2021-08-22 ある愛の詩

2021年 8月 22日 礼拝 聖書:雅歌1:1-7

 先週、、盛岡のN兄の奥様のお母さんが召されたとの知らせを受け取りました。以前から存じ上げており、家内と同じ場所でがんを患い、闘病しておられました。葬儀に行くことはできなかったのですが、家内がリモートで葬儀に参加したということでその様子を聞きました。

ご主人がご挨拶の中で、亡くなった奥様を本当に愛しておられたことを率直なことばで語っておられたということを聞いて、胸が締め付けられ、大変感動しました。それは愛の力と美しさへの個人的な感動だけでなく、ちょうど、今日雅歌を通して語るように教えられていることが、そのまま目に見える例として示されたように思えたのです。

今日開いている雅歌は聖書の中でも最もユニークな書物です。愛の歌がなぜ聖書の中にあるのかとても不思議な感じがしますが、よくよく考えれば、私たちの人生の中で、愛こそが最も大きなテーマであります。古今東西、どんな世界でも愛について語られ、歌われ、演じられて来ました。愛の美しさだけでなく、愛を巡る痛み、裏切り、恐れ、嘆きもこれでもかと描かれています。以前、好きな歌を3つ上げてと言われて、思いついた歌は全部失恋をテーマにした歌だったことで笑った事がありますが愛は大きなテーマです。それほど大事なことに神様が何も語らないわけがありません。

1.何について歌っているのか

実際に聖書通読をしてみて、いろいろと面食らう事はあるのですが、今日取り上げる雅歌はその最たるものではないかと思います。

雅歌の表題には「ソロモンの雅歌」とありますが、直訳すると【ソロモンの歌の中の歌」となります。「王の王、主の主」という言い方があるように、歌の中でも最高のものという意味です。

雅歌には直接神様を称える歌は出て来ませんし、「主」や「神」といった単語も出て来ません。ひたすら男女が互いの素晴らしさを称え合い、求め合い、まわりにいる人々が語りかけるという内容になっています。

現代の恋愛小説や恋愛の歌とはだいぶ雰囲気は違いますが、これは愛の歌です。

それから「ソロモンの」とありますが、これは箴言の時にも「ソロモンの箴言」とあっても、箴言全体はソロモン自身のものというより、ソロモンの知恵の伝統を受け継いだものという意味だったように、雅歌もまたソロモンの知恵の伝統を受け継いだものという意味で書かれています。700人以上の妻がいたというソロモンの実態と、雅歌に描かれた美しい愛の姿はだいぶかけ離れています。

なぜこのような歌が聖書の中に置かれているのか確かに不思議な感じはします。実際、長い歴史の中で雅歌ほど人々を悩ませ、さまざまな解釈がなされ、書かれた目的について様々な議論がなされて来たにも関わらず、この書が神のことばとして聖書に含まれることが疑われた事は滅多にありません。

雅歌には、愛し合う男女が互いの魅力を称え合い、一緒にいたいという求めが率直に描かれていますが、そこには見た目の麗しさだけでなく、性的な結びつきを求める思いも記されています。そのためキリスト教だけでなくユダヤ人も、性的な愛を喜ぶ雅歌をそのまま受け取ることができず、そのような解釈を避けるために、これは何か別のことを意味しているのだと言う様になりました。

紀元4世紀くらいまでの教会教父と呼ばれる指導者たちの中には、雅歌は教会に対する神の愛の譬え話だと結論付け、紀元550年の教会会議では、他の解釈を禁じたために、長い間、実に1500年近くに渡って言い方に違いはあっても、そういう考え方が支配的でした。聖書を文字通り受け取ることを主張するプロテスタント諸教会でも、教会とキリストの関係を表していると説明する解説書が多かったのです。

長い間こうした解釈がまかり通った理由は、預言者たちが神様と民の関係を表すのにたびたび結婚関係を比喩として用いたことを根拠としていたからです。しかし、預言者達が主に語っていることは、家庭を顧みず浮気にうつつを抜かす悪い妻として描かれるイスラエルの民を非難するためです。神様はそのような悪妻であっても見捨てず愛する方として描いています。

しかし、雅歌で描かれるのは互いに愛し合い、求め合う姿であり、そこには非難はなく、ただただそのような愛する姿を喜んでいるのです。預言者たちがそういう仕方で神様と民の関係を描くために結婚を比喩として用いたことはありません。また、教会とキリストを説明する新約聖書の中でも雅歌から引用されることはありません。ですから、この歌は、文字通り、男女の愛を描き、喜び、祝うものとして歌われたものと理解すべきなのです。

2.愛の完成と継続

雅歌の大きなテーマの一つは、男女の愛の関係は結婚においてのみ完成し、継続できということです。

古代イスラエルや周辺の文化には、結婚披露宴のときに、祝い唄を歌う習慣がありました。新郎新婦をたたえ、その愛を祝い、愛は尊く喜びと楽しみがあり、逆に不倫なんかしたものならどんな悲劇が待っているかと警告する内容だったそうです。

昔、日本でも結婚式といえば、祝い唄が歌われました。長持唄なんて最近は滅多に聞きません。内容的にはとってもシンプルで、手塩にかけて育てた娘を嫁に出す寂しさと、嫁ぎ先で幸せになって、今度来る時には孫を連れて来なさいという中身です。今ではそうした祝い歌の代わりに、披露宴の出し物では愛をテーマにした歌がカラオケで歌われたりします。たぶん通じる思いは同じで幸せになってほしいということです。

しかし、雅歌には他の祝い唄にはない大きな特徴があります。それはまず、一人の男性と一人の女性の間の結婚が、神様のご計画された姿であり、結婚は男女の愛を完成させるものだということです。結婚前から愛し合い、惹かれ合い、求め合う気持ちや願いはありますが、二人が真の意味で結び合わされるのは結婚によってであるというのが神様が人を男女に創造されたときのご計画です。

雅歌は歌なので、そういう教理的な説明書きはありません。しかし、基本的な考え方として歌の土台になっています。

ところが、現実の世界は天地創造の時のような無垢な状態ではありません。人のうちには罪があり、この世界は不完全です。ソロモン自身が一人の女性と添い遂げるという人ではありませんでしたが、彼ほど極端ではないにしろ、聖書の時代にも、イスラエル人の中にも、必ずしも一夫一婦制が守られたわけではありませんでしたし、様々な理由をつけて離婚も行われましたし、禁じられていたはずの異邦人との結婚も行われていました。

そうした現実はあるものの、結婚関係を祝い、喜び、婚約中の二人が神様の意図されたかたちで、互いを思い合い、互いへの愛が結婚関係として完成することを願っているのです。

雅歌に登場するのは、羊飼いである若者と婚約関係にある娘です。二人はお互いの姿を探し、見かけては心ときめき、春が来たように心は舞い上がり、誰に邪魔されない静かな場所で一緒に過ごしたいと心から願い、夢にまで見ます。しかし愛する若者は彼自身の友人たちと過ごすこともあるし、どこかにでかけていて見当たらないこともあります。そういう邪魔が入ると、ますます気持ちは高まります。

途中「エルサレムの娘たち」という登場人物が表れます。おそらく主人公の娘の友人たちですが、彼女たちは娘をけしかけ、もっとぐいぐい行けと押してきます。それで例えば2:7や3:5で「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは」と頼んでいます。うちに秘めた情熱はありますが、その時が来るまで忍耐し、待っているという姿勢があります。

こうした互いへの思いや、エルサレムの娘たちの語りなどがくるくると場面を変えながら続いていきますが、この歌に描かれる物語の土台には、二人の愛が揺るぎない結びつきとなるのは結婚であり、その時まで待とうという姿があります。

3.愛のチカラ

雅歌が描く大事なことは愛の力です。それがいかに強く、そして扱い用によってはどれほど危険なものかということです。

8:6以下が、雅歌の一応の結論部分になっています。ここに至るまでに描かれた羊飼いの青年と、彼と婚約関係にある娘との互いを思う愛の歌の掛け合いから浮かび上がって来るのは、愛、特に男女の愛というものがどれほど力強いか、そして危険でもあるかということです。

6節に「封印のように、私あなたの胸に、…腕に押印してください」とあります。胸にというのは実際には心臓を意味しています。たとえは悪いですが、時々サッカー選手や有名人が恋人や奥さんの名前をタトゥーにする人がいますが、それに近い感じです。もちろん、文字通りのことではありません。結婚指輪にお互いの名前を刻んで常に身につけるようなものです。

それほどの強い結びつきを求めるものですから、そこに他の誰かが割り込もうとしたら、これはもう大変なことです。「愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しい‥その炎は火の炎、すざまじい炎」

よくカップルや夫婦の間で、どからが浮気かなんて話で、男性と女性で認識の違いが取り上げられたりします。雅歌によれば、そもそもその質問自体がありえないほど、真の愛は強いものです。

お互いに了承していれば、夫や妻が自分以外の異性と食事に行ったり、デートするくらいはオーケーというカップルもあるということだそうですが、果たしてそれが本心なのか、世の中への「私たちは自由です」というアピールなのかは知りませんが、それが現代の理想像だというような扱いに対しては、私たちは「そうじゃないだろう」と言うのです。

8節と9節で娘の兄たちは、妹がまだ子供で未成熟であることを気にかけていますが、10節で娘は、私はもう大人ですと宣言し、婚約者の愛に答える準備はできていると強い意志を示します。「私はあの方の目には 平安をもたらす者のようになりました」と、お互いの関係の中に激しい情熱だけでなく、共にいることで穏やかさと平安があることを堂々と宣言しています。

雅歌の結論部分でもう一つ興味深いのが7節です。ここも愛の強さを歌っているのですが、その特徴として後半に「もし、人が愛を得ようとして 自分の財産をことごとく与えたなら、その人はただの蔑みを受けるだけです」とあります。つまり、愛をお金で買うことはできない、ということを言っています。

実際、11節にはソロモンが悪役で登場します。ソロモンは多くの財産があり、豊かなぶどう畑を持っている、という場面が唐突に出て来ます。実はソロモンのことは3:6~11にも出て来ます。ちょっと何の為に書かれているか分かりにくいのですが、どうやらソロモンの繁栄や華やかさよりも、若い二人の素朴な愛のほうがずっと魅力的で価値があるということのようです。そして最後の箇所でも、どうやら、7節で愛を金で買うことはできないと言っているのに、ソロモンが娘に金をチラつかせているということのようです。それに対して、娘は最後の14節で婚約者に助けを求め、すぐに来てくださいと願って、愛の歌は終わっています。愛は力や金で手に入れられるものではなく、神様からの贈り物なのです。

適用 互いへの献身

ヘブル語で結婚式を表すことばは「献身」という意味があるそうです。愛する者たちが、互いを敬い、自分を与えていく究極的な関係が結婚です。そこには他の何者も入り込む余地はありません。

現代の文化、特に日本も含めた西洋文化の中では、結婚、あるいは男女の関係は互いへの結婚よりも「自己実現」が優先されます。

自己実現はもちろん大事なことです。自分らしくあること、自分が願うことを実現するために頑張れること、それを選ぶ自由があることは素晴らしいことです。

しかし、自己実現の邪魔になると思った途端に、パートナーとの関係を終わらせるというのは、聖書的なあり方ではありません。聖書における愛の関係は、心臓に互いの名前を刻むような強い結びつき、そして相手に自分を与えるものです。ですから、本来神様が備えてくださった愛の姿においては、自分の自己実現のために相手との関係を利用するのではなく、相手の自己実現のために自分を捧げていく、というあり方を選ぶものなのです。

そのような愛の姿は理想的すぎると思うかもしれませんが、雅歌はさらに愛に理想的な情景を重ねます。

羊飼いの青年と婚約者である娘の詩の中には、何度も美しい花、豊かな実り、すっと育つ木々、山や丘、鳥のさえずりといった表現が繰り返されています。これらはエデンの園を思い起こさせるもので、罪を犯す前のアダムとエバが喜びのうちに過ごしていた園を連想させます。

雅歌が教えて指し示してくれるもう一つの大事なことは、人が罪を犯す前に持っていたエデンの園の祝福を、結婚関係において、その何分の一かであっても味わうことができる、少なくてもそのような可能性があること、希望があることを教えています。

もちろん実際の結婚が雅歌のように情熱的で美しいだけのものではないことはよく分かります。それは雅歌を記した著者だって、おそらくわかっていたことだと思います。しかし、神様に導かれてこの書を記した著者は、愛に秘められた力には大きな可能性があることに気づきました。愛は単に私たちのいっときの感情や求めではなく、神様から与えらた贈り物だからです。

神様のすべての良い贈り物は、知恵深く、良い選択、良い用いかたをするときに良い結果を期待できるように、愛もまた得難い神様からの贈り物なので、知恵深い選択が大事です。神様が与えてくださった愛の素晴らしさと可能性を信じ、期待し、信仰に立った選択、つまり愛を神の贈り物として受け止め、自分のためにではなく、愛する相手のために自分を与えるという選択を重ねて行くことによってのみ、愛が持っている本来の可能性と祝福にあずかることができるのす。

最初に紹介した、奥様を亡くされたばかりのご主人のように、素直にことばで言い表す様子を聞いて、うちでは信じられないなと言う人もいるでしょう。表現の仕方はそれぞれですので全く同じである必要はありませんが、相手を敬い大切にしていることをことばや態度で表すことは、愛を継続するためにやっぱり必要なことです。

そうした素晴らしいモデルとなってくれる人たちを「特別な人たち」というふうに諦め半分で見るのではなく、信仰による選択の積み重ねとして、私たちも目指す事が、すでに結婚して何十年とたった人たちも、これから結婚するかもしれない人たちも大切にすべきことではないでしょうか。もちろん、結婚生活がうまく行かず悲しいことに破綻してしまうこともあります。それは取り戻せないことなので、嘆くだけでなく、せめてそこから何かを学びとり、これからの人生に活かして行くことができたらいくらか良きものを取り戻したと言えるようになるかもしれません。

それぞれの状況は違いますが、ぜひ、この神様からの素晴らしい贈り物を喜び祝い、尊びましょう。そして雅歌に登場する若者たちのように、その愛を完成させ、継続させようとしている人たちを祝福し、そのような願いを持てるよう祈り励ましましょう。

祈り

「天の父なる神様。

雅歌という特別な書物を聖書の一部として私たちに与えてくださって感謝します。このみことばの贈り物の素晴らしさを十分に理解できていなかったかもしれませんが、愛が神様からの素晴らしい贈り物であることを知ることができて感謝します。

どうか、この愛が尊ばれ、喜ばれるものでありますように。またこの贈り物によって幸いな家庭を築いていく方々が起こされますように。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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