2021-09-12 慰めよ、わが民を

2021年 9月 12日 礼拝 聖書:イザヤ40:1-8

 なくなってほしいと願いながら無くならないのが苦難や悩み。そして来なければ良いのにと思ってもやってくるのが死です。人間、生まれた時から苦難と死は避けられないものです。こう言ってしまうと夢も希望もない感じもしますが、むしろ、夢や希望は苦難や死があるからこそ価値のあるものです。

クリスチャンにとって希望は、単なる目くらましや気休めではなく、神の約束に基づいた確信です。希望を持つということは、約束してくださった神への信頼そのものです。

しかしながら、私たちが大きな苦難や痛みに直面する時、遠い将来の希望もほしいけれど、近い将来の、手に届く励ましや慰め、約束が欲しいというのも事実です。

前回、イザヤ書の前半を取り上げた時に、預言書全般について簡単に説明しました。イザヤ書を含め、預言は、ずうっと先の遠い未来のことを予告するだけのものではなく、それ以上に、預言者と同じ時代を生きた人々への語りかけであり、彼らが神のことばに聞いてへりくだったり、悔い改めたり、希望を持てるようにするための言葉として告げられたものです。

イザヤ書前半では、アッシリヤやその後のバビロンによって差し迫っている王国滅亡の危機が神の裁きであることをおもにに告げていましたが、後半では、慰めと希望が中心になります。

1.苦難の終わり

第一にイザヤ書の後半で、苦難には終わりがあり、慰めが与えられることが約束されています。

クリスマスが近づくと、必ずと言っても良いほど読まれる聖句の一つは40:1です。苦難の時は終わり、慰めと救いが訪れるという約束でイザヤ書の後半が始まります。

さっきも言いましたが、イザヤ書の前半は、アッシリヤに代わって中東世界を支配する新たな帝国バビロンにより、イスラエルは滅ぼされ、住民は捕囚となって見知らぬ土地へと連れていかれてしまうという警告で終わっていました。そうした厳しい裁きの警告を聞いたヒゼキヤ王が、「自分の時代ではない」ということを聞かされたことでほっとしている場面が39章の終わりに出て来ます。

そして40章でいきなり「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」と語られます。39章と40章の間には、バビロン捕囚という数十年に及ぶ時間的な空白があります。つまり、イザヤ書は40章で捕囚からの帰還へと向かう民への語りかけに大きく場面が転換しているのす。

捕囚となっていた民はエルサレムに戻ることができます。かつて先祖たちが神に背を向けたために受けた報いは償われ、祝福を受けることができるのです。そのため、神様は「荒野に呼ばわる者の声」を通して、神の前にへりくだり、人の力や栄光ではなく永遠の神のことばに聞き従うようにと呼びかけているのです。

その神様のあわれみ深さは、たとえば40:11でこう表現されています。「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」

ところがです。イザヤ書ではバビロン捕囚という苦難を経て、これからもう一度、約束の地にもどって国を再建しようという人々が、それでも神様に対してへりくだらず、全面的に信頼しきれなかったと告げています。

40:27「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている」と。」

イスラエルの民は、数十年におよぶ捕囚生活の中で、聖書の神様に信仰を寄せるより、むしろ自分たちの訴えは神に届いていない。イスラエルを征服したバビロンの神々のほうが力あるのではないかとさえ考えるようになっていたのです。

私たちもながく苦難が続くとき、信仰だけが支えのようなことが長く続いて、それで何とか乗り切れるのですが、その間に、心も体も霊的にも疲れ切ってしまって、「信じていて何になるんだろう」という思いが頭をかすめることがあります。

そういう神の民に、主は41章から47章まで、まるで裁判の席で次々と証拠を出して証言するように、神様がいかに歴史を支配し、イスラエルの民を顧みて来てくださってかを次々と語ります。たとえ裁きによって国が滅び、民が捕囚となるような時でも、神のご支配の中にあったことをこれでもかという程に繰り返します。主なる神こそが、この世のすべての権力者や強大な国々にもまさる王であり、主権者であり、私たちを救うことのできるただ一人のお方なのだと訴えているのです。しかし、イスラエルの民はそれでも顔を上げる事はありませんでした。

2.新しいこと

そこで神様は「新しいこと」をすると宣言されます。

42:9もまた有名な聖句です。「初めのことは、見よ、すでに起こった。新しいことを、わたしは告げる。それが起こる前にあなたがたに聞かせる。」

「初めのこと」とは、イスラエルの背信に対する裁きとしての捕囚、そして慰めと回復です。それはすでに起こりました。しかし、そのような大きな経験、まさに第二の出エジプトといえるような経験をしても、彼らの頑なさは直りませんでした。それで神様は「新しいこと」をすると言われたのです。

神様がご計画なさった「新しいこと」は、神様が今思いついたというのではなく、イスラエルの民に初めて明らかにされる計画という意味です。何度繰り返しても素直にへりくだることなく、すべての国々の祝福となることを成し遂げられないイスラエル民の頑なさを受けて、根本的に問題を解決するための計画です。

そこで中心的な役割を果たすのが「しもべ」と呼ばれる謎の人物です。このしもべによって42:3~4にあるように主の救いのご計画は実現します。「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。」この聖句はマタイがイエス様の様子を描くために用いました。

イザヤ書の中で「しもべ」と言ったら、最初に出てくるのはイザヤです。イスラエルの民もまた主のしもべとなるはずでした。しかし、イスラエルの民は主のしもべになりきれません。それでイザヤ書の中に登場する、全く新しい「しもべ」を立てると言われるのです。神様は「主のしもべ」と呼ぶ救い主を立て、この方によって神の救いを実現し、アブラハムの子孫を通してすべての人々に祝福をもたらすという約束を果たそうとしておられるのです。

イザヤ書には「主のしもべ」についての預言がいくつか出て来ますが、これがイザヤ書後半に集中しています。しかし、主のしもべの話はいきなり出て来たものではなく、イザヤ書の前半でもほのめかされていました。そうです。7章に出てきた「インマヌエル」と呼ばれる方や、9章で出てきた「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる」という預言です。神の民に正義と平和を実現し、永遠の神の王国を打ち立てる方として約束された方が、主のしもべとして改めて紹介され、約束されたのです。

しかし、その方法が特殊です。その特殊さ、特別さが最もはっきり表れているのが、「苦難のしもべ」と呼ばれている53章です。

主のしもべは神の民によって拒絶され、殺されますが、よみがえります。その苦しみは、私たちに人間の罪の身代わりです。旧約律法の中で罪の代価として、小羊のいのちを捧げなければならなかったように、主のしもべがすべての人の罪を背負い、神様へのすべての反抗と頑なさを背負って、犠牲の小羊となってくださるのです。

現代も正義や平和を求めるところでは、軍隊や警察のような武力を持った組織が必要とされました。平和維持軍なんて皮肉な言葉もありますが、力なしに平和も正義も達成できず、しかも新たな暴力を引き起こす矛盾があります。しかし主のしもべを通して実現される正義と平和は、しもべ自身の贖いの死と復活によるのです。

3.さらにその先へ

もちろん、この苦難のしもべ、すべての人の罪を背負って贖いの死を味わう方は、私たちの主イエス・キリストを指しています。私たちはイエス様の十字架の死と三日目のよみがえりによって罪赦され、新しく生きる者とされ、神の国の民となりました。

しかし主のしもべに関するイザヤの預言はそれで終わりではありません。イスラエルがなし得なかった、正義と平和を打ち立て、永遠の御国を造られることが大きなスケールで記されます。

61:1~3を見てみましょう。ここはイエス様が朗読して「きょう、このみことばが実現しました」と宣言された箇所です。主のしもべは良い知らせを伝え、悲しむもの、傷ついた者、罪ある者をいやし、開放し、主の恵みの年を到来させるのです。

63:7~14は救い主が救いのみわざを完成させ、それまでの神の恵みを振り返る言葉が述べられています。主は自分たちの救いであり、主の民が苦しむ時にはいつも主がともに苦しんでおられました。主の民が痛む時には背負ってくだいました。それなのに民は主に逆らいます。主は厳しくのぞみますが、しかし主はあくまで羊飼いとして彼らを導き、ついに14節の後半に「このようにして、あなたはご自分の民を導き、ご自分のために輝かしい名を成されました。」とあるように、その救いのみわざを完成させるのです。

やがて主のしもべによってもたらされる救いを受け取り、神の民として歩む人々には、約束された祝福がもたらされるのです。

65:16~25は少し長い箇所ですが読んでみたいと思います。

この中で非常に重要なことばが出て来ます。17~18節です。ここでも神様が救い主を通してなさろうとしていることが、ただの歴史の延長ではなく、全く新しいことであることが分かります。「新しい天と新しい地」、そして全く新しい「エルサレム」の創造です。そこに住まうすべての民はもはや苦しみや嘆きはなく、争いも戦いもありません。これらは今私たちも待ち望むものです。

このようにイザヤの預言は、破滅に向かっていたイスラエルの民に悔い改めを迫ると共に、さばきを宣告してきました。決してさばきから逃れられないこと、バビロンによって王国が滅ぼし、捕囚として連れ去られることを宣言します。しかし、神様は彼らをあわれみ、捕囚から連れ戻して下さいます。それでも頑なな民のため、そして救いを待ち臨むすべての人々のために、一人の忠実なしもべを立て、その贖いの死を持って救いを成し遂げてくださるのです。

私たちはこの主のしもべを、ベツレヘムに生まれ、ナザレで成長し、人々の前に現れたイエス・キリストとして知っています。弱い者、病む者、しいたげられている人々に対するイエス様のあわれみ、優しさは、まさにイザヤ書に描かれた主のしもべそのものでした。そして、苦難のしもべとして拒絶され、十字架で死なれ、よみがえってくださったことで、イスラエルの民だけでなく、すべての人に完全な罪の赦しと神の祝福が開かれる救いのみわざを成し遂げてくださいました。

けれども、新しい御国の創造は今も、完成を目指し、その途中にあります。私たちはイザヤ書を読む時、イザヤの時代の人々が待ち望んだ救いをすでに受け取っていますが、同時に彼らとともに、今も完成を待ち望んでいるのです。

適用 私たちの苦難の日に

はじめに言った通り、そして言うまでもなく、私たちの人生には様々な困難、時には深い苦しみや、つらい痛みがつきまといます。

苦難があることはイザヤの時代に警告を受けたイスラエルの民と同じですが、大きな違いがあります。彼らの希望として示された主のしもべ、救い主はすでに来られ、イザヤ53章で預言されていたように、すべての罪の報いを代わりに背負ってくださったからです。ですから、私たちの経験する苦しみは、どんなものであっても決して神様からの罰ではありません。

それでもこの世界や私たちの人生から苦しみが無くなっていないのには主に3つの理由があります。

まず1つ目の理由として、イエス様がこの世界を完全に治め、イザヤが預言したような新しい天と新しい地がやってくるのはもう少し先のことで、今はまだこの世界は不完全だということです。自然災害もあるし、世界的なパンデミックも何十年かおきにやってくるし、社会の仕組みが不完全で正義やあわれみが届かない人も出てしまいます。悪意ある者が近づいて来る場合もあります。私たちはそうした苦しみの中で、神に正義を求め、主がおいでくさってすべてを新しくしてくださるのを待ち望みます。

2つ目の理由としては、悪魔が最後のあがきをして私たちの心を神様から引き離そうと静かに、しつこく働き続けているからです。人の悪意を利用したり、社会の歪を利用したり、私たちの心の弱さや誘惑に弱いポイントを利用して私たちを迷わせ、苦しめる事があります。私たちはそのような中で、信仰と忍耐が求められます。

3つ目の理由として、私たちの行いの結果として苦しみや痛みを経験することがあります。自分の失敗や間違った選択、間違った行いの結果としてそれは悪意からしたことや誘惑に負けて犯した罪の場合もあれば、罪というより、私たちの性格や単に未熟さゆえに起こしてしまうトラブルが原因で苦しむこともあります。そうした場合でも、私たちはそこに謙遜や何かを学び取る機会を得ます。

それらの理由をいつも完全に見分けられるとは限りません。もしかしたら、それらが複合的に働いて私たちの苦しみとなるかもしれません。

理由はともあれ、そのような苦難が神の罰ではないとしても、私たちにとって苦しいことであることは間違いなく、そのような時、40:27でイスラルエルの民の主張として書かれていることを私たちも思い浮かべるかもしれません。「私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている。」

しかしイザヤを通して神様が私たちに示してくださったことは、それらがどんな理由であろうとも、待ち望む者には常に希望があり、また力が与えられるということです。その希望は、いつの日か訪れる新しい天と地という遠い希望だけではなく、今この時に与えられるものとして備えられています。神様は今この時も永遠の神であり、この宇宙を創造された方、疲れることも弱ることもないお方です。

ですからこう言われるのです。「疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる。若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」

「慰めよ、慰めよ、わが民を」と言われた主は、私たちを見捨てることも、放って置くこともなさいません。私たちはそのことをイザヤ書を通して知ることができます。確かに約束されたとおりに、主のしもべ、救い主を与えてくださいました。その神様が、イエス様を通して与えると約束された、今日、この日のための新しい力を祈り求め、また力づけられて歩ませていただきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今朝、もういちどイザヤ書を通して、慰め主なる主の深いご計画と、確かになしてくださったみわざを覚える事ができました。

すでに約束された救い主はおいでくださり、語られていたとおりにイエス様が私たちのための贖いとなってくださいました。

こうして私たちがあなたの民として歩める恵みを感謝します。

しかしまた、私たちは今なお、御国の完成を待ち望む者です。この地上での歩みには苦難があり、あなたがご存知の通り、しばしばその中で弱気になったり、疑う心や、忍耐力が切れてしまうことがあります。しかし主を待ち望むものは力を得ると約束してくださっていますから、どうぞ私たちをあわれみ、助け、今日を生きていく力を与えてください。いつでも希望を失わずに歩んでいく信仰を与えてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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