2021-06-06 喜ばれている人

2021年 6月 6日 礼拝 聖書:ヘブル11:5-6

 自分の存在が誰かに受け入れられ、愛され、喜ばれているというのは、私たちにとってとても大切な感覚です。正面切って、言葉として、あなたを受け入れていますとか、愛してます、あなたの存在を喜んでますと言われるとちょっと気恥ずかしい感じもありますが、言葉でなくても、相手の態度や表情、仕草の中に、その想いが表れていると安心します。

月一度の信仰によって生きた人々から学ぶシリーズですが、今日はエノクを取り上げます。エノクが信仰の人の例としてヘブル書で取り上げられているのは、彼がその信仰のゆえに死を見ることがなかったという点にあります。それ自体がなかなか想像のつかないことなのですが、それとともに、理由として「彼が神に喜ばれていたこと」が挙げられている点に興味が惹かれます。死を見ることなく神のもとに移されるほどの信仰とか、神に喜ばれるっていったい何だろうか。それはあまりにも特殊すぎて自分にどう関係するか、よく分からないと感じるかも知れません。

しかし、ヘブル書の著者は読者に対して、実際的な励ましや教訓とするためにこれを書いたのですから、私たちにとって、ちゃんと深い関わりと意味のあるメッセージであるはずです。今日はご一緒に神に喜ばれていたというエノクを通して学びましょう。

1.神に喜ばれた人

第一に、神様は、神様とともに生きる者を喜んでくださいます。

私たちの興味は、死を見ることなく、神に移されるとはどういうことなんだろうというところに向かいやすいかと思います。

しかし、それが具体的にどのようなことなのか、その様子がどうだったのかについては、残念ながらあまりに情報が少なく、はっきりしたことはほとんど分かりません。ただ、特別なことだったことだけが分かります。そして問題は、そういう特殊なケースが、私たちの信仰に関係あるのか、ということです。

エノクのことが記された創世記5章を開いてみましょう。ここには私たちにはちょっと苦手な系図だけが記されています。しかし、この系図には、聖書に何度も出てくる他の系図と決定的に違うところが一つあります。それは異常とも思える寿命の長さではなく、一人一人登場する人物たちがみな「死んだ」と記されていることです。他の系図では、わざわざ死んだと書かれません。

人は罪を犯して以来、人間は死ぬ者になった、そのことが紛れもない事実として強調されています。何年も何百年もくり返され、一人の例外もなく、まさに呪われた運命のように死が人間にまとわりついています。ただエノクだけが例外です。

創世記5章の前、4章にはエノクの家系とは別にカインの家系の様子が描かれています。そこにはカインが子どもを産み、エノクという名前を付けたことが記されています。別人なのですが、カインは新しく造った町に息子の名にちなんでエノクという名前をつけますが、人々の罪はますます深く、広く広がっていきます。そしてカインの息子エノクの子孫として悪名高きレメクが生まれます。

一方、私たちの物語の主人公であるエノクは、カインによって弟アベルが殺された後、アダムとエバに与えられたもう一人の息子、セツの子孫から生まれました。そのセツに子どもが生まれた時、人々は祈ることを始めましたが、その天地創造の神を信じる人々の子孫としてエノクは生まれます。そしてエノクにもまたレメクというこれまた同じ名前の人物が登場しますが、こちらはノアの箱舟のノアのお父さんにあたり、罪によって呪われた地で、この子が私たちを慰める者になるだろうと言葉を残しています。

奇しくもカインとセツのそれぞれにエノクとレメクという名前が登場します。一方は堕落の道をまっすぐに進み、一方は同じように死に捕らわれながらも、まことの神への信仰を保って歩んだ人たちでした。そして、私たちのエノクはその中でも特に5:22で「神とともに歩」んだ人として記され、24節でもくり返し「エノクは神とともに歩んだ」と記されます。

この神とともに歩んだということをヘブル書の著者は「神に喜ばれていた」と説明しているのです。周りの世界が堕落し、罪深い道を歩む中、エノクは神とともに歩み、神様はそんなエノクを喜んでおられました。そして、神に喜ばれたエノクを死を見る事なくご自身のもとに召すことで、罪の結果である死が決して逃れられない運命のようなものではなく、回復の道、救いの道があるのだという希望のしるしとして残してくださったのです。

今も変わらず、あるいは創世記の時代よりもずっと堕落し混乱しているかも知れませんが、私たちはそういう中で神様と伴に歩もうとしています。そのような私たちをも神様は喜んでおられます。

2.神がおられること

第二に、私たちは引き続き、神がおられることを信じなければなりません。

ひどい世界の中にあって神と共に歩んだエノクに死を見せずにみもとに移された神様は、キリストにあって神と共に歩む私たちを喜び、エノクに与えたのと同じ報いを永遠のいのちと復活の約束として備えてくださっています。私たちには永遠のいのちがどんなものが、復活がどんなふうにして行われるのかよく分からない面があります。しかし、私たちはその祝福のほんのわずかな部分を今の人生の中で味わい、経験することができます。

ただし6節にあるようにこの祝福の素晴らしさを味わい続けるためには信仰が必要です。これは10:36にもある通りで、神の永遠のいのちの完全な姿を知るのはイエス様がおいでになる時で、私たちはそれまでの間、忍耐し、信仰をもって歩み、永遠のいのちのほんの一部から力と癒しをいただいて歩みます。そのために必要だとされている信仰では二つの面が特に大事になります。

まず一つ目は「神がおられること」を信じなければならないということです。当たり前じゃないかと思われるかもしれません。ヘブル書もすでに神を信じ、キリストを救い主として受け入れた人々に宛てて書かれたものです。そんな私たちにあえて「神がおられること」を信じなければならないと言われるのはどうしたことでしょうか。どんな意味で言われているのでしょうか。

私たちが苦難や困難の中で生きて行くために必要な信仰とは、神様がどこかに存在するという事ではなく、この問題のただ中で、今まさに、ここに、苦しんだり悲しんだりしている私とともにおられることを信じる信仰です。

神様に信頼して生きて来たつもりなのに、思いも掛けない、望んでもいない苦難に直面し、苦しみ、なかなか解決の道が見えない、希望が持てない時、私たちの心の中に起こってきたり、あるいはクリスチャンではない周りの人から言われる、きつい言葉、思いは「本当に神はいるのか」「いるならなぜこういう時こそ助けてくれないのか」というものでしょう。先週のヨブの苦しみと同じです。まるで出口のない部屋に閉じ込められたような気分です。

ある時、私もそのような苦難の中にありました。その時、ある人たちは、先週登場したヨブの友人たちのように分かったような事を言い、味方になってくれると思ったのに何の助けも受けられず裏切られたような気分になり、逆にクリスチャンではない友人たちのほうが具体的に助けてくれたり、親身になってくれたりしました。そういう時に「なんだよこれは」と思い「神様はどこにいるのか」という言葉が喉元まで出かかって来ました。

けれど、そうした苦しい時期を生き延びて、今こうして生かされている場から振り返ると、その時は見えなかった助け、守り、支えが、クリスチャンかどうかに関わらず出会った人たちを神様が用いて与え、「わたしは近くにいたんだよ」と教えてくれるようです。それはちょうど、ルツやエステルのように、直接の神様の語りかけはなくても、自分の身の回りに起こる出来事や出会った人の中に神様の御手を感じ取るような経験です。私たちはそうしたみことばや自分自身の過去の経験を思い出し、落ち着いてよく見て、今このときも神が伴にいてくださることを信じなければならないのです。

3.報いてくださる方

二つ目に大事なのは「神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを」信じるということです。

ヘブル書の著者が「報い」という場合、中心的な意味は私たちがやがて天の御国で受け取る報いのことを指しています。10:34~35では迫害によって苦しめられている人々の希望として、自分の財産が奪われても、いつまでも残る財産があることをあげています。その信仰を投げ捨てないように、そのような信仰には大きな報いがあると教えています。

今日、私たちが注目しているエノクはどうだったでしょう。死を見ることなく神に移されたということは、地上で何か良い思いが出来た、何か得するようなことが生きている間に得られたということではないけれど、神のもとで受け取れる永遠の報いを死を経ることなく直接いただいたというふうに言い換えることができます。それは神に信頼し、ともに歩む者には豊かな報いがあることを教える最も古いひな形といえます。

後で取り上げることになるモーセは、11:26で与えられる報いから目を離さなかったので、エジプトの王子として受け取る宝や富よりもイスラエルの同胞と苦しみをともにすることを選んだと言います。

イエス様は弟子たちに教える時、人からの称賛を得ようと良い行いをしたがるパリサイ人たちについて、彼らはすでに報いを受け取っている。しかしあなたがたは神様からの報いがあるのだから、誰かに施したり、あわれみを示す行いを人に見られないように注意しなさいと言われました。

もちろん、この世での労苦や働きへの報いが全部天国に行ってからだというわけではありません。仕事をしたら対価として給料や評価というかたちで報われることを求めるのは当然のことです。給料は天国払いという訳にはいきません。親切や無償の奉仕に対していちいち報いを求める訳ではないとしても、「天国に行ってからお礼するから」と言って感謝のことば一つなかったら、私たちの気持ちも削がれるというものです。

私たちの信仰、神を信頼するが故の労苦への報いは確かに天に蓄えられています。しかし、この地上でも私たちを生かし、喜びや楽しみを与え、力づけるために神様は恵みと祝福を与えてくださりもします。

例えば、先週学んだヨブも晩年は失ったものより多くを与えられました。それは意味の分からない苦難の中で頑張ったことへのご褒美というより、失った悲しみへの慰めという意味だったかも知れません。いずれにしても彼は晩年を幸せに暮らすことができました。

労苦の耐えなかった使徒パウロの場合はどうだったでしょう。イエス様から天で与えられる報いを励みにしていました。しかし同時に、教会や個人と通して実際に与えられる励まし、援助、祈り、愛に支えられているという面もあったのです。

ここでの大事なポイントは、祝福が失われたように感じられる苦難の中で「神を信頼して忍耐することには報いがある。決して祝福が失われたわけではない」と信じなさいということです。そのような信仰が、この地上における私たちに折りに適った助けと慰めを経験させ、そして天の御国での永遠の報いに与らせるのです。

適用 神に近づく者

私たちはこのようにして、困難なときも神がともにおられることを信じ、この忍耐や労苦には神が報いてくださることを信じて歩むよう励まされています。このような生き方をする人をヘブル書は「神に近づく者」というふうに言い表しています。

ヘブル書の中では、「神に近づく」という言い方が何度もくり返されていて、キーワードになっています。いずれヘブル書全体を取り上げる時が来ますので、その時にあらためて見たいと思いますが、今日は最も有名な箇所を開くだけにしましょう。

4:16です。「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

神に近づくというのは、神様に信頼を寄せて助けや救いを願い求めるということです。私たちは信頼する人に物理的にも距離を縮めようとします。信頼できな人とは心の壁を作るだけでなく、実際に距離を取ろうとします。それが出来ないときは結構辛いですね。

例えば信頼し、助けを求めるために、私たちは病院の診察室に向かいます。あるいは包括支援センターの相談員のところに足を運びます。私は数年前から高血圧の治療のために病院通いしていますので、薬をもらうためにだいたい月に一度、診察を受けます。最初、塩分の取り過ぎに気をつけましょうとか、薬をこれくらい飲んで下さいとか指導され、毎回、体調を聞かれますから、自分の体調の変化に気をつけるようになりますし、普段の食事でもあんまり塩分をとらないように気をつけようということになります。ラーメン屋さんに行っても、どんなに美味しいスープだったとしても飲み干さないようにします。ちょっと血圧高めの日が多いと心配になるので、相談すると「これくらいの変化は大丈夫です」と言ってもらって安心したりします。神様も私たちを救い、癒し、回復するために私たちの生活の仕方、心のありように深く介入します。

しかし神様は町の中に診療所を構えて患者を待っているお医者さんというより、病人を訪ね歩く方です。ヘブル書の最初に描かれているのは、神様は様々な方法で人々に語りかけ来られたこと、最後には独り子イエス様をお遣わしになり、イエス様が大祭司となって神と人との間に立ち、十字架で私たちのすべての罪を贖ってくださったことを詳しく説明しています。要は、神様のほうから先に私たちのほうに近づいてくださったということです。

そうやってまず私たちのもとに訪れ、手を差し伸べてくださっている神様に、私たちも信頼して近づく時、神様が用意してくださった救い、永遠のいのちのかけら、永遠の喜びのひとしずくを味わい、その希望の中に生かし、折りに適った助けと慰めに生かされる歩みへと導き入れてくださるのです。

聖書にこういう言葉があります。「あなたの神、主は、あなたのただ中にあって/救いの勇士だ。/主はあなたのことを大いに喜び、/その愛によってあなたに安らぎを与え、/高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」(ゼパニヤ書3:18)と。

神様は私たちを救い、癒すために自ら近づいてくださいました。その神様が共にいてくださるか確信が揺らぎ、疑うような時も共にいてくださることを信じ、この労苦には報いてくださる方であることを信じて、私たちも神様に近づき、助けを願い求めましょう。私たちを喜んで愛してくださっている神様は、私たちに安らぎを与え、やがて天に帰った時だけでなく、今この時も、永遠の豊かさのひとしずくをもって私たちに助けと励まし、喜びをもたらしてくださいます。

祈り

「天の父なる神様。御名を賛美いたします。

私たちはあなたに信頼して歩もうとする者ですが、たびたび直面する苦難や悲しみの中で、本当に神様は今ことのときにいてくださるのか、神様の助けはどこにあるのか、こんな苦しみに何か意味があるのかと疑う思いがわき上がってきます。

しかし、エノクが堕落した世界の中で神がともにおられることを信じ、真っ直ぐな心であなたと共に歩もうとしたことに豊かに報いてくださったことを思い起こします。

今日もまた、あなたは、あなたと共に歩もうとする者を喜び、愛し、救いといやし、慰めと回復を与えてくださいます。

どうぞ、今このときもあなたが私と共にいることを信じることができますように。この苦難、忍耐には報いてくださる方であることを信じることができますように。

どうぞ豊かな慰めをもって私たちを支え、歩ませてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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