしや町のにぎわいが戻って来ることは素晴らしいことで、苦労した人たちが報われること、悲しんだ人たちが慰められることを私たちも願います。しかし、私たちを揺さぶるものは尽きることがありません。そのような中で私たちが隣人を愛し、仕え、慰める者であり続けることができるために、まず私たちが、揺らぐことのない主なる神様に信頼し、望みを置き、豊かな愛を受け取ってしっかりと立つことが必要です。このことを、長く語り継ぐべき教訓として、また日々の暮らしの中で守り続けるべき確信として大切にしていきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

まもなくあの東日本大震災から10年目を迎えようとしてます。私たちの中にも被災したり、身近な方を亡くしたり、悲しみを覚えた者がおります。同時に、教会として被災した地域や人々のために仕える機会が与えられ、小さな働きではありましたが、共に歩ませていただいたことを心から感謝します。

しかしまた私たちは災害だけでなく、人生の様々な出来事の中で揺さぶられ、揺るがされました。その中で神様に信頼できなかったり、希望を見失ったり、神様の愛が信じられなかったり、他人を愛することが出来ないことまでありました。それでもあなたは変わらずに信頼に応える方であり、望みをかけて失望に終わらせず、私たちの足りなさや不信仰や不忠実さに拘わらず愛し続けてくださいました。

どうか、この後も移ろいゆくもの、失われるものに頼るのではなく、私たちを愛し、真実であり続けてくださる主イエス様に信頼し、希望を置き、愛することができますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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