2021年 4月 18日 礼拝 聖書:歴代誌第二 36:11-23
先週に引き続き、歴代誌の後半、第二を今日は取り上げます。
前回もお話しましたが、歴代誌は捕囚となっていたバビロンから人々が帰還した時代に記されました。一度滅びた祖国を再建しようとしている時代です。
かつての祖国に暮らしていた人たちにとっては荒れ果てても懐かしい土地に違いありませんが、バビロンで生まれ育った人たちや、捕囚の中で生活を確立した人たちにとっては、瓦礫を片付け神殿を再建したり、町の再建のために頑張る、はっきりした動機付けが欲しいところかもしれません。
それで歴代誌第一はまずアダムから始まる系図で始まります。アダムから続く人々の名前が王国時代とその後の捕囚を経て、帰還した時代までつながっています。これを読んだ人たちにとっては、自分たちのルーツについて教えてくれるものであったはずです。
さらに歴代誌は王様たちの物語が続きますが、その中心にあるのは主の宮、神殿とそこでの礼拝です。主の宮での礼拝は、自分たちがアブラハムを選び、エジプトから救い出した神様の祝福の約束の中にあり、この神様を信頼し、みことばに従って歩む民であることを思い出させるものでした。
歴代誌第二は、ダビデが準備し始めた神殿建設をソロモンがいよいよ実行に移す話しから始まります。
1.祝福と約束の中にある民
第一に、歴代誌は自分たちが神の祝福と約束の中にある民であることを思い出させます。特に歴代誌第二は神殿建設を果たしたソロモンに対する祝福と約束から始まります。
1章から9章まで、ダビデ王の後継者であるソロモンについてのまとまった記述が続きまが、そのほとんどがた神殿建設に関することです。実に1章から8章までが、ソロモンにより建設準備、実際の工事、そして完成後の奉献式を描くために使われています。
最後の9章はソロモンがもたらしたイスラエルの繁栄と栄華が描かれていますが、これは神様がソロモンに対してなさった約束を果たして下さったものです。しかし、列王記にあったような、外国人を奴隷として扱ったとか、大勢の王妃や側女を外国から迎えたとか、彼女たちの信じていた神々をイスラエルに持ち込んだというような話は省略されています。
その代わり、7:12~22で神様は神殿建設をほぼ終えたソロモンに表れ、祝福と約束を告げます。
この神殿はで捧げられる祈りは聞かれ、主のみ教えに従い、契約を守って生きるなら、ダビデに約束したとおり、あなたの王座を堅く立てるという約束を果たすと、確約してくださいました。
しかし、約束と共に警告も与えられました。
その中でも鍵を握るのが14節です。神様に対する背信のために裁きを受ける中で悔い改めるなら赦そうとおっしゃっている所ですが、そこに「彼らの地を癒す」という言葉が出て来ます。
これは直接は裁きの結果、干ばつで乾ききった土地、バッタによって作物が食い尽くされた畑、疫病が流行ったりした土地を癒し回復してくださるということを言っています。そのような癒しをもたらすのが、この神殿での祈り、悔い改めです。
実際、歴代誌第二に記された王たちの記録の中には、列王記にはほとんど出て来なかったある行動がくり返し記されています。それが、列王記では悪い王として評価された王たちの中には、悔い改めて神の赦しをいただいた者たちがいたということです。
たとえば、ユダ王国の破滅を決定的にした最悪の王としてマナセがいます。列王記の中ではマナセがユダ王国に持ち込んだ偶像礼拝や子どもを生け贄として捧げる邪悪さがあまりにも酷かったので、その後の王たちが悔い改めたり、改革をしようとしても国全体が破滅から免れることができなかったとされています。歴代誌第二33章にも、そんなマナセの他と比べようがない悪行が記されています。ところが、10~17節には、列王記がまったく触れていない、マナセの悔い改めが記されているのです。あまりに酷いことをしたので神様はマナセをアッシリヤに一時的に捕らえさせたのですが、その中で悔い改め、神に祈りました。神様は祈りを聞き入れて、彼を赦し、再び王として返り咲かせます。マナセも自分が持ち込んだ偶像を取り除くのです。
他にも何人かの王たちが、マナセほどでないにしても酷いことをしますが、神様の厳しい取り扱いの中で悔い改め、赦され、祈りが聞き入れられるのです。
これは、神様がこの主の宮で礼拝が捧げられ、悔い改めの祈りが捧げられるなら、赦し、癒そうとソロモンに約束した通り、最悪な王の最悪な行動の場合でも果たされたことを示します。
2.頑なさと破滅
第二に、歴代誌第二の残りでは、王国の滅亡が描かれます。
せっかく神殿が建設され、約束された安息がイスラエルに与えられ、繁栄が訪れたのに、その後の王たちが度々見せる頑なさが時代を経るごとに強くなり、ついには王国が滅亡してしまうまでを描いています。
今日読んでいただいた箇所は、最後の王ゼデキヤに対する厳しい評価の言葉が並んでいますが、これはゼデキヤ個人だけでなく、イスラエルの王たちや民の頑なさにも共通するものでした。
確かに立派な王たちもいたのです。前の王の罪深さを重く見て改革を目指した王たちもいました。ずいぶん酷いことをしたけれど後に悔い改めて神様の赦しをいただいた王たちもいました。
しかし全体として、イスラエルは神様に対して頑なになり、反逆したのです。
歴代誌第二10章から36章までの間に、ソロモン以降の王たちの歴史が記されますが、列王記と違って、あきらかに南のユダ王国のほうを中心に描きます。これはダビデが準備し、ソロモンが建設した神殿を守ったユダ王国、ダビデの王家が正統な王国であるという立場によるものです。
ちゃんと20人の王たちが順番に登場しますが、北王国の王たちはあくまで南の王たちの物語の中の登場人物としての扱いです。また列王記ではかなりのボリュームでエリヤ、エリシャという偉大な預言者たちの物語が記されますが、彼らが遣わされたのは北王国の王たちのところでしたので、歴代誌にはほとんど登場しません。
しかし神様は南の王たちや民に度々預言者を遣わしました。そのことが今日の箇所、36:14~16に出てきます。
バビロン捕囚から帰って来た民にとって、これは重大な警告でした。
歴代誌の後の時代に書かれた、エズラ記やネヘミヤ記、またその時代の預言者たちの書を読むと、神殿を再建したイスラエルの民は、またしても自分たちが何者かを忘れ、礼拝をおろそかにしたり、みことばに従うことが形式的になったり、神様を信頼せず背を向けるようなことをたびたびくり返していたことが分かります。
どの時代であっても、またエジプトの奴隷になったり、祖国の滅亡と捕囚というような民族的な大きな悲劇を経験し、そこを越えた神様の救いと回復を経験したとしても、人の記憶も熱意も薄れ、忘れられてしまいます。それは現代人も同じで、戦争の経験や大震災の経験、その中で与えられた助けや恵みを味わい、あるいは痛い思いをして教えられても、時が経てば私たちの中に眠る罪の性質や人間として持っている弱さがまた顔を出します。
しかし問題は、私たちが罪を犯したり失敗するかどうかではありませんでした。13節でゼデキヤが「うなじを固くし、心を閉ざして、…主に立ち返らなかった」とあるような頑なさ、15~16節にあるように、神様が憐れみのゆえに遣わした人々の呼びかけに応じず、悔い改めず、背を向け続けることです。
ですから、新約聖書に入って約束の救い主が来られると言うときにバプテスマのヨハネが人々に真っ先に告げたことも、イエス様が福音を宣べ伝える時に真っ先に語ったことも「悔い改めなさい」だったのです。
3.荒廃と安息
第三に、イスラエルの積み重なった不信仰と反抗への報いとして荒廃がもたらされましたが、それはまた安息をももたらしました。
16節後半を見ましょう。
あわれみのゆえに何度も預言者を遣わし、悔い改めを呼びかけましたが、その言葉に耳をかさず、かえって笑いものにするような態度に対する結果は、神様は激しい憤りという形で返って来ました。
具体的な出来事は列王記でも見ましたが17節以下に記されているとおり、カルデア人と呼ばれる、バビロン帝国による侵略でした。しかし歴代誌ではエルサレムの町の破壊やユダ王国の破壊というより神殿の破壊と城壁の破壊に焦点を当てて記しています。記述も列王記に比べて非常に簡潔です。
彼らはエルサレムに攻め入り、聖所、つまりダビデが志し、ソロモンが引き継いで建設し、これまでずっと王国の中心に立ち続けていた神殿で容赦の無い殺戮が行われました。神殿にあった高価なものは全て持ち去られ、主だった人々は連れ去られ、神殿と城壁は破壊され、焼かれてしまいました。そして、20節の終わりにあるように、ペルシャがバビロンにとって変わるまで、ふたたび捕らわれの身となったのです。
イスラエルの王国が確立し、その中心に主を礼拝するための神殿があることで、この地に安息と平安がもたらされるはずだったのに、イスラエルの王たち、民の反抗と不信仰のため、この地は常に揺れ動き、傷つけられ、汚され続けてきました。王国は分裂し、偶像礼拝が最も神聖な神殿の中にまで持ち込まれ、神を畏れる信仰心は廃れ、神のことばにへりくだることもなくなって、国のなかでは正義もあわれみも軽んじられるようになってしまったのです。
世界に祝福と平和をもたらす神の民として建て上げられるはずの国の反抗と不信仰、正義も憐れみも失われた地は、皮肉なことに、人々が取り去られることで回復の時間を与えられたのです。
「この地は安息を得た」とはレビ26:34~35で警告されていたことです。イスラエルの民がまだ国を持たず荒野を旅していた時に与えられた律法の中で語られたことが実現したのです。
全世界に神様の祝福をもたらす器としてのイスラエル王国は行き詰まってしまいました。しかし罪と死に支配された人類を救い、この世界を回復するという神様のご計画はまだ生きています。というのも、先ほどのレビ記に続きにはこうあるのです。42~45節で、神様は約束を想い起こし、神様ご自身は契約を破ることはないと断言なさっているのです。それはまた、始めのほうで見た7:14で神様がソロモンに告げた言葉束の中にも出てきた、回復の約束の実現でもあります。その最初の一歩が、歴代誌の最後の二節に出て来るペルシアの王クロスによって、バビロンから帰還し、神殿と国の再建に向かうようにとの勅令がくだることです。
歴代誌を最初に読んだ人々は、自分たちの先祖がどう歩んで来たかを知り、そして捕囚から帰って来たことの意味を教えられたのです。それは、今でも自分たちは主なる神様の民であるという揺るがない事実でした。先祖たちの不信仰や反逆は国の滅亡と捕囚という結果をもたらしましたが、それでも神様の約束は変わらず、救いのご計画が今まさにまた動き始めた、そんな中に自分たちが生かされていることを知ったのです。
適用 私たちは主の民
先週と今週と、二回に分けて歴代誌を見て来ました。アダムから始まる長い長い系図や、今はもう目にすることがない神殿の準備や計画、その工事。あるいは今とはだいぶ様子の異なる礼拝の様々な規定などは、よほど関心のある人でなければ読んでも私たちに関係があるようには思えないかも知れません。
しかし、これを読んだ人々は自分たちが神の救いをいただき、神を主としてあがめ、そのみ教えに聞き従うべき民であることを思い出させられました。
系図や礼拝儀式やレビ人の奉仕の組み分け、神殿にどんな材料が使われ、どんなふうに建てられたか、現代の私たちにはあまり重要性が伝わらない面もありますが、現代の私たちにとっても、いくつかの大事な原則、そして神様のご性質について重要なことを学び取ることができます。なぜならば、歴代誌の中で描かれた人間の罪の性質、神の憐れみと赦し、正義と裁きは、神のひとり子イエス・キリストの十字架の死と復活にまっすぐ結びつくものであり、私たちはそのキリストによって歴代誌の神様と同じ神様のあわれみと恵みの中にいかされているのです。
第一に、主の救いをいただいた者はいつまでも主の民であるということです。創世記から申命記までの5つの書でアブラハムとその子孫を通して世界に祝福をもたらすという約束に基づいて、奴隷となっていたアブラハムの子孫が救い出され、主の民として形造られて行った様子を学びました。その後、ヨシュア記から歴代誌に至るまでの歴史を通して、主の民はますます強められ、豊かな王国となりましたが主に背き、みことばをないがしろにし、ついには王国の滅亡と、主がともにいてくださることの象徴であった神殿も破壊され、ふたたび奴隷とされ捕囚になっていきます。しかし、それでも歴代誌は、主が約束を忘れることなく、なおも主の民としていてくださいました。同じように、イエス様を信じて罪と死の中から救い出された私たちは、たとえ再び失敗をくり返し、罪を犯し、道に迷うことがあっても、神様はイエス様によって私たちを救い、癒すと約束されたことを違えることはありあせん。
第二に、主の救いをいただいた者は、主を主とし、主のみことばに立って生きることを追い求めるべきことを教えられます。せっかく与えられた祝福の約束を逃してしまうのは、神様の気まぐれでも、神様の力が世の中の荒波に追いつかないからでもありません。時折試練という嵐がやって来たり、誘惑の闇が近づいた時でも主に信頼し、主のみこころに従おうと、まっすぐに主に心を向ける者を主はないがしろにしたりはしません。そして、もしそのような最中に罪を犯すことがあっても、悔い改めを通してもとの道に戻ることができます。週ごとに捧げる礼拝は、週ごとにそうした生きた信仰の歩みをしていくために自分を振り返る復習や点検の時であり、新しい週のための予行演習であり、恵みをくださる神様へのふさわしい感謝と賛美を捧げ、この週も共に歩みますという決意の時でもあるのです。
歴代誌を最初に読んだ帰還の民は、自分たちが誰か、何者かということを歴代誌から読み取りました。そして今日の私たちもまた、私たちが救いをいただき主の民とされた者だり、主を礼拝する民として、主を恐れ敬い、そのみことばに立って生きる者だということを再確認させられます。私たちの不忠実さや歴史を越えて憐れみ、導く神様と共に歩む、御国の民としてこれからもご一緒に歩んで行きましょう。
祈り
「天の父なる神様。
私たちをお救いくださり、あなたの民としてくださったことを心から感謝します。
かつて主の民が歩んだ道のり、信仰と不信仰、献身と堕落、祝福と裁きを通して、人の罪深さと、神様の真実、恵み深さとを覚えます。
私たちもまた信仰と不信仰の間を揺れ動いたり、主に従う決意が長続きしなかったり、試練や誘惑に負けてしまう現実を良く知っています。それでも変わらずにあなたは私たちをご自分の民として愛し、祝福しようとあらゆることをなしてくださる方です。
私たちは決して完全に正しく生きることが出来ない者ですが、それでも心を真っ直ぐに神様に向け続けることができるようにしてください。そのような信仰と、遜った悔い改めとをもって歩み続けられるように、互いに励まし合いながら歩ませてください。
約束された安息が私たちのものとなりますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。」