2021-05-30 苦しみの中で何ができるのか

2021年 5月 30日 礼拝 聖書:ヨブ記1:1-22

苦しみを経験すると、私たちの心には「なぜ」という問いが生まれることが多いかと思います。

先日『神とパンデミック』という小さな本を読みました。昨年来の新型コロナの世界的流行という状況を踏まえて、近年最も注目される神学者が書いたものです。その本の中で心を捉えた文章がありました。新型コロナをめぐってはキリスト教会や世界で様々な質問が出たけれど、著者は「私が聞いた答えの最良のものは「なぜですか?」という問いへの答えではなく、「何ですか? 私たちにできることは何ですか?」という問いへの答えです」と記していました。

新型コロナによる世界的なパニックだけでなく、10年前の震災の時も、そして、私たちが個人的に経験する様々な苦難の時に、クリスチャンたちが開く聖書の一つがこのヨブ記だと思います。

聖書全体を順番に見て行こうと始めたこの取り組みも、今日から「詩・知恵書」と呼ばれるまとまりになっていきます。ヨブ記はその最初のものですが、ヨブ記には著者についての情報はなく、登場人物もイスラエル人でなく、どんな時代かを示すヒントもありません。しかし、苦難に見舞われたヨブが「なぜですか?」と神に問うこの書物の中に、多くの人が答えを求めて読みます。ある人は満足し、ある人はもやもやした気持ちで終わります。果たして、神様はヨブ記を通してどのような答えを示しているのでしょうか。

1.答えのない問い

第一に、ヨブ記の中でヨブは何度も何度も「なぜですか」と問いかけていますが、実はヨブ記を最後まで読んでも、ヨブが問いかけた質問への答えがありません。これがヨブ記の最大の特徴です。

ヨブ記は、大きく4つに分けられます。1~2章はヨブ記の導入部分です。ここにはヨブの地上での経験と、ヨブが知ることのできない天での神とサタンの対話とが記されいます。

この中でヨブについての紹介があり、彼の信仰を試そうとするサタンが登場します。神様はヨブについて1:8で、地上の誰よりも誠実で、真っ直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていると断言しています。

しかしサタンはヨブが神を信じているのは、神がヨブを祝福し、豊かにしているからに違いない。もし、彼が苦しみに会って大切なものを失えば、そんな信仰が張りぼてみたいなものであることがすぐに分かるはずだと主張します。

そこで神様は「ではやってみなさい。ヨブの持ち物すべてをお前に任せよう。ただ彼自身に手を触れてはならない」ということで、ヨブが苦難に遭うことを許します。

自然災害や強盗の集団に家族や財産が襲われ、次々と死んでしまったり、失ったりしますが、ヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言って罪を犯すことなく、神に文句を言うことはありませんでした。この時点ですでに、私なんかの信仰とは比べものにならないほどの誠実さ、強さを感じます。なかなかそのように言えるものではありません。

しかしサタンはまだ納得できず、2章でさらに神にヨブを試すよう要求します。そこでも神様はヨブの信仰、誠実さを証言します。神様はヨブのいのちには触れないという条件で、サタンにヨブ自身を苦しめることを許します。

ヨブは悪性の皮膚病に冒され、足の裏から頭のてっぺんまでぐちゅぐちゅとただれ、痛みとかゆみが全身をむしばんでしまいます。奥さんまでが2:9にあるように「あなたは、これでもなお、自分の誠実さを固く保とうとしているのですか。神を呪って死になさい」と言い放ってしまいます。それでもヨブは罪を犯すことはありませんでした。

ヨブ記の導入部分、1~2章の最後は、三人の友人が訪ねてくる場面で終わります。

彼らはヨブに降りかかった災難のことを聞いて、互いに打合せをし、慰めようとヨブのもとにかけつけました。しかし、遠くから見えるヨブの姿は、彼らが知っているのとはまるで別人でした。その姿を見た友人たちも声を挙げて泣き、嘆きました。そして、3人は何も語らず、まる一週間、ヨブが語り出すのを待ちました。

ここまで読んで来て、私たちには一つの大きな疑問を感じます。「どうして神はサタンがヨブを苦しめることを許したのか」ということです。サタンが何を言おうと、神様ははねつけても良かったのではないでしょうか。なぜ、ヨブの信仰を試すためにちょっとした苦しみではなく、絶望の淵に立たせるほどの苦しみに、何の説明もなく会うことを許したのでしょうか。この問いのもっと深いところには、神は本当に正義の神様なのか、という問いかけがあり、このあとの4人の対話の中でくり返されます。

2.それは罪のせいか

第二に、こうした苦しみに直面するときに私たちが感じたり、誰かに言われたりすることの多い、一つの問題、「これは罪に対する罰なのか」ということについて考えてみましょう。

ヨブ記の2つめの部分は3章から37章まで続く、ヨブと友人たちとの対話です。ここは非常に分かりにくい詩のかたちで書かれていますが、よく見ると、ヨブが口火を切り、三人の友人が順番に答え、それぞれにヨブが答えるというパターンをくり返しているのが分かります。

まず、ヨブ自身は、自分が潔白であって、この苦しみは神からの罰なわけがないと主張しています。その主張が間違いではないことは、神様ご自身が証言しています。

あくまでも潔白を主張し、このような苦しみは不当だと訴えるヨブに対して、3人の友人たちは、神は正義の方であり、間違えることはない方、そして罪に対しては報いる方だ。そうであるなら、ヨブが味わった苦しみは、いくら彼が自分は無実だ、潔白だと主張しても、正義の神が不当な罰を与えるわけはないから、お前が何かやったんだ。隠しているか、あるいは気づかずに何かしてしまったに違いない。そういうことをくり返し論じています。

たとえば4:7ではテマン人エリファズがこう言います。「さあ、思い出せ。だれか、潔白なのに滅びた者があるか。どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。」

これに対してヨブは6:28~30でこう答えています。「今、ぜひ、私の方に顔を向けてくれ。あなたがたの顔に向かって私は決してまやかしを言わない。思い直してくれ。不正があってはならない。思い直してくれ。私の正しさが問われているのだ。私の舌に不正があるだろうか。私の口は破滅を見極められないだろうか。」

こんなふうに対話が続き、ヨブは噛み合わない話しに苛立ちを増し、誰も私の味方ははいないのかと9:33でこう嘆きます。「私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。」

そしてついにヨブは31:35で神に向かってちゃんと説明してくださいと訴えます。「だれか、私の言うことを聞いてくれる者はいないものか。──ここに私の署名がある。全能者が私に答えてくださるように── 」

非常に長くて、言葉も難しい箇所ですが、ヨブは神が正義の方ならなんで自分はこんな目に遭うのかと問い、友人たちは神は正義なのだから、お前が何か間違ったんだと責めます。どうしてこんな問答をくり返すのかと不思議に思っていましたが、先週あらためてヨブ記をななめ読みしながら思い出したことは、そういえば、私たちも苦難に会うとき、あるいは誰か嘆いている人の話し相手をしているとき、同じ話を何度も何度もくり返すなあということです。

そして、現代でも何か悪いことがあると、言い方は様々ですが、その人に問題があるのだというふうに周りは言いがちです。中国で新型コロナが出回り始めた頃、武漢の市場の不衛生な様子をみて「これだから中国は」と言ってみたり、一人暮らしの子どもが体調を悪くすると「ちゃんと食べてた?どんな生活していた」と問い詰める口調になってしまったりします。ヨブの友人たちも、心配し同情しながらも、お前何やったんだと聞くわけです。しかし、ヨブの主張も、友人たちの主張も間違っていることが明らかになります。

3.小さな世界

第三に、神様に不満を述べるヨブが、いかに小さな世界からしか物事を見ていないかが明らかにされます。

37章までの友人たちとの対話は31章で一区切りとなります。ヨブは自分の言いたいことを言って、あとは黙ってしまったからです。がんこなヨブに対して3人の友人たちも何か言うのを諦めてしまいます。そこで32章から4人目の若いエリフが登場し、語り始めます。37章の終わりまでずっと話し続けていますから、そうとう長い話しになります。

エリフの主張を要約すると、人間は神を責められるほど対等だと思っちゃいけないということです。神様が正義のお方であることは間違いないから、人間がこれは理不尽じゃないかとか、神が正義であるか疑わしいように思える出来事があったとしても、そこには人間の知恵の及ばない神の意図、目的があるのではないか、というものです。痛みや苦難は神の裁きや罰ではないとしても、何か意味がある、というふうに言うことがあります。しかし、その意味がなかなか見いだせないこともあるのも事実です。そのせいかどうかは分かりませんが、ヨブはエリフの主張に答えることはありませんでした。代わりに神様がヨブに語りかけます。ヨブ記の4つめの部分が38章から41章まで、主がヨブに語った場面になります。

38:1「主は嵐の中からヨブに答えられた」。神様が近づかれる時に嵐が起こるのは旧約聖書ではおなじみの光景です。神様の圧倒的で恐ろしいほどの栄光、力、しばしば怒りを表します。

そして神様は嵐の中から38:2でヨブに語り始めます。「知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者は誰か。」

「摂理を暗くする」という表現がちょっと分かりにくいですが、神様がヨブに気づかせようとしていることがあります。ヨブは心や行いにおいては正しい人だけれど、そんな立派な人物でも、神様のなさることを正しいとか間違っていると言えるほどに、ものごとをわきまえているわけではないことを思い出せ、ということです。

そこで4節で「わたしたが地の基を定めたとき、あなたははどこにいたのか。分かっているなら、告げてみよ。」と切り出し、あたかも天地創造の場面を見せるかのように語りはじめます。人間の手や知識が及ばない広大な宇宙と大自然の神秘に触れながら、これらが造られた時、お前はどこにいたのか。その仕組みや動き方を知っているのかとたたみかけるように問いかけます。もちろん、現代の私たちもヨブと対して変わらず、宇宙のなぞや生命の神秘については知らないことばかりです。神様はそうしたことを知恵をもって、慈しみと力をもってなさってこられました。

そして再び40章でこう問います。「非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それに答えよ。」

私たちが知っていることには限りがあります。この世界は、神様が造られた素晴らしい世界ですが、美しさだけでなく厳しさ、荒々しさもあります。

40~41章にかけて、荒々しい生き物の代表のように河馬(ベヘモス)とレビヤタンが登場します。神様が造られた世界には人間が太刀打ちできない荒々しさ恐ろしさもあり、そのために苦しみに会うことが避けられないのです。そこを指摘して主の言葉も終わります。しかしヨブの疑問に対する答えは結局ありませんでした。

適用 苦しみの中で

ヨブ記の最後は42章の短いまとめで終わります。

神様の語りかけを聞き、そこに彼が求めた苦難についての説明がなかったにも関わらず、ヨブは自分が神の正義を疑ったり、非難するだけの知恵も知識もないのに神を非難し、怒りを爆発させてしまったことを悔い改めます。そして神はヨブの正しさを認め、最後は一見、ハッピーエンドにも見えます。しかし、後から子どもや財産が加えられたからといって、失われた者が帰って来るわけではありません。悲しみは和らぐかもしれませんが、新しいものを得たからと言って失った子どもたちや孫たちのことをすっかり忘れられたり、傷付いた心が完全に癒されるということではないでしょう。

ヨブの最初の問い「なぜですか」という質問は、最後まで、中に浮いたままなのです。ヨブ記全体を通して、神は正義のお方であることは確かめられましたが、ではなぜヨブは苦しまなければならなかったか、という問いに対するはっきりした答えがないのがヨブ記の最大の特徴です。

そしてそこに至るまでの友人たちのもっともらしい主張も実は見当違いで、間違いなわけですから、苦難の意味について悩む人にとっていったいどんなメッセージが語られているのでしょうか。

ヨブ記が語る大事なメッセージが4つあります。

第一に、ヨブと4人の友人たちは、それぞれ自分の立場から意見を述べており、それぞれ見当違いであったり不完全であったりするのですが、全員に共通しているのは神様は正義のお方なはずだだということです。そのように信頼しているからこそ私たちは苦しむのだということを明らかにしています。苦難の中で悩み苦しみ、神に訴えることは神の正義への私たちの信頼のひとつの表れです。

第二に、このような苦難の中で私たちは神様の正義に信頼して、訴え、祈り、嘆き、不満を述べ、怒りを向ける事ができるということです。確かにヨブの主張には自分の立場や視野の限界をわきまえない面はありますが、支離滅裂とさえ言えるヨブの不満や怒りに拘わらず、神様は彼を正しいと認めてくださいました。苦難や悲しみ故に湧き出てくる様々な思いを神様は聞いてくださいます。

第三に、神様は私たちを苦しみや悲しみの中に置いたままにはなさらないという希望を示してくださっています。失ったものはもとには戻りませんが、慰め、良きものを備えてくださると期待して良いのです。そして今日の私たちはキリストにあって失われた人たちとやがて天の御国で再会できる希望があります。

第四に、ヨブが嘆きの中で、自分のために味方になり、とりなしてくれる人がいないとわめきましたが、私たちにはそのような方がおられます。

最後に二つの聖書箇所を開いて終わりましょう。まずローマ8:26です。苦しみの中でうめき、祈りの言葉も見つからないとき、聖霊が私たちとうめきをともにして取りなしてくださいます。

もう一箇所はヘブル4:14~16です。イエス様は私たちの苦しみや嘆き、弱さをよく分かっていてくださり、味方でいてくださいます。そしてイエス様を通して恵みと助けが備えられています。

ヨブ記の中では完全な解決は与えられていませんし、新約時代に生きる私たちにもすべての答えが与えられてはいません。しかし神の正義に信頼して何でも訴えることができ、私たちの味方となり、助けを与え、慰めてくださる方がいることを知っているので、ヨブよりだいぶ良い条件で戦えるということです。

この不完全な世界に生きている以上、苦難が完全になくなることはありませんが、私たちはイエス様をよみの中に捨て置かなかった神様の正義を信じて、嘆きを聞いていただき、恵み深い神様の御手にこの傷付き弱った心と身体をお任せしましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今日はご一緒に、苦しみの中で嘆き、神様に訴えたヨブの物語と言葉を味わうことができて感謝します。

私たちもまた、この不完全で混乱した世界に生きる者として、苦難と無縁ではいられません。しかし、あなたがどんな時代にも、どのような人たちに対しても真実で、義なる方であったように、変わらずに愛なる方、義なる方であることを信じます。理由や意味が分からない時にも、私たちには理解の及ばない、神様のご計画やみ想いがああることを信じます。

そしてどのような訴えも、嘆きも、うめきも聞いてくださること、深い執り成しがあること、そしてキリストにある恵みと助けが備えられていることを信じます。私たち自身をこの痛みや苦しみとともに御手にゆだねますので、どうぞ私たちを支え、慰めてくださいますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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