2021-08-01 信仰によって歩み出す

2021年 8月 1日 礼拝 聖書:ヘブル11:8-12

 私のように、オリンピック開催には否定的な意見がありながらも、開催にこぎ着けたオリンピックですが、選手たちを見ているとよく一年の延期を乗り切ったなあと感心します。去年だったらもっといいパフォーマンスが出来たという人もいるでしょうし、逆に延期になった影響で、結局有力と言われていた選手が出場の機会を逃してしまったり、体力や気力のピークを一年先に延ばすのに苦労した人もいたことでしょう。

しかも、直前までほんとうに開催されるのか、中止になってしまうのではないか、という先の見えない中で、信じて準備し続けるというのは本当に大変なことだったと思います。

しかしながら、私たちの歩みを考えてみれば、将来は不確かだけれど、信じて歩み出すということは結構やっているように思います。就職も、結婚も、子どもを産み育てることも、様々な人生の大きな選択は、ある程度計算し、よく考え、成功する確率が高いと判断できることを選ぶでしょう。そうでなくても、きっと上手く行くとか、何とかなるという楽観的な気持ちで決断します。

そのような選択の中で最も不思議で、他のどれとも違う決断は、信仰を持って主イエス様と共に歩もうという決断です。

今日は信仰によって神が招いた旅のような人生を歩み出したアブラハムから学びましょう。

1.信仰による旅立ち

第一に、私たちの目に留まるのはアブラハムの信仰による旅立ちです。

長く聖書に親しんだ方々が何度も聞いているアブラハムの生涯の中で最も印象的な事が、この旅立ちの場面ではないかと思います。

アブラハムの生涯を描いた創世記には、彼が父親とともに故郷を出てから、長くハランという町に留まっていましたが、そこから神様の声を聞いて旅立った時が75歳であったと記されています。その年齢も驚きですが、ヘブル書の著者が注目しているのは、年齢ではありません。彼は何を目的にしているかは知っていたけれど、どこに向かうのか具体的なことは分からなかったということです。

8節「相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。」

確かに創世記12章には、「わたしが示す地へ行きなさい」とは言われていますが、それがどこかは語られていません。しかし、この召しに従うなら、「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。」「地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」と約束されたのです。

アブラハムは75歳にして、地の全ての人々の祝福となるという大きな使命を与えられて、どこに行くかは分からないけれど主を信頼して旅立つようにと呼びかけられたのです。

しかし、アブラハムが知らなかったのは目的地だけではありませんでした。彼を召した主ご自身のことも実はよく知っていたというわけではなかったのです。

ヨシュア24章を開いてみましょう。24:2「ヨシュアは民全体に言った。「イスラエルの神、主はこう告げられる。『あなたがたの父祖たち、アブラハムの父でありナホルの父であるテラは昔、ユーフラテス川の向こうに住み、ほかの神々に仕えていた。」

アブラハムは元から主を信仰する者ではありませんでした。ユーフラテス側の向こう、具体的には現在のイラク南部にある、ユーフラテス川沿いのウルという古代メソポタミアの街に暮らし、恐らくその街で信仰されていた月の女神ナンナに仕えていました。それが普通の意味での信者だったという意味なのか、あるいは祭司のような役割だったのかは分かりませんが、彼が知っていた神はそのような古代メソポタミアの神々だったのです。月の女神は、時と運命を司り、豊穣をもたらす神として崇められ、多くの人々が自分に運が向くように祈り、作物が豊かに実るよう一生懸命礼拝を捧げていたのです。

それらの神々が個人的にアブラハムに語りかけたり、導いたりすることはありませんでした。主は彼のもとを訪れ、個人的に語りかけました。

私たちの多くも、他の神々や家に伝わる信仰の中に生きていましたが、それぞれが不思議な導きの中で、聖書が教える神様が、イエス様が「この私に語りかけている」ことを感じ取り、信じてみることにしたのではないでしょうか。アブラハムも、父親が死んでこれからどうしようか、今まで通り月の女神を信仰しながら父の仕事を継いて生きていくかどうかと言う時に、彼を世界の祝福とするという主の言葉、主ご自身を信頼して旅立ったのです。

2.信仰による旅路

第二に、アブラハムは信仰によって旅路を歩み続けました。旅は出発するだけでなく、その後に続く長い旅路があります。信仰の歩も、信じる決心をするだけでなく、その後の生涯にわたる人生があります。

「どこに行くかを知らずに」ということは、この先何が待ち構えているも分からないということです。行くべき場所が分かっていればいろいろと備えて置くことができます。少なくとも心ぞなえだけはできます。

はるか昔のような気さえしますが、コロナが流行出す少し前に、弟の結婚式にあわせてお休みをいただき、大阪や神戸にちょっとした旅行をして来ました。目的地も分かっていたし、何のためにいくのかも理解しています。USJじゃなく結婚式です。だから観光用の身軽な服装だけじゃなく、礼服とか靴もネクタイも忘れずに準備しました。観光のための情報もいろいろ仕込んで、あそこに行こう、これも見てみようと計画を立てました。

けれど、アブラハムの旅にはそんな贅沢は許されませんでした。もちろん、手ぶらで出かけたわけではありません。しもべたちも含めた家族や財産、家畜とかなりの大所帯で、常に引っ越しをしながら生活するようなものですから、生活する上で足りないものはそんなになかったかも知れません。

しかし、中東世界には様々な民族がおり、すべてが友好的というわけではありません。略奪を生業とする者たちもいました。これからの旅でどんな事件が起こるか分かりませんが、安全で楽しいだけでないことは分かっていたはずです。

その不安定で何が起こるか分からない生活スタイルを端的に表しているが9節の「天幕生活」です。移動が簡単だという利便性はありますが、土地に根付かず、城壁で囲まれた安全もない。街の生活とはまるで正反対です。固い基礎の上に建てられた都を待ち望みながら、自分自身は天幕生活をし続ける。ヘブル書の著者は、アブラハムが待ち望んだのは、地上のどこかにある街ではなく、神ご自身がご計画し、建ててくださる、まったく新しい都だと指摘しました。「固い基礎の上に建てられた都」というのは、イエス様の十字架の死と復活によって成し遂げられ、教会を通して前進し、イエス様の再臨の時に完成する神の御国です。だからアブラハムはどこかの街に居着いたり、戦いによって勝ち取ったりすることなく天幕で過ごし続けました。

アブラハムの生活スタイルは信仰生活の比喩とも言えます。旅も天幕生活も比喩ですから、もちろん私たちがちゃんとした家に住むことは少しも間違ったことではないし、その日暮らしではなく定職について生活することはむしろ勧められてさえいます。

キリストの十字架という固い基礎の上に建てられた御国は、揺るぐことのない完全な赦しと回復を与え、真の安全と平安をもたらします。私たちもその完全な現れを待っているという意味でアブラハムと同じ信仰の旅の途中にあります。アブラハムの周りには魅力的な街がいくつもあったように、私たちの周りにも、安心や喜びを与えてくれそうなものがあふれています。人生を楽しむことは良いことですが、それが私たちの天国ではなく、アブラハムの待ち望んだ神の御国を求めて旅していることを絶えず思い出しましょう。

3.約束した方の真実

第三に、アブラハムは約束した方の真実を信じました。

神様がアブラハムに語られたことで最も「あり得ない」内容は、既に高齢になっていたアブラハム夫妻に跡継ぎの子どもが生まれるという約束でした。年齢だけのことではありません。もともとサラは若い頃から不妊で、子どもを身籠もることがありませんでした。

神様の約束の肝はアブラハムの子であるというだけでなく、サラの子であるという事でした。

これは、アブラハムの後の旧約聖書の中で何度か繰り返される、不妊の女性たちから奇跡的に子どもが生まれるという物語の始まりでした。そしてそれらはおとめマリヤから救い主が誕生するという奇跡と響き合っています。人間には不可能でも神には出来る。神は恥と嘆きの中にいる者を顧みてくださる。そしてこの事が、人間が自分では自分を救うことは出来ないし、人の心を変えることは出来なくても、神には人を救う力があり、打ちひしがれた者を慰め、頑な心を変え、新しく生まれさせることができるということを示すしるしでもありました。

だから、アブラハム夫妻には信じがたいことでも、神様は繰り返し、サラから跡継ぎが生まれると言われたのです。

神の言葉を信じたアブラハムですが、それでもまったく気持ちが揺らがなかったというわけではありませんでした。

創世記12章で神様が旅立つようにと語りかけた時、アブラハムは75歳でしたが、実際にサラが身籠もるのはおよそ25年後のことです。これだけ年数があれば、いろいろ迷うこともあるのは理解できます。

最初の旅立ちから10年が経ったころ、アブラハムはなかなか子どもが与えられないことから、やっぱり他の人たちが普通にやっているように、第二夫人を娶って子どもを産ませ、サラの子として、つまり跡継ぎとして育てるという方法を選びました。

そこで女奴隷のハガルを通してイシュマエルが生まれるのですが、これがアブラハムの家庭に思いがけない不和を呼び起こすことになってしまいます。当時の常識から考えたら、当たり前の方法だったかも知れませんが、主の御心ではありませんでした。

さらに15年経って、主は改めてアブラハムとサラの間に子どもが生まれると断言してくれました。創世記を読むと、それに対するアブラハムやサラの反応は私たちと何の変わりもない事が分かります。こんな歳になって生まれるはずがあるだろうか、という自然な想いが沸き起こったり、きっとイシュマエルのことを言っているに違いないと神様の言葉を都合良く解釈してみたりもします。

けれども、その後の主の言葉や主の御使いとの対話を通して、アブラハムとサラは、無理と考えていたサラを通して子どもが与えられるのだということを信じました。11節にあるように「約束してくださった方を真実な方と考えた」のです。

アブラハムやサラの信仰は私たちと同じように決断はしたものの、なかなか約束が実現されない状況の中で揺れ動き、自分を納得させるために自己流の解釈をしてみたり、疑ったりする場面もありました。しかし、神の聖霊に導かれたヘブル書の著者は、最終的には神様は真実な方だと信じたことを評価して「信仰によって歩んだ」と記しているのです。

適用 天の都を目指して

12節「こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。」ヘブル書の著者はこの出来事が、アブラハムの子孫が増えるという約束の成就だけでなく、やがて来られる救い主が、その死を通して多くの人々にいのちを与えることの「ひな形」と理解していたことを表します。

そしてヘブル書は、私たちクリスチャンが、アブラハムが歩んだ信仰の旅路と、本質的に同じ道を歩んでいることを教えています。私たちも、それまで知らなかった聖書の神様が私に語りかけていることに気づき、信じて歩み始め、信仰によって歩み続けています。この道のりの先には、神様がイエス様の十字架によって揺るがない基礎を据え、建て上げてくださった御国の完全な姿があります。

アブラハム自身は神様の約束が具体的にどんなかたちで成就し、完成するのかをはっきりと知ることは出来ませんでした。しかし、イエス様が十字架の死と復活という想像もつかない方法で人間の罪を背負い、罪の赦しと新しい命への救いの道となったこと。アブラハムの血筋による人々ではなく、アブラハムの信仰を受け継ぐ人々が、世界中で神様の民とされる姿を見て、「ああ、これが私が求めて旅をしていた約束が果たされた姿なんだ」と驚きとともに納得もしていることでしょう。そして、私たちがアブラハムと同じように、イエス様を信じて歩み出し、イエス様を信じて旅を続け、約束してくださった神様の真実を信頼して忍耐し続けているのを見守っているのです。

神様が私たちに約束してくださったことは、アブラハムと全く同じではありません。しかし、高齢のアブラハムに子どもが生まれるというのと同じくらいに、一見不可能と思えるようなことばかりです。実際、私たちの生活の中では、本当に神の約束は果たされるのかと思うことの連続です。

神様はイエス様の十字架のゆえにすべての罪を赦すとおっしゃってくださいましたが、何度も同じ失敗を繰り返す自分が本当に赦されるのか不安になります。何度もくよくし、がっかりします。

イエス様は喜びと平安を与えると約束しましたが、悲しみや不安の種ばかりが目につき、なかなか穏やかな心になれません。

イエス様は豊かな実を結ばせてくださると言ってくださいましたが、自分がクリスチャンとして何か良い結果を残せていると思えない人も多いことでしょう。

イエス様は「あなたがたを見捨てて孤児にはしない」と言ったのに、教会に来ていたも孤独感にさいなまれることがある。

それらは私自身も経験し、感じても来たことです。アブラハムやサラが「こんな年寄りにそんなことがあるだろうか」と心の中でつぶやいたように、私たちも「聖書にはそう書いてあるけどな」と思う事があるものです。それほどに、私たち人間の弱さと罪深さは絶望的です。

しかし、それでもアブラハムにならって約束してくださった方を真実だと考えましょう。大事な鍵は「そのように考える」ということです。まずは意識を変えて、神様を真実な方として認めることから始めましょう。私たちにはイエス様が確かに私の罪のために十字架で死なれたという揺るがない事実があります。そこに神様の約束への真実がはっきりと表れています。

そこからもう一度初めて、神様は約束したことを反故にはしない方だ。人間の力では不可能なこともなさるお方だ。今は見ていなけれど、そこに向かっているのだと信じましょう。

そうしていれば、確かに、赦されていることの恵みとありがたみを思い出し、不思議な平安と感謝が起こり、イエス様が共もにいるからダイジョウブだと妙に納得できたりする事でしょう。

アブラハムの神は今も生きておられ、変わらずに真実な方です。

祈り

「天の父なる神様。

今日もヘブル書から旧約時代の信仰の父と呼ばれたアブラハムを通して学ばせてくださり、ありがとうございます。あなたの真実さは昔も今も変わりません。その主を信頼して、私たちは歩み出しました。これからも歩んでまいります。不可能と思える、あなたの祝福の約束の数々を、あなたの真実さゆえに信じて、忍耐を求められる日々も歩んでいけますように力を与えてください。

また、どうか、神様が自分に語りかけているのではないかと感じておられる方々が、あなたの呼びかけに応じて、信じて歩み出す決意ができますように励まし、導いていてください。多くの方々とともにこの信仰による歩みを喜び、歌いつつ、励ましあいながら歩んでいけますように。

主イェス様のお名前によって祈ります。」

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