2021年 5月 23日 礼拝 聖書:ヨハネ3:1-8
キリスト教の暦では、本日はペンテコステと呼ばれる記念日です。ペンテコステはギリシャ語で50日目という意味ですが、もともとはユダヤ人のために旧約聖書で定められていた過越の祭から五十日目に行われる収穫を祝う祭の日を指しています。
この日に起こった出来事については礼拝の最初の聖書朗読で司会者の方に読んでいただいた、使徒の働きに記されています。イエス様が天に挙げられる時に、使命を託した弟子たちに「聖霊がくだるのを待ちなさい」と言われました。イエス様が教え、なさった働きを教会が引き継いでいくためには人間の力ではなく、聖霊の力が必要だと言われたのです。
その聖霊がくだった日が、ちょうど収穫を祝うために多くのユダヤ人がエルサレムに集まっていた日だったわけです。そのような訳で、キリスト教会にとっては、このペンテコステは旧約時代の麦の収穫を祝う日から、聖霊がくだり教会が誕生した日として、またイエス様の蒔かれた種を刈り取るように、福音を宣べ伝えることを始めた日として大事にしてきました。
しかし使徒の働きにあるような、目覚ましい出来事が日常的に起こるわけではない私たちの歩みにおいて、聖霊は名前は聞いても実態がよく分からない、という印象があるかも知れません。今日はニコデモとイエス様の対話から聖霊の働きについて学びましょう。
1.新しく生まれる
第一に、イエス様はニコデモとの対話で、人が救われるためには新しく生まれる必要があるとはっきり言われました。
今日、私たちが開いている箇所は、ペンテコステとは一見関係なさそうな箇所です。律法の専門家であったニコデモがイエス様を夜訪ねてきたときのものです。しかし4つの福音書の中で、聖霊が人間に対してどのような関わりをなさり、どのように働かれるかを記した最初の箇所が、このニコデモとの対話なのです。
イエス様誕生のときや、イエス様が四十日の断食と荒野での誘惑を受ける場面、イエス様がバプテスマを受けた時など、イエス様に関しての聖霊の役割は何度か出て来ますが、人間に対して聖霊がどう働かれるかをイエス様ご自身がお話になったのはここが初めてということになります。
イエス様とニコデモの出会いは、イエス様が公の働きをはじめて間もない頃のことでした。過越の祭を祝うためにエルサレムに滞在していた時のことです。ゆっくり時間を取ってお話が聞けるようにと、ニコデモは夜になってからイエス様のもとを訪ねて来たのではないかと想像しています。
ニコデモの聞きたかったことは、人はどうしたら神の国に入れるのか、ということでした。人々が救い主を待ち望んでいたのは、神が遣わすキリスト、救い主が、待ち望んでいた人々を救い、神の国に迎え入れてくれると信じていたからです。
ユダヤ人にとって救いの鍵となるのはアブラハムへの契約とモーセを通して与えられた律法でした。救いの条件はアブラハムの子孫であること、そしてアブラハムの子孫として律法を守ることです。
旧約時代に王国滅亡や捕囚といった苦難を味わい、今またローマの支配下にあったユダヤの人々が教訓として得たことは、聖書の神のみを信じ、その律法に従うことこそが救いの道だということでした。ヨハネ2章の後半には、ユダヤ人たちが祝っていた過越の祭の賑わいぶりが描かれています。その賑わいがまさに、神を礼拝し、律法に従っているということの、神様へのアピールでした。
もちろんニコデモは律法の教師としてそう信じて歩んで来たはずです。ところが、イエス様があの過越の祭が祝われている神殿で、すべてを覆すような行動をしたのです。おそらく、そのことが彼の信じて来た事を揺るがしたのでしょう。
その日、エルサレムにあった荘厳な神殿では、毎年変わらない祭の光景が広がっていました。ユダヤの各地だけでなく、ローマ世界のあちこちに散らばっていたユダヤ人たちが大勢集まり、礼拝を捧げ、礼拝者のために犠牲の動物が売り買いされ、神殿で奉納できるお金に両替するための露天商が店を広げていました。人々にはそれが当たり前の光景でしたが、イエス様は神殿がどのような場所かを思い出させるように、細縄でむちを作って動物も商売人も追い出してしまったのです。
そんな光景を見たニコデモが、こころを揺さぶられ自分はこのまま進んで大丈夫なのだろうかと思ったとしても不思議ではありません。なかなか本題に入らないニコデモに、イエス様は3節でこう答えました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」。私たちが救われるためには、新しく生まれなければならない、心が変えられなければならないというのです。
2.御霊によって生まれる
第二に新しく生まれるのは聖霊の力によらなければなりません。御霊によって生まれた者が本当の意味で新しく生まれた者です。
「新しく生まれる」というのは、もちろん心が変えられることの比喩的な言い方だということはニコデモも分かっていたはずです。しかし、人間が新しく生まれ変わること、心が変えられるこがどれほど難しいか、彼はよく分かっていました。
それはすでに高齢になっていたニコデモの個人的な経験というだけのことではないでしょう。先週まで天地創造から王国時代の様々な出来事、捕囚後のエズラ記、ネヘミヤ記、エステル記とみてきました。そこで明らかにされたことは、神の変わらない恵みと誠実さに対して、人間の罪深さは簡単にはなくならない。というより、どんなに厳しい経験を経て学んでも、神だけを神とし、神の教えに従って生き続けることができないのが人間だということです。
イエス様は、アブラハムの子孫だということは救いを保証しない。人間は律法を守ることで、つまり自分の力で救われることはないし、神の国に入ることもできない。それが可能なのは聖霊によって新しく生まれることだけだと言っているのです。
6節で「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」と、これまた謎かけのような事をおっしゃっています。新しく生まれ直すという文脈で語られていますので、肉によって生まれるというのは、例えばユダヤ人たちが頑張っていたように、人間的な力によって律法に従うことで新しい人間になろうとすることです。しかし、そのような宗教は、人間が持って生まれた罪の性質を変えることが出来ません。自分の力で生まれ変わろうとしても、自分のもともとの性質が残るのです。
しかし、御霊、つまり聖霊によって生まれた者は、聖霊の性質を持つようになります。自分の元からの性質も残りますが、聖霊によって与えられる性質が少しずつ私たちを変えていくのです。そして神である聖霊の性質を持つということは、神のいのちを受け取るということです。
律法を守る事、あるいは、普通の意味で道徳的な規範のようなものを守って「良い人」になることはある程度までは出来ます。たいていの人には、自己中な行動が自分や周りにどんな酷い結果をもたらすか経験上知っていますから、ものごとを我慢したり、他人のことを考えたり、常識に照らし合わせたり、時には法律で定められた刑罰や罰金に値することだろうかと考えて、罪の道に行くのを思いとどまるかも知れません。しかし、自己中心の性質そのものは消せないし、完全にコントロールすることができません。
自分のして来たことを後悔して、もう二度とそんなことはしませんと決心し、相当頑張って過ちをくり返さないように生きる人はまれにいますが、多くの場合、同じ過ちをくり返します。たとえ、外側の行いとしては間違いをくり返さずとも、心の中に起こって来る誘惑や迷い、罪に傾く思いからは自由になれません。肉から生まれた者は、どんなに頑張っても肉である。罪の性質を持って生まれた者は、熱心さとか強い意志とか、罰に対する恐れとか、自分の力では、その性質を取り除くことはできないのです。別な言い方をすれば、人間には自分を癒す力がないのです。ですからイエス様は御霊によって新しく生まれる必要があると言われました。
3.御霊は風のように
第三に、聖霊の働きは人間の思いを越えて働きます。
イエス様は、救われるためには聖霊によって新しく生まれなければならないと言われましたが、ニコデモにはこれがよく理解できませんでした。7節で「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません」とイエス様はおっしゃっています。そんなふうに不思議がるのが、当時の律法の教師たちの反応だということを知っていました。
実際9節でニコデモは「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか」と問いかけています。
ニコデモや当時のユダヤ教の指導者たちが不思議がるのは無理もありません。神が人の救いのために用意したのはアブラハムとの契約であり、モーセをとおして与えられた律法だと教えられて来たし、実際、先祖たちの王国が滅びたのも、神を神とすることを止めて他の神々をおがんたり、律法をないがしろにしたためでした。だから自分たちは神の約束された救いに入るために、強い決意と意思を持って律法に従うことこそが信仰だと理解していたのです。
しかしイエス様は、そうではなく、どうがんばっても罪の力や性質から逃れられない私たちのために、聖霊が働き、新しく生まれさせてくださるのだと言っているのです。
聖霊の働き方というのは、この決まりを守れたら合格、というようにわかりやすいものではありません。それはまるで風が吹くようなものです。
イエス様はここでちょっとした言葉遊びをしています。風と訳されている言葉と御霊と訳されている言葉は、実は同じ単語が用いられています。どちらにも訳せることばを使って、聖霊の働き方がまさに風のようだということを耳に残るように教えているわけです。
私たちも経験上、風が予想を超えた吹き方をするのを知っています。風そのものを目で見ることはできませんが、風が吹いているのは音がしたり、木が揺れたりすることで分かります。聖霊の働きもそのとおりで、聖霊の神様ご自身を目で見ることはできませんが、聖霊が働いた時に起こることを私たちは見ることができ、感じることができます。この聖霊が私たちの心に働いて、私たちの心を新しくしてくださいます。
「風は思いのままに吹きます」と言われているように、聖霊はご自身の思いやお考えによって働かれます。機械的に「こうやれば必ずこうなる」というようなものではありません。
確かに聖霊の働きには神秘的で分からない面はたくさんあります。しかし神様は私たちを愛しておられるので、私たちを救い、導き、励まし、慰めるために私たちの心に働きかけてくださいます。そして完全に無風な時があまりないように、聖霊は時に激しく、時にそよぐように私たちに働きかけ、新しく生まれさせ、新しく生きるように働きかけてくださいます。
そして、一般的に、大まかな風向きが予想できるように、聖霊の一般的な、通常の働き方というのがあります。礼拝しているとき、聖書のことばに触れているとき、祈っているとき、同じ主を信じるクリスチャンとの交わりの中にある時です。皆さんもきっとそれらの中で、心に感じるものがあったという経験があるのではないでしょうか。
適用 風を感じて
さて、今日はペンテコステということで、ニコデモとイエス様の対話を通して、私たちを新しく生まれさせるご聖霊の働きに焦点を当てて学んで来ました。この箇所だけで聖霊についてすべてが語られているわけではないので、全体を理解しようと思ったら、もっと多くの箇所から学ぶ必要があります。
それでも、聖霊なる神様のご性質やお働きには、私たち人間の理解を超えたものがあります。まさに風のように思いのままに働かれるのが聖霊様だからです。
ニコデモや当時の律法主義の人々が唱えていた救いについての教えは、実はすっきりわかりやすいものではありました。それに比べて、イエス様が語る聖霊の働きはどこかつかみ所がなく、理解しがたいとことがあります。
もちろん、聖霊について聖書が教えていることを丁寧に学んだり、教わったりすることはとても大事なことです。しかし、風を直接知りたかったら、教科書やネットで調べて理屈を勉強するより、窓を開けたり家の外でて、実際に風に吹かれ、風の流れや力を感じ取るのが一番です。同じように私たちに救いを与え、力と慰めを与えるのは知識ではく、聖霊ご自身です。私たちは、聖書を神のことばとして読み、聞き、私たちの願いや思いを祈りとして神様に聞いて頂き、同じキリストに結ばれ、同じ聖霊が住んでくださる教会の交わりの中で分かち合い、賛美し、礼拝するなかで、風を感じるように、聖霊の働きを感じ取るように意識を集中しましょう。
私たちの世界は、聖霊の風を感じ取るのを邪魔する様々な騒音にあふれています。「分からない」という思い込みだったり、世の中の様々な出来事から呼び起こされる不安や恐れだったり、ちゃんと説明できないことは信じないという考え方だったりが、聖霊の働きを感じ取りにくくします。
使徒の働きのペンテコステの記事に出て来るような、わかりやすい奇跡があれば、「おお、確かに聖霊が働いている」と思うに違いないと考えるかも知れませんが、実際にいやしの奇跡があるとか、異言で語る人がいると聞いたり、見たりすると「それは本当に聖霊の働きなのか」「やらせじゃないのか」という疑念を抱いたりもしがちです。不思議な出来事がすべて聖霊の力によるものであるわけではなく、単に解明されていない自然現象であったり、悪霊の力による場合もありますから、なんでも真に受けて単純に信じることに危険性もあります。しかし、疑い深さが真の聖霊の働きを小さくしてしまうこともあります。
聖霊がどのような働き方をされるかは、私たちの願いや考えによるのではなく、聖霊のお考え次第です。私たちを慰めるために、ごく柔らかで穏やかな風のような働きかけをなさる場合もありますし、私たちに強く語りかけ、また御力をはっきり強く示すために激しい嵐のような働き方をなさる場合もあります。
それが聖霊の働きであることは、私たちの心や生活を救いにあずからせる風向きかどうかで明らかです。それが私たちを癒やし、救い、慰め、励まし、みことばが指し示す新しい道へと導くものなら、聖霊の働きですから、信仰を持って受け止めましょう。
ご聖霊様こそが、みことばを頭での理解から、心で受け止め、実際の生活に変化をもたらす、神様のいのちの力の源である方です。
祈り
「天の父なる神様。
今日はペンテコステということで、イエス様がニコデモとお話なさったところから、ご聖霊様の働きについて、ほんの一面だけですが、学んできました。
風が吹くように、私たちを活かし、癒し、励ますために働いてくださる聖霊様の働きを感じ取ることができますように。
私たちの信仰が、私たちの理解や常識で制約され、小さくなってしまわないようにしてください。あなたがどれほど私たちをより自由にし、より大きな祝福、より広い恵みの海に導こうとさせてくださっているか、感じ取ることができるように助けていてください。
イエス様のお名前によって祈ります。」