2021-08-29 希望の切り株

2021年 8月 29日 礼拝 聖書:イザヤ6:1-13

 みなさん、トンネルの中を歩いたことがあるでしょうか。若気の至りで、一度だけ歩いたことがあります。一時間に1本通るかどうかという電車のトンネルですが、今にして思えばとても危険で、多分、いくつかの法律に違反していると思うので、マネはしないでほしいと思います。

トンネルの中を歩くとある地点からまったく光が届かなくなります。手がかりは足の感覚でレールや枕木の存在を感じ取る歯科ありません。少なくとも、その感覚がある限りは正しい道を歩いているのが分かりますが、時々何か目に見えないものに躓いて転びそうになったりもします。時刻表で電車が来ないと判断はしたのですが、予想外の貨物列車とかあったら逃げる場所があるのかわからないので、本当に危ないことをしなたあと思います。

今日から預言書に入って行きますが、預言者は自ら暗いトンネルの中に入り込んでしまった神の民に、トンネルの中のレールやかすかな手がかりのように、神様が民をトンネルの先へと導くために備え遣わしてくださった者たちです。

私たちは文字通りのトンネルを歩くことはしないですし、しない方がいいのですが、人生においてはたびたびトンネルのような状況に入り込んでしまいます。預言者たちを通して主は何を語ってくださっているのでしょうか。

1.預言者とその時代

預言者とはいったい何者なのでしょうか。彼らはどういう時代にどんな役割を果たしたのでしょうか。まず、そこから始めたいと思います。

旧約聖書を創世記から順番にやってきて、今日から預言書と呼ばれるまとまりに入って行きます。

日本人だけでなく、たいていの国の人たちが「預言」という言葉を聞いて思い浮かべるのは、遠い未来の出来事を告げることです。聖書の預言者たちにもそういうイメージを持つ人が多いと思います。特にクリスチャンは、救い主の誕生とその働きについて預言者たちが告げたことに関心があるので余計です。

しかし、そういう未来を告げることは預言者たちの役割のごく一部に過ぎませんでした。

旧約聖書の12の預言書の中でキリストに関する預言とされるものは全体のわずか2%に過ぎません。新約時代、教会の時代のことについて描いているものも5%、さらにもっと将来の終わりの日について告げげているのは1%にも満たないのです。

では、預言者達は何を語っていたのかというと、イスラエルの民や周辺の国々に差し迫っている未来のことです。つまり、預言者たちが「もうすぐこうなるぞ」と告げていることの圧倒的大部分は、私たちから見れば過去の出来事なのです。

預言者たちの主な役割は、彼らが生きた時代の人たちに対して、神様に代わって語ることです。聖書の中には有名無名含めて数百人の預言者が登場しますが、彼らが語った言葉が残されている預言者はそんなに多くありません。その中で、聖書の一部としてまとめられたのはわずか16人の預言者たちの預言です。

預言者たちの時代、イスラエルは南北に別れてずっと対立し、内戦状態が何世代も続いていました。エジプトの力が少しずつ衰え、アッシリヤ帝国が力を増し、ある日ほとんど突然にバビロン帝国がその地域全体の支配者として入れ替わりました。そういう激動の時代に、イスラエルの民は神との契約を忘れ、神に信頼するのではなく軍事力や排除すべきだった忌まわしい偶像に依り頼み、社会の中では不正がはびこり、弱い者がないがしろにされてしまいました。

預言者たちは、彼らの時代の人たちに神様と神の民との間でかわされた契約を思い出して、民が歩むべき道に立ち戻るように呼びかけました。もし神様との契約を思い出して、自分たちが歩むべき道にもどればトンネルを抜けて祝福を受ける事ができるが、無視すればもうすぐそこまで追い迫っている大災難に直面することになると警告するのが大きなや役割でした。

ですから、殆どの預言者たちが活躍した時代は、イスラエルが破滅に向かい始めた時代に始まり、その預言の通りに破滅し、捕囚となり、もう一度、帰還して新たな歩みを始めようとする頃に集中しています。

預言者イザヤもそのような時代に活動しました。1:1にイザヤの時代がウジヤ王からヒゼキヤ王の時代であることが記されています。以前、差し上げた分裂王国時代の図を見ていただくと、北イスラエルがアッシリヤによって滅び、南ユダ王国も同じ轍を踏みそうになっていた時代だということが分かります。

今日はイザヤ書の前半の中心的なメッセージを聞きましょう。

2.神の聖さと恵み

まず今日の箇所でイザヤは神の聖さと恵みを圧倒的な幻の中で経験します。

イザヤ書の前半の主な内容は、イスラエルの民に対する警告と裁きについてです。1~5章で神に背を向け不正と偶像礼拝に陥った北イスラエル王国がアッシリヤ帝国によって滅ぼされると警告します。その破滅が南のユダ王国にも差し迫っていることを告げるのがイザヤ書です。

イザヤ書の構成はなかなか複雑ですが、大きく前半と後半に分けられます。前半は1~39章で、後半は残りの40~66章です。この前半の中で鍵となっているのが6章です。イザヤ書の中でも特に印象深い箇所で、イザヤは不思議な幻を見ます。

高く挙げられた御座についておられる主というのは、神の偉大さ、至高さを表すためによく用いられる表現です。それはまるで神殿のような建物でした。

主の御座の周りをセラフィムと呼ばれる二人の天使が飛び回って、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる」と歌い交わしています。イザヤの足元はその声に大きく揺れ動き、神殿全体が煙で満たされました。これもまたよく用いられる描写で神の圧倒的な栄光と聖さを表しています。

その圧倒的な光景を前に、イザヤは5節にあるように、聖なる神の前でいかに自分が汚れた者であり、これまで民に預言してきたこの唇もまた汚れていることを心底実感し、多分震え上がりながら思わず叫びました。

イザヤは、神の聖さに触れ、自分はもう死んでしまうとさえ思いました。しかし神様の聖さが燃える炭となって彼の口に触れ、神の聖さによって滅びるのではなく、罪と汚れが取り去られました。

その後でイザヤは「だれを、わたしは遣わそう」という言葉に応えて、「ここに私がおります。私を遣わしてください。」と名乗りを上げました。イザヤは神様の聖さに圧倒された以上に、その罪を赦し、汚れを取り除いてくださる神の恵みの大きさに圧倒されたのではないでしょうか。

こういう場面を読んでいると、テレビや動画で大自然の圧倒的な光景を画面を通して見ているのに似ていると感じます。美しい景色は確かに画面越しに見えてはいるけれど、それは本当に体験しているのではありません。アフリカの大草原に立つと人生が変わるということを聞きますが、テレビの画面で見てても人生が変わったりはしません。直に触れることでしか得られないものがあります。

 イザヤのような経験が許される人は少ないですが、それでも私たちも人生のどこかの場面で、自分が神の前に心底罪深い者であることに気付かされます。私の場合はある事で妹と喧嘩して絶対に許せなかった時のことでした。その時、イエス様が赦して下さったのに、自分は赦せない者だということを父の言葉で突きつけられ、本当に自分が罪深い者だということを最初に気づいたのです。そして、私たちに与えられた赦しの大きさに目が開かれました。

イザヤがこのような経験をしたことで、イスラエルの民が今その罪のために滅びに向かっていることの重大さと、彼らに待ち受けている裁きがどれほど深刻なことは、より切迫感を持って語ることができるようになったに違いありません。

3.警告と希望

神様の聖さと恵みに触れて、ある意味生まれ変わったイザヤに神様が託したことばは警告と希望でした。

9~10節のことばは辛辣です。イザヤは神様のことばを携え、人々に語りますが、彼らが悟ることはないでしょう。どれほどイザヤが声をからして伝えても、人々の目は閉ざされたまま、むしろ神のことばを聞けば聞くほど心は頑なになるでしょう。警告を聞いても彼らはいやされることがないのです。

そんな状況になるとわかっていても、イザヤは神を信頼し、神のことばを語り続けなければなりません。

その警告はいずれ現実となり11~15節にあるように非常に厳しいものとなります。

契約をやぶった民への裁きとして町々は荒れ果て、住む者はいなくなり、土地は荒れ果て、人々は遠くの国に連れていかれてしまいます。そしてついには木が切り倒されるように、世界中に繁栄を誇っていたイスラエル、世界の祝福となるはずだった神の民は滅ぼされてしまうのです。(例7:18以下、アッシリアによる侵攻)

神に背を向けたから国が滅びる。現代人の感覚からは厳しすぎるのではないかと思います。先日、中央アジアの国からアメリカ軍が撤退を始めたことで、それまでの政権が崩壊し、かつてテロ支援勢力として世界中を恐怖させた勢力があっという間に国を乗っ取ってしまいました。脱出を図る人々が空港に殺到し、そこを狙った別の過激組織が自爆テロを起こし多くの人々の命が奪われました。世界中の人は、それがこれから起こることの始まりに過ぎないと思っています。一つの国が他国に滅ぼされる時はもっと残酷です。

しかしそれは横暴な神が自分の命令に従わないから腹を立てたてたというのではありません。自分たちを奴隷状態から救い出し、一つの民とし、世界の祝福となるはずだった特権を捨て、救われ恵みを受けた身であることも忘れて、弱い者を苦しめ、不正がまかり通りました。自分たちが世界の造り主であり、救い主であり、いのちを与えた方の民であることを捨ててしまったからです。イザヤだけでなく多くの預言者たちが悔い改め、立ち返るよう呼びかけても心を頑なにしました。彼らはその報いを、厳しい報いを受けなければなりませんでした。それはイザヤを聖めた燃える炭のようです。

ですから、そこには希望が残されています。13節の終わりにこうあります。「しかし、切り倒されたテレビンや樫の木のように、それらの間に切り株が残る。この切り株こそ、聖なる裔。」

切り倒され、焼き払われた中に残された切り株が「聖なる裔」ということですが、「裔」とは直訳すれば「種」です。種はやがて時が来れば芽を出します。聖なる種は、やがて来られる救い主を指しています。7:14には有名なメシヤ預言があります。

しかし、イザヤは破滅が差し迫っているイスラエルの民に、神に反抗し、偶像礼拝と不正に溺れるエルサレムとイスラエルの国が滅びるのは避けられないが、神様は希望の種を残していてくださる。それは、アブラハムやダビデに約束された約束に基づく変わらない神様のご計画です。そして遡れば、アダムとエバが罪を犯し死が入った時に、神様がほのめかしていた救いのご計画です。

そうして古い滅びたエルサレムに代わって、まったく新しいエルサレムが造られる、というのがイザヤ書前半のメッセージです。

適用 聖なる方の前で

6章はイザヤ書全体が語っていることを要約していると言って良い箇所です。神の聖さの前で罪ある者がただ滅びる運命にあるわけではなく、神の聖さは罪を取り除き生かす力もあります。その神が様が、神に背を向け、偶像礼拝に溺れ、不正にまみれた民に裁きを告げますが、希望も告げるのです。聖なる裔、種がいったい何者なのかさらに詳しく語られるのはイザヤ書の後半になりますので、その時に改めてお話しすることにします。

こうして見てきてわかるように、イザヤが預言した「未来」の出来事というのは、当時のイスラエルの人たちにとっての差し迫ったアッシリヤやバビロンによる侵略と捕囚として実現しますし、もっと遠い未来に預言されている希望の「切り株」「聖なる裔」も、今から2000年ほど前にダビデの子孫としてベツレヘムの町でイェス様がお生まれになり、十字架の上で私たちの罪を背負うことで成就します。その先にある全く新しいエルサレムというのはまだ完全には実現していませんが、その姿を映し出すものとして世界中に広がるキリストの教会があります。

では、今日の私たちはイザヤ書から何を学び、信仰の歩みの糧とすることができるのでしょうか。

ひとつだけ注意しておきたいことがあります。預言書に記されている裁きの光景が、自分の経験している苦難や困難に似ていると感じたとしても、それは神様からあなたへの個人的な罪の裁きではないということです。預言者たちは個人に対してさばきを警告しているのではなく、当時のイスラエルの民全体、国に対して語っているのです。

ですから、悪いことが起こったからといってそれは自分のしでかした何かに対する神の罰ではありません。けれども、そのような時に聖書を読んで自分の罪に気づいたなら、それは神の前にへりくだって悔い改め、どんな生き方に招かれている者であるかを思い出すよう、預言者を通していま神様が語りかけていることです。

確かに、私たちは暗いトンネルの中を手探りで怯えながら歩む時があります。そのような時に、私たちがもう一度神の聖さと赦しの恵みに触れるなら、希望は常にあります。

人生の困難の時には、私たちの内側に秘められていたみにくい面や深い傷跡があらわになることがあります。何かに反応するように急に攻撃的になったり、刺々しい言葉や態度が出て来て、周りがびっくりしますが、本人はまっとうなことを言っていると信じ切っていていますから、こちらもどう関わっていいかわからないということがあります。実はつい最近もあるところでそういうやり取りに出くわしてしまいました。

私も経験がありますが、そういう問題はイザヤが経験したような、神の前で自分の無力さや汚れ、自分のうちにある傷を深く知ること、それでも赦しの中にあるということを経験しなければ解決はできません。自分はわかっている、大丈夫と言っている間は決して解決しませんし、本当の問題に気づきもしません。「ああ、私は滅んでしまう」と叫ぶようなステップが必要なのです。

その先にこそ、闇から光へと向かう希望が見えて来ます。イザヤがこれでもかと訴えるイスラエルや周辺の国々の罪と傲慢さは、私たちの中にもあります。しかし、希望の切り株として示された救い主はすでに私たちの中におられます。そのことを理屈や教えとして理解するだけでなく、私たちの魂の経験として味わうことができるよう、祈ります。

祈り

「天の父なる神様。

イザヤ書をほんの少しだけでしたが、味わうことができ感謝します。破滅に向かっていく時代に、心かたくなな民に神のことばを告げるという難しい務めを与えられたイザヤが、まず聖なる神様の前で自らの罪深さを知り、また神の聖さによって罪赦され、聖められるという経験をしました。私たちもあなたの前に罪ある者ですが、私たちに滅びではなく生きる道、希望の切り株である救い主を与えてくださり、ありがとうございます。新しい神の民とされた恵みとあなたの変わらない聖さを覚えて、イエス様に似た者にされていく歩みへと導き、助けていてください。そして、私たちが心のなかに秘めている深い闇や傷をもあなたは癒やしてくださいます。

どうか神様の聖さと恵み深さに、心の深いところで触れていただけますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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