2021-04-11 さあ主の宮を

2021年 4月 11日 礼拝 聖書:歴代誌第一 22:6-16

 おそらく、どの教会の牧師たちも、信仰を持ったばかりの人に信仰生活とはどのようなものかについて最初に教えること、そして一番大事なこととして「日曜日の礼拝」を挙げるのではないかと思います。

もちろん、礼拝は日曜日でなくても出来ますし、聖書の中にも日曜日の礼拝でなければならないとは書かれていません。それでも、使徒たちやその後に続くクリスチャンたちは、イエス様がよみがえった日曜の朝を記念して「主の日」と呼びました。ユダヤ人が週に一度の安息日を大切にしたように、この日に集まって礼拝を捧げることを大切な習慣として守り続けて来ました。

現代のように働き方や社会が複雑で多様化した時代には、日曜日だからといって簡単には仕事を休めない人も多いのですが、それでもなお、主の日の礼拝を大切にしようということを投げ出す教会は滅多にありません。

今日と来週は、歴代誌第一と第二を取り上げます。列王記と同じように、主に王国時代のイスラエルの歴史を辿っていますが、歴代誌の主人公というか、一貫して現れるテーマは、主の宮、神殿での礼拝です。今日は、歴代誌の著者がなぜ神殿での礼拝に着目しながら歴史を記したのか、それは私たちにどんな教えとして残されているのか、ご一緒に味わっていきましょう。

1.なぜ記されたか

第一に、歴代誌が書かれた目的に注目しましょう。前回まで見て来た列王記とだいたい同じ時代の王国の歴史を描いていますが、違う面もあります。歴代誌の始まりは1~8章まで続く系図が延々と記されています。しかもその系図はアダムまで遡っています。歴代誌が描こうとしている歴史は、単に王国の物語ではなく、アダム以来の神様のみわざだということが何となく感じ取れます。

そして終わりも列王記とは違います。列王記で捕囚としてバビロンに連れて行かれ、牢に入れられていた王が解放された場面で終わっていましたが、歴代誌は捕囚となっていた民がかつて王国があった土地に50年ぶりに帰って来たことを描いています。

8章までの長い系図の後で、9章では歴代誌が記された時代がどんな時代であったかの説明があります。9:2にはイスラエルの人々がかつて王国があった土地に帰り、住み着いたということが記されています。以前皆さんに差し上げた表で見ると、一番下に紀元前539年のクロスの勅令というのがありますが、この勅令によって捕囚とされていた人たちが祖国に帰り始め、イスラエルの民もおよそ50年ぶりに帰還を果たしたのです。ここまでが歴代誌の導入部分になります。

10章からが歴代誌の本論になるのですが。ここではいきなり時代が400年以上遡り、サウルが戦死する場面に移ります。そして王権がダビデに移り、歴代誌第一の終わりまで、ずっとダビデの治世の中での出来事が記されています。

列王記でもけっこう多くの分量を割いて、大河ドラマを思わせるような波瀾万丈なダビデの生涯を描いていますが、歴代誌の関心はちょっと違うところにあります。

歴代誌全体に言えることなのですが、歴代誌のテーマは主の宮、つまりエルサレムにあった神殿と礼拝ということができます。ダビデの神殿建設の準備から始まって、ソロモンの神殿建設。歴代誌の最後は一度破壊された神殿を再建するようにというクロスの勅令によって終わるのです。

13章にダビデが王国の中心に礼拝を位置づけようとした最初の言葉が出てきます。神様とイスラエルの民の間で結ばれた契約のしるしとして「神の箱」または「契約の箱」と呼ばれていたものがありました。中にはモーセに与えられた律法が刻まれた石の板などは入っていました。ダビデは、サウル王の時代には大事にされていなかった契約のしるしを自分たちの中心に据えようと考えたのです。

神殿建設のためのダビデの準備は相当なものです。最初は契約の箱を首都の運び入れ、そこで日々捧げられる礼拝のために入念に計画し、準備し、整えて行ったことが分かります。やがてダビデは神殿建設の志を持ちます。

しかし神様のご計画はダビデの志とは少し違っていました。17章でダビデが預言者ナタンに自分の考えを伝えると「思うとおりにやりなさい」と言うのですが、その後ナタンに神様のみこころが告げられました。ダビデの務めは民を導いて安心して暮らせるようにすること。そして主のための神殿建設は、ダビデの死後、後を継ぐ者に引き継がれ、その王国はいつまでも続き、神の恵みが取り去られることはない、というのです。これは「ダビデ契約」と呼ばれています。

2.安息と平安

第二に、ダビデ契約はソロモンに引き継がれましたが、約束された安息と平安を受け継ぐためにソロモン自身も備えが必要でした。

今日開いている箇所は、ダビデ王が跡継ぎに決めていたソロモンに、神殿建設の志を託す場面です。ダビデ自身、主の御名のために神殿を建てる志をずっと持ち続けて来ました。しかし、神様は「あなたは多くの血を流し、大きな戦いをして来たから神殿建設をしてはならい。その務めはやがて生まれる息子に委ねなさい」と言われました。ソロモンが生まれる前の話です。

ダビデの役割は、アブラハム、モーセ、ヨシュアとバトンが渡されて来た神様の約束を王国という形で実現することでした。そのためにダビデは戦いに明け暮れることになりました。戦争は決して神様が積極的に取りたい方法ではありません。なぜなら神様が人類に与えたいのは救いであり、安息と平安だからです。しかし、罪深いこの世界にあっては避けられないものでもありました。ダビデの務めは次の世代に戦いの止んだ国を託していくことであり、息子ソロモンが神殿建設に取り組むための準備をすることでした。歴代誌第一のダビデの物語は殆どが神殿建設の準備や礼拝の整備に関することになっているのも歴代誌の特徴です。

ダビデがソロモンを励ましたときに明かした神様の言葉の中には、生まれてくるソロモンの時代に平和と平穏が与えられること、つまりダビデの時代まで続いた戦いの日々がついに止み、彼の手で神殿が建設され、王座が確立するという約束が含まれていました。

しかしソロモンが約束された安息、平安を受け取るために彼自身も準備が必要でした。それは主の宮を立派に建て上げるということ以上に、ソロモン自身が主の律法、みことばに従うことです。

列王記でも何度もくり返されたテーマですが、イスラエルの王たちへの評価のポイントは、主に対して背を向けず、みことばに聞き従おうとしたかどうかです。ソロモンに対しても同じことが求められました。ダビデは不完全な人間で、神様のご計画の実現のために大いに用いられた人物ですが、それでも彼の手は血で汚れました。それは戦争という避けられない当時の状況だけのことではなく、自分自身の罪を覆い隠すためだったり、復讐のためだったりしました。にもかかわらず、ダビデがある種理想的な王として捉えられ、描かれるのは、闇に落ちてしまったかのように見えても、そこから主を見上げ、悔い改め、もう一度主に聞き従おうとしたからです。

神殿を建設し、そこで礼拝を捧げるということは、自分たちが主の民であることを告白し続け、私たちの人生、私たちの社会は、神様の救いの恵みと、神様の導きの中でこそ安息を得、繁栄を得ることができるという信仰の表れだったのです。

明白な罪を犯すことは、人間である限り、有り得ることです。もちろん、神様はそうしたことも悲しまれます。しかし神に背を向けることは道徳的な間違い以上に、神殿や礼拝を雑に扱うこと、偶像を持ち込んだり、他の場所で自分が気に入るしかたで礼拝を捧げようとしたりすることにはっきり表れました。そんな様子が歴代誌全体を通して描かれます。歴代誌の代表的な人物3人、ダビデは神と共に歩もうとし、ソロモンは神殿は建てたけれど最後には神に背を向け、第二で登場するヒゼキヤは歴代の王たちの失敗を目の当たりにして悔い改め、ユダ王国滅亡の危機から救われるのです。

3.強くあれ

第三に、神殿建設をゆだねるソロモンに対するおなじみの励ましの言葉に注目しましょう。

それは13節に出て来ます。「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。」

この「強くあれ、雄々しくあれ」という励ましの言葉は特別です。そんなに多くの人にかけられた言葉ではありません。これまで創世記から順番に見て来た中では、敵に立ち向かうイスラエルの民に、モーセの後継者としてイスラエルを率いるヨシュアに、サウルの死後王とされたダビデに、告げられて来ました。例外的には、ダビデの息子アブサロムが、傷つけられた妹のために復讐を果たす時に手下に「強くあれ」と声を掛けています。しかし、基本的には主からの大きな役割を託された者、強大な敵に立ち向かわなければならない神の民に、神様がともにいるから勇気を出してがんばれ!という意味で使われて来た言葉です。

その特別な励ましの言葉を神殿建設を託すソロモンにかけました。そこには恐ろしい敵や困難な問題ではなく、大きな責任があります。それはイスラエルの王たち、そして民が、先祖アブラハムに祝福を約束された神、奴隷とされていたエジプトから救い出し、荒野の旅を導いて約束の地に連れ上った神を自分たちの神様として信頼し、聞き従うという、信仰と契約の象徴となる場所です。それは壮大な建物を建設するという指導力以上に、指揮するソロモン自身が神に信頼し、そのみことばに聞き従う信仰があってのことです。

若いころ、先輩牧師からのアドバイスとして、会堂建設をするときは教会の分裂や混乱に気をつけなさいと言われたことがあります。教会堂はあくまで教会が集まり、礼拝を捧げ、様々な働きを進めていくための器なのですが、いざ建てるとなったら良いものを作りたいです。しかし何が「良い」ものかについては必ずしも皆が一致するわけではありません。その話し合いの中で、お互いに未成熟な部分が表面化してしこりとして残り、建物が完成しいよいよ借入金の返済が始まるという段になって、別の教会に移ってしまうとか、来なくなってしまう人が出てくる事があるというのです。どちらが悪いということではないと思うのですが、建物を建てる以上に、一人一人が主を主としてへりくだり、みことばに聞く信仰のあり方を建て上げることをおろそかにするとそういうことになる、という教訓です。

ダビデはソロモンが神殿建設をやり遂げられるように十分な備えをしましたが、神に対する恐れと信頼、聞き従う従順さはソロモン自身が取り組まねばならない課題でした。

このことは歴代誌第一の終わり、29章でダビデがソロモンに王権を渡す場面での言葉にも表れています。ダビデは神殿建設が次の王であるソロモンの最も重要な務めであることを強調していますが、その中心にあるのは建物そのものではありません。18~19節にこうあります。「私たちの父祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。御民が心にめぐらす思いをとこしえに守り、彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてください。わが子ソロモンに全き心を与え、あなたの命令とさとしと掟を守らせて、すべてを行わせ、私が準備してきた宮を建てさせてください。」彼らの心がまっすぐ神に向くことこそが大事だったのです。

適用 主を礼拝する民

ダビデは自分の務めとして戦いの日々を送っていましたが、私たちもまた、自分たちの生活のため、家族のため、世の中のために働いたり、務めを果たしています。時々、それは現代の私たちの戦いのように感じられます。主を礼拝する民であり続ける戦いです。

私たちもダビデを王としてくださった同じ神様によって救いをいただき、神様の子どもとされたものです。私たちが神の民として人生を築いて行こうとするなら、私たちの生活の中心い礼拝を置くべきなのです。しかしイスラエルの王たちの物語が教えてくれるように、神殿という建物さえあれば良いわけではなく神の前にへりくだり、みことばに聞き従って生きるかを問われていたように、私たちも、日曜日に教会に来さえすれば良いというわけではありません。

私たちは礼拝を捧げる度に、神様の救いと恵みによって生きていることを再確認し、神様のみことばに聞きながら生きて行く決意を新たにするのです。

もちろん、私たちの実際の生活では日曜日に教会に集えないこともあります。特にこの頃は働き方が多様になっています。また、家族や地域社会で果たさなければならない責任もあります。

けれど、ダビデがまるで強大な敵に立ち向かったり、戦いに出ようとする者を励ますかのように、神殿建設と礼拝を中心とした国作りを託すソロモンに「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。」と励ましたように、私たちにとって礼拝を中心とした生活を建て上げていくのは、ある種戦いのようなものです。

歴代誌では神殿建設の準備から始まり、一度破壊された神殿を再建し始めるところで終わっていますが、中心にあるのは自分たちを救ってくださった神様を恐れ、敬い、礼拝し、その御教えに聞き従うかどうかです。戦いの本質はそこにあります。

私たちも礼拝を中心とする生活を築くというのは、日曜日に教会に来るという、表面的なことではありません。ダビデがソロモンに語った最後の言葉にもあったように、私たちの心がまっすぐ神様に向いているかどうかが大事なのです。心がまっすぐ向いていれば、もし弱さゆえに罪を犯したり、誘惑に負けて道を外れてしまうことがあっても悔い改め、再び神様の前に出ることができます。

そのあたりのことを新約聖書ではパウロが的確に教えています。ローマ12:1~2です。

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

神殿という建物があれば上手く行くというわけではなかったように、日曜日に教会に来てれば大丈夫という単純なことではありません。しかし、神殿建設や礼拝の整備に精一杯準備し、捧げ、力らを合わせて建て上げていったように、いろいろ制約がある中でも、主の日に礼拝を捧げようと努力したり、工夫したり、悩んだり、戦ったりしながら、たとえ上手く行かないことや思うように出来ないことがあるとしても、心をまっすぐ神様に向けることが、私たちを真の礼拝者にし、約束された平安と安息、恵みの豊かさの中に生きる祝福となるのです。

祈り

「天の父なる神様。

イエス様によって与えられた新しいいのちに生きる歩みが、約束された平安と恵みの豊かさに溢れたものであることができるように、私たちはあなたを主として敬い、感謝し、御前にへりくだって歩みます。

私たちは足りない者で、弱い者ですから、間違いもありますし、道から逸れてしまうこともありますが、あなた深い憐れみと赦しの中にあることを感謝します。そして、どうか、私たちの心がまっすぐあなたを向くように、お助けください。私たちを主を礼拝する民として形づくり、建て上げてください。

主イェス様のお名前によって祈ります。」

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