2021年 6月 20日 礼拝 聖書:詩篇72:1-20
聖書にはたくさんの王様が登場しますが、私たちは王という存在を具体的に知りません。私たちにとって王様は、物語や童話の中での存在で、理想的な良い王様か、逆に愚かな存在として描かれます。そのためもあってか、私たちが詩篇の中で王について歌われた詩を味わうときに、これをどう読んだら良いのか、とまどいも感じます。王のために祈られたこれらの詩を、自分の国のリーダーたちや、あるいは似ているかも知れない存在として天皇に当てはめ、同じような気持ちで祈るのは、なかなか難しく感じます。
今週は詩篇第二巻を取り上げるのですが、この第二巻は「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように」で有名な美しい42篇から始まり、捕囚時代の嘆きの詩篇や約束の地に帰るすることを願う歌、王についての歌が集められています。
しかし詩篇がまとめれた時代、神の民であったイスラエルは国が滅ぼされ捕囚となり、王はいませんでした。望みもしない、侵略者である国の王の支配下に生きていた時代です。彼らは、こうした理想の王について歌う詩篇を通して、やがて来ると約束されていたメシヤ、救い主の姿、役割、もたらす救いを思い描きました。それぞれの時代の苦しみや困難の中で、やがて来られる王なるメシヤを望み見て、希望を持ち、信仰を告白して歩んでいました。今日は、第二巻のまとめである72篇をご一緒に味わっていきましょう。
1.正義と平和
第一に、理想の王としての救い主が正義と平和をもたらしてくださると期待し、待ち望んでいます。
この72篇には「ソロモンのために」という表題がついています。以前の訳では「ソロモンによる」とされていました。ダビデがソロモン王の即位にあたって歌ったもの、あるいはソロモンが即位する自分のためにか、次の代の王のために歌ったものなど、いくつか作者と由来については説があります。
内容としてはイザヤ書やゼカリヤ書などに記された救い主についての預言の言葉と重なるところがあります。神様がダビデに約束した、あなたの跡継ぎの王座は揺るぎないと約束されたことが、実はソロモンやその後の人間の王たちのことではなく、王として来られる約束の救い主のことなんだと、だんだんと分かって来たわけです。それで、詩篇では、ダビデやソロモンの時代の王の姿や理想像を歌うためでなく、神が約束してくださった救い主の王としての姿を表すためにここに置かれています。
王のいない、他の国の王に支配されていた民は、いつの日か約束の王が来て救い出してくださる、という期待と祈りをもってこの詩篇を読み、歌っていたのです。
その王である救い主の第一に挙げられる特徴として、正義と平和をもたらす方だという事がくり返し述べられています。
1~3節に王が神の義をもって民をさばき、その義によって平和をもたらしますようにとまず歌われています。さばくというのは裁判をするとか批判するという意味ではなく、統治するとか治めるという意味です。
しかし現代人にとって正義と平和という言葉は、コロナ禍の「安心安全」という言葉と同じくらい手垢のついた、うさんくさい言葉になってしまっています。正義なんて、力のある人にとっての正義で、本当に弱い立場の人たちは無視される。平和にいたっては、常に誰かに犠牲を強いた上でとりあえず安泰という程度の言葉になりさがりました。一昨日、教会の窓からオリンピックの聖火リレーをちらっと見ていましたが、「平和の祭典」オリンピックの聖火リレーそのものも、ナチス時代のドイツでオリンピックが行われた時に、ナチスのイメージ戦略のために始められたんだよなあということを思い出して複雑な気持ちになりました。
しかし、私たちは正義と平和を諦めたわけではないし、むしろ切実に求めているものに違いないのです。
詩の中で正義を求め、平和を待ち望んでいるのは不当な扱いの中で苦しむ民、貧しい者たちです。「苦しむ民」「苦しむ者たち」「貧しい者」「弱い者」といった言葉が繰り替えされます。
何も彼らは権力者や金持ちと同じ力を持ちたいと望んでいるわけではありません。ただこの不当な扱いから解放してほしい、神の恵みと祝福を分け与えて欲しいのです。
そんな正義を待ち望む者たちのために、6節で約束の救い主「王は 牧草地に降る雨のように 地を潤す夕立のように下って来ます」と、熱がこもり乾ききった地を潤す雨のように、正義と平和を待ち望む者の渇きを癒すために来てくださるのです。
だからイエス様の周りには、貧しい者、病む者、悲しむ者、のけ者にされた人たちが集まって来たのです。
2.御国の拡がり
第二に、来たるべき王、救い主によってその御国は大きく広がって行きます。
72篇では、王の義による統治を描くために、目に映る景色の拡がりを用いています。
まず3節に「山も丘も」と平地に暮らす人々にとってはちょっと離れた、しかし身近な景色に視線が向けられ、6節ではもっと身近で生活に直結した牧草地や畑に雨が降るという光景が描かれます。さらに8節では、山や丘、牧草地を潤した雨が川となり海に至るように、海、川に視界が広がり、さらには9節の砂漠、10節の島々、そして11節ですべての国々へと視点が広がって行きます。
これは、救い主による正義と平和をもたらす統治が、小さな場所から私たちのところまで届き、さらに地の果てまで広がって行くというイメージを表しています。
こうなると、私たちはイエス様によって始まった救いの御わざがどう広がったかを、イエス様ご自身の働きや教えと重ねて思い起こすことができます。
ガリラヤのナザレという山あいの小さな町から始まったイエス様の働きは、救い主、新たな王を待ち望んでいた民のもとへと届き、エルサレムに至り、そこからユダヤとサマリヤの全土、地の果てにまで広がります、と言われた通りに広がって行きました。
あるいはまた、イエス様のいくつかの譬え話の中で御国の拡がりが教えられていました。はじめは小さな種が鳥が巣をかけられるほどに大きく成長するとか、わずかなパンだねがパン全体を大きく膨らますといったようなものです。
古代の人々にとっては馴染み深いのは、力ある王によってその支配が広がるという光景でした。実際、詩篇が編纂された時代はペルシャが広大な領土を治めていましたし、その前にはペルシャほどではないにしろ、バビロンやアッシリヤといった巨大な国がありました。ペルシャの後にはギリシャが勢力を伸ばし、その後にはローマが拡がりを見せました。もちろん、チンギスハンのモンゴルや中国を統一した始皇帝の秦といったアジアの大国も歴史の中で起こって来ました。
それらすべてに共通するのは、弱い者を飲み込み、力で奪い、支配下に置くということです。一旦支配下においたら、それなりの待遇や保護はあるとしても、膝を屈するまで力を示すのです。しかし私たちの王なる救い主の前にすべての王たちが膝をかがめるのは、力を目にするからではありません。12節にあるように「叫び求める貧しい者や 助ける人のない苦しむ者を救い出すから」です。
私たちが思い出すのは、平和の王としてエルサレムに入場されたときのイエス様です。馬や戦車ではなく、荷物を運ぶロバの子どもの背にゆられてエルサレムに入場されました。14節にあるように「虐げと暴虐から…いのちを贖」うためです。しかしそれはローマの支配からということではなく、罪と死の支配から救い出し、贖い出すのであり、そのためにイエス様は力ではなく無力さによって、他人の血を流すことではなく、ご自分の血を流すことによりました。あくまでへりくだって仕える者となり、ご自分のいのちを差し出すことで救いを与えるイエス様の前にすべての人が感謝を込めて跪き、ひれ伏すのです。
3.豊かな祝福
第三に、約束された王なる救い主は豊かな祝福をもたらすという希望が歌われています。16~17節は、詩篇の中で神の祝福がもたらされることを表す表現としてよく用いられる豊かな実りと末永く続く王の支配が歌われ、そして18~19節で、各巻の締めくくりでくり返されるいわば頌栄で閉じられます。
穀物の豊作は本来なら草も生えないような山のてっぺんにまで麦が穂をつけ風にゆれ、人々の喜びとみなぎる喜びはまるで草花が咲き誇るかのようになります。彼らが慕う王なす救い主がいつまでも讃えられ、王の祝福があまねく及ぶ姿。
こうした言葉は、普通は文字通りに取るのではなく、繁栄がいつまでも続くようにという願いの詩的な表現ととるものです。「君が代」の中に「君が世は千代に八千代に」とあります。「君」が天皇を意味していようが「日本国民」を意味してようが、いずれにしても千代、八千代にも及ぶというのは現実的な数字ではありません。それくらいの願いということです。人間社会というのはどんな国であれ文明であれ、永遠に続くものではないのです。
しかし、この詩篇をイエス様による救いとご支配という視点で読み直す時に、単なる詩的表現では終わらないことが分かります。
イエス様の救いの恵みと祝福は、不毛の地であり山のてっぺんに届くように、受け取る資格がないような者にも与えられるのです。そして人間は誰であれ、そもそもそんな祝福や栄誉を受ける資格がない者であることを旧約聖書は明らかにしてきました。聖書に記されたイスラエルの歴史は、神の民として選ばれ、特別な契約を結んだとしても、人間のうちにある罪はなくならず、相変わらず不幸の種を蒔き続け、人間関係や社会、そして自分自身を傷つけ、壊し続けるものであることがわかります。そして私たちは自分や周りのどんな人の人生や人間関係、心の中にも同じ罪があることを知っており、それらがどれほどの不公平や差別を生み、この詩篇に登場する苦しむ者、貧しい者を作り出すかを知っています。そればかりか、苦しむ者も単なる被害者、可哀想な犠牲者であるだけでなく、罪ある者の一人であることを聖書はするどく描き出すのです。
「罪から来る報酬は死」であり、「義人はいない、ひとりもいない」という聖書の言葉の通り、ここに記されている豊かな祝福を受け取る資格がある者などひとりもいないのです。
しかし、神様は私たちが不毛の地や砂漠のような乾いたままでいることを望まず、むしろそのような飢え渇きや罪がもたらす傷の中で苦しみ、救いをもめる人々のいのちを尊いものとみてくださり、十字架によって贖ってくださいました。
ローマ3:23~24を開いてみましょう。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」
私たちは文字通り山のてっぺんにまで田んぼが広がっている様子を見ることはありませんが、しかし、その詩的な表現が表しているように、世界中のあちこちで嘆き、苦しみ、助けを求めて来た人たち、罪ある者たちがイエス様の救いを頂いて、赦され、慰められ、元気と喜びを頂いて顔を上げ、花が咲き誇るようにいのちの輝きを放って、王なるキリストをほめ讃えている姿を見ています。
適用 王なる主イエス
さて、今日は詩篇72篇をご一緒に味わって来ました。この王のための歌はやがて来られる救い主キリストを指し示していますが、イエス様についてのすべてを歌ったわけでありません。
また国を失い、まことの王のいない苦難の中で待ち望んだメシヤが私たちの王となってくださる、という単なる願望を歌ったものもありません。これらの視点は、預言者たちを通して神が約束してくださった救い主についての預言に基づいた信仰であり、視点であり、希望です。
そして私たちは、この歌に込められた望みが、イエス・キリストにおいて成就したことを知っています。歴史的には、この詩篇が待ち望んでいた王はすでに来てくださったのです。
しかし、私たちは今もなお、この詩篇を歌った旧約時代の人々と共に、待ち望む者としてこの詩篇を味わい、祈り、歌うことができますし、そうすべきです。
一人一人の人生や生活の中では、やはり不公正や苦しみの中で悩み、助けを求めるのが私たちだからです。私たちは今もなお、苦しむ民であり、正義と平和を求める者であり、貧しく、弱く、救いを求める者なのではないでしょうか。その救いを、叶える力も愛もない何かに期待し、裏切られ、正義も平和も幻想に過ぎないと思い込まされているのではないでしょうか。それでも私たちは、正義と平和を心が求めるからこんなにも悩み、苦しみます。「しかたがない」と口にはしてみますが、それでは癒されない痛みが私たちの心には傷として残り続けています。
そして気づけば、私たちも誰かにそんな傷を与える罪人の一人であることに、またしてもがっかりしてしまうのです。
この約束された王である救い主、イエス・キリストは「叫び求める貧しい者や 助ける人のない苦しむ者を救い出す」方です。
問題は、神様が何もしてくれない、不公平を許しているということではなく、私たちの方がこの苦しみをイエス様に「助けてください」と求めないこと、叫ぶことをためらってしまうことにあるのではないでしょうか。
イエス様は私たちに、この世が与えるのは違うやり方で平安を与えると約束してくださいました。求めなさい、そうすれば与えられますと、励ましてくださいました。イエス様を信じるなら、この詩篇に描かれているような神の国が、私たちのただ中にあるのだと教えてくださいました。
詩篇が歌い待ち望んでいる王なる救い主は、すでに来られ、そして私のすぐそばまで来てくださっています。
ですから、私たちは詩篇の詩人たちとともにイエス様に助けを求めましょう。救いを願い求めましょう。そして神様がイエス様を通して与えてくださる救いの御手を、正義と平和を、慰めと癒しをともに待ち望みましょう。
そして主が祈りに答えてくださった時には、大きな感謝と喜びを捧げましょう。そして、山の上から私のところまで届いた恵みがさらに拡がり、私たちの周りの人たちや遠くにいる家族や友だち、私の知らない助けを求めるすべての人に届くように、祈りましょう。私たちの王なる方は、恵み深く、憐れみ深く、私たちのいのちを尊んでくださいます。
祈り
「天の父なる神様。
不公平や争いの絶えないこの世界で、私たちは苦しむこともあれば、逆に誰かを悩ませしまうこともあります。
私たちは主が約束された正義と平和をほんとうに必要としています。王として来られたイエス様の与える義と平安を必要としています。その慰めと癒しが私たちの救いです。
どうぞ、今なお罪ある世界で悩む私たちを顧みてくださり、私たちの呼ぶ声にお応えください。
すでにおいでくださり、私たちすぐ近くにいてくださる救い主が私たちに約束された救いの恵みと祝福とをお与えくださいますように。
イエス・キリストの御名によって祈ります。」